家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた布教の天才にして27人も子を生した精力家、曾孫顕如の代に摂津・加賀の「戦国大名」へ発展するが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し準皇族の権勢を保持
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本願寺 蓮如
1415年 〜 1499年
90点※
本願寺蓮如と関連人物のエピソード
- 本願寺顕如は、親鸞・蓮如の血を引く浄土真宗法主にして大坂の戦国大名、一向一揆と石山合戦で織田信長に抵抗を試み幾万の門徒を虐殺の奈落へ導いた戦う庶民のカリスマである。降伏・武装解除後も宗教的権威は保持し、子孫の大谷家は今なお東西本願寺の門首として皇族並みの権勢を誇る。寺社勢力は、領主への年貢は滞っても寺への貢納は怠らない門徒を支えに強大な経済力を誇り、武装して領主権を脅かす事実上の戦国大名であったが、比叡山焼き討ちと本願寺顕如の降伏で永久に武力を失った。顕如は、石山本願寺を築いた父証如の死により12歳で本願寺11世を承継、各地の一向一揆を組織化し、1570年、姉川合戦に敗れた朝倉義景(嫡子教如の舅)の要請に応じて浅井長政・比叡山延暦寺・武田信玄・将軍足利義昭らと信長包囲網を結成、11年に及ぶ石山合戦の戦端を開き、各地に一向一揆を起した。厭離穢土・欣求浄土を旗印に戦死即極楽と狂信する一向一揆は恐ろしく強く、軍事指揮官の鈴木重秀(雑賀孫一)と下間頼廉の采配も冴え、敵方武将にも門徒が多くいて隆盛を極めた。三河では若き徳川家康を追い詰め、伊勢では織田信興・長島では信広・秀成(いずれも信長の兄弟)を戦死させ、越中では6年に渡って上杉謙信の猛攻を凌ぎ、加賀に至っては守護富樫政親を討って以来90年も自治を貫き一時は朝倉氏滅亡後の越前も掌握した。が、1573年頼りの武田信玄が決戦を目前に急死、勢いを得た織田信長はすぐさま浅井・朝倉を討ち、室町幕府を滅亡させ、長島一向一揆を猛攻して門徒2万人を虐殺、長篠の戦いで武田勝頼を撃退し、越前一向一揆を討平、紀州征伐で鈴木重秀の雑賀衆と根来衆を軍門に降した。劣勢の顕如は、上杉・毛利・波多野と提携して信長包囲網復活を目指したが、1578年上杉謙信が大動員令を発した直後に急死、翌年波多野秀治が滅ぼされ、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗(第2次木津川口の戦い)、補給路を絶たれた顕如は1580年降伏した。猛撃を凌ぎ切った難攻不落の石山本願寺は、その年に焼失し、天下人豊臣秀吉の拠点大阪城の礎となった。
- 下間氏は、浄土真宗草創期から本願寺に仕えた最古参で僧侶ながら係累を拡げ一族で坊官(執政)職を独占した。以仁王の令旨を携え平清盛打倒を呼掛けた源三位頼政の子孫を称し(清和源氏)、源頼茂(頼政の孫)が鎌倉幕府に反逆し滅ぼされたとき親鸞の取成しで処刑を免れた源宗重(同玄孫)が出家して弟子となり、親鸞に従い常陸下妻に仮寓した際「下妻」を名乗ったのが「下間」へ転じたのだという。戦国時代には軍権を担って各地の一向一揆を指揮し、下間頼廉は石山合戦で武名を馳せたが顕如の石山本願寺退去後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った。徳川家康・本多正信の謀略で本願寺が東西に分裂すると頼廉は後継三男の下間仲玄と共に一貫して准如(顕如三男)の西本願寺を支持したが(刑部卿家)、孫(長男頼亮の後嗣)の下間頼良は教如(顕如長男)の東本願寺に仕えた。下間頼総は加賀一向一揆を率いたが失脚、弟の下間頼芸が西本願寺に仕えたが(宮内卿家)一門で顕如側近の下間頼龍は教如に属した。政治や文化に通じた頼龍は池田恒興の養女(実父は織田信長の弟信時)を娶り、娘を大久保長安らに縁付けた。嫡子の下間頼広(池田重利)は教如と折合いが悪く頼龍没後出奔して叔父の池田輝政(徳川家康の次女督姫を継室に迎え備前岡山藩28万石・因幡鳥取藩32万石を開く)に仕え摂津尼崎藩1万石の大名となった(のち播磨新宮藩1万石へ転封)。下間頼照は、越前一向一揆の指揮官に抜擢されたが与力の七里頼周と共に暴政を敷いたため国人衆の反発を招き織田信長に攻められ一揆は瓦解、嫡子の下間頼俊は戦死し、後を継いだ下間仲孝は西本願寺に仕えた(少進家)。なお下間氏以外の本願寺重臣には、蓮淳(蓮如の六男)の孫で長島一向一揆を指揮した願証寺証恵と後嗣の証意・顕忍、蓮如の孫で三河一向一揆を率いた本證寺空誓、越中一向一揆の勝興寺顕章・瑞泉寺顕秀、青侍から顕如に抜擢された七里頼周などがいるが、並の大名家を凌ぐ繁殖力は驚異的で今日に至る教団発展の原動力というべきか。頼廉の刑部卿家・頼芸の宮内卿家・仲孝の少進家は西本願寺坊官を世襲し門首の大谷家と共に栄華を誇った。
