島津久光・大久保利通の挙藩一致方針に逆らい続け平野国臣の扇動に乗って討幕運動を激発し寺田屋騒動で誅殺された薩摩藩急進派の首領
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有馬 新七
1825年 〜 1862年
40点※
有馬新七と関連人物のエピソード
- 有馬新七は、島津久光・大久保利通の挙藩一致方針に逆らい続け平野国臣の扇動に乗って討幕運動を激発し寺田屋騒動で誅殺された薩摩藩急進派の首領である。年少の西郷隆盛・大久保利通と共に鹿児島城下の加治屋町で育った有馬新七は、共に尊攘派グループを結成し(精忠組へ発展)、「天性急烈で、暴悍で、長者の教えに従わず、しばしば叱られた」という少年期の性格そのままに過激志士へ成長、叔父の坂木六郎から神影流剣術を学び、江戸へ遊学して最も大義名分を重視し純粋激烈な学風を誇る崎門学(山崎闇斎派朱子学)の山口菅山に入門した。有馬新七は、島津斉彬の懐刀として活躍する西郷隆盛に従い公武合体運動に挺身したが、斉彬が急死し薩摩藩の率兵上洛計画は頓挫、京都に先乗りした西郷と有馬は失意のなか鹿児島へ帰還した。このとき有馬新七が詠んだ「朝廷べに死ぬべき命ながらへてかへる旅路のいきどほろしも」の歌は第二次大戦中に編纂された「愛国百人一首」に採られ有名になった。西郷が奄美大島へ隠れ島津久光の謀臣となった大久保利通が精忠組の首領格になると、年長で最古参の有馬新七は過激派を束ね反発、挙藩一致の公武合体運動など手緩いと断じ即刻上洛して尊攘運動に挺身すべしと主張し「突出脱藩」騒ぎを起した。大久保の命懸けの説得に屈した有馬新七は、精忠組の分派活動へ奔り、父の縁故を頼って近衛家へ仕官を求めたり長崎外国商館の焼打ちを企てたりしたが、いずれも失敗に終わった。そうしたなか平野国臣が『尊攘英断録』を薩摩藩に献じ武力討幕を提案、大久保利通は体よく追払ったが渡りに船の有馬新七らは大いに賛同し、上洛した平野が「島津久光の討幕挙兵近し!」と触回り尊攘派志士を狂奔させた。そして島津久光が率兵上洛、有馬新七と急進派薩摩藩士は真木和泉らと関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃を企てたが、久光の鎮撫使と斬合いになり道島五郎兵衛と揉合った有馬は「おいごと刺せ、おいごと刺せ」と叫び道島共々橋口吉之丞に串刺しにされ絶命した。この後、島津久光は公武合体を実現するが挫折、西郷隆盛・大久保利通は討幕へ転じ薩摩藩は挙藩一致で王政復古を成遂げる。
- 2代水戸藩主の徳川光圀が始めた「大日本史」編纂事業は幕末まで連綿と受継がれ、「水戸学」は修史局「彰考館」から全国へ伝播し幕末「尊皇攘夷」の行動原理となった。藤田幽谷は、水戸城下の古着商の子ながら学問に優れ水戸藩に出仕、師の立原翠軒より彰考館総裁を承継し、私塾「青藍舎」に会沢正志斎・藤田東湖(幽谷次男)・武田耕雲斎・戸田忠太夫・豊田天功・山野辺義観・安島帯刀・青山拙斎ら多くの門人を擁し水戸学の藩外普及活動を推進した。彰考館総裁を継いだ会沢正志斎は、7代藩主徳川治紀の諸公子の侍読に任じられ徳川斉昭を教化し、尊王攘夷思想を理論的に体系化した「新論」を8代藩主徳川斉脩に上呈、内容が過激なため出版はされなかったが、「水戸学派」の奔走で藩主に就いた徳川斉昭は会沢を藩校弘道館の初代教授頭取に迎え筆写版「新論」は全国へ広がり尊攘派志士の必読書となった。