伊達氏から独立し謀略を駆使して出羽国人を切従え、関ヶ原の戦いで上杉景勝を撃退し山形藩57万石に躍進した羽州探題の名門大名、愚孫最上義俊が家臣団の総スカンを喰い改易に処された(最上騒動)
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最上 義光
1546年 〜 1614年
70点※
最上義光と関連人物のエピソード
- 伊達政宗は、会津蘆名氏を滅ぼして南奥羽150万石を領し佐竹義重・上杉景勝を脅かした「独眼流」、豊臣秀吉・徳川家康の隙を窺い減封されるも外交と演出で仙台藩62万石・伊予宇和島藩10万石を保ち野望を秘めて慶長遣欧使節を派した天下御免の横着者である。出羽米沢城に拠り南奥羽11郡余に君臨した奥州探題伊達輝宗の嫡子で、疱瘡で右目を失い生母義姫に嫌われたが1584年18歳で家督を承継、翌年叛臣大内定綱を匿い輝宗を拉致した畠山義継を父諸共に銃殺し、佐竹義重率いる南奥羽連合軍の来援をかわして二本松城を奪取した(人取橋の戦い)。会津黒川城主蘆名亀王丸が夭逝すると弟政道の入嗣を企てるが佐竹義重に敗北(次男佐竹義広が蘆名氏を相続)、1588年大崎氏の内紛に軍事介入するも最上義光に敗れ(大崎合戦)佐竹・蘆名・相馬に攻め込まれたが伊達成実・片倉景綱の堅守と大内定綱の寝返りで撃退に成功(郡山合戦)、翌年蘆名義広を滅ぼして黒川城に入り佐竹方諸豪を掃討して会津四郡・仙道七郡を平定し北の大崎・葛西氏も掌握した(摺上原の戦い)。伊達政宗は、父祖譲りの外交術で豊臣秀吉・前田利家・浅野長政・徳川家康らに取入りつつ、惣無事令を無視して近隣諸豪を倒し北条氏政と同盟して佐竹挟撃を狙ったが、小田原落城を目前に秀吉に投降を決意、盛毒嫌疑で義姫(最上義光の妹)を放逐し弟政道を暗殺して禍根を断ち主戦派の伊達成美に留守を託して小田原へ参陣、禿髪に白麻の陣羽織の異装で秀吉を和らげ家康・利家らの取成しで助命されるも本領の出羽米沢城72万石に戻された。会津若松城に入封した蒲生氏郷を追出すべく葛西大崎一揆を扇動するが金箔の磔柱の演出で助命され岩出山城58万石へ減転封、関白秀次への接近が裏目に出て隠居・伊予転封を命じられるも家康に救われ、秀吉が没すると家康の六男忠輝に娘を縁付け、関ヶ原の戦いに乗じて上杉景勝を攻めるも家康の叱責で渋々矛を収め仙台藩62万石が確定した。家康・秀忠・家光への忠勤に励みながら慶長遣欧使節を派して幕府転覆を窺い、大坂陣では味方討ちを疑われながら庶長子伊達秀宗の伊予宇和島藩10万石の立藩を認められ和霊騒動を凌いで領土を保った。
- 伊達氏は、藤原北家山蔭流の常陸豪族で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従った常陸入道念西が陸奥伊達郡を与えられ所名を冠した。室町幕府に接近し陸奥守護職を得た伊達稙宗は、分国法「塵芥集」など統治体制を整備し、主筋の奥州探題大崎義直(斯波氏)を降して次男義宣を入嗣させ、葛西氏には七男晴清を送込み、羽州探題最上義守(斯波氏)・相馬・蘆名氏も臣従させて南奥羽11郡余に君臨した。勢い盛んな伊達稙宗は娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、自重を説く嫡子晴宗に幽閉されるも脱出し奥羽諸豪を巻込んで6年に及ぶ天文の乱に発展、将軍足利義輝の仲裁により晴宗の家督相続で決着するが伊達氏は求心力を失い、晴宗勝利の立役者蘆名盛氏が台頭した。西山城から出羽米沢城に移った伊達晴宗は、弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し、岩城重隆の娘を娶って六男五女を生し男児は岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児は二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力を回復、将軍義輝より奥州探題に補されたが、相馬盛胤(顕胤の嫡子)の反抗に手を焼いた。