- 下間頼廉は、本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った本願寺の守護者、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官(執政)として繁栄した。本願寺の坊官を世襲する下間氏の嫡流で証如・顕如を補佐、1570年石山合戦が勃発すると司令官に任じられ鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いる鈴木重秀と共に「大坂左右大将」と称された。「厭離穢土・欣求浄土」の旗を掲げ死を恐れない一向宗は勇猛に闘い天然の堀に囲まれた石山本願寺は最後まで陥落しなかったが、長島一向一揆は2万人皆殺しで殲滅され越前一向一揆も下間頼照・七里頼周の失政で瓦解、武田信玄・上杉謙信の相次ぐ死で信長包囲網が瓦解し雑賀衆も紀州を攻められ降伏、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗し(第2次木津川口の戦い)補給路を断たれた顕如は1580年降伏開城に追込まれ、90年「百姓の持ちたる国」を保った加賀一向一揆も解体された。統一政権秩序での生残りを図る下間頼廉は、各地の一向一揆を説諭して反乱を収拾し、豊臣秀吉・徳川家康の加勢要求を謝絶して純粋な宗教団体としての姿勢を打ち出した。1585年警戒を説いた秀吉は城下町活性化のために顕如を大坂に呼び戻し天満本願寺を創建、顕如も九州征伐に随行して忠誠を示し(下関に留まり戦闘には参加せず)、1589年聚楽第落書犯を匿った罪で願得寺顕悟(顕如の孫)と町人63名が処刑されたが秀吉に接近し本願寺町奉行に就いた下間頼廉が事態を収拾(寺内成敗)、1591年教団再興を許され京都堀川六条に西本願寺を建立した。翌年顕如が病没し、嫡子の教如が後を継いだが武闘派のため秀吉に嫌われ穏健派の三男准如が法主に就任、反抗した下間頼廉は秀吉の勘気を蒙るが准如に忠誠を誓い赦免された。1602年天下人となった徳川家康は本多正信(かつて三河一向一揆を主導したが徳川家に帰参)の分断工作を採用し教如を法主とする東本願寺を創建、今日に至る東西本願寺の泥仕合が始まったが、下間頼廉は一貫して西本願寺を支持し1626年教団の完全復活を見届け89歳の生涯を閉じた。
- 細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
- 三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。
- 朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎御坊を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。
- 朝倉氏は、平安時代から武士団を形成して栄えた日下部氏の一流で、本貫地の但馬国養父郡朝倉から名字を採り、越前朝倉氏は南北朝時代に越前へ移住し守護斯波氏に仕えた朝倉広景に始まる。斯波氏は足利将軍家に次ぐ三管領(他は細川・畠山)の名門で、越前・尾張・遠江などの守護を世襲した。斯波氏の重臣に朝倉・織田・甲斐の三家があり、朝倉は越前・織田は尾張の守護代を世襲するうち次第に斯波氏を圧迫して実権を掌握した。応仁の乱が起ると、朝倉孝景(英林)は守護代甲斐常治と共に斯波義敏を追い落とし、甲斐氏も追放して越前守護の座を掴み一乗谷城に拠って戦国大名となった。孝景(英林)の家督は嫡流の氏景・貞景・孝景(宗淳)へ受け継がれたが、いずれも幼少の後嗣を残して早世したため、孝景(英林)の八男で武勇の誉れ高い朝倉宗滴が死ぬまで事実上の当主として君臨した。朝倉宗滴は、越前内戦や応仁の乱で武功を挙げ兄孝景(英林)の政権奪取を支えた敦賀郡司朝倉景冬の娘を妻に迎え、その与党となったが、景冬の嫡子景豊が当主貞景に謀反を起すと寝返って討伐軍に加わり、武功により敦賀郡司職を得た。朝倉宗滴には一児があったが、廃嫡して僧籍に入れ(京都大徳寺住職となった蒲庵古渓といわれる)、貞景の四男景紀を養嗣子とした。豊臣秀吉も織田信長の四男秀勝を養子に迎えて忠誠を顕示しているが、賢明な宗滴は実力者故にお家騒動回避を優先したのかも知れない。朝倉氏は目立って一族の反乱が多い家で、孝景(英林)の五男元景は上述の景豊に加担し、孝景(宗淳)の弟景高も謀反の末に逃亡している。朝倉宗滴没後、孝景(宗淳)の嫡子義景が名実共に朝倉家当主となったが、一族や家臣の内紛が噴出して屋台骨が傾き、陪臣(尾張守護代織田氏の家臣)と見下し続けた織田信長に敗れて根絶やしにされた。徳川幕府の旗本に朝倉氏があるが、家祖の在重は景高の子であるという。
- 六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
- 大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
本願寺蓮如と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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