仁礼景範の娘婿として薩摩海軍閥に連なり、山本権兵衛の下で海軍次官・海相を長く勤め首相に上り詰めた後、二・二六事件で殺害された「山本権兵衛の副官」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
斎藤 実
1858年 〜 1936年
50点※
家系・子孫
- 斎藤家は水沢伊達氏(留守氏)に仕えた仙台藩士、奥羽越列藩同盟に加盟した仙台藩は「賊軍」にされ、版籍奉還で失職した斎藤耕平は寺子屋の師匠などで糊口を凌ぎ、地元の警察官で生涯を終えた。父の耕平から四書五経など基礎教育を施された斎藤実少年は、胆沢県大参事の安場保和(元熊本藩士)の書生に選ばれたことで立身の機会を掴み、東京の海軍兵学校へ進学した。一緒に書生に選ばれた同郷の後藤新平(高野長英の親戚)は、エリート医師となるも児玉源太郎の薦めで官僚政治家へ転じ初代満鉄総裁に栄達、安場保和の次女と結婚している。海軍将校となった斎藤実は、仁礼景範の長女春子との結婚で海軍主流の薩摩閥に連なり、「山本権兵衛の副官」として海相・首相へ上り詰めた。仁礼景範は、「人斬り」田中新兵衛に従い薩英戦争ではスイカ売りに変装した決死隊に加わり、明治維新後は海軍へ進み第二次伊藤博文内閣で海相となったが、山本権兵衛の急進的な海軍改革に付いていけず西郷従道に海相を譲り予備役編入となった。斎藤実は嗣子に恵まれず、二・二六事件後に養子の斎藤斉が子爵を継いだ。内大臣の斎藤実は自邸を陸軍将校に襲われ47発の銃弾を浴びて惨死したが、気丈な春子夫人は斎藤の体に覆い被さり「私も撃ちなさい!」と抵抗、斎藤の死を確認する兵士の銃剣で負傷した。なお、弟の斎藤省吾は父譲りの酒癖で、写真家としてハワイを放浪中に早世している。
斎藤実と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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