徳川家康に仕えた伊賀「上忍三家」当主で「神君伊賀越え」で露払い役を果し知行8千石・伊賀甲賀衆支配役に任じられた忍者の出世頭、江戸城「半蔵門」の由来となった嫡子正就は自滅したが子孫は桑名藩家老として存続
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服部 正成(半蔵)
1542年 〜 1596年
50点※
家系・子孫
- 服部氏は、阿拝郡服部郷を発祥とする伊賀土豪で桓武平氏忠正流を称し、壇ノ浦の戦いで平知盛(清盛の四男)に従い戦死した服部家長を家祖とする。上嶋氏を通じて楠木正成や観阿弥・世阿弥と血縁関係があったともいわれる。都に近く山がちな伊賀では小領主が割拠し、厳格な上下秩序と「抜忍成敗」で結束を固め間諜・撹乱術を操る「伊賀忍」へ発展、室町時代には足利一門の仁木氏が守護に就くが自治共同体「伊賀惣国一揆」を形成し傭兵働きで乏しい耕地収入を補った。服部氏(千賀地氏)は百地・藤林氏と並ぶ「上忍三家」だが、資金難の服部保長(初代服部半蔵)は将軍足利義晴に出仕、見切りをつけ西三河の領袖松平清康に転じたが清康は家臣に暗殺され後嗣の広忠は織田信秀に圧迫されて今川義元の軍門に降り世子の家康は人質にとられた。嫡子の服部半蔵正成は、同年生れの徳川家康に仕え本能寺事変後の「神君伊賀越え」に活躍、家康の関東移封に伴い8千石を与えられ伊賀・甲賀忍者の統率を任された。天正伊賀の乱で百地丹波・藤林長門守ら有力土豪が滅ぼされていたことも幸いした。嫡子の服部半蔵正就は、久松家当主の松平定勝(家康の異父弟)の娘を娶り江戸城甲州街道口の屋敷が「半蔵門」の由来となったが、組下の伊賀同心200人を家臣の如く酷使したため総反発に遭って支配役を解任され、首謀者に報復を図るも別人斬殺で改易され伏見藩5万石の松平定勝へお預け、大坂陣で名誉挽回を図るが討死した。嫡子の服部正辰は、桑名藩11万石の松平定行(定勝の後嗣)に養育され、定行の伊予松山藩15万石への移封に伴い桑名藩を継いだ松平定綱(定行の弟)に出仕し3千石を供された(小服部家)。兄の正就を継いだ4代目服部半蔵正重は、舅の大久保長安のもと佐渡金山などで政務に就いたが「大久保長安事件」に連座し3千石を没収され浪人、松平定綱に2千石で拾われ服部半蔵家は桑名藩家老職を世襲した(大服部家)。正成の庶長子ともいわれる服部康成は、関が原の戦いで津軽為信に仕官し大垣城の戦いで活躍、3千石を供され弘前藩筆頭家老に昇った(後嗣が没落)。石田三成に近い津軽氏を牽制するため家康が送込んだともいわれる。
服部正成(半蔵)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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