薩摩閥海軍人として山本権兵衛海相に連合艦隊司令長官に抜擢され日露戦争の英雄となったが、軍拡反米英の「艦隊派」に肩入れし晩節を汚した「海軍の神様」
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東郷 平八郎
1848年 〜 1934年
40点※
東郷平八郎と関連人物のエピソード
- 薩摩軍艦「春日丸」の乗員として函館戦争を終えた20歳の東郷平八郎は、意外にも鉄道技師を志し同郷薩摩の先輩にイギリス留学を懇請、大久保利通には「お前はおしゃべりだから」という変な理由で断られたが、西郷隆盛は「海軍軍人を目指すのならば許可してやろう」と官費留学を認めてくれた。渡英した東郷平八郎は、西郷隆盛との約束を果たすべく王立海軍兵学校への入学を希望したがイギリス側の事情で許されず、海軍予備校バーニーズアカデミーを経て商船学校ウースター協会に就学した。海軍キャリアの王道からは外れたが、商事・国際法を学んだ異色の経歴は東郷平八郎の妙味となり、後の「高陞号撃沈事件」でも活かされた。7年間の留学を終え東郷平八郎が帰国すると、既に西南戦争は終わり恩人の西郷隆盛も大久保利通も非命に散っていた。長兄の東郷実猗と次兄の小倉壮九郎は西郷軍に身を投じ、壮九郎は城山で西郷隆盛に殉じて切腹しており、東郷平八郎は「もし自分が国内にいたら、西郷軍に身を投じただろう」と述懐している。イギリス留学を経て「おしゃべり」から寡黙な男に変貌した東郷平八郎は、軍艦「扶桑」の乗組員として海軍生活をスタートし、西郷従道(西郷隆盛の弟)・大山巌へ受継がれた薩摩閥に属し順調に昇進していった。
- 東郷平八郎は、西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌・山本権兵衛らと同じ鹿児島城下加治屋町に生れ15歳で薩英戦争に従軍、「春日丸」乗員として函館戦争まで転戦し、7年間のイギリス留学を経て海軍に入った。薩摩閥に連なる東郷平八郎は無難に昇進したが、陸軍の軍制改革や日清戦争の軍令を担った川上操六(同年)や「海軍の父」山本権兵衛(4歳年少)には遠く及ばず、山本の海軍改革(薩長藩閥を問わず96人もの将佐官を大リストラ)で整理リストに入るも山本の一存で救われた。海軍に残された東郷平八郎は、巡洋艦「浪速」艦長として日清戦争を戦い、海軍中央入りを望むも佐世保・舞鶴鎮守府(初代)の司令長官に回され予備役入りも噂されたが、日露開戦が迫ると海相の山本権兵衛は日高壮之丞(薩摩)を更迭し東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した。軍政に加え軍令(作戦遂行)の統率も図る山本権兵衛は、日清戦争で軍令違反があった日高壮之丞を嫌い命令に忠実な東郷平八郎を採用、訝る明治天皇に「東郷は運の良い男ですから」と説明したという。己を知る東郷平八郎は優秀な秋山真之(松山)参謀に作戦を託し秋山は「T字戦法(東郷ターン)」を案出、連合艦隊は帝政ロシアが世界に誇る太平洋艦隊・バルチック艦隊を殲滅し世界海戦史に輝く大勝利を収めた。熱狂で迎えられた東郷平八郎は国民的英雄となり、伯爵(のち侯爵)に叙され「生ける軍神」と崇められた(没後に東郷神社建立)。日露戦争後「海軍の神様」となった東郷平八郎は、軍令部総長を経て元帥に栄達したが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると伏見宮博恭王と共に反米軍拡派(艦隊派)に担がれ82歳にして海軍人事に介入、亡国路線の幇助者として晩節を汚した。東郷平八郎元帥は、五・一五事件を起した海軍将校の処刑に異を唱え軍部の規律崩壊にも一役買っている。
- 鹿児島城下の加治屋町は、甲突川東畔1万坪ほどの地域に貧しい下級藩士の屋敷が80戸ほど並ぶ狭い街区だったが、「維新の三傑」西郷隆盛・大久保利通を筆頭に伊地知正治・吉井友実・有村俊斎・西郷従道・大山巌・東郷平八郎・篠原国幹・村田新八・黒木為禎・山本権兵衛など錚々たる面々を輩出した。彼ら加治屋町出身の薩摩藩士と吉田松陰・松下村塾門下の長州藩士という少人数の2グループが幕末維新を成遂げたのは奇跡的であった。西郷隆盛と三歳年下の大久保利通は、幼少から竹馬の友として育ち、父親の影響で自然に島津斉彬派に属し、長じると近所の仲間を集めて尊攘派グループ「精忠組」を結成、島津久光を担いで雄藩薩摩を動かし討幕の急先鋒長州藩と同盟して徳川幕府を倒した。
- 鹿児島城下加治屋町に育った大山巌は15歳年長の従兄西郷隆盛に随従し「精忠組」に加盟、西郷従道と共に有馬新七らの急進派に属し「寺田屋騒動」に遭遇したが、薩英戦争の勃発で謹慎を解かれ砲台将校として激戦を経験した。薩摩藩士は英兵の上陸を阻み錦江湾から英艦隊を追出して薩英戦争は痛み分けに終わったが、鹿児島城下は艦砲射撃で焼土と化し洋式兵器の威力と攘夷の不可を思い知らされた。アームストロング砲に驚愕した大山巌は最たる者で、西郷隆盛に願出て江戸へ遊学し江川坦庵の砲術塾に学び、鹿児島城下に「砲隊塾」を開き大砲研究と後進指導に打込んだ。「大砲弥助どん」(弥助は巌の旧名)と称された大山巌は洋式大砲を改善した「弥助砲」も開発し、戊辰戦争が起ると砲隊を率いて鳥羽伏見の緒戦から函館戦争まで転戦し重傷を負いつつ華々しい戦功を挙げた。新政府軍では西郷隆盛がトップに君臨し、大山巌は欧州遊学で箔を付け(普仏戦争を観戦)累進したが、西郷は大久保利通との征韓論争に敗れて鹿児島へ退き(明治六年政変)「私学校党」に担がれ西南戦争を引起した。苦渋の決断で大久保利通政府に留まった大山巌は官軍司令官として城山攻撃を指揮、西郷隆盛と共に篠原国幹・村田新八・桐野利秋ら薩摩将官が悉く戦死し陸軍の主導権は山縣有朋の長州閥に握られたが、残った大山巌と西郷従道は薩摩閥の首領に浮上した。欧州軍事調査団を率いた大山巌は長州の桂太郎と薩摩の川上操六を握手させドイツ流の陸軍建設を後援し、文官へ転じた山縣有朋の後を受け桂太郎に交代するまで16年以上も陸軍卿・陸軍大臣を務めた。日清戦争が起ると大山巌は陸相ながら第2軍司令官に就任し旅順・威海衛の攻略戦を指揮、日露戦争では明治天皇より陸軍総司令官の大任を託され、西郷隆盛譲りの巨体(体重82㎏超、布袋のような太鼓腹、頸抜きで直接胸につづく重厚きわまる二重あご)と鷹揚な人格で「大将人形」に徹して児玉源太郎参謀長らに作戦指揮を任せ切り勝利の立役者となった。公爵・元帥・元老に栄達した大山巌は生涯軍人に徹して晩節を汚さず74歳まで長寿を保ったが、西南戦争後鹿児島に帰郷することはなかったという。
- 陸軍の二大巨頭として肩を並べた山縣有朋(長州)と大山巌(薩摩)は人格も業績も対照的で、山縣の悪名と反比例するように大山の名望は高まった。「任せるタイプ」の大山巌が日清・日露戦争で比類ない武勲を挙げたのに対し、日清戦争で現地司令官にシャシャリ出た山縣有朋は大本営の命令を無視して敵中に深入りし大損害を蒙って解任・召還され、雪辱に燃えた日露戦争では総司令官を買って出るも幕僚の反対を知る明治天皇の英断により日本国内に留め置かれた。また、軍人に徹し首相にならなかった大山巌に対して、山縣有朋は「軍人勅諭」で軍人の政治介入を戒めながらも自分は超積極的に政治介入して文治派・伊藤博文の足を引張り、首相退任後も院政を敷いて老害を撒き散らし、シビリアンコントロール崩壊の元凶として重大な禍根を残した。さらに、大山巌・西郷従道・山本権兵衛ら薩摩人が派閥作りに恬淡だったのに対し、名誉欲と権力欲が旺盛な山縣有朋は桂太郎・寺内正毅・田中義一ら配下の長州人で陸軍中央を固め死ぬまで陸軍長州閥に君臨した。さらに、山縣有朋は金銭にも汚く、山城屋事件の大ピンチを西郷隆盛に救われた後も懲りずに井上馨の三井財閥など政商と癒着して私財を蓄え、「椿山荘」「無鄰菴」などの豪華庭園創りに精を出した。