藤田東湖は、徳川斉昭の側近として藩政改革と一橋派の尊攘運動を牽引した。が、日本全国を襲った安政の大地震で江戸小石川の水戸藩邸も崩落、藤田東湖は一旦脱出するも母親の救出に戻り梁の落下で圧し潰され忠孝を謳う儒学者らしい最期を遂げた。藤田東湖は水戸学・尊皇攘夷のイデオローグにして西郷隆盛や橋本左内も薫陶した全国志士の領袖的人物、謀臣を失った徳川斉昭の政治力は致命的打撃を受け、天狗党は支柱を喪い水戸藩の尊攘運動が衰亡へ向う一大転機となった。藤田東湖・戸田忠太夫と共に「水戸の三田」と称された武田耕雲斎は、徳川斉昭の死に伴い失脚、追詰められた藤田小四郎(東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵すると止む無く首領に担がれた。天狗党は、徳川慶喜の水戸藩主擁立を目的に掲げ慶喜の意に反し横浜開港を進める幕府を諌めるべく800人で決起、京都へ向け中山道を進軍し美濃鵜沼宿で街道封鎖に遭い北路をとったが、黒幕の慶喜が裏切り追討軍に加わるに至って敦賀で幕府軍に投降、武田耕雲斎・藤田小四郎ら352人が斬首された。水戸藩は佐幕派諸生党の天下となり尊攘運動は壊滅、徳川慶喜の横浜鎖港運動も頓挫した。
- 有馬新七は、島津久光の率兵上洛に随い出立する際、妻ていを離別し自叙伝を草して12歳の一子幹太郎に授けた。不穏な行動を怪しんだ叔父の坂木六郎が問詰めると、有馬新七は「やるつもりでございもす。公武合体なんどという因循なやり方では、どうにもなりはしもはん。何事も皮切りするものがなくてはならんのでごわすから、わしらがこんどそれをやりもす。たとえ成らんでも、やればきっとあとをつくものが出て来もす。わしらは源三位頼政になるつもり。ただいさぎよく死のうとだけ思うとりもす」と答えた。
- 鹿児島城下の加治屋町は、甲突川東畔1万坪ほどの地域に貧しい下級藩士の屋敷が80戸ほど並ぶ狭い街区だったが、「維新の三傑」西郷隆盛・大久保利通を筆頭に伊地知正治・吉井友実・有村俊斎・西郷従道・大山巌・東郷平八郎・篠原国幹・村田新八・黒木為禎・山本権兵衛など錚々たる面々を輩出した。彼ら加治屋町出身の薩摩藩士と吉田松陰・松下村塾門下の長州藩士という少人数の2グループが幕末維新を成遂げたのは奇跡的であった。西郷隆盛と三歳年下の大久保利通は、幼少から竹馬の友として育ち、父親の影響で自然に島津斉彬派に属し、長じると近所の仲間を集めて尊攘派グループ「精忠組」を結成、島津久光を担いで雄藩薩摩を動かし討幕の急先鋒長州藩と同盟して徳川幕府を倒した。
- 西郷隆盛・大久保利通・吉井友実・伊地知正治・有村俊斎・有馬新七・大山正円・樺山三円ら後に精忠組の中核となる面々は、少年時代に誓光寺(鹿児島市草牟田町)の住職である無参和尚に師事し共に和漢学と禅を学んだ。
- 急進派有馬新七の扇動により、精忠組の多くが突出脱藩して浪人運動に走ろうとした。水戸尊攘派が大老井伊直弼を暗殺したうえで横浜を焼払って攘夷を実行し、有馬ら薩摩勢は京都御所を守衛し、東西呼応して幕政改革を断行する計画であった。大久保利通は命がけで説得にあたり、藩主島津忠義に頼んで精忠組の「義挙」を慰撫する諭告書を出してもらい辛うじて暴走を食止めた。薩摩急進派は脱落したが水戸尊攘派は桜田門外の変で大老井伊直弼暗殺を挙行、江戸の薩摩藩邸に居た有村次左衛門らは井伊襲撃に加わった。