後嗣の伊達輝宗は、権臣中野宗時を追放して晴宗を隠居に追込み、蘆名氏と協調しつつ勢力を拡大、織田信長・柴田勝家・北条氏政と提携し新発田重家を支援して上杉景勝を圧迫し、田村清顕の娘愛姫を嫡子政宗の正室に迎え宿敵相馬氏から伊具郡を奪い還して稙宗旧領を回復、蘆名盛隆の横死後幼君亀王丸を後見した。輝宗は最上義守の娘義姫を娶って三児をなし、長男政宗を嫌い次男政道擁立を図る義姫を抑えて18歳の政宗に家督を譲った。伊達政宗は、拉致された輝宗を畠山義継諸共に銃殺し融和路線を放棄、弟の政道を亀王丸の後釜に据える企ては佐竹義重に敗れたが(次男義広が蘆名氏を承継)、義広を攻め滅ぼし諸豪を靡かせて150万石の太守となり、最上義光(義守嫡子)に通じる母義姫を追出し火種の政道を盛毒嫌疑で暗殺した。伊達政宗は十男四女をもうけ、次男忠宗に仙台藩62万石を継がせ、庶長子の秀宗(豊臣秀吉の人質)は宇和島藩10万石を立藩、他の男児は分家の当主に据え、長女は松平忠輝(家康の六男)に嫁がせた。
- 佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
- 上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
- 上杉景勝は、武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落した。超寡黙・無表情で家政は直江兼続に任せたが合戦には強かった。1564年宇佐美定満が上杉謙信の三条長尾家と対立する上田長尾家の当主政景と共に溺死し、8歳の嫡子景勝は謙信の養子にとられ越後坂戸城から春日山城へ移された。上杉景勝は上田衆を率いて武勇を示し、謙信から弾正少弼の官位を譲られ一門衆筆頭と目されるも世子の明示は無く、1578年謙信が急逝すると相養子の上杉景虎(北条氏政の実弟)との激烈な家督争いが勃発、北条と甲相同盟を結ぶ武田勝頼が信越国境に迫り窮地に陥ったが妹菊姫の入輿を乞い東上野と膨大な献上物を差出して勝頼篭絡に成功、上杉景虎・道満丸父子と上杉憲政(謙信の養父)を滅亡に追込んだ(御館の乱)。が、2年の内乱で上杉家は弱体化し極端な上田衆優遇に怒った新発田重家らが伊達輝宗・蘆名盛隆を後ろ盾に蜂起、1582年武田を滅ぼした織田軍団が越中・信濃・上野の三方面から越後へ殺到し柴田勝家に越中魚津城を落とされたが信長討死で蘇生、天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪い取った。越中の佐々成政を牽制しつつ新発田重家を攻めるも討死寸前の惨敗(放生橋の戦い)、しかし蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った重家を押返し、1586年豊臣秀吉に臣従し越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められると重家を討って越後を回復、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)領地は90万石に膨らんだ。1598年蒲生騒動を機に秀吉から会津120万石と徳川家康の押え役を託されると、1600年家康を会津征伐に誘い出し盟友石田三成が関ヶ原合戦を起すが家康追撃を説く直江兼続を「義に非ず」と退け挟撃策が破綻、最上義光を攻めるも打破れず西軍完敗で撤退し(慶長出羽合戦)、上洛して家康に陳謝し改易は免れたが米沢藩30万石へ落とされた。
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 前田慶次郎利益は、前田慶次郎利益は、前田利家の義甥で武勇絶倫の教養人ながら高禄を捨てて出奔し京都で一流文化人と交流、前田家が徳川家康に屈服するなか上杉景勝に従軍し意気地を示した「天下一の傾奇者」である。前田家に留まった一子正虎は嗣子無く没し子孫は断絶した。実は前田慶次郎の武勇伝は乏しく奇行談の多くも伝説だが、新井白石は『藩翰譜』で「世にかくれなき勇士」と評し今日も小説や漫画で大人気である。『戦国風流武士』や『花の慶次』では壮年の快男児だが、実際の前田慶次郎は前田利家より5歳ほど年長で前田家出奔は57歳頃とされる。