- 西郷従道は、幕末薩摩藩を率いた西郷隆盛の15歳下の三弟で少年期から「精忠組」に加わり、従兄弟の大山巌と共に有馬新七らの急進派に属し「寺田屋騒動」に遭遇したが、薩英戦争の勃発で謹慎を解かれ戦闘に参加した。英軍艦の艦砲射撃に手を焼いた薩摩藩士は、スイカ売りに化けて小船で接舷し斬込むべく決死隊を組織、西郷従道も加わったが不発に終わっている。西郷従道は鳥羽伏見の緒戦から戊辰戦争に従軍し、大砲の権威となっていた大山巌や「人斬り」桐野利秋ほどの活躍はなかったが、貫通銃創の重傷を負いながら各地を転戦、維新後は西郷隆盛が君臨する新政府軍の幹部に収まり、欧州軍事視察へ同行した山縣有朋の徴兵制(国民皆兵)に共鳴、兄を説得し島津久光・桐野利秋ら薩摩勢の反対を抑え実現へ導いた。征韓論争に敗れた西郷隆盛は官を辞して鹿児島へ退いたが(明治六年政変)、兄から「吉二郎(戊辰戦争で戦死した西郷兄弟の次男)と比べて小才が効く」と評された西郷従道は大久保利通政府に留まり、薩摩軍人のガス抜きのため征討軍3千名を組織し台湾出兵を強行した(西郷隆盛は従道の要請に応じ鹿児島から兵員を送っている)。不平士族反乱が相次ぐなか、西郷隆盛も「私学校党」を抑えられず西南戦争が勃発、西郷と共に桐野利秋ら有力薩摩軍人が悉く戦死し陸軍は長州閥の天下となったが、西郷従道は薩摩閥の首領に浮上し文官へ転じた山縣有朋に代わり陸軍卿に就任した。西郷従道は大山巌に陸軍卿を譲り農商務卿へ転じたが間もなく開拓使官有物払下げ事件が発生、主犯の黒田清隆と共に大隈重信・三菱潰しの前面に立ったため民権派に憎まれ、1885年内閣制度発足に伴い軍部へ戻り初代海軍大臣に就任、一時内相へ転じたが大津事件で引責辞任し、1898年に山本権兵衛に譲るまで日清戦争を含むほとんどの期間海相の座を占めた。西郷従道に特筆すべき業績は無く薩摩閥重鎮として栄達したに過ぎないが、優秀な山本権兵衛に海軍改革を任せ切り露払い役を務めたことで帝国海軍創建の功労者となった。西郷従道は再三首相候補に推され貫禄も十分だったが、西郷隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に固辞し続けたといわれる。
- 日本との国交を拒絶する李氏朝鮮に修好条約締結を迫るため西郷隆盛は自身の派遣を閣議決定したが(征韓論)、遣欧使節より帰国した岩倉具視・木戸孝允・大久保利通と大隈重信・大木喬任らの内治優先論に覆され西郷派遣は無期限延期となり、これを不服とする西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎ら参議と征韓論に同調する軍人・官僚600余名が大挙辞職し下野する大事件に発展した(明治六年政変)。征韓論の背景には廃藩置県で失業した50万人に及ぶ士族の雇用問題があった。政変後、革新の木戸孝允と保守の岩倉具視が相克し岩倉寄りの大久保利通が木戸を宥めつつ独裁的指導力を発揮する構図となった(大久保政府)。木戸孝允は、西郷・大久保を巻込んで廃藩置県を成遂げると「廃藩置県を断行して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならない」と憲法制定を政治目標に定め、学制と国民皆学の充実を図り、言論出版を奨励し、軍事においては大村益次郎のフランス流市民兵構想を後援した(大村は暗殺され山縣有朋らが「天皇の軍隊」に仕立てる)。木戸孝允の基本理念は大久保利通の殖産興業・富国強兵に通じるものであったが、乏しい政府財政と人的資源を巡って優先順位や進め方で両者は対立、粘り強い戦略家の大久保が長州の伊藤博文・井上馨や肥前の大隈重信を自陣へ引込んで勝利し木戸孝允はヘソを曲げて放り出した(土佐の板垣退助や後藤象二郎は征韓論に与し下野)。木戸孝允と大久保利通の関係について、徳富蘇峰は「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」と語り、松平春嶽は薩摩藩への恨み節もあろうが「木戸は至って懇意なり。練熟家にして、威望といい、徳望といい、勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、衆人の異論なからしむるは、大久保といえども及びがたし。木戸の功は、大久保の如く顕然せざれど、かえって、大久保に超過する功多し。いわゆる天下の棟梁というべし」と評した。
- 台風で遭難した琉球藩御用船が台湾に漂着、乗員54名が先住民により惨殺された。明治政府は清政府に事件の賠償などを求めたが清政府は台湾は「化外の民」としてこれを拒絶、日本で台湾征討の機運が高まった。この事件を知った清アモイ駐在のアメリカ総領事チャールズ・ルジャンドルは「野蛮人を懲罰するべきだ」と明治政府を煽った。大久保利通は、佐賀の乱勃発で政治問題化した不平士族のガス抜きに丁度良いと考え台湾出兵を決断、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命して軍事行動の準備に入った。こうした薩摩系の動きに対し、長州系は征韓論を廃しておきながら台湾出兵を行うのは矛盾するとして反対し木戸孝允が参議を辞任し下野した。慌てた大久保政府は中止を決定したが、西郷従道が旧薩摩藩士を中核とする征討軍3千名を組織し台湾出兵を強行、大久保は已む無しの態で追認を与え、征討軍は瞬く間に台湾を制圧した。清はイギリス駐日行使パークスを抱込んで抗議したが、大久保が自ら北京に乗込み交渉した結果、清は台湾出兵を「保民の義挙」と認め遭難民への見舞金10万両(テール)及び戦費賠償金40万両の計50万両を日本側に支払うこと、これと引換えに日本は征討軍を撤退させることに合意した。政権運営に長州閥首領を欠かせない大久保利通は、伊藤博文・井上馨を遣わして木戸孝允を慰撫し立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立の条件を呑んで参議に復帰させた。
- 西南戦争は、西郷隆盛を盟主に担ぐ旧薩摩藩士が起した不平士族反乱で日本史上最大の内乱事件である。徴兵令、廃刀令、秩禄処分と続いた士族の特権剥奪政策に対する不満は全国に蔓延し、佐賀の乱を皮切りに既に各地で不平士族反乱が起っていたが、薩摩藩は維新の功労があるだけに不満は大きく、さらに他藩より武家率が数倍も高く武士の絶対数が多かったことも災いし(全国士族の1割とも)、空前の大規模反乱に発展した。征韓論争に敗れて鹿児島に退いた西郷隆盛は、暴発を抑えるため私学校を作って統制に努めたが、逆に求心力となって続々と不平士族が参集、鹿児島は中央政府から独立した「私学校王国」の様相を呈した。そして遂に暴発事件が起ると、西郷は、篠原国幹・村田新八・桐野利秋・辺見十郎太ら私学校党幹部に身を委ね、「陳情」を名分に中央への進軍を開始した。大久保利通率いる明治政府は、即座に断固鎮圧の断を下し、鹿児島県逆徒征討総督の有栖川宮熾仁親王以下、実質的な指揮官(参軍)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命、徴兵制で発足したばかりの鎮台兵を大挙派兵し、また旧士族を急募して編成した警察兵も続々と投入した。戦域は鹿児島県から熊本県、宮崎県、大分県にまで拡大、戦死者は官軍6,403人・西郷軍6,765人に及び、激戦の末に西郷隆盛はじめ反乱軍の幹部は悉くが戦死、反乱は鎮圧された。このとき戦った官軍には、司令官の大山巌中将・谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐のほか、児玉源太郎少佐・川上操六少佐・奥保鞏少佐・乃木希典少佐など後の大物軍人が数多く従軍した。西南戦争で政府が費やした戦費は4156万円の巨額に及び深刻な財政難に陥って富国強兵政策の重大な足枷となった。さらに、西南戦争の最中に木戸孝允は「西郷、いいかげんにせんか」の言葉を残して病没、その西郷隆盛も間もなく戦死、残った大久保利通も翌年不平士族の凶刃に斃れた。柱石たる「維新の三傑」を一気に喪った悪影響は計り知れず、明治日本にとって最も不幸な大災難であった。ただ、岩崎弥太郎の三菱・大倉喜八郎・三井など政商たちに戦時特需をもたらし飛躍の契機を与えたことは、せめてもの救いであった。
- 廃藩置県の断行を目論む明治政府は独自の武力を必要としたが、国民皆兵・徴兵制の早期実施を目指し藩兵に依拠しない政府直属軍の創設を主張する大村益次郎・木戸孝允と、武士身分に固執する薩摩士族が鋭く対立(兵制論争)、大久保利通が士族擁護に傾き1871年薩長土3藩供出の士族兵による御親兵が創設された。西洋兵学の大家である大村益次郎は、諸藩兵の廃止と鎮台兵の設置、徴兵制の導入、兵学校による職業軍人の育成、兵器工場の建設といった近代的軍事国家へのプランを明確に描いていた。兵制論争に敗れた大村益次郎は、辞表を出したが木戸孝允に慰留され軍政のトップ(兵部大輔)に就き、愛弟子の山田顕義(兵部大丞)と共に京都河東操練所(士官訓練施設)など軍事施設の設置、兵学寮の開設とフランス人教官の招聘、火薬工場や造兵廠の建設などを着々と進めたが、急激な兵制改革に反発する長州士族に襲われ横死した。なお京都河東操練所には、後に陸軍長州閥を仕切る児玉源太郎や寺内正毅らが学んだ。さて、大村益次郎没後の1873年、山縣有朋が薩摩の西郷従道を引込み西郷隆盛を動かして徴兵制を実現した。維新の原動力であるうえ士族の数が断トツで多い薩摩が頑強に抵抗したが、徴兵令を支持する西郷隆盛が島津久光・桐野利秋・前原一誠ら反対派を抑えた。が、士族の特権剥奪は不平士族反乱の原因となり、西郷隆盛も西南戦争を起すはめになった。この後、兵部大輔の前原一誠は黒田清隆と衝突して辞め萩の乱を起し戦死、大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義は軍を追われ政治家に転進、唯一の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争で落命し、運よく軍のトップに立った山縣有朋は大日本帝国憲法に統帥権を挿入して政府の干渉を受けない「天皇の軍隊」を構築、配下で陸軍を牛耳り陸軍長州閥は児玉源太郎・桂太郎・寺内正毅・田中義一へ受継がれた。山田顕義と与党の鳥尾小弥太・谷干城・三浦梧楼らは、フランスの国民軍に近いものを構想し、山縣流の外征を前提とした軍備拡張は国家財政の重荷となり国力を弱めると主張したが容れられなかった。