- 桜田門外の変を指揮した関鉄之助が鹿児島へ来訪すると、熱狂した有馬新七ら精忠組急進派は再び突出脱藩を主張したが、挙藩一致の必要性を確信する大久保利通が必死の説得により制止した。そのときの大久保の言葉:「おはん方がどうしても出て行くというなら、おいを斬って、おいが死骸を越えて行きなされ。おいの目の玉の黒か間は、おいはとめるぞ。今はもう浪人運動ではいかんのだ!」「おお、見殺しにする。男子がこうと志をきめたら、義理や友情などにかまってはおられん。関殿だけではなか。この後もいろいろな人が来るじゃろうが、みんな見殺しにする。その覚悟でなければ、大事をなすことは出来ん!」
- 平野国臣は、有職故実マニアから攘夷運動に入り前時代的な異装で奇人視された福岡浪士、『尊攘英断録』で堂々と討幕を主張し有馬新七や吉村寅太郎を扇動し「大和行幸」に加担するが生野の変に敗れ京都六角獄舎で惨殺された。福岡藩の足軽身分ながら尚古主義・有職故実に没頭し、婿入りした小金丸家を離縁して浪人となり、薩摩藩士北条右門との縁で西郷隆盛の公武合体運動に加わったが、島津斉彬の急死で薩摩藩の率兵上洛は頓挫し、鹿児島へ護送した月照は入水自殺し西郷は奄美大島で逼塞、平野国臣は福岡藩へ送還されたが幕府を恐れる黒田長溥は尊攘派を壊滅させた。捜査をかわし福岡を脱出した平野国臣は、逃避行のなか久留米の真木和泉に兄事して尊攘思想を深め(真木の娘お棹と恋愛)、潜伏地の肥後天草で『尊攘英断録』を執筆、討幕の計画と新政府の方針を構想し初めて文章にした快挙であった。平野国臣は、『尊攘英断録』を薩摩藩の島津久光・忠義父子へ建白すべく鹿児島へ潜行、挙藩一致・公武合体を堅持する大久保利通に門前払されたが、有馬新七ら精忠組急進派とは意気投合した。前向きに解釈した平野国臣は、島津久光の率兵上洛に先駆けて上京し「薩摩藩の国父久光が討幕の志を抱いて上洛する」と吹聴したため尊攘派志士は熱狂、有馬新七らは真木和泉に唆され関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃を企てたが寺田屋騒動で上意討ちにされた。平野国臣は、島津久光の諫止に動いた黒田長溥を大坂で制止、寺田屋騒動は免れたが福岡へ連行され再び投獄された。が、長州・土佐藩の尊攘運動が隆盛になると福岡藩は慌てて平野国臣を赦免し京都へ派遣、平野は学習院出仕の官職を与えられ攘夷親征計画(大和行幸)に加担したが、先乗りした吉村寅太郎(平野の扇動で脱藩した土佐浪士)らは征伐され(大和天誅組の変)八月十八日政変で尊攘運動は瓦解、平野は河上弥市(高杉晋作の親友で奇兵隊2代総管)ら長州藩士と但馬生野で挙兵したが主将に担いだ沢宣嘉(七卿の一人)は軍資金を盗んで逃亡し反乱は忽ち鎮圧された。平野国臣は京都六角獄舎に投獄されたが、間もなく起った禁門の変の渦中に新撰組に惨殺された。
- 平野国臣が著した『尊攘英断録』の骨子は「もはや今日の時局では公武合体などは俗論である。幕府は打倒すべきである。それには薩摩藩のような大藩が密勅を請うて義兵を挙げ、大阪城を抜き、天皇を奉じて諸藩に呼びかけて連合勢力をつくり、幕府に大権を奉還せよと迫り、もし聴かずんば東征して討て。かくて挙国一致の体制は成り、国難を乗り切ることが出来るのだ」・・・後にこの通りのことが起り王政復古は達成されるのだが、当時の薩摩藩は雄藩連合・公武合体を推進していたため大久保利通は小遣いを与えて体よく平野国臣を追い返した。しかし、有馬新七ら精忠組急進派の賛同で力を得た平野が京都に戻って吹聴したため「薩摩藩の国父久光が討幕の志を抱いて上洛する」という噂が広まり、この加熱ムードが寺田屋騒動を巻起した。
