会沢正志斎・藤田東湖の水戸学・尊皇攘夷論を実践し幕末維新の幕を開いた過激な「水戸烈侯」、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ悲嘆死したが七男の徳川慶喜が悲願の将軍位を掴み嫡流の水戸家と共に最高位の公爵を受爵
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徳川 斉昭
1800年 〜 1860年
70点※
徳川斉昭と関連人物のエピソード
- 徳川斉昭は、会沢正志斎・藤田東湖の水戸学・尊皇攘夷論を実践し幕末維新の幕を開いた過激な「水戸烈侯」、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ悲嘆死したが七男の徳川慶喜が悲願の将軍位を掴み嫡流の水戸家と共に最高位の公爵を受爵した。会沢正志斎らに感化され「水戸学派」「天狗党」の奔走で水戸藩主に就任した徳川斉昭は、門閥重臣や守旧派「諸生党」と死闘を演じつつ幕政に乗込み洋式軍備導入と藩政改革を推進したが、諸生党の幕閣工作で隠居を迫られ嫡子の徳川慶篤に家督を譲った。が、老中安倍正弘に取入った徳川斉昭は、諸生党首領の結城朝道を失脚させ政界に復帰、ペリー艦隊が来航すると「四賢候」と共に「攘夷の後に洋式軍備を整え開国すべし」という「大攘夷」の論陣を張り幕政を牛耳る井伊直弼ら譜代大名と対立、幕府海防参与に就任し大砲74門や洋式帆船「旭日丸」を献上した。生殖能力の無い徳川家定が13代将軍に就任すると、徳川斉昭と四賢候は一橋家に入嗣し将軍資格のある徳川慶喜の擁立を図りつつ開国政策を非難し安政五ヶ国条約の「破約攘夷」を主張(一橋派)、血縁重視で紀州藩主徳川家茂を推す井伊直弼らと対立した(南紀派)。徳川斉昭は、南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭させ宿敵の結城朝道を死罪に処したが、安政の大地震でブレーンの藤田東湖を喪い後ろ盾の阿部正弘も過労死、非常職の大老に就いた井伊直弼は条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を断行し安政の大獄を発動した。薩摩藩主の島津斉彬が井伊打倒を掲げ率兵上洛を宣言するも突然死、「戊午の密勅事件」で強硬化した井伊直弼は江戸城に無断登城した徳川斉昭・慶喜を蟄居に処し松平春嶽・徳川慶勝の藩主職を剥奪、橋本佐内・梅田雲浜・吉田松陰ら尊攘派志士も殺され一橋派は壊滅した。徳川斉昭の意を受けた水戸天狗党の関鉄之助らが江戸城桜田門外で井伊直弼を殺害、全国の尊攘運動は勢いを増したが、逆に水戸藩では諸生党が実権を握り失意の徳川斉昭は急逝、追詰められた武田耕雲斎らが4年後に天狗党の乱を引起し水戸藩は完全に幕末政局から脱落した。
- 2代水戸藩主の徳川光圀が始めた「大日本史」編纂事業は幕末まで連綿と受継がれ、「水戸学」は修史局「彰考館」から全国へ伝播し幕末「尊皇攘夷」の行動原理となった。藤田幽谷は、水戸城下の古着商の子ながら学問に優れ水戸藩に出仕、師の立原翠軒より彰考館総裁を承継し、私塾「青藍舎」に会沢正志斎・藤田東湖(幽谷次男)・武田耕雲斎・戸田忠太夫・豊田天功・山野辺義観・安島帯刀・青山拙斎ら多くの門人を擁し水戸学の藩外普及活動を推進した。彰考館総裁を継いだ会沢正志斎は、7代藩主徳川治紀の諸公子の侍読に任じられ徳川斉昭を教化し、尊王攘夷思想を理論的に体系化した「新論」を8代藩主徳川斉脩に上呈、内容が過激なため出版はされなかったが、「水戸学派」の奔走で藩主に就いた徳川斉昭は会沢を藩校弘道館の初代教授頭取に迎え筆写版「新論」は全国へ広がり尊攘派志士の必読書となった。藤田東湖は、徳川斉昭の側近として藩政改革と一橋派の尊攘運動を牽引した。