織田家の被官で尾張荒子城主の前田利久(利家の兄)には男児が無く後妻が産んだ前田慶次郎を後嗣としたが、実父は別人で滝川一益の一族(儀太夫か)とされる。13歳で織田信長に出仕した前田利家は、拾阿弥斬殺事件で3年干されるも桶狭間・森部合戦の武功で帰参を赦され、慶次郎が36歳のとき信長は病弱(武者道御無沙汰)を理由に利久を強制的に隠居させ寵愛する利家に前田家と所領4千石を継がせた。前田慶次郎は養父の利久と共に荒子城を退去し10余年の浪人生活を送ったが、1581年柴田勝家の旗下で能登23万石の大名に出世した前田利家に5千石で召出され(利久には2千石)富山の役(末森城の後巻)や小田原征伐に従軍、利久の死に伴い嫡子の正虎が2千石を相続した。が、奇行を繰返す前田慶次郎は遂に利家と衝突し出奔(改心を装って利家を茶の湯に招き水風呂に叩き込んで逃走したとも)、「穀蔵院飄戸斎(ひょっとさい)」なるふざけた名乗りで里村紹巴・九条稙通・古田織部・細川藤孝らと交流し、諸大名饗応の座で「猿真似の猿舞」を演じ豊臣秀吉をおちょくったという伝説を残した。秀吉・利家が相次いで病死し徳川家康が天下獲りに乗り出すと、前田利長(利家の後嗣)は加賀征伐の脅迫に屈服したが、前田慶次郎は石田三成陣営で家康打倒を図る上杉景勝・直江兼続に1千石で出仕し会津征伐軍が退いた後の最上義光攻め(慶長出羽合戦・長谷堂城の戦い)で「だいぶへんもの(大武辺者)」の旗指物を翻し奮闘、敗戦後は米沢藩に留まり古典研究や和歌・連歌に遊ぶ隠棲生活を過ごした。
- 武田勝頼は、長篠の戦いで織田信長に惨敗し、無闇な外征と佞臣重用で家臣団に見放され御館の乱で上杉景勝に乗換え生命線の甲相同盟が破綻、織田・徳川・今川に挟撃され自滅した武田信玄の跡取り息子である。信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘に産ませた四男で諏訪氏の名跡と信濃高遠城を継いだが、長兄武田義信の廃嫡に伴い世子となり、信長の養女(姪)を娶り嫡子信勝をもうけた。1573年信玄死去により甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ大封を承継すると、側近の長坂釣閑・跡部勝資を寵遇し歴戦の信玄遺臣との軋轢を深め信玄の遺志に背いて短兵急な外征を開始、織田領東美濃の明知城を攻略し徳川領東遠江の高天神城を奪取し、内通した大賀弥四郎が家康に誅殺されると兵1万3千で三河長篠城を攻囲するが奥平貞昌の抵抗に遭った。1575年徳川軍8千と織田軍3万が来襲、信玄遺臣は甲府撤退または長篠城攻城を説くが勝頼は野戦を決断、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など武将の大半を喪う惨敗を喫した(長篠の戦い)。甲斐に逃げ戻った武田勝頼は、北条氏政の妹を継室に迎えて甲相同盟を固め将軍足利義昭・本願寺顕如を通じて上杉謙信と和親したが、1578年謙信が信長討伐の号令直後に急逝し養子の上杉景勝(謙信の甥)・上杉景虎(北条氏政の実弟)の家督争いが勃発、勝頼は氏政の要請で出陣するが長坂・跡部の策動で景勝へ乗換え(御館の乱)、宿敵上杉家を降すも肝腎の甲相同盟が破綻した。真田昌幸の活躍で北条領東上野を席巻したが家康に高天神城を奪還され城兵を見捨てた武田勝頼の権威は失墜、信長に人質を返して講和を図るが拒絶された。1582年畿内を平定した信長は木曽義昌(信玄の娘婿)の寝返りを機に甲州征伐に乗出し織田・徳川・今川の軍勢が三方から甲斐へ侵入、駿河の守将穴山信君(同娘婿)は寝返り伊奈口の武田信廉(同弟)らは逃亡、孤立した武田勝頼は韮崎新府城を落ちて郡内(大月)岩殿城へ辿着くが小山田信茂の寝返りで入城を拒まれ長坂・跡部まで遁走、天目山麓で追詰められた勝頼は嫡子信勝・一族郎党90余人と共に自刃し武田氏は滅亡した(天目山の戦い)。
最上義光と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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