- 有馬新七ら薩摩藩急進派が真木和泉らと謀り、関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃を企てた。これを知った島津久光は大久保利通を派遣し鎮撫を試みたが失敗、彼らの同志である尊攘派藩士から武術に優れた大山綱良・奈良原繁らを遣わし藩邸に呼び戻して自ら説得しようとしたが、拒否したため斬合いとなった。有馬ら6名が死亡し負傷した2名は後日切腹に処された。寺田屋には他にも大山巌・西郷従道・篠原国幹ら多数の尊攘派志士がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛込み必死の説得を行ったため投降した。寺田屋騒動は同志相打つ悲劇であったが、島津久光は跳ね返り藩士を容赦無く粛清、攘夷の過激化を嫌う孝明天皇の心象をよくしたことが後の八月十八日政変の成功に寄与したとも考えられる。寺田屋騒動に関与した他藩士5人は朝命で薩摩藩へ預けられたが(浪士の真木和泉は京都で一時幽閉され長州藩へ転じる)、怒りの収まらない久光は鹿児島へ送る船上で寺田屋同志の薩摩藩士に5人を斬らせ死骸を海へ捨てさせた。
- 島津重豪は、娘の茂姫を将軍徳川家斉に入輿させたのをはじめ、子や孫を有力大名の養子や夫人に送込んだ。将軍家の正室は皇室・五摂家が慣例で大名家から迎えた前例は無かったが、重豪は金銀をばら撒いて慣例を破り、水戸藩に頼んで『大日本史』に島津氏の先祖は源頼朝の庶子と記載させ、鎌倉に立派な頼朝の墓を建てて箔付けした。重豪の縁戚外交・豪奢・「蘭癖」は藩財政の破綻を招いたが、幕末最有力の閨閥は曾孫の島津斉彬・久光が中央政局へ乗出す基盤ともなった。重豪は、嫡子の島津斉宣に薩摩藩主を継がせたが財政緊縮を図ったため隠居させ、斉宣嫡子の斉興を藩主に据え死ぬまで実権を保持した。斉興嫡子の斉彬の利発さに期待し手元に置いて可愛がったという。さて、調所広郷の藩政改革で藩財政は回復したが、藩主として散々苦労した島津斉興は極端な守旧派となり、重豪の薫陶で西洋好き・政治好きとなった嫡子の斉彬(生母は正室の弥姫)を嫌い庶子の久光(生母は側室お由羅の方)の擁立を画策、薩摩藩は真二つに割れ両派の抗争は長年に及んだ。斉興は、斉彬が40歳を過ぎても家督相続を拒み「お由羅騒動」で斉彬派を壊滅させたが(西郷隆盛・大久保利通の父親も斉彬派の末端に連なる)、中央進出を志す斉彬は、大叔父(重豪の実子)の福岡藩主黒田長溥を通じて老中阿部正弘を抱込み、沖縄密貿易を密告する苦肉の策で斉興を追詰め(調所広郷が引責自害)将軍徳川家慶の名で隠退に追込んだ。ようやく薩摩藩主に就いた島津斉彬は、富国強兵・殖産興業を掲げて集成館事業などの近代化政策に取組み、西郷隆盛を抜擢して雄藩連合・公武合体運動に乗出したが、大老井伊直弼を打倒すべく率兵上洛を号令した直後に突然死した(毒殺説あり)。嗣子無く没した斉彬の遺言により島津忠義(久光の長子)が薩摩藩主を継ぎ、斉興の死に伴い「国父」島津久光が実権を掌握、斉彬の遺志を継いで幕末政局に乗出した。明治維新後は忠義の島津宗家と久光の玉里島津家が侯爵に叙され、一族は閨閥を壮大に拡げつつ今日に至る。昭和天皇の香淳皇后は忠義の孫、現当主の島津修久は近衛文麿の外孫で細川護煕とは従兄弟である。