が、日本全国を襲った安政の大地震で江戸小石川の水戸藩邸も崩落、藤田東湖は一旦脱出するも母親の救出に戻り梁の落下で圧し潰され儒学が最上とする孝に殉じた。藤田東湖は水戸学・尊皇攘夷のイデオローグにして西郷隆盛や橋本左内も薫陶した全国志士の領袖的人物、謀臣を失った徳川斉昭の政治力は致命的打撃を受け、天狗党は支柱を喪い水戸藩の尊攘運動が衰亡へ向う一大転機となった。藤田東湖・戸田忠太夫と共に「水戸の三田」と称された武田耕雲斎は、徳川斉昭の死に伴い失脚、追詰められた藤田小四郎(東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵すると止む無く首領に担がれた。天狗党は、徳川慶喜の水戸藩主擁立を目的に掲げ慶喜の意に反し横浜開港を進める幕府を諌めるべく800人で決起、京都へ向け中山道を進軍し美濃鵜沼宿で街道封鎖に遭い北路をとったが、黒幕の慶喜が裏切り追討軍に加わるに至って敦賀で幕府軍に投降、武田耕雲斎・藤田小四郎ら352人が斬首された。水戸藩は佐幕派諸生党の天下となり尊攘運動は壊滅、徳川慶喜の横浜鎖港運動も頓挫した。
- 「徳川御三家」と「尊皇攘夷の総本山」が葛藤する水戸藩では、上士層を中心とする保守・佐幕派の「諸生党」と、水戸学派や下士層を中心とする尊攘派の「天狗党」が死闘を繰広げた。8代藩主徳川斉脩が嗣子無く急死すると、幕府との関係強化を図る諸生党は徳川恒之丞(11代将軍家斉の子)を藩主擁立に動いたが、弟の徳川斉昭を推す斉脩の遺書が発見され(偽書説あり)、天狗党が推す斉昭に軍配が上がった。9代藩主に就いた徳川斉昭は、諸生党を押さえつけ、会沢正志斎・藤田東湖・武田耕雲斎・戸田忠太夫・豊田天功・山野辺義観・安島帯刀・青山拙斎ら天狗党の下士を多く登用し藩政改革と尊攘運動を推進した。結城朝道率いる諸生党は、幕閣工作で巻返し徳川斉昭を隠居させ10代藩主徳川慶篤の擁立に成功、天狗党を追出し藩政の実権を掌握した。が、徳川斉昭は老中安倍正弘に取入って幕政に復帰、「四賢候」と共に一橋派を形成し実子の徳川慶喜の14代将軍擁立を図り宿敵の結城朝道を死罪に追遣ったが、将軍継嗣レースで大老井伊直弼の南紀派に敗北した斉昭は蟄居のまま悲嘆死し諸生党が水戸藩政を奪回した。徳川斉昭の意を受けた天狗党の関鉄之助らが桜田門外の変で井伊直弼を殺害し、水戸浪士が坂下門外の変で安藤信正を襲撃、天狗党の壮挙は幕府を穏健路線に転じさせ尊攘運動の隆盛をもたらしたが、襲撃犯を出した水戸藩は諸生党の天下となり、追詰められた武田耕雲斎らが天狗党の乱を起し黒幕の徳川慶喜に裏切られ壊滅、水戸藩は歴史の舞台から姿を消した。明治維新後、水戸藩主徳川慶篤に諸生党粛清を命じる「除奸反正の勅書」が下され、慶篤は弟の徳川慶喜の薦めでこれを拝命、天狗党の生残り本圀寺勢・武田金次郎らが藩政を握り諸生党の縁者に対し熾烈な報復を断行し、水戸徳川家は朝敵の汚名を免れ慶喜に続き公爵に叙された。
- 徳川斉昭は、「彰考館」総裁の会沢正志斎より「尊皇攘夷」の洗礼を受け、会沢門下の藤田東湖・武田耕雲斎・戸田忠太夫・豊田天功・山野辺義観ら「水戸学派」の奔走で水戸藩主に就任したが守旧派の重臣連から実権を奪うのに数年を費やし、襲封8年目に藩校弘道館を開設し尊攘運動と藩政改革に乗出した。徳川斉昭は、弘道館の教授頭取に会沢正志斎を迎えて水戸学の全国浸透を図りつつ、「大攘夷」に備えるべく洋式軍備導入・軍政改革と農業振興政策を推進、蝦夷地開拓や大船建造解禁など幕府に盛んに献策した。徳川斉昭の藩政改革は、老中水野忠邦の「天保の改革」に影響を与えたともいわれる。