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 明治政府は大山巌(薩摩)陸軍卿を団長に随員20余人からなる軍事調査団をヨーロッパへ派遣、一行はドイツ・フランス・イギリス・ロシア・アメリカを歴訪し一年半後に帰国した。大山調査団の派遣は、大村益次郎(長州)以来フランス式を模倣してきた陸軍の軍制が、普仏戦争でフランスに勝利したドイツ(プロイセン)式へ切替えられる転機となった。フランス式が「国民の軍隊」であるのに対しドイツ式は「皇帝の軍隊」であり、日本はドイツ軍に倣い「天皇の軍隊」を創建するが、大日本帝国憲法が謳う「統帥権の独立」は文民統治排除の誘因をはらみ実際に軍部専横の切札となる。大山巌は陸軍のホープである桂太郎(長州)と川上操六(薩摩)を随行員に加え、現地で同室となった同年生れの二人は盟友関係となった。このとき桂太郎は「作戦(軍令)は君に任せるよ。僕は軍政をやろう」と語ったが、この言葉どおり軍政の桂太郎と軍令の川上操六の薩長コンビがドイツ式陸軍建設を担う中核となり、4歳年下の児玉源太郎(長州)を加え「明治陸軍の三羽烏」と称された。
- 明治維新から日清戦争まで僅か27年の間に日本は近代的軍隊を創り上げたが、陸軍の実務面では川上操六の功績が大きく「近代陸軍の創始者」と称された。薩摩藩士の川上操六は20歳で戊辰戦争に従軍、そのまま新政府軍へ進んで頭角を現し、西南戦争で軍歴を積み薩摩軍閥のホープと目された。軍隊の近代化を急ぐ明治政府は大山巌(薩摩)陸軍卿を団長とする軍事調査団を欧州へ派遣、随行した川上操六は同年生れの桂太郎(長州)と意気投合し、普仏戦争でフランスを下したドイツ陸軍に倣った軍制改革を決意した。軍事研究のため再び渡独した川上操六は(長州の乃木希典と同行)「近代軍制の創始者」と称された独軍参謀総長モルトケおよびワルデルゼー参謀次長に師事し、1年半みっちり学んで帰国すると参謀本部次長に復職し(参謀総長はお飾りの有栖川宮熾仁親王)大山巌陸相のもと矢継ぎ早に軍制改革を断行した。川上操六は先ず、陸軍省との区切りが曖昧で影が薄かった参謀本部の改革強化に乗出し「作戦計画の府」に恥じない組織に変貌させ、藩閥に拘らず有能な人材を集め育成したため参謀本部はエリート集団へ様変わりした。参謀本部に詰め切りの川上操六は夜は毛布にくるまって寝ながら一心不乱に陸軍改造事業に没頭し、師団制の整備充実・軍備兵制の近代化はもとより、戦術・情報・操典・兵站・衛生・通信・運輸・測量・行軍に至るまで全陸軍のあらゆる軍制が刷新され、早くも3年目の1892年には川上改革は一段落を迎えた。40歳そこそこで陸軍の近代化を牽引し参謀本部を「創始」した川上操六は「作戦の神様」と称され、長州閥の調整や軍政面を担当した桂太郎・児玉源太郎と共に「陸軍の三羽鴉」に数えられた。朝鮮を巡り清との関係が破綻すると伊藤博文首相は作戦会議を開催、軍制改革を完了した川上操六は「陸軍は勝てる」と断言し陸奥宗光外相と共に首脳陣を日清戦争に踏切らせ、征清総督府参謀長に就き内地から陸軍の出師計画や作戦軍略を差配した。川上操六は「日本海軍の父」山本権兵衛に比肩する偉業を果し、政治や藩閥に距離を置く良質な陸軍首脳であったが、日清戦争で死力を尽くし戦後4年目に惜しくも50歳で病没した。
- 西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌・東郷平八郎らと同じ鹿児島城下加治屋町に生れ育った山本権兵衛は、「郷中教育」で早熟な志士となり11歳で薩英戦争、16歳で戊辰戦争に従軍、20歳前には歴戦の薩摩軍人となり175cmの体躯と鋭い眼光で非凡な風貌を漂わせた。明治維新後、西郷隆盛に「お前は海軍をやれ」と言われた山本権兵衛は勝海舟海軍卿の書生となり、海軍操練所(兵学寮→兵学校)1期生に加えられたが、不平士族反乱が相次ぎ薩摩が不穏になると同僚の左近充隼太と共に帰省し西郷隆盛に進路指導を仰いだ。鹿児島は暴発寸前の私学校党王国の様相で物騒を極め、山本権兵衛らは「川村純義のスパイ」と疑われ闇討ちされかねない状況だった。山本権兵衛は西郷隆盛に従う意思が強かったが「前途ある若者は政治問題に関わらず修行に専念し、その後に国事に努めるべきだ」と諌められ復学を決意、長崎行きの便船で鹿児島を発ち東京に戻った。長崎で引返した左近充隼太は西南戦争で西郷軍に加わり戦死、同時期に鹿児島に戻った兄の山本吉蔵もスパイ嫌疑で追放され熊本で官軍籍に復帰したが西南戦争で戦死、海軍兵学校に戻った山本権兵衛は航海実習中のケープタウンで西南戦争勃発を知った。このときドイツ軍艦「ビネタ号」艦長のモンツ大佐に薫陶を受けた山本権兵衛は後年「西郷隆盛を第一の恩人とすれば、モンツは第二の恩人だった」と語ったが、第一の恩人を見限った負目は終生拭い難く、鹿児島帰省時には必ず西郷と左近充の墓がある浄光明寺に参詣したという。さて山本権兵衛は、10余年の艦隊勤務を経て、西郷従道海相の引きで海軍伝令使(海相の首席秘書官)に任官、折をみて兄の西郷隆盛と行動を異にした理由を問質すと西郷従道は少佐に過ぎない山本に丁寧に答え同じ負目を持つ者同士は意気投合、山本は欧米出張と艦長勤務を経て海軍省大臣官房主事に抜擢され海軍創建の大役を任された。
- 陸軍から分離発足した海軍は境界が曖昧で、海相の西郷従道さえ陸軍中将のままであり、上層部には海軍の素人が多かった。海相官房主事に任じられた山本権兵衛は人事と統帥部の分離独立を掲げ大胆な改革を断行、薩長藩閥を問わず96人もの将官佐官をリストラ(予備役編入)する一方で斎藤実(仙台)・加藤友三郎(広島)・岡田啓介(福井)ら海軍兵学校出身者を積極的に登用、海軍は山縣有朋の長州閥が牛耳る陸軍と異なりオープンな組織となった。なお、加治屋町の先輩東郷平八郎も整理リストに入っていたが山本権兵衛の一存で残された。急激な改革は軍人のみならず新聞の酷評を受け世論も反発、大ボスの山縣有朋が山本権兵衛退治に乗出したが、山本は「閣下」と煽てて篭絡し応援の井上馨らも理路整然と説伏せた。山場を乗切った山本権兵衛は、日清戦争準備の作戦会議で海軍輸送の重要性を説き統帥部(海軍軍令部)の独立に成功、終戦直後には対露開戦の不可避を予見しロシアの軍拡を上回る速度で軍艦を建造し10年以内に戦艦六隻・重巡洋艦六隻を整備するという「六六艦隊計画」に着手、西郷従道から海相を継ぎ戦争準備に邁進した。正に10年後に桂太郎内閣が対露開戦を決定すると、山本権兵衛海相は軍令部も掌握して作戦を指揮し連合艦隊に出撃命令を下した。連合艦隊司令長官は常備艦隊司令長官の日高壮之丞(薩摩)の順送りが筋だったが、日高の独断専行を嫌う山本権兵衛は命令遵守型の東郷平八郎への交代を強行、懸念を示す明治天皇には「東郷は運の良い男ですから」と奏上した。加治屋町の先輩で陸軍総司令官の大山巌は出征直前に山本権兵衛を訪ね内地で早期講和に尽くすよう依頼、奉天会戦・日本海海戦の勝利で日露戦争の帰趨が決すると山本海相は伊藤博文・井上馨・陸軍の児玉源太郎と共に桂太郎首相の無謀な継戦論を抑え日本の国益を護った。
- 山本権兵衛は最高の軍人だが、国際感覚に長けた優秀な政治家でもあった。日清戦争の最中、連戦連勝の勢いで広島の大本営を旅順へ進める案が有力となった。欧米列強の干渉を危惧する伊藤博文首相は反対だったが正面切って軍令に口出しできず、海軍を仕切る山本権兵衛に助勢を求めると、真意を汲んだ山本は天皇の名代として小松宮参謀総長を旅順へ送る妥協案を示し丸く収めた。伊藤博文は山本権兵衛の政治センスを評価し第三次伊藤内閣の海相に推薦、山本が辞退したため西郷従道が留任したが、同年の第二次山縣有朋内閣で山本海相が実現した。山本権兵衛海相は日露戦争前後8年の重要任務を完遂し、子飼の斎藤実・加藤友三郎に海軍を託した。政界へ転じた山本権兵衛は、伊藤博文から西園寺公望・原敬へ受継がれた政友会の支持を得て2度組閣したが、長期政権を期待されながらシーメンス事件・虎の門事件の不運に遭い通算1年半足らずの短命政権に終わり、軍部大臣現役武官制の緩和と関東大震災後の帝都復興(後藤新平の抜擢)くらいしか業績を残せなかった。シーメンス事件のせいで元老になれなかった山本権兵衛は、首相辞任後は政治・軍事に口出しせず潔い引際を示した。隠退後の山本権兵衛は愛妻家・子煩悩の好々爺で、囲碁・将棋・ゴルフなどの道楽はせず散歩を唯一の趣味とした。統帥権干犯問題で「艦隊派」に担がれた東郷平八郎元帥と対照的だが、海軍が対英米強硬へ傾くのを座視したことは不作為の失策だろう。また、山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで海軍軍令部総長(後に元帥)に担がれた伏見宮博恭王は第二次大戦終結まで海軍に君臨、国際協調派(良識派)の粛清から軍拡・日独伊三国同盟・対米開戦へ至る海軍暴走の旗頭となり、特攻作戦の封印を解く役割も演じた。