- 島津斉彬・久光は共に島津斉興の実子だが斉彬は嫡子で久光は庶子、斉彬を嫌う斉興は久光の擁立を画策したが藩主ながら身分制の壁に阻まれた。斉興正室の弥姫(周子)は鳥取藩主池田治道の娘、和漢の教養ある賢婦人で自らの手で斉彬を育てたといい、姉妹は佐賀藩主の鍋島斉直に入輿し直正を産んだ。従兄弟の島津斉彬と鍋島直正は幼少期から共に優秀で競争心があったかも知れず、斉彬が一橋派に与したのに対し直正は大老井伊直弼の親友だった。鍋島直正は、桜田門外事変後は中央政局に距離を置き西洋軍備の導入と藩士教育に注力、戊辰戦争の帰趨が決してから官軍に鞍替えしたがアームストロング砲など最新兵器の威力で肥前佐賀藩は薩長土肥の一角に滑り込んだ。さて島津斉彬は、徳川斉敦(将軍徳川家斉の実弟で一橋家当主)の娘英姫を正室に迎え、六男二女を生したが悉く夭逝し男系は断絶した。一方、島津久光を産んだお由羅の方は、江戸庶民の出自で(父親は船問屋・大工・八百屋など諸説あり)江戸薩摩藩邸へ奉公に上り、藩主斉興のお手が付いて老女島野の養女として側室に入った。江戸藩邸の正室弥姫に対し由羅は薩摩の「お国御前」とされ参勤交代の度に同行するほど寵愛された。由羅の囁き故かは不明だが、斉興は久光擁立を企て薩摩藩を二分する抗争が勃発、斉彬は後援者の主席老中阿部正弘と謀り琉球密貿易を事件化して実力者の調所広郷を自害させ、兵道家(山伏)による斉彬一家の呪詛調伏を弾劾したが反撃され壊滅(お由羅騒動)した。結局、阿部正弘の強権発動で斉興は隠居し斉彬が家督を奪ったが、呪詛の霊験か六男二女は悉く夭逝し斉彬も率兵上洛の直前に突然死、健在の斉興は久光長子の島津忠義を薩摩藩主に据え実権を奪回した。斉彬は琉球解放を危惧した斉興に毒殺された疑いが強く、そう信じた西郷隆盛は久光を毛嫌いし楯突いて遠島に処された。島津久光は、正室千百子との間に四男を生し、長子の忠義が島津宗家を継ぎ他の3人は各々島津分家を相続した。久光は維新の大功により分家を許され公爵玉里家を創設、側室の山崎武良子に産ませた島津忠済に相続させた。
- 島津斉彬は、曽祖父の島津重豪の薫陶で幼少から西洋文明に親しみ、西欧列強の帝国主義を知って日本の国難を憂い中央政界進出を志したが、重豪とは違い生活は質素であったという。好奇心旺盛で多趣味な島津斉彬は、蘭学のほかにも絵画・和歌・茶道・囲碁・将棋・釣り・朝顔栽培を嗜み、大柄の怪力で武芸もよくした。老中阿部正弘・将軍徳川家慶を動かし強硬手段で薩摩藩主に就いた島津斉彬は、隠居に追込んだ父の島津斉興に気を遣い閣僚をそのまま引継いだが、一方で西郷隆盛や大久保利通など有能な下級藩士を登用し育成した。勝海舟は斉彬の資質を高く評価し、薩摩藩が維新に多くの人材を出したのは斉彬の教化によるものだと語っている。島津斉彬は鹿児島市磯地区を中心にアジア初の近代的洋式工場群を建設した(集成館事業)。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、反射炉・溶鉱炉の建設に始まり、鉄砲・大砲に武器弾薬、洋式帆船に機械水雷の製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。