- 水戸藩主の徳川斉昭は会沢正志斎・藤田東湖ら水戸学派と共に尊攘運動と藩政改革を推進したが、冷飯を食わされた門閥重臣や守旧派(諸生党)の幕閣工作により「仏教弾圧など改革の行き過ぎ」を口実に隠居・謹慎に処された。徳川斉昭は、嫡子の徳川慶篤に藩主を譲るも実権は保持し諸生党との抗争を継続、老中安倍正弘に取入り過激な攘夷論を主張し続けた。
- 徳川慶喜は、大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍である。股肱の臣である松平容保・定敬兄弟と新撰組、小栗忠順ら抗戦派幕臣をあっさり見捨て、宗家・慶喜家・水戸家の徳川3家が最高位の公爵に叙され慶喜は徳川将軍中最高齢の77歳まで生延びた。水戸藩主徳川斉昭の七男で御三卿一橋家に入嗣した徳川慶喜は、一橋派の将軍候補に担がれたが安政の大獄で挫折した。が、薩摩藩の島津久光は、率兵江戸へ乗込み徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込み、八月十八日政変で「破約攘夷」の長州藩を締出し「参預会議」で公武合体を実現した。が、禁門の変で自信を深めた徳川慶喜が専横を強め参預会議は挫折、禁裏御守衛総督に就いて半独立の気勢を示し、松平容保・定敬を京都守護職・所司代に任じて京都を制圧(一会桑政権)、武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが幕府が強硬策に出ると自ら追討軍に加わり捨て殺しにした。幕威発揚を期す徳川慶喜は長州征討を断行、長州藩は恭順し征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めたが、高杉晋作が長州藩政を奪回し再び幕府に挑戦した。徳川慶喜は直ちに長州再征を号令したが、薩摩藩の妨害で足止めされ薩長同盟が成立、6万の大軍ながら軍備に劣る幕府軍は高杉晋作・大村益次郎の洋式軍隊に完敗し大阪城の将軍徳川家茂も急死、小倉城陥落で慶喜は「長州大討入り」を撤回した。小栗忠順の日仏同盟構想(売国的条件による借款と軍事支援)に力を得た将軍徳川慶喜は、参預会議で長州藩赦免を拒否し薩摩藩は討幕を決意、「徳川家を盟主とする大名共和制」を期待し大政奉還するも辞官納地を強要された。大阪城の徳川慶喜は無視し諸外国に徳川政権継続を宣言したが、鳥羽伏見の敗報に接すると軍艦で江戸へ逃げ戻り上野寛永寺に謹慎、主戦派を追放し恭順派の勝海舟に全権を委ねた。徳川宗家を継いだ徳川家達は駿府70万石から公爵に叙され、徳川慶喜も公爵・貴族院議員に栄達した。
- 水戸藩主には江戸常府が義務付けられ公子は江戸藩邸で養育されるのが通例であったが、享楽的な江戸の風俗に馴染ませたくないという徳川斉昭の配慮により徳川慶喜は一橋家に入るまでのほとんどの期間を水戸で養育された。徳川斉昭自身は10人の江戸で妻妾を侍らし享楽生活を送ったが、息子には厳しかったようである。徳川慶喜は、父の徳川斉昭と同じく会沢正志斎ら水戸学の権威に薫陶され、少年期から英才を謳われ将来を嘱望された。12代将軍徳川家慶は、徳川慶喜に目を掛け偏諱を賜い、病弱な嫡子の徳川家定よりも優秀な慶喜を世子に立てようとしたが老中安倍正弘の諫止で思い止まったという。徳川慶喜は将軍家慶の計いで嗣子の無い一橋昌丸に入入嗣した。一橋家は田安家・清水家と並ぶ御三卿の一つである。御三卿は、8代将軍徳川吉宗が自分の血統で将軍を独占するために立てた家で、御三家(紀州藩・尾張藩・水戸藩)に次いで将軍を出す資格があるとされた。さて、13代将軍となった徳川家定は、精神薄弱児ながら徳川慶喜に嫉妬し、大奥に促されて徳川家茂を将軍継嗣にすると述べたといい(真偽不明)、将軍の言質を得た大老井伊直弼は徳川家茂の14代将軍就任を強行した。