- ハワイ王国においてリリウオカラニ女王の自主路線に反発したアメリカ人農場主らが米海兵隊160名の支援を得てクーデターを起し、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。日本政府は邦人保護を理由に巡洋艦「浪速」(東郷平八郎艦長)他2隻をハワイへ派遣しホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。5年後の1898年にアメリカは実効支配下のハワイ併合を断行する。
- 日清戦争開戦の直前、東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」が、英国旗を掲げた商船「高陞号」に清国兵が乗っているのを発見し捕獲しようとしたが、清国兵がイギリス人船長に銃を突きつけ拒否したため大砲と魚雷で撃沈、船長ら第三国人を救出した。一時は国際問題となり、国際協調派の伊藤博文首相が西郷従道海相に東郷艦長の処分を要求する騒ぎとなったが、イギリスからも「東郷艦長の処置は国際法に反したものではない」との指摘があり、逆に東郷平八郎の名声が高まることとなった。なお、事件当時の浪速には、後に首相となる岡田啓介も砲術士官として乗務していた。
- 日清戦争開戦に備え伊藤博文首相・山縣有朋司法相・陸奥宗光外相・川上操六参謀本部次長・山本権兵衛海軍大臣官房主事による作戦会議が開かれた。「作戦の神様」と称された川上操六は陸軍は勝てると断言した。これに対して山本権兵衛は、兵員と軍事物資の輸送を担う海軍の重要性について理解を求め制海権の確保が大前提であると説明、山縣有朋から「海軍は勝てるか」と問われると、世界最大の軍艦「定遠」「鎮遠」を擁する清国軍には主力艦の規模と主砲の火力においては劣るが、艦艇の速力と兵員の練度において断然優位であり、従って勝てると断言した。かくして日清戦争の火蓋が切られたが、山本権兵衛の予言どおり、主力艦隊が激突した黄海開戦で日本海軍は圧勝し制海権を握った日本軍は作戦を計画どおり進め日清戦争に完勝した。
- 甲午農民戦争で朝鮮派兵を敢行した伊藤博文政府は、立憲制への移行が完了し軍備増強も進んだことから対清開戦を決意、大本営を広島に設置し、帝国議会は巨額の軍事予算を承認するなど挙国一致体制の構築に成功した。伊藤首相の腹心陸奥宗光外相と、参謀本部を仕切る川上操六が開戦路線を牽引した。朝鮮政府に対して清との宗属関係を断つよう求めたが、これが拒否されると日本軍は朝鮮王宮を占領、親日政権を樹立したうえで、朝鮮半島から清の勢力を一掃するため清政府に宣戦布告した。近代的軍備と兵士の練度に優る日本軍は緒戦から清軍を圧倒、山縣有朋の陸軍第1軍が平壌を陥落させ、伊東祐亨率いる連合艦隊が黄海海戦に勝利して制海権を握ると、陸相大山巌の陸軍第2軍が旅順攻略に成功、陸軍第2軍と連合艦隊が陸海から山東半島の威海衛を攻撃して清の北洋艦隊を壊滅させた。前線の将兵の活躍により日清戦争は日本軍の完勝で終結したが、作戦を担い必勝の布陣を準備した陸軍の川上操六と海軍の山本権兵衛の手腕は一層鮮やかであった。日清戦争における両国の戦力は、日本の陸軍総兵力約24万人・艦隊総排水量約5.9万トンに対して、清は陸軍総兵力約63万人・艦隊総排水量約8.5万トンであった。
- 日清戦争で日本軍の勝利が確定すると、北洋軍閥の総帥にして清政府の最高実力者である李鴻章が全権として来日、下関春帆楼にて伊藤博文首相・陸奥宗光外相と講和交渉を行い下関条約を締結した。①清は朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億両の支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)、④沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、⑤日清通商航海条約の締結(日本側に有利な不平等条約)・・・下関条約は大いに満足すべき内容であったが、立憲改進党の大隈重信・加藤高明ら「対外硬派」は伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開した。巨額の賠償金の8割以上は軍事関係にあてられ日本軍の増強に大きく寄与、残りは金本位制(貨幣法)の財源となった。
- 中国東北部を狙うロシアは、同盟国フランスおよびロシアの関心をアジアに向けさせたいドイツと結び、日本が下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう強要した(三国干渉)。伊藤博文政府では列国会議で反論すべしとの案が優勢だったが、列強の更なる干渉を恐れる陸奥宗光外相の主張により受諾に決した。この間も陸奥宗光は、ロシアの南進政策を警戒し局外中立の立場をとる英米に働きかけ局面打開を狙ったが、イギリスが傍観で望みを絶たれ「要するに兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れない」と現実的妥協を受入れた。日本では、大隈重信の立憲改進党など「対外硬派」の扇動で反露世論が沸騰、「臥薪嘗胆」で軍備拡張に邁進した。日清戦争を主導した陸奥宗光の『蹇々録』は第一級史料だが、国民が勝利に酔うなか冷静に警鐘を鳴らしている。いわく「日本人は、かつて欧米人が過小評価したよりは、文明を採用する能力あることを示したが、はたして、今戦勝の結果、過大評価されているほど進歩できるのだろうか。これは将来の問題に属する。・・・日本人は戦勝に酔って、進め進めという以外、耳に入らない。妥当中庸の説を唱うる人は、卑怯未練といわれるので黙っているほかはない。愛国心は別に悪いものではないが、愛国心の使い方をよく考えないと、国家の大計と相反することもある。・・・今や、わが国は、列国からの尊敬の的となると共に、嫉妬の対象ともなった。わが国の名誉が高くなると同時に、わが国の責任は重くなった。この両者の間をとって、歩み寄りさせるのは容易ではない。なぜならば、当時、わが国民の情熱は、しばしばすべての主観的判断に出て、少しも客観的判断を容れず、ただ国内事情を主として、外部の情勢を考えず、進むことを知って、止まることを知らない状況だった。・・・政府は、国民の敵愾心の旺盛なのに乗じて、一日も早く、一歩も遠く、戦局を進行させて、少しでもよけいに国民の気持ちを満足させた上で、国際情勢を考えて、日本に危険が迫れば、外交の上で、進路を一転する策を講ずるほかはないと考えた」。伊藤博文の国際協調路線を継ぐべき陸奥宗光は、惜しくも2年後に病没した。
- 日本の懐柔を企図するロシアは、朝鮮を永世中立化して日露両国の緩衝地帯にしようと提案してきた。しかし日本は、ロシアが陸続きの満州に巨大な兵力を駐留させた状況のまま承諾できるはずはなく、ロシア軍の満州からの撤兵が先であるとして提案を拒否した。日本国内では、満州をロシアに渡す代わりに日本による朝鮮支配を認めさせ武力対決を回避すべしと主張する伊藤博文・井上馨ら日露協商派と(満韓交換論)、世界最強のイギリスと同盟してロシアに断固抵抗すべしとする桂太郎・小村寿太郎ら対露強硬派が鋭く対立、両派それぞれが策動して二面外交を展開した。イギリスは清に有する多くの権益がロシアに侵されることを恐れ、日本からの日英同盟提案を受入れた。最大の後ろ盾を得た日本では、伊藤博文・井上馨らがロシアとの和平交渉を続けつつ、桂太郎首相・小村寿太郎・軍部が対露開戦準備に動き始めた。日英同盟成立に脅威を感じたロシアは清と条約して満州撤兵を約束したがすぐに撤回、伊藤博文・井上馨は改めてロシアに満韓交換論を提案するも拒否され交渉は決裂した。狭小な国土を海に囲まれた日本にとって南下政策を推進するロシアに朝鮮を抑えられることは国土防衛上の死活問題であり(朝鮮生命線論)、やむなく対露開戦を決意して国交を断絶、日露協商派・対露強硬派・軍部が一丸となって戦争準備に邁進した。