鹿児島城下の民家全部の燈火をガス燈にする計画だったという。斉彬没後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、後に小松帯刀が再興に尽力した。薩摩藩は、薩英戦争の苦い経験から洋式技術導入の重要性を再認識し、集成館機械工場を再建、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の産業革命をリードした。
- 島津斉彬・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城は幕末四賢候と称される。四賢候は公武合体による雄藩連合体制(譜代大名が牛耳ってきた幕府政治への参画)を目指し、将軍継嗣問題と絡めて一時政局をリードした。しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任して徳川家茂の将軍擁立を強行、徳川慶喜を推した四賢候ら一橋派は敗北し安政の大獄で弾圧された。四賢候の手足となって中央政局で活躍したのは謀臣の西郷隆盛(薩摩藩)・橋本左内(福井藩)・吉田東洋(土佐藩)・藤田東湖(水戸藩)らであった。松平春嶽は後年「世間では四賢侯などというが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったという。
- 島津久光は、質朴・剛健で保守的な性格であり、利発で学問好きだったが専ら国学と漢学を好み洋楽は嫌いだった。こうした性格が守旧派の父島津斉興に気に入られ、開明的な兄島津斉彬との後継争いを招く原因となった。斉彬が没したとき既に42歳と高齢だった島津久光は藩主に就かず、長子の島津忠義を斉彬に入嗣させ藩主とした。藩政を奪回した島津斉興は薩摩藩を保守佐幕路線へ急転回させ斉彬派を弾圧して西郷隆盛・月照の入水事件などを引起したが(久光のせいではない)、斉興の死により実権を握った「国父」の島津久光は兄斉彬の雄藩連合・公武合体運動を踏襲し中央政局へ踏出した。参勤交代・江戸住みの経験が無く中央政局に疎い島津久光の政治的手腕を疑う藩士が多く、西郷隆盛は「ジゴロ(田舎者)に斉彬公の真似は無理でごわす」と面罵したが、久光は敢然と反抗勢力を追払い大久保利通・小松帯刀を要路に就け率兵上洛を挙行した。京都から江戸へ乗込んだ久光は、クーデターで幕府政治改革を強行、一橋派の徳川慶喜と松平春嶽を幕閣の中枢に送込み、参預会議を発足させて見事に公武合体を果した(文久の改革)。
- 島津斉興が没し薩摩藩の実権を掌握した島津久光は上洛に反対する勢力を一掃し薩摩藩の人事を刷新、家老の喜入摂津・側役の小松帯刀・御小納戸役の中山尚之助が藩首脳に就き大久保利通が裏で糸を引く体制となった。精忠組からも多くが抜擢され、リーダーの大久保利通が御小納戸役(西郷不在)、有村俊斎と吉井友実が徒目付、有馬新七は造士館訓導に任命された。精忠組は中下級武士を中心に構成された尊攘派グループ。盟主は西郷隆盛と大久保利通、中核メンバーに有馬新七・有村俊斎・伊地知正治・岩下方平・海江田信義・吉井友実など。寺田屋騒動での同士討ちの悲劇を乗越え、最後まで久光政権を支えて討幕に導いた。