- ペリー来航後、和親条約の是非を巡って幕閣と世論は攘夷派と開国派の真二つに割れた。攘夷派の急先鋒は水戸藩の徳川斉昭であり、雄藩連合による公武合体を目指す四賢候(薩摩藩主島津斉彬・福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂)らが斉昭を支持し、老中首座安倍正弘が譜代諸侯との調整に努めた。ただし、単純に外国人を打払えというような「小攘夷」ではなく、外圧による和親条約締結は拒否したうえで洋式軍備を整え、富国強兵を推進して国威を発揚し、西洋列強に立ち向かうべきとする「大攘夷」が四賢候ら開明派の主張であった。そうした政策を推進するため、慶喜将軍を擁立し、従来譜代大名が独占してきた幕閣に春嶽を送込み雄藩連合への道を開くことを当面の政治目標とした。一方、井伊直弼を筆頭とする譜代諸侯の多くは、従来どおりの譜代諸侯による幕政運営に固執し、政治的に対立する立場から開国政策を主張した。さらに、13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題が両派の対立に拍車をかけ、前者は斉昭の実子で優秀と目されていた徳川慶喜を推す一橋派を形成し、後者は血縁重視で徳川家茂を推す南紀派となって、激しく主導権を争った。
- 徳川斉昭は、洋式軍備の導入には積極的だったが強硬に破約攘夷を主張し、開国政策を主導する井伊直弼と激しく争った。徳川斉昭は幕府に意見書を差出し「開港しても内地に外国商館をおくことは絶対反対、自分が説得にあたるから国使としてアメリカに派遣して欲しい、浪人や重罪人を従者とし討死に覚悟で乗込むので死んでも構わない、また大鑑・巨砲を製造して武備を整え近畿の守備にあたるので百万両借用したい」などと過激な要求を開陳した。水戸藩庁は慌てて取下げたが、後に南紀派から近畿守備の件を糾弾され徳川斉昭に謀反の疑いありとのデマを流される原因となった。
- 13代将軍徳川家定に子供がなかったため、幕閣・諸侯を巻込んだ将軍継嗣問題が起った。家定との血縁の近さを理由に紀州藩主徳川家茂を推す南紀派と、12歳の家茂よりも英邁といわれた徳川慶喜をたてようとする一橋派が激しく対立した。南紀派は守旧派の譜代大名グループで譜代筆頭彦根藩主井伊直弼が主導し、会津藩主松平容保・佐賀藩主鍋島直正や大奥が強力に後押しした。一橋派は、慶喜の実父で前水戸藩主の徳川斉昭を筆頭に、松平春嶽・島津斉彬・伊達宗城・山内容堂の四賢候、尾張藩主松平慶勝らが与した。四賢候は雄藩連合による公武合体を目指すグループで、将軍継嗣問題をその実現のための手段と考え、活発に運動した。しかし、長野主膳の謀略によって井伊直弼が大老に就任し強権を発動して電撃的に徳川家茂の将軍就任を断行、徳川斉昭の女漁りを毛嫌いする大奥の協力で徳川家定の言質をとったのが決定打となった。徳川家定は精神障害者で男性機能がなく美男子の徳川慶喜に嫉妬し嫌っていたといい、家定に篤姫を入輿させた薩摩藩主島津斉彬の策謀は失敗に終わった。
- 島津斉彬・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城は幕末四賢候と称される。四賢候は公武合体による雄藩連合体制(譜代大名が牛耳ってきた幕府政治への参画)を目指し、将軍継嗣問題と絡めて一時政局をリードした。しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任して徳川家茂の将軍擁立を強行、徳川慶喜を推した四賢候ら一橋派は敗北し安政の大獄で弾圧された。四賢候の手足となって中央政局で活躍したのは謀臣の西郷隆盛(薩摩藩)・橋本左内(福井藩)・吉田東洋(土佐藩)・藤田東湖(水戸藩)らであった。松平春嶽は後年「世間では四賢侯などというが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったという。
