大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍
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徳川 慶喜
1837年 〜 1913年
40点※
家系・子孫
- 水戸藩は徳川家康の十一男徳川頼房を藩祖とする。紀州藩・尾張藩と並ぶ「血のスペア」御三家ながら将軍を出さない不文律があり、藩主の江戸常府を唯一義務付けられ「副将軍」と称された。「大日本史」を編纂した2代藩主の水戸光圀より「勤皇藩」を自認し、朱子学から独自の発展を遂げた「水戸学」は幕末「尊皇攘夷」の中核原理となった。徳川家康が遠い将来を見越し、西国雄藩が天皇を担ぎ徳川幕府を倒すリスクに備え血の存続を図るべく水戸藩に代々勤皇を密命したという説もある。2代将軍徳川秀忠の血統は7代で絶え、紀州系の8代徳川吉宗より子孫が将軍を独占したが13代徳川家定で断絶し将軍継嗣問題が発生、大老井伊直弼の剛腕で紀州藩主の徳川家茂が14代に就くが長州征討の最中に無嗣没し、水戸家の徳川慶喜が最後の将軍となった。「家康の再来を見るがごとし。軍制も改革され幕府は衰運再び勃興する勢いにある」と木戸孝允を慨嘆させた徳川慶喜は皮肉にも薩摩藩の警戒を招き薩長同盟が成立、大政奉還で徳川家温存を図るも土壇場の戊辰戦争で勤皇が首をもたげ抗戦派を追放し泣き寝入りしたが、西郷隆盛らの奔走で徳川3家が最高位の公爵に叙され家康の打算(?)は変則的だが成就した(徳川・松平姓の諸大名も石高に応じ華族に列した)。9代水戸藩主の徳川斉昭は大の女好きで、大奥に毛嫌いされたことが一橋派の敗因ともなったが、正室登美宮吉子(有栖川宮織仁親王の娘)のほか判明分だけでも9人の側室を侍らして37人もの子を生し、男児の多くは無嗣の他藩主に入嗣させ女児は公家や藩主に嫁がせた。水戸藩主を継いだ徳川慶篤は側室腹の嫡子、徳川慶喜は正室腹の七男で御三卿一橋家から徳川宗家を継いだ。徳川慶喜は、2人の側室に10男11女を産ませ(正妻は一条美賀で女児が早世)、七男の徳川慶久に家督を継がせた(十男の精は勝海舟に入嗣)。水戸家では徳川慶篤の没後、異母弟の徳川昭武が御三卿清水家から家督を継いだが、慶篤嫡子の徳川篤敬に家督を譲り、昭武は子爵松戸家を立てた。徳川宗家を継いだ御三卿田安家の徳川家達に続いて徳川慶喜(慶喜家)と水戸家の徳川篤敬が公爵に叙され、徳川斉昭の子孫は栄爵を極めた。
- 精力絶倫の徳川斉昭は37人もの子を生したが、うち男児12人が大名となり女児の多くは大名に入輿した。日本史上これほどの子福者は11代将軍徳川家斉くらいだろう。正室(有栖川宮織仁親王の娘)腹に水戸藩10代藩主徳川慶篤と15代将軍徳川慶喜(元一橋家当主)、側室腹に川越藩主松平直侯・浜田藩主松平武聰・鳥取藩主池田慶徳・岡山藩主池田茂政・喜連川藩主喜連川縄氏・土浦藩主土屋挙直・水戸藩11代藩主徳川昭武・守山藩7代藩主松平頼之・島原藩主松平忠和・守山藩9代藩主松平喜徳(元松平容保の養子)。鳥取藩と岡山藩は、徳川家康の愛娘督姫を妻に迎え大出世した「蛍大名」池田輝政の子孫で、準親藩として中国地方の抑えを託された大藩だが、戊辰戦争で官軍へ寝返り忠勤に励んだ。両藩主の池田慶徳と池田茂政は、実兄の徳川慶喜と戦うことを嫌い参戦にあたり隠居している。
- 松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。
徳川慶喜と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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