- 桂太郎政府は伊藤博文・井上馨の慎重論を退けロシアに宣戦布告、遂に日露戦争が始まった。陸軍は、総司令官大山巌・参謀総長児玉源太郎のもと第1軍(司令官黒木為楨)・第2軍(司令官奥保鞏)・第3軍(司令官乃木希典)・第4軍(司令官野津道貫)・鴨緑江軍(司令官川村景明)を編成した。やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征するつもりだったが、用兵下手のうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうという明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。一方の海軍は、海相として軍政を握る山本権兵衛が軍令も統率し、山本の作戦計画により編成された連合艦隊は第1艦隊司令長官東郷平八郎・参謀長島村速雄の指揮下に第2艦隊(上村彦之丞)・第3艦隊(片岡七郎)が連なった。なお連合艦隊司令長官の人選は、常備艦隊司令長官の日高壮之丞の横滑りが常道であったが、山本権兵衛は暴走の懸念がある日高を退け命令遵守型の東郷平八郎を指名、明治天皇に理由を尋ねられた山本は「東郷は運の良い男ですから」と回答した。「T字戦法(東郷ターン)」で日本海海戦を勝利に導く秋山真之参謀は東郷司令官の旗艦三笠で作戦を差配、また後に首相となる加藤友三郎は第2艦隊参謀長として出征した。日露両軍の戦力は、日本軍の陸軍総兵力約108万人・艦隊総排水量約26万トンに対して、ロシア軍は陸軍総兵力約200万人・艦隊総排水量約51万トンであった。戦力に加え資金力も乏しい日本政府は日露戦争の戦費調達に腐心したが、日銀副総裁の高橋是清がイギリスに渡りユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの協力を得て外債および戦時国債の発行に成功、最終的に戦費の過半は外債で賄われ高橋は陰の立役者となった。
- 桂太郎は、陸軍長州閥・山縣有朋の腹心として首相となり日露戦争と韓国併合を断行、三度組閣し首相の通算在職日数2886日は歴代1位である(単独内閣では佐藤栄作が首位)。桂太郎は、長州藩の中級藩士の嫡子で、吉田松陰の親友だった叔父の中谷正亮のコネで同族の木戸孝允らに引立てられ、戊辰戦争では下級仕官ながら異例の賞典禄を授かり、長期のドイツ遊学を経て山縣有朋の側近に納まり、ドイツ式陸軍「天皇の軍隊」の建設を牽引した。少壮にして実務を担った陸軍省=軍政の桂太郎・参謀本部=軍令の川上操六(薩摩)・児玉源太郎(長州)は「陸軍の三羽鴉」と称された。軍政に明るい桂太郎は、軍部大臣現役武官制など山縣有朋の政党弾圧の裏方を担い覚え目出度く順調に昇進、日清戦争では山縣の第1軍旗下の第三師団長として出征し、台湾総督・東京湾防御総督を経て第三次伊藤博文内閣で陸相に就任、約3年陸相を務めた後に首相に栄達し、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し政治的安定期は「桂園時代」と称された。桂太郎首相は、日露協商・満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退けて日露戦争に踏切り、勝利によって英雄となり韓国併合を断行、先輩の井上馨や松方正義より早く公爵を授かり位人臣を極めた。とはいえ桂太郎の業績は日露戦争勝利に尽きるが、開戦を可能にした日英同盟は林薫駐英公使と小村寿太郎外相の手柄で、軍事は陸軍の大山巌・児玉源太郎・川上操六や海軍の山本権兵衛・東郷平八郎・秋山真之ら優秀な軍人の功績、さらに物資欠乏・継戦不能の日本を救ったポーツマス条約は伊藤博文が派遣した金子堅太郎の対米工作と難交渉をまとめた小村主席全権の偉業であり、山縣有朋と桂太郎は賠償金に固執し講和潰しを図るなど感覚がズレていた。政友会の護憲運動で第三次内閣を倒された桂太郎は(大正政変)政党の必要性を痛感し、政党嫌いの山縣有朋を宥め反政友会勢力を掻集め「桂新党」同志会を結成、桂は間もなく病没したが同志会(憲政会・民政党)は政友会の対抗馬に成長し加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣した。陸軍長州閥では山縣有朋が長寿を保ち没後は寺内正毅・田中義一が受継いだ。
- 児玉源太郎(長州藩支藩の徳山藩士)は、16歳の函館戦争で初陣を飾り25歳の西南戦争で熊本鎮台を死守した歴戦の勇、政治能力も抜群の陸軍長州閥期待の星であった。家督の姉婿が「俗論党」に殺され家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが高杉晋作の長州維新で復権、児玉源太郎は「献功隊」下士官として戊辰戦争に参陣し、大村益次郎の京都河東操練所を経て新政府軍の将校となった。熊本鎮台の参謀に配された児玉源太郎は、佐賀の乱で瀕死の重傷を負いつつ神風連の乱の指揮を執り、西南戦争では参謀副長として谷干城司令長官を補佐し過酷な籠城戦を耐え抜いた。山縣有朋ら長州閥首脳は一佐官の児玉源太郎に期待を寄せ神風連の戦況より「児玉少佐ハ無事ナリヤ」と打電するほどであった。不平士族反乱の終息に伴い陸軍中央へ呼ばれた児玉源太郎は忽ち軍政の才を発揮、4歳上の桂太郎・川上操六と共に臨時陸軍制度審査委員会を主導し「陸軍の三羽烏」と称され、日清戦争では陸軍省枢要で川上操六の作戦遂行を補佐し、戦後処理・三国干渉対応・台湾総督府設立を主導した。台湾統治が難渋すると児玉源太郎は第4代総督に就任、後藤新平を民政局長に抜擢し民生向上と警察力強化のアメムチ政策により初めて植民地経営を成功させ、死の直前まで8余年も台湾総督を兼務した。児玉源太郎は第四次伊藤博文内閣に陸相で初入閣し続く第一次桂太郎内閣で内相へ転じたが、日露戦争が起ると自ら参謀本部次官への降格人事を行い満州軍総参謀長に就き出征、大山巌総司令官に軍令一切を託され勝利の立役者となった。が、奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ帰還、戦勝に浮かれる大本営に戦力払底を訴えて進撃論を封じ、伊藤博文・山本権兵衛海相と連携し渋る桂太郎首相をポーツマス講和へ導いた。日露戦争の英雄となった児玉源太郎は大山巌から陸軍参謀総長を引継ぎ、伊藤博文・井上馨ら穏健派元老の受けも良く日本の舵取り役を期待されたが、惜しくも翌年50歳の若さで世を去った。陸軍長州閥の児玉源太郎と薩摩海軍閥の山本権兵衛、同年生れの逸材二人が日本を率いていれば、歴史は変わったに違いない。
- 日露戦争開戦を前にして、参謀本部の大黒柱であった田村怡与造次長が急死した。陸軍内に適当な後任がおらず人選は難航したが、内相兼文相の児玉源太郎が自ら降格人事を行い参謀本部に入った。明治維新から第二次大戦に至るまで降格人事を承諾した軍人は児玉源太郎の他に無く、己の能力を頼み国難に際し面子を捨てる大英断だった。満州軍総参謀長として戦地に入った児玉源太郎は「大将人形」に徹する大山巌総司令官のもと思う存分辣腕を振るい、戦力倍するロシア軍を相手に遂に辛勝を掴んだ。児玉源太郎の人物像は『坂の上の雲』の司馬遼太郎史観で乃木希典と対極の大名将に脚色され逆に胡散臭くなってしまったが、第三軍の203高地争奪戦を除外しても児玉の偉業が萎むことはないだろう。陸軍大学校教官・臨時陸軍制度審査委員会顧問として日本の近代陸軍建設を指導したドイツ軍人のメッケルは児玉源太郎の軍才を高く評価し「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と太鼓判を押したという。奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ舞戻り、戦勝に浮かれてウラジオストク進軍・沿海州占領を主張する大本営内の強硬論を封殺し、桂太郎内閣に即時講和を説いた。継戦余力が尽きた現地日本軍の実情を知らない桂太郎首相は講和を渋ったが、陸海軍トップの児玉源太郎と山本権兵衛海相が継戦不可能と断じるのを覆すだけのパワーはなく、伊藤博文・金子堅太郎が準備したルーズベルト米大統領の講和斡旋に乗る道を選択した。児玉源太郎はポーツマス条約妥結まで講和誘導に奔走したが、賠償金要求に拘る桂太郎首相に手を焼き「桂のバカが金もとれる気でいる」と側近にこぼしたという。児玉源太郎は台湾・朝鮮・満州の植民地経営では軍政を主張するタカ派であったが、引くべきは引く現実的な判断力に優れ、台湾統治や日露講和の難局で抜群の器量を発揮した。死力を尽くした児玉源太郎は日露戦争の翌年に病没したが、「軍神」を祀る児玉神社が故郷の山口県周南市と神奈川県江ノ島に建てられた。東京赤坂に乃木希典を祀る乃木神社があるが、どちらかを拝むなら間違いなく児玉神社だろう。