- 島津斉彬は、曽祖父の島津重豪の薫陶で幼少から西洋文明に親しみ、西欧列強の帝国主義を知って日本の国難を憂い中央政界進出を志したが、重豪とは違い生活は質素であったという。好奇心旺盛で多趣味な島津斉彬は、蘭学のほかにも絵画・和歌・茶道・囲碁・将棋・釣り・朝顔栽培を嗜み、大柄の怪力で武芸もよくした。老中阿部正弘・将軍徳川家慶を動かし強硬手段で薩摩藩主に就いた島津斉彬は、隠居に追込んだ父の島津斉興に気を遣い閣僚をそのまま引継いだが、一方で西郷隆盛や大久保利通など有能な下級藩士を登用し育成した。勝海舟は斉彬の資質を高く評価し、薩摩藩が維新に多くの人材を出したのは斉彬の教化によるものだと語っている。島津斉彬は鹿児島市磯地区を中心にアジア初の近代的洋式工場群を建設した(集成館事業)。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、反射炉・溶鉱炉の建設に始まり、鉄砲・大砲に武器弾薬、洋式帆船に機械水雷の製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。鹿児島城下の民家全部の燈火をガス燈にする計画だったという。斉彬没後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、後に小松帯刀が再興に尽力した。薩摩藩は、薩英戦争の苦い経験から洋式技術導入の重要性を再認識し、集成館機械工場を再建、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の産業革命をリードした。
- 松平春嶽は、島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」である。御三卿田安家の八男ながら従兄の将軍徳川家慶の後援で福井藩主となり、将軍徳川家定の継嗣争いで徳川慶喜を担ぎ一橋派「四賢候」に数えられたが、大老井伊直弼に敗れ藩主職を奪われた。が、薩摩藩の島津久光が率兵江戸へ乗込みクーデターを成功させると、松平春嶽は政治総裁職に就き将軍後見職の徳川慶喜と共に幕政を掌握した。松平春嶽は徳川慶喜を大所高所に置き実質的な政権運営は自ら行う腹積りであったが、慶喜は意外にも我を張り「公武合体のためには攘夷やむなし」と主張する春嶽に対し「攘夷など無理」と対抗、外国人嫌いの孝明天皇は「即時攘夷」に固執し参預会議は膠着状態に陥った。松平春嶽は、会津藩主松平容保に汚れ役の京都守護職を押付けながら自分は政治総裁職を放出し福井へ帰国、横井小楠の献策に従い公武合体政権を樹立すべく「挙藩上洛計画」を試みたが中根雪江ら守旧派の反対で頓挫した。禁門の変後、専横を強める徳川慶喜は京都に「一会桑政権」を樹立し長州征討を強行、松平春嶽の福井藩は幕府軍の主力を担ったが、征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めた。高杉晋作が長州藩政を奪回すると徳川慶喜は長州再征を断行したが、薩摩藩は薩長同盟へ転じ幕府軍はまさかの完敗、松平春嶽は薩摩藩の側に立って長州赦免を説いたが慶喜は小栗忠順の日仏同盟構想を頼みに妥協を拒否、島津久光は西郷隆盛・大久保利通に討幕のゴーサインを出した。徳川慶喜は大政奉還で体制温存を図ったが薩摩藩は小御所会議で辞官納地を強要、松平春嶽は山内容堂と共に反抗したがねじ伏せられ自ら慶喜への伝達使を務めた。板垣退助の参戦を黙認した土佐藩の山内容堂と異なり、松平春嶽は戊辰戦争に距離を置き、横井小楠や由利公正が新政府の参与に任じられたものの福井藩は「薩長土肥」に入れなかった。薩長の公爵・土肥の侯爵に対し福井藩主松平茂昭は家格並の伯爵に留められたが、勝海舟らの運動により特別に侯爵を与えられた。
