陸軍統制派の最年長者として対米開戦時の首相に担がれ、ヒトラー並みの独裁者に仕立てられ「生きて虜囚の辱め」を受けた生真面目で陰険な暴走陸軍人
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
東條 英機
1884年 〜 1948年
0点※
家系・子孫
- 東條家は室生太夫(観阿弥の長兄)の末裔を称する能楽師の家系で、加賀から移って盛岡藩のお抱えとなり、幕末の東條英俊に至って士分に採立てられた。嫡子の東條英教は、明治維新後に上京し陸軍教導団から陸軍入り、西南戦争の武勲で陸軍大学校(第1期)への進学を許され主席で卒業した。陸軍エリートに列した東條英教は、日清戦争で川上操六に可愛がられ中将まで昇進したが、大将になれなかったのは山縣有朋の長州閥優遇人事に楯突いたためと思込み、恨み節を息子の東條英機に刷込んだ。ただ、同期の陸大1期から同じ佐幕藩出身の秋山好古(松山)と井口省吾(沼津)が大将になっており、兵書に詳しいだけの東條英教は実戦に向かず日露戦争で失敗を犯したという。父の恨みを含んで陸軍へ進んだ東條英機は、長州閥打倒を掲げる永田鉄山の「一夕会」に加盟し、この選択により大将・陸相・首相へ上り詰め歴史に悪名を刻むこととなった。東條英機は妻かつ子との間に三男四女を生したが、戦後遺族は露骨な白眼視と苛めを受け大変苦労し、嫡子の東條英隆は巣鴨プリズンの父を見舞いもしなかった。次男の東條輝雄は、東大航空学科を出て三菱重工業の航空技術者となりゼロ戦の設計チームで活躍、戦後は三菱重工業副社長、三菱自動車社長・会長を歴任した。妻の父は陸軍大将の冨永信政である。三男の東條敏夫は陸軍士官学校へ進んだが在学中に終戦を迎え、戦後は航空自衛隊に入り空将補で退役した。四女の君枝は意外にも米国人実業家に嫁いでいる。東條英機の孫は14人を数えるという。東條英隆は父と不仲だったが、長女の由布子は祖父の名誉回復とA級戦犯分祀反対を訴え度々マスコミに登場、参議院議員に出馬するも全く相手にされず2013年に病没した。神経質そうな東條由布子の面立ちは慕ってやまない東條英機にそっくりだった。
東條英機と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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