- 西郷隆盛は、薩摩藩を率いて討幕を成遂げた「維新の三傑」である。大久保利通ら地元の青年を集めて尊攘派グループ「精忠組」を結成し、下級藩士ながら薩摩藩主島津斉彬に抜擢され名代として将軍継嗣問題に奔走したが、斉彬が大老井伊直弼打倒の上洛軍を発動した直後に突然死し、絶望した西郷は勤皇僧月照を抱え錦江湾で入水自殺を図った。大久保が藩政を握ると西郷隆盛は復帰するが島津久光と衝突し遠島処分、2年の罪人生活の後に再び召還されると薩長同盟、戊辰戦争、明治政府樹立へと直走った。維新後は唯一の大将として全国民の輿望を担い廃藩置県や徴兵制を後押ししたが、政府高官の奢侈と腐敗に悲憤慷慨し、征韓論を大久保利通・木戸孝允・岩倉具視に退けられ下野、西郷が戻った鹿児島は「私学校王国」と化し大久保政府は対決姿勢を明示した。我が身を部下に預けた西郷隆盛は西南戦争の首領に担がれ上京軍を起すが熊本城や田原坂で政府軍に敗北、鹿児島城下の城山に追込まれ自殺した。
- 神と仰ぐ島津斉彬の突然死に失望落胆した西郷隆盛は、鹿児島へ戻り順聖公(斉彬)の墓前で殉死する決意であった。これを聞きつけた月照は「今や貴下は薩摩藩の西郷ではなく天下の西郷である。今こそ亡君の精神を受継ぎ身命を捧げて国家のために働かねばならぬ」と励まし西郷を制止した。月照は、五摂家筆頭近衛家の祈祷僧で勤皇家として知られ、関白近衛忠煕との繋ぎ役として薩摩藩主島津斉彬と謀臣西郷隆盛の宮廷工作を支えたが、安政の大獄で京都を追われ鹿児島錦江湾で入水自殺を遂げた(無理心中を図った西郷は蘇生)。島津氏は平安時代に近衛家の荘官として南九州に土着したのが興りで、幕末に至って両家は一層親交を深め、島津斉興の娘興子(郁姫)を娶った近衛忠煕は斉彬の公武合体運動に共鳴し宮廷工作を担った。月照と無理心中を図るも一人生残った西郷隆盛は一月余り病床に臥したが、看病にあたった大久保利通・吉井友実・有村俊斎らは自殺を恐れ刃物類を全て隠したという。
- 島津久光を愚弄した西郷隆盛は、死罪を免れたものの死一等を減じた重罪人として遠島に処された。百方解決に努めたが久光の怒りは解けず万策尽きた大久保利通は西郷を海辺へ誘い刺し違えて死のうと言ったが、西郷は大久保を宥め後事を託して従容と流罪についた。西郷隆盛は、徳之島に3ヶ月牢居した後、厳刑を求める久光の命令で更に遠い沖永良部島へ移され2ヶ月の幽閉で半死半生となったが、牢番の土持政照が私費を投じて牢屋を改築し待遇を改善、西郷は久光が望んだ獄死を免れた。西郷は土持と義兄弟の約を交わし、後々まで感謝したという。
- 大久保利通は、強靭な意志力でシナリオを描き粘り強くキーマンを動かして明治維新を成遂げた「維新の三傑」、声望は西郷隆盛に及ばないが功績と手腕は最高である。鹿児島城下の加治屋町で3歳年長の西郷隆盛と共に育ち尊攘派グループ「精忠組」を結成、デビューは島津斉彬の懐刀として活躍した西郷に遅れたが斉彬没後は主役となった。斉彬の突然死に西郷ら同志が希望を失うなか、大久保利通は、次代を担う島津久光に目を付け趣味の囲碁を自らも習得して接近を図り、島津斉興の死で久光が実権を握ると側近に抜擢され、自ら推挙した門閥閣僚の小松帯刀と共に薩摩藩を尊攘藩に改造した。大久保利通は、我が強く統制好きな久光の下で苦労しながら公武合体運動を推進め、突出脱藩を主張する有馬新七ら精忠組急進派を命懸けの説得で抑えて挙藩一致体制を堅持、久光を説伏せて西郷隆盛の赦免を勝取り薩摩藩同志の抑え役兼他藩への周旋役に据えた。