- 東郷平八郎率いる連合艦隊は、旅順の太平洋艦隊撃滅を命じられた。世界最強といわれたバルチック艦隊がロシア本国から到着する前にケリをつけたかったが、逆にバルチック艦隊の到着を待ちたい太平洋艦隊は旅順港に留まったため、連合艦隊は旅順港を封鎖するほかに打つ手がなく、膠着状態が続いた。局面打開を迫られた日本軍は、新たに乃木希典の第3軍を編成し、陸上からの攻撃により旅順を制圧する作戦に切替えた。ところが、ロシア軍が大金を投じて大要塞化していた旅順は難攻不落で、第3軍は多くの死傷者を出しながら攻めあぐねた。業を煮やした参謀総長の児玉源太郎は、自ら赴いて乃木の指令権を代行し、ようやく203高地の占領に成功、203高地頂上からの砲撃により旅順港の太平洋艦隊を殲滅した。第3軍は約6万人もの犠牲者を出しながら、遂に旅順攻略の任を果した。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、第3軍の司令官乃木希典と参謀長伊地知幸介は力攻めに固執して6万人もの兵卒を無駄死にさせた無能な指揮官の烙印を押され児玉源太郎・秋山真之の引立役にされたが、当時の「守高攻低」の戦闘常識においてはやむを得ない選択だったといった擁護論もある。保守的で攻めに弱い山縣有朋の指名で司令官となった乃木希典だけに華は無く児玉源太郎のような用兵の妙は感じられないが、有能無能はともかく、結果的に任務を果し日露戦争勝利に貢献したとはいえるだろう。
- 旅順攻略に成功した乃木希典の第3軍が合流し、大山巌・児玉源太郎が率いる日本軍は奉天に進んで再び決戦を挑んだ(奉天会戦)。日本軍25万人とロシア軍37万人が激突した空前の大会戦で、数に劣る日本軍は苦戦したが、ロシア軍が総司令官クロパトキンの判断ミスで余力を残して退却したため辛うじて勝を拾うことができた。逆に、退く敵を追撃すれば殲滅するチャンスが生じたが、兵力も弾薬も払底した日本軍にその余力は残されていなかった。
- 日本の国運を賭けた日本海海戦は、日本の連合艦隊が戦力倍する世界最強のバルチック艦隊に挑んで海戦史上類をみないほどの完勝を収め、東郷平八郎司令長官の武名と共に戦史に輝く偉業となった。「本日天気晴朗なれども波高し」の打電や、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の意を示すZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞したことなど、ディテールまでよく知られ、現代ドラマでもお馴染みのシーンとなっている。日本側の沈没3隻に対して、ロシア側は参戦した38隻のうち21隻沈没、5隻捕縛、9隻武装解除、目的地のウラジオストクに到達できたのは3隻のみという、日本の完全勝利であった。最大の勝因は、バルチック艦隊の航路を的中させ、戦力を集中して待ち構える対馬沖で迎撃できたことだろう。可能性として対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3つの航路が考えられたが、外していたら無傷でウラジオストクに入港され作戦はご破算になるところであった。他の勝因としては、秋山真之の「T字戦法(東郷ターン)」に代表される作戦と兵員の練度、下瀬火薬と水雷艇の威力、旅順攻略や奉天会戦勝利による士気の向上、逆に長旅に疲れた相手方の士気低下などがあったとされる。
- 秋山真之は、日露戦争における海軍参謀陣のエースとして連合艦隊の作戦立案を担った『坂の上の雲』の主人公、司馬遼太郎史観の潤色で胡散臭さが漂うが正真正銘の奇才であった。松山の貧乏藩士の五男に生れた秋山真之は、9歳年長の兄秋山好古の援助で東京へ進学、共立学校・大学予備門から東大を目指したが志を転じて海軍兵学校(17期)へ進んだ。陸大1期生だった秋山好古は「日本騎兵の父」と称され陸軍大将となり、松山中学校・大学予備門で共に学んだ親友の正岡子規は東大(哲学科→国文科)へ進み「明治の文豪」となった。さて、「試験の神様」秋山真之は海兵を主席で卒業し米英へ留学、最新の海軍学と古今の戦史を渉猟して独自の戦術眼を養い、帰国後は顕職の常備艦隊参謀を経て34歳の若さで海軍大学校戦術教官に抜擢された。間もなく日露開戦が迫り、連合艦隊に呼ばれた秋山真之は山屋他人(海兵12期で前任戦術教官)ら並居る先輩を押退け先任参謀に昇格、東郷平八郎司令官・島村速雄(7期)参謀長から作戦立案を託された。秋山真之は旗艦「三笠」の寝床に籠って作戦に没頭し、島村から参謀長を継いだ加藤友三郎(7期)の頭越しに東郷平八郎司令官は秋山案を採用、連合艦隊は陸軍の支援を得て(203高地占領)旅順港に逼塞する太平洋艦隊を殲滅し、ウラジオストク港へ向かうバルチック艦隊を対馬沖で捉え「T字戦法(東郷ターン)」で撃破し海戦史上に輝く劇的勝利、世界最強と謳われたロシア海軍を壊滅させ皇帝ニコライ二世をポーツマス講和へ追込んだ。日露戦争後、秋山真之は海軍で神聖視され海軍省枢要の軍務局長に栄進したが、心身の不調で目立った活躍は出来ず、大本教に没入して盲腸炎の手術を拒み49歳の若さで世を去った。秋山真之が編出した「秋山兵術」は聖典となり、ほとんど修正されることなく太平洋戦争終結まで海軍大学校で継承されたという。
- 連合艦隊参謀長の島村速雄は旅順口閉塞作戦の失敗で引責辞任し加藤友三郎が後継、島村は影響力は保持しつつ第2艦隊第2戦隊司令官に転任した。島村速雄は加藤友三郎より3歳年長だが、海軍兵学校7期の同期の親友だった(ハンモック番号は主席が島村で2番が加藤)。とはいえ、日露戦争中の連合艦隊の作戦は概ね東郷平八郎司令官と秋山真之参謀の間で決められており、参謀長交代も大勢に影響は無く、加藤友三郎は自分の頭越しに東郷とやり取りする秋山参謀を嫌ったという。
- 日露戦争で国力に劣る日本のとるべき道は短期決戦・早期講和しかないと看破した伊藤博文は、そのカギを握るのはアメリカであると考え、側近の金子堅太郎を派遣して親日世論の喚起と講和仲介の準備工作にあたらせた。金子堅太郎は、少年期に岩倉使節団の随員として渡米し小学校からハーバード大学まで学んだ日本屈指の知米派官僚で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があった。日本軍は極東ロシア軍を撃破し日露戦争に勝利したが、兵力・弾薬・戦費いずれも払底し戦争継続は不可能となった。ここで伊藤博文・金子堅太郎の準備工作が奏功し桂太郎首相はアメリカ政府に講和斡旋を依頼、ルーズベルト大統領はアメリカのフィリピン支配を日本が認める条件で受諾し米国ポーツマスに日露両国の公使を招いて講和会議を開催した。大国ロシアは強硬姿勢で皇帝ニコライ二世は首席全権ヴィッテに賠償金支払いと領土割譲を厳禁、日本側主席全権小村寿太郎の奮闘も及ばず交渉決裂寸前まで追詰められたが、伊藤博文や山本権兵衛に背中を押された桂太郎首相が賠償金要求放棄と領土割譲を南樺太に留める妥協案を承認し、ポーツマス条約の調印に至った。①朝鮮における日本の優越権の承認、②旅順・大連の租借権譲渡、③東清鉄道の南満州支線(旅順-長春間)・安奉鉄道(安東-奉天間)の経営権および付属地炭鉱の租借権譲渡、鉄道守備に係る軍隊駐屯権の承認、④北緯50度以南樺太の領土割譲、⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権承認、⑥日露両軍の満州撤退(鉄道守備隊を除く)・・・賠償金と領土を断念した日本だが「生命線」朝鮮の奪還で開戦の主目的を達成したのに加え、旅順・大連および南満州鉄道の経営権を獲得、軍事進出を正当化する守備軍隊の駐屯権も確保し「利益線」にして「無主の地」満州への足場を築くことが出来た。
- 日露開戦に際し、軍事物資の過半を欧米からの輸入に依存する日本は決済用ポンドの獲得を急務とし、林薫駐英公使はロンドン・シティで外債発行すべく日英同盟に基づきランズダウン英外相に債務保証を求めた。日本はインド原綿・イギリス軍艦の最大購入者で帝国経営に欠かせない存在であったが「金持ち喧嘩せず」のイギリスは中立を理由に債務保証を拒否、桂太郎政府は苦境に立たされた。無官ながら「戦時財政の総監督役」の井上馨は、日銀副総裁で英語堪能な高橋是清を抜擢し戦費調達の大役を託した。高橋是清は腹心の深井英五を伴い横浜を出帆、米国行き便船には伊藤博文の命を受けた金子堅太郎も乗っていた。シティに乗込んだ高橋是清は林薫(ヘボン塾同窓)や末松謙澄・長男高橋是賢の協力を得て戦費調達に奔走、日露戦争の下馬評はロシアの圧倒的有利で難航したが、戦局が日本に傾き始めたこともあり、ニューヨークの金融業クーン・レープ商会のロンドン支配人ジェイコブ・シフを自陣に引込んだ。シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアを日本が苦しめれば、そのうち革命が起るだろうと考えた。なお、ロスチャイルドはユダヤ資本が日本を支援するとユダヤ人虐待が激化すると考え、高橋是清の活動を暗に妨害した。大物シフの全面的支援を得た高橋是清は関税収入を担保に巨額の外債発行に成功、日露戦争終結までに戦費約20億円のうち10億7千万円を調達し、1907年戦後処理用として2億3千万円を追加調達、累計額は13億円に上った。なお、ロシアもシティに乗込み日本と資金調達合戦を繰広げたが、ユダヤ人迫害と社会主義暴動(第一次ロシア革命)を敬遠され失敗している。一方、日本国内では桂太郎首相や井上馨が戦費調達に奔走したが、財界は公債引受を断った。開戦前「安田の一語、日露戦争を止ましむ」と顰蹙を買った「銀行王」安田善次郎は、日露戦争勝利が決ると低利新発国債による高利外債の期限前償還を提案、第二回起債分1億円を安田銀行で引受けて汚名を雪ぎ勲二等瑞宝章を贈られた。「時代の寵児」高橋是清は男爵に叙され、日銀総裁・蔵相を経て原敬暗殺後の政友会総裁に担がれ首相に上り詰めた。