- 山内容堂は、「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公である。西郷隆盛ら他藩士をも「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と憤慨させた。12代土佐藩主の弟の子ながら嫡流が相次いで没し幸運にも土佐藩主となった。「鯨海酔侯」と豪傑を気取り学識も豊富な山内容堂は、織田信長に自己投影し中央進出を志したが襲封当初は家老連の圧迫で思うに任せず、吉田東洋に不遇を救われた。大目付の吉田東洋は、家老や家族の私生活をスパイし非行を見つけて失脚へ追込み、重臣に分散した権力を藩庁の直轄下におく中央集権化を断行、安政の大獄も追い風となり藩主専制を確立した。山内容堂は恩人の吉田東洋に藩政を託し(参政)吉田はよく期待に応えたが、特権を奪われた重臣連は吉田を憎み武市半平太の吉田暗殺に加担した。山内容堂は島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と共に「四賢候」と称され将軍継嗣問題に乗出したが、書類作成や藩外折衝は専ら吉田東洋が担い、吉田の死で舵を失った。山内容堂は、武市半平太が長州藩と提携し「破約尊攘」運動を牽引すると気前良く外交を委ねたが、下克上に機嫌を損ね突如弾圧へ転換、第一次長州征討が起ると勇み足で武市を誅殺し土佐勤皇党を掃討した。が、長州藩では高杉晋作が功山寺決起で藩政を奪回し薩長同盟を結び第二次長州征討で幕府軍に完勝、慌てた山内容堂は後藤象二郎(吉田東洋の義理甥)を参政に任じ、後藤は坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込んで薩摩藩に接近し大政奉還建白で政局復帰を果した。が、武力討幕を期す薩摩藩は小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行、徳川家擁護を図る山内容堂は猛反発するが泥酔状態で遅参し暴言を吐いて自滅し、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても出兵を逡巡、板垣退助が土佐勤皇党の残党「迅衝隊」を率い独断参戦し土佐藩は辛くも「薩長土肥」に食込んだ。山内容堂は下克上の明治政府に馴染めず隠退、薩長専制に「武市半平太が生きていれば」と憤りつつも酒池肉林の生活を続け46歳で没した。
- 安倍正弘の急死により一橋派は幕閣における後ろ盾を喪い、南紀派に勢力が傾いて井伊直弼の暴走を招いた。ただ、南紀派と目された老中首座の堀田正睦は一橋派の松平春嶽を大老に推挙したとされる。堀田正睦は安倍正弘の後継として両派の調整を企図していたと思われ、井伊直弼は大老就任後すぐに堀田を閣外へ追出し、徳川家茂の将軍擁立と列強との修好通商条約調印を強行した。松平春嶽は将軍徳川家定の拒絶で老中に就けず一橋派は南紀派に惨敗したが、春嶽は家定を「凡庸の中でも最も下等」とか「イモ公方(家定はお菓子作りが好き自ら芋を煮て食べていた)」などと吹聴し嫌われていたという。
- 井伊直弼は、「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で落命した。彦根藩主の子ながら十四男の井伊直弼は、自己研鑽に励んで養子の口を求めたが果たせず、生涯を不遇で終わる覚悟を決め三の丸尾末町の居宅を「埋木舎」(現存)と自嘲した。無聊な部屋住み生活のなか、学問・武芸はもちろん禅・書・絵・歌・茶道・能楽などあらゆる芸事に手を染め、得意の居合道では一派を開き、狂言制作や能面作りにも精通、茶道の「一期一会」を広めたのは井伊直弼といわれる。学問・思想的には国学に傾注し町学者の長野主膳を師と仰いだ。