山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
後藤 象二郎
1838年 〜 1897年
30点※
家系・子孫
- 後藤氏は、藤原北家利仁流を称した美作の有力土豪だが、戦国期に後藤勝基が舅の宇喜多直家に毒殺され居城の美作三星城を強奪された。同族の後藤又兵衛(基次)は、幼少から姫路城の黒田官兵衛に仕え嫡子の黒田長政と成長を共にしたが、関ヶ原合戦後に長政と仲違いし出奔、豊臣方へ奔り大坂夏の陣で討死した。さて三星城から落延びた後藤福基は、大坂で家臣急募中の山内一豊に500石で召抱えられ土佐入府に従った。嫡子の助右衛門は200石で別家を立て、福基の後は次男の之基が継いだ。後藤助右衛門の子孫は土佐藩の中級藩士として存続し9代を数えて馬廻役150石の後藤正晴へ至る。正晴が早世したため、10歳の嫡子象二郎は義理叔父(母の姉妹の夫)の吉田東洋に養育され、板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎ら吉田子飼の「新おこぜ組」の首領となり、山内容堂より土佐藩の執政(参政)に抜擢され、明治維新後は板垣退助と共に伯爵に叙された。長女の早苗は岩崎弥之助に嫁ぎ岩崎小弥太(三菱4代目)・岩崎俊弥(旭硝子創業者)を産んだ。嫡子の後藤猛太郎は、少年期から外国人教師について英仏独語を習得し欧州留学もしたが、父譲りの放蕩癖が過ぎて勘当されたこともあった。伯爵を継いだ後藤猛太郎は、井上馨や土方久元の世話で政府に出仕するも宮仕えに馴染まず、たまたま発見した新潟の銅山が大当たり、終生放蕩を続け大儲けと一文無しを繰返した挙句、友人の杉山茂丸に「なんとか、うまく死ねそうだ。おかげで、二十年間おもしろく暮らせた。」と語り大往生した。家督は新潟の遊女おるんに産ませた保弥太に継がせた。後藤保弥太は、学習院を出て米国プリンストン大学に留学、岩崎家の援助で防水会社を設立し青年社長におさまったが、これまた花柳界で豪遊に励み浮名を流して新聞ネタになった。事業にも失敗し借金漬の後藤保弥太は窮迫、夫人は一人息子の省三を残して実家へ帰り「さすらいの子連れ伯爵」と新聞を騒がせ、流浪の果てに爵位返上を決意し隠居、省三は襲爵手続きをせず伯爵後藤家は3代で滅んだ。華族制度に反対し自ら伯爵位を返上した板垣退助の家と好対照で、正に後藤象二郎の不徳の致す処であった。
- 備中国賀陽郡庭瀬村の犬養家は名字帯刀を許された大庄屋だったが明治維新後に没落、犬養毅は苦学を強いられ慶應義塾入学は21歳と遅れ、学資を稼ぐため在学中に郵便報知新聞に入社した。犬養毅は、後妻と不仲な長男の彰を廃嫡し次子の健に家督を継がせた。東大哲学科を出た犬養健は白樺派の作家となり『一つの時代』『南京六月祭』などを刊行、政界へ転じ政友会所属の衆議院議員となった。犬養毅と同じ「大陸派」の犬養健は近衛文麿と親しく、近衛側近の尾崎秀実が起したゾルゲ事件で起訴処分を受けている。第二次大戦後は公職追放を経て政界に復帰し民主党総裁に就任、吉田茂の自由党に乗換え第四次・5次吉田内閣に法相で入閣したが、造船疑獄で窮地に立つ佐藤栄作幹事長を救うため法相の指揮権発動を強行し引責辞任に追込まれた。犬養健は妻の仲子(後藤象二郎の孫娘)との間に一男一女を生し、家督を継いだ犬養康彦は共同通信社社長、犬養道子は津田塾を出て米仏へ長期留学し『お嬢さん放浪記』などを刊行した。女優で奥田瑛二夫人の安藤和津は、犬養健が柳橋芸者に産ませた庶子で犬養毅の孫である。
後藤象二郎と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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