- 日露戦争は結果的に勝ったから良かったものの、当時世界最強を謳われた陸軍とバルチック艦隊を擁すロシア帝国への挑戦は後進国日本にとって国運を賭けた大博打であった。ロシアが日本の国土防衛の要である朝鮮に固執したため妥協の余地は無くなったが、伊藤博文は井上馨と共に「日露協商」を主張し「満韓交換論」まで持出して開戦阻止に努めた。桂太郎内閣が日英同盟を後ろ盾に日露戦争に踏切ると、伊藤博文は腹心の金子堅太郎をアメリカに送込みセオドア・ルーズベルト大統領を引張り出して早期講和を実現(ポーツマス条約)、井上馨は日銀副総裁の高橋是清を米欧に派遣し外債発行で膨大な戦費調達を成功させた。また台湾・朝鮮の植民地経営においても、伊藤博文と井上馨は国際協調・民政路線を貫き、伊藤は老骨に鞭打って初代韓国統監に就任、山縣有朋・桂太郎・児玉源太郎ら陸軍長州閥や大隈重信・加藤高明・小村寿太郎ら対外硬派に対する抑え役であり続けた。が、皮肉なことに朝鮮独立運動家を称する安重根がハルビン駅頭で伊藤博文を射殺、伊藤が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり、格好の口実を得た陸軍長州閥と対外硬派は翌年韓国併合を断行、初代朝鮮総督に寺内正毅を据え第二次大戦終結まで軍政を敷いた。ただし伊藤博文を腐心させた抗日「義兵運動」は、日本が道路・橋・ダムなどの社会インフラ整備と工場建設(主に北朝鮮)・農地開拓(南朝鮮)を推進し破綻状態の朝鮮経済・民生を大幅に改善させたことで沈静化へ向かった。伊藤博文の国際協調・平和主義路線は政友会の西園寺公望らへ引継がれたが抑止力の低下は如何ともしがたく、後に政党政治も軍部に取込まれ軍国主義はエスカレートしていった。
- 戦勝に沸く国民に温かくポーツマスへと送り出された首席全権小村寿太郎であったが、帰国時に待っていたのは対露強硬派が扇動する民衆の罵声で、泣き崩れる小村を伊藤博文と山縣有朋が抱えて首相官邸に連れて行ったという。桂太郎政府は日露戦争で日清戦争の8倍近い18億円以上もの戦費を費やし、1904年の財政支出は前年の約2.5倍に増大、国民は増税を強いられて不満が溜まっていたところに、期待していた賠償金を得られず怒りが爆発した。対露強硬派により講和条約破棄を訴える集会が日比谷公園で開催されると、3万人の怒れる民衆が参集し、遂に暴徒化して各地の警察署や派出所を次々と襲撃、日比谷公園近くの芳川顕正内相官邸や、政府の御用新聞といわれた国民新聞の社屋に放火して全焼させるという大騒擾に発展した。警察だけでは混乱を収拾できないと判断した政府は、戒厳令を施行し、近衛師団を出動させて鎮圧した。この日比谷焼打事件では、約2000人が逮捕(うち起訴308人)され、死者17人、負傷者約2000人、警察署2ヶ所・派出所203ヶ所などの焼失被害が生じ、講和反対・戦争継続を訴えた新聞約30紙が発禁処分となった。さらに、混乱は東京にとどまらず全国へと波及した。
- 日清戦争で初めて中国からの独立を果した李氏朝鮮(大韓帝国)だったが、日露戦争もどこ吹く風で親日・親露・親中に分れ不毛な派閥抗争に終始、日露戦争でロシアの脅威を退けた日本政府は、有名無実の李朝から外交権を奪って保護国化し、首都の漢城(ソウル)に韓国統監府を置き監視体制を強化、初代韓国統監には文治派の伊藤博文が就任し山県有朋ら軍閥を抑え朝鮮守備軍の指揮権も掌握した。なお、李朝には大勢の世襲「武班」はいたが「軍隊」は1万人足らずで国防どころか国内の治安維持も覚束ない有様で、儒生を核とする朝鮮全土の農村組織も「家」あって「国家」無き朱子学に侵され著しく統率を欠いていた。親露派の高宗はオランダ・ハーグの万国和平会議に密使を送り日本の非道を訴えたが同類の帝国主義諸国は黙殺、日本は高宗を退位させて純宗を擁立し(大韓帝国最後の皇帝)内政権を取上げ名ばかりの李朝軍も解体した。「小中華の弟の反逆」に抗日運動(義兵運動)が沸起り1908年には1万人もの死者が発生、穏健統治の限界を悟った伊藤博文は韓国統監を辞任し、民政派の曽禰荒助が後継するも機能せず、伊藤はハルビン駅頭で安重根のテロに斃れた。死に臨む伊藤博文が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり穏健派重鎮の暗殺死は軍部と桂太郎首相・小村寿太郎外相ら武断派に格好の口実を与え、翌年には陸軍の寺内正毅が乗込んで韓国併合を断行し初代朝鮮総督に就任した。以後、朝鮮総督は陸海軍大将が歴任したが穏健な文化統治への転換が図られ、日本による国家建設で民生の劇的改善が進むなか小規模暴動も「三・一独立運動」で終息した。韓国併合後、日本は赤字経営を続けながら産業インフラ整備と農地開拓を推進し、内地徴用を含む雇用創出で総失業状態を解消、生活向上で韓国人口は倍増し、スラム街は近代都市へ生れ変り、100しか無かった小学校は6千近くへ増え朝鮮人の識字率は6%から一般国並へ躍進、西洋列強の収奪モデルとは異なる対等な植民地経営で同化政策を推進した。が、第二次大戦に敗れた日本軍は米軍に執政権を明渡し退去、ソ連軍が殺到して朝鮮国土は南北に分断され、米対中ソの朝鮮戦争で未曾有の戦禍を蒙った。
- 次期海相候補の松本和中将をはじめ海軍ぐるみの大疑獄「シーメンス事件」が発覚した。山本権兵衛首相は無関与だったが薩長藩閥打倒を求める世論は沸騰し内閣は総辞職に追込まれ、井上馨ら薩長元老は民権派を宥めるため大隈重信を後継首相に担ぎ出した。「山本の副官」といわれた海相の斎藤実は事件への関与を疑われ、検事として取調べにあたった平沼騏一郎は斎藤没後に刊行した著書の中で「斎藤が首犯の松本和から10万円を受取った旨の調書が存在した」と明かしている。山本権兵衛は斎藤実と共に予備役に退き、9年後に第二次内閣を組閣するもシーメンス事件のために終生元帥になれなかった。
- 第一次世界大戦に伴う西欧諸国の財政難と軍縮機運の高まりを受け(日米は特需を享受)、1921年米英日仏伊の五大国が「ワシントン海軍軍縮条約」を締結、建艦競争抑止のため主力艦(戦艦・空母)の比率を米英5:日本3に定めたほか、日本の山東半島権益の返還などが決められた。台頭著しい日本海軍に警戒を強めるアメリカは、イギリスを抱込んで日英同盟を廃棄させ軍縮条約で軍拡抑制を図った。高橋是清内閣は日本全権として加藤友三郎海相・幣原喜重郎(国際協調派外交官)・徳川家達(公爵徳川宗家当主)を派遣した。露骨な日本封じに海軍内部の反発は強かったが、加藤友三郎は「八八艦隊」軍拡計画の主導者ながらアメリカと競う愚を悟って軍縮へ舵を切り「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・日本と戦争の起る可能性のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に、結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」と喝破し条約調印を断行した。
- 加藤友三郎は頭脳明晰で海軍兵学校を2番・海軍大学校を主席で卒業、広島藩出身ながら山本権兵衛の引立てで累進し山本・東郷平八郎と共に「日本海軍の三祖」に数えられた。加藤友三郎はスマートな海軍エリートの典型だが、少年期は「ひいかち(癇癪持ち)の友公」と渾名され、赤鞘の長刀を腰に差し腹が立つと「打った切るぞ」と子供達を追い回したという。また、兵学校同期の島村速雄(主席卒業)と共に「酒豪の双璧」と称された(加藤の死因は大腸ガンだが酒が命を縮めたといわれ、島村も同年に病没)。さて艦隊勤務に就いた加藤友三郎は、日清戦争で巡洋艦「吉野」の砲術長を務め、日露戦争には第2艦隊参謀長で出征し旅順口閉塞作戦失敗で引責辞任した島村速雄に代わり連合艦隊参謀長となった。ただ、実際の軍令(作戦)は東郷平八郎司令官と秋山真之参謀の間で決められ、蚊帳の外に置かれた加藤友三郎は秋山を嫌ったという。とはいえ優秀な加藤友三郎は軍令部軍務局長・海軍次官に進み山本権兵衛の「八八艦隊」軍拡計画を推進、シーメンス事件で先輩層が失脚すると海相に特進して8年間在任し、第一次世界大戦後の軍縮機運のなかアメリカと国力を競う愚を悟り首席全権としてワシントン海軍軍縮条約を成立させた。原敬・高橋是清の政友会内閣が倒壊すると加藤友三郎内閣が発足、表向き貴族院を基盤としながら憲政会・加藤高明の組閣を恐れる政友会が実質与党となったため「変態内閣」、またヒョロナガイ加藤の風貌から「蝋燭内閣」とも揶揄された。加藤友三郎首相はワシントンで各国に約束したシベリア撤兵を断行し陸軍の「山梨軍縮」を導出したが僅か2年で急逝、大御所の山本権兵衛が政界復帰し第二次内閣を組閣した。