35歳まで不遇を託った井伊直弼だが、藩主の長兄と世子の次兄が相次いで無嗣没する幸運に恵まれ彦根藩主に就任、門外漢の長野主膳を謀臣に抜擢し幕府政治に乗込んだ。彦根藩では藩政改革を進めつつ堅実な善政を敷き名君と讃えられたいう。徳川慶喜から「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評された井伊直弼は、才略は長野主膳で補い忽ち譜代大名・守旧派の領袖へ台頭、徳川家定の将軍継嗣問題が起ると紀州藩主徳川家茂を担いで南紀派を形成し、徳川斉昭・「四賢候」の一橋派と対立した(なお佐賀藩主鍋島直正と会津藩主松平容保は南紀派)。老中阿部正弘の急死で幕閣の理解者を喪った一橋派は、老中首座堀田正睦の条約勅許失敗で攻勢を強め、松平春嶽・島津斉彬と謀臣の橋本左内・西郷隆盛の奔走で徳川慶喜の将軍勅許寸前まで漕ぎ着けた。が、長野主膳は謀略を駆使して井伊直弼を大老に就かせ大奥と将軍徳川家定を篭絡して徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄を発動した。島津斉彬の突然死で薩摩藩率兵上洛の脅威が去り、「戊午の密勅」に激怒した大老井伊直弼は一橋派諸侯を引退に追込み志士狩りを断行したが、恐怖政治は1年も続かず徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で井伊を殺害した。一時逼塞した全国の尊攘派志士は拍手喝采し幕府不要論が萌芽、逆に幕府は融和路線へ転じ一橋派諸侯を赦免した。
- 「幕末の魔王」長野主膳は、稀世の美男子で学識豊富・上品高雅な威厳に満ち、権謀術数を駆使して井伊直弼の大老就任から安政の大獄を差配したといわれる。怪人らしく前半生は不肖、伊勢滝野村に現れ国学塾を開いた長野主膳は、村の名士滝野次郎左衛門の妹滝を娶り、紀州藩付家老の水野忠央に接近、滝野の援助で近畿・東海道を巡歴したのち近江坂田郡志賀谷村に「高尚館」を開き彦根・京都へも出張って多くの門人を得た。京都では二条家に庇護され多くの公家や諸大夫の島田左近らを弟子にし、彦根藩では不遇期の井伊直弼に取入り政治的な助言も行う間柄となった。彦根藩主に就いた井伊直弼は長野主膳を150石で藩校弘道館の国学教授に召抱え、晴れて腹心となった長野は、水野忠央と紀州藩主徳川家茂の将軍擁立を図り、京都で朝廷工作を担いつつ江戸の幕閣や大奥へも謀略の手を伸ばした。野心家の水野忠央は、大名格の紀州藩付家老の地位に満足せず立藩・幕政参与を望み、妹二人を幕臣の養女に落として将軍徳川家茂に献上し幕府官僚に賄賂攻勢を仕掛けたが、逆に顰蹙を買って老中安倍正弘からも敬遠されていたところで、将軍継嗣問題は渡りに船だった。さて、老中間部詮勝の黒幕として安政の大獄を主導した長野主膳は多くのスパイを操り、島田左近は公家社会上層部の情報網・目明し猿の文吉(妹の君香が島田の妾)は一般社会の密偵として暗躍した。京都政界を戦慄させた島田左近と文吉は高利貸しなどで巨利を貪り「今太閤」と称されたが、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派が京都で台頭すると真先に「天誅」の標的となった。島田左近は京都木屋町で君香と逢瀬中に田中新兵衛らが斬殺、青竹に刺した首を先斗町川岸に晒され、文吉は岡田以蔵らが三条河原で細引で絞殺、裸体の肛門から頭頂まで竹で串刺し性器に釘を打った姿を晒された。そして長野主膳は、井伊直弼暗殺後もしぶとく彦根藩に留まり100石加増されたが、島田左近の斬殺で空気が一変、彦根藩士らは藩主井伊直憲に強訴して長野を禁固し牢内で縛り首(庶民刑)にした。2年後に成就した和宮降嫁(公武合体策)の発案者は長野主膳であったという。