島津久光は文久のクーデターで幕府政治を改革し参預会議により宿願の公武合体を成就したが、八月十八日政変・禁門の変で長州藩を追放した徳川慶喜は専横を強め、尊攘派に恨まれた久光は憤慨して政局を放棄、藩政を託された大久保利通と西郷隆盛は長州征討に固執する幕府を見限り薩長同盟を結んで討幕路線へ転換、岩倉具視と連携して朝廷を確保し一気に王政復古、戊辰戦争、明治政府樹立を達成した。新政府での大久保利通は、ラジカルな木戸孝允と士族に同情する西郷隆盛の意見調整に腐心しつつ、欧米視察を通じて殖産興業・富国強兵の必要性を確信、明治六年政変で岩倉と共謀して西郷の征韓論を覆し反抗勢力を一掃して初代内務卿兼参議に就き独裁政権を樹立した(大久保政府)。ドライな大久保利通は、台湾出兵で薩摩士族のガス抜きを図りつつも秩禄処分を断行、全ての特権を奪われた不平士族の反乱が相次いだが断固たる姿勢で各個撃破し西南戦争で西郷と薩摩志士を処断、史上空前の内乱の渦中で不敵にも第一回内国勧業博覧会を開催したが、翌年不平士族に襲撃され落命した(紀尾井坂の変)。大久保利通の内治優先・殖産興業路線は弟子の伊藤博文と大隈重信へ引継がれた。
- 小松帯刀は、島津久光・門閥とのパイプ役として大久保利通・西郷隆盛を後援し幕末薩摩藩の挙藩体制を支えた名宰相である。薩摩喜入5500石の肝付家に生れ薩摩吉利2600石の小松氏に入嗣した貴公子であったが、偉ぶらない人柄で人望が篤く精忠組の活動に理解を示したことから大久保利通の推挙で島津久光政権の首脳となった。小松帯刀は、島津斉彬が遺した集成館事業を再興し薩摩藩の近代化を推進しつつ、保守佐幕へ傾きがちな門閥閣僚を抑え気分屋の久光を励まし討幕路線へ導いた。生来の虚弱体質で肺病持ちであったが、幼年から文武に打込み示現流剣術も修めている。イギリス外交官として多くの志士と交わったアーネスト・サトウは著書『一外交官の見た明治維新』の中で「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物、家老の家柄だがそういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり態度がすぐれ、友情が厚くそんな点で人々に傑出していた。」と評している。愛妻家で新婦の千賀を連れて霧島の栄之尾温泉に滞在、日本初の新婚旅行ともいわれる。小松帯刀といえば坂本龍馬との情誼が有名だろう。神戸海軍操練所・海軍塾が幕命で閉鎖された際、親分の勝海舟は坂本龍馬以下30余名の塾生を小松帯刀に託し、小松は坂本らを大坂薩摩藩邸に引取り親密な間柄となった。公武合体を見限り討幕へ傾いた西郷隆盛・大久保利通は長州藩への接近を図り、幕府の圧力で輸入取引を塞がれた長州藩のために薩摩藩名義で武器や艦船を購入し提供したが、小松帯刀はダミーとして亀山社中を設立し洋式操船術を学んだ坂本らに貿易・輸送実務を任せ、薩長の仲介役となった坂本は薩長同盟に奔走した。寺田屋事件で重傷を負い薩摩藩に匿われた坂本龍馬は愛人の寺田屋お龍を伴い霧島山や温泉場を巡訪、「日本初の新婚旅行」といわれるが実は小松帯刀が先達である。生来病弱な小松帯刀は維新後間もなく病没したが、西郷隆盛・大久保利通の上司である小松が存命なら西南戦争の悲劇は避けられたかも知れない。
有馬新七と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照