加藤友三郎の死の7年後、ロンドン海軍軍縮条約に際し統帥権干犯問題が起り東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(反米軍拡派)が主導権を掌握し日本を対米開戦へと導いた。山本権兵衛は沈黙を貫いたが、9歳年下の加藤友三郎が存命ならと惜しまずにいられない。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 濱口雄幸首相銃撃事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの背景には、軍部における下克上の風潮に加え、世界恐慌後長引く不況と金解禁等政府の失策に対する民衆の憤りがあった。デフレ不況で農村の窮迫が深刻の度合いを深める中、政府は有効な手立てを講じることができず、濱口雄幸内閣に至っては時機を謝った金解禁で不況を悪化させたうえに財閥に巨富をもたらす結果を招いた。何時の時代でも不況の打開策で最も手っ取り早いのは戦争であり、ジャーナリズムの扇動もあって、世論は好戦ムード一色となり軍部への期待が高まった。兵卒の大多数は農村出身者であり、彼らの悩みに直に接する隊付青年将校達は最も敏感に反応し井上日召・北一輝・西田貢ら民間右翼の思想に共鳴、グループを結成して急進的な「国家改造」を企てた。方や陸軍上層部では、下克上で実権を掌握した中堅幕僚グループ・一夕会が、永田鉄山率いる統制派と真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎らの皇道派に別れて対立を深めていた。隊付青年将校グループは、思想信条が近い皇道派と結びつき、武力クーデターによって「君側の奸」を排除し真崎・荒木を首班とする軍部主導内閣を打ち立てて一気に「国家改造」を果たそうとした。こうした事情のもとに行われた隊付青年将校グループと民間右翼によるテロは、金解禁を実施した濱口雄幸と井上準之助、金解禁で儲けた三井の団琢磨を殺害した後、犬養毅を斃して政党政治を葬り、二・二六事件でピークに達した。二・二六事件は、統制派の林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長により陸軍中枢から追われつつあった皇道派の起死回生の反撃という意味合いもあり、1500人もの反乱軍による一大内乱事件に発展した。結局、二・二六事件は昭和天皇の英断により断固鎮圧され、陸軍中央では皇道派幕僚が完全に閉め出され、一夕会・非皇道派の石原莞爾、続いて武藤章・東條英機ら統制派の天下となった。
- 金融恐慌により一層の軍縮要請が高まった列強各国は、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。ワシントン海軍軍縮条約で決定した主力艦(戦艦・空母)の保有制限に加え、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)や潜水艦の縮小均衡が決議された。日本の軍縮外交をリードしたのは濱口雄幸内閣で国際協調(幣原外交)を推進する幣原喜重郎外相で、首席全権の若槻禮次郞と主席海軍代表の財部彪海相が表に立った。日本は、補助艦は対米英7割・潜水艦は現状7万8千トンの確保を方針に交渉に臨んだが、やや妥協して重巡洋艦は対米英6割・但し補助艦全体の総トン数は対米英69.75%で合意に漕ぎ着け調印した。なお、海軍きっての知米派で後に条約派(良識派)の中心となる山本五十六は次席随員を務めたが、このときは対米妥協に猛反対し若槻禮次郞をてこずらせた。このため山本五十六は海軍内で艦隊派と目され、この後に起る粛清人事を免れた。さて国内では、ロンドン海軍軍縮条約の批准に際し、東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ出した軍令部の加藤寛治総長・末次信正次長ら海軍強硬派(艦隊派)と、民政党内閣打倒を目指す政友会の犬養毅・鳩山一郎らが結託し、海軍軍令部の意に反する条約は天皇の統帥権を侵すとして、濱口雄幸首相・幣原喜重郎外相と海軍省の良識派幕僚(条約派)を攻撃した(統帥権干犯問題)。うやむやのうちに条約は批准され、喧嘩両成敗で財部彪・加藤寛治はじめ両派の首脳が辞任に追込まれたが、東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握り、国際情勢に明るい良識派の多くが要職を追われ海軍が対米強硬へ傾く転換点となった。この後「統帥権」は軍部大臣現役武官制と並ぶ軍部専横の切札となったが、もともと右翼の北一輝(二・二六事件の黒幕)が唱えた理屈を鳩山一郎らが政争の具に持出したもので、政党が軍部に「魔法の杖」を与える皮肉な結果を招いた。米内光政・井上成美・山本五十六ら良識派は頑強に抵抗したが艦隊派の優勢は揺るがず、6年後に広田弘毅内閣はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の廃棄を断行した。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 海軍青年将校が起した五・一五事件の収拾を図るべくテロに斃れた犬養毅に代わり海軍良識派の斎藤実が74歳にして組閣した。首相候補には平沼騏一郎と山本権兵衛の名も挙がったが、右翼の平沼は昭和天皇の「ファッショに近いものは不可」との意思により外され、山本は80歳の高齢であることと東郷平八郎元帥ら海軍艦隊派の反対により三度目の組閣を阻まれた。高まる軍部の専横を抑えるため、民政党と政友会からも閣僚を迎え入れた「挙国一致内閣」であった。なお斎藤実内閣の発足に伴い、長州閥打倒を掲げる永田鉄山ら「一夕会」が結党以来擁立に動いてきた荒木貞夫が陸相・真崎甚三郎が参謀次長(参謀総長は飾雛の閑院宮載仁親王)・林銑十郎が教育総監に就任し陸軍三長官の揃い踏みとなった。
- 斎藤実は仙台藩水沢の出身、元藩士の父は没落し「賊軍」故に前途は暗かったが、胆沢県大参事の安場保和の書生に選ばれ運を掴んだ。旧東北諸藩では、中央から派遣された役人が優秀な師弟を選別し中央へ進学させる救済ルートがあった。一歳年長で近所のガキ大将だった後藤新平も一緒に書生となり、後に安場保和の女婿となっている。官費で勉強できる軍人を志した斎藤実は水沢県東京出張所に給仕の職を得て上京、陸軍幼年学校に21番で合格するも官費生20人枠に入れず、半年後に海軍兵学寮予科を受験し官費生合格を果したが、直後に陸幼から官費生欠員に伴う繰上げ合格の通知が到来、後の山本権兵衛の改革まで海軍は陸軍の一部であり陸軍が断然有望だったが斎藤少年は海軍を選択した。斎藤実は海軍兵学校を3番で卒業するも出世コースに乗れず、7年間の艦隊勤務を経て公使館付武官兼務でアメリカ留学へ出された。が、通訳兼ガイドの精勤ぶりが西郷従道・山本権兵衛らの目に留まり参謀に栄転、「高千穂」勤務で山本艦長の子分となり、仁礼景範海相の娘婿の座を射止めて薩摩海軍閥に連なり異例の昇進が始まった、山本権兵衛の海相就任に伴い斎藤実は海軍次官に抜擢され7年在勤、山本から海相を譲られ8年以上も座を占めた。「山本権兵衛の副官」に徹した斎藤実には軍政面でも日清・日露戦争でも目立つ業績が無く、何度もポストを後任に譲ろうとしたが山本は忠実で野心の無い斎藤を使い続けた。海軍の大疑獄「シーメンス事件」で斎藤実海相は山本権兵衛首相と共に予備役編入へ追込まれたが、5年後に海軍大将に返咲き朝鮮総督に就任、12年後に辞任し隠居生活に入った。が翌年、海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため74歳の斎藤実が犬養毅の後継首相に選ばれた。満州事変以後の中国問題解決を期待されたが、海軍良識派ながら政治経験に乏しい斎藤実首相は為す術無く陸軍の満州国建国と松岡洋右の国際連盟脱退を承認、陸軍と右翼の僚平沼騏一郎が仕掛けた「帝人事件」スキャンダルで退陣に追込まれた。斎藤実は自派の岡田啓介に首相を譲り内大臣に就任したが、間もなく二・二六事件が起り自邸で虐殺された。
- 岡田啓介は海軍兵学校15期へ進んだが素行不良で成績も中位、山本権兵衛に目を掛けられた同期主席の財部彪(山本の女婿)や17期の秋山真之に大きく水を空けられた。艦隊勤務から横須賀海兵団の軍楽隊に左遷された岡田啓介は腐って昼寝ばかりしていたが、欠員補充で東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」の砲術士官に回され「高陞号撃沈事件」に遭遇し日清戦争に出征、日露戦争では重巡洋艦「春日」の副長として日本海海戦を戦い、第一次大戦では第二水雷戦隊司令官として青島攻略戦に参加した。岡田啓介は叩き上げの「水雷屋」で政治とは無縁だったが、シーメンス事件で海