- 安政の大獄は大老井伊直弼が断行した徳川慶喜擁立派の大粛清であり、井伊の謀臣長野主膳が京都に乗込み主導したとされる。戊午の密勅事件に激怒した井伊直弼は、密勅降下と条約勅許妨害の首謀者と断じた梅田雲浜を逮捕し、一橋派の徹底弾圧に乗出した。徳川斉昭・徳川慶喜は蟄居に処され、福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂・尾張藩主徳川慶勝には隠居を強制、他にも一橋派に加担した諸侯や幕府官僚の多くが蟄居や謹慎を課され、梅田雲浜・吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎ら14人もの尊攘派志士が刑死または獄死した。薩摩藩主島津斉彬は、率兵上洛して井伊直弼を打倒する決意を固め、準備工作のため西郷隆盛らを先発させたが、出発直前に突然死し計画は頓挫した(佐幕派の実父島津斉興による暗殺説あり)。安政の大獄により雄藩や尊攘派志士は逼塞し井伊直弼の策謀は一時的に成功したが、逆に反幕府の機運が全国へ広がり、井伊の暗殺(桜田門外の変)を皮切りに尊攘運動は勢いを増し時流は一気に倒幕維新へと流れた。怪しい出自ながら井伊直弼に登用された長野主膳は、正統派国学に基づく万世一系の血統主義を持論とし将軍家と血統が近い徳川家茂の将軍就任を正当化する理論を展開した。13代将軍徳川家定が無嗣没し将軍継嗣問題が起ると、長野主膳は紀州藩付家老の水野忠央と連携し幕閣や大奥に盛んに工作、徳川斉昭の誹謗中傷を流布して大奥の斉昭嫌いを煽った。謀反疑惑はデマだが、真偽取混ぜた女性ゴシップは効果的であり、好色漢徳川斉昭の不徳の致す所であった。窮した一橋派は、老中首座堀田正睦の上洛に伴い雄弁家で美男子の橋本左内(福井藩士)を京都に送込み長野主膳に対抗し、徳川慶喜擁立の勅許を得る寸前まで漕ぎ着けた。南紀派は敗北必死の状況に追詰められたが、長野主膳は大奥を動かして精神薄弱者の将軍徳川家定から強引に言質をとり、井伊直弼を非常職の大老に就任させ徳川家茂の将軍就任を断行、スパイを駆使して安政の大獄を指揮した。井伊直弼暗殺後も長野主膳はしぶとく彦根藩政を握ったが、天誅騒動で失脚し縛り首に処された。
- 大老井伊直弼は水戸藩に戊午の密勅の返納を強要、水戸天狗党は猛反対したが、藩主徳川慶篤は父の徳川斉昭の承認を得て従った。が、このとき幕閣が水戸藩の改易に言及したため天狗党は激昂し大老井伊直弼の暗殺を決意(徳川斉昭が直接指示を下し愛蔵の象嵌細工の鉄砲を授け、この鉄砲が致命弾を放ったともいわれる)、関鉄之助が指揮する水戸脱藩浪士に薩摩藩の有村雄助・次左衛門兄弟が加わり江戸城桜田門外で登城前の大老井伊直弼を斬殺した(桜田門外の変)。この一挙により幕府は融和路線に転じ全国の尊攘派志士は一層発奮、薩長など雄藩の中央政局復帰への道も開かれた。しかし襲撃犯を出した水戸藩では佐幕派の諸生党が力を得て尊攘派の天狗党が退潮するという皮肉な結果となった。
- 天狗党の水戸浪士が江戸城桜田門外で老中安藤信正を襲撃、現代人の感覚では被害者だが武士の流儀で安藤は失脚した。安藤信正が目玉政策として後援した長州藩士長井雅楽の「航海遠略策」は勅許寸前まで漕ぎ着けながら挫折し、長州藩では久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作・周布政之助らが「破約攘夷」へ転換し長井を切腹へ追込んだ。長州藩をはじめ諸国の尊攘派は活気付いたが、安藤襲撃犯を出した水戸藩では藤田東湖の急死後に迷走を続けた徳川斉昭が没し佐幕派の諸生党が尊攘派を粛清、水戸天狗党の乱を経て諸生党が藩政を牛耳ったまま幕末を迎えた。
徳川斉昭と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照