医師出身ながら徹底した工程管理と「新家族主義」の労務政策で世界一のカメラメーカーを創建、複写機・プリンター・デジカメと多角化を成功させデフレ不況下でも成長を続ける国際優良企業「キヤノン」の創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
御手洗 毅
1901年 〜 1984年
80点※
家系・子孫
- 御手洗家は大分県蒲江の豪農で(医師の家系とも)御手洗毅は町長も務めた御手洗退蔵の嫡子、大分県立佐伯鶴城高校から北海道大学医学部へ進み東京で産婦人科医院を開業したが、夫人の出産を担当したことで内田三郎と知合い「キヤノン」創業に参画、内田の出征で社長を引継ぎ戦後は医師を辞めキヤノンを国際企業へ発展させた。御手洗毅は前田武男・賀来龍三郎に社長を譲り1984年に病没したが、1993年山路敬三の突然の退任に伴い長男の御手洗肇が5代目社長に就任した。東京育ちでMIT・スタンフォード大学に学んだ御手洗肇は期待されたが惜しくも2年後に56歳で早世、1995年御手洗毅の甥で大分育ち(中央大学卒)の御手洗冨士夫が後継社長となった。デフレ不況でソニーや松下電器産業が低迷するなかキヤノンは高付加価値の複写機やデジカメで業績を伸ばし日本屈指の巨大メーカーへ成長、2006年御手洗冨士夫は内田恒二に社業を託し第11代経団連会長に栄達したが、直後にキヤノンの「偽装請負」が摘発され更に「大光」の裏金疑惑が発覚した。キヤノン関連施設の工事を牛耳る大光が鹿島建設から得た30億円のリベートを隠蔽した巨額脱税事件だが、大光は大分の零細企業に過ぎず社長の大賀規久は御手洗冨士夫の無二の親友、兄の大賀健三は御手洗毅の佐伯鶴城高校の同級生で御手洗冨士夫邸(横浜市)の宅地所有者であった。当然ながら30億円は氷山の一角と見られ御手洗冨士夫の私的裏金プールと疑われたが、何故か東京国税局の捜査は及ばず、御手洗は経団連会長の任期4年を全うし2012年キヤノン社長に復帰した(会長兼任)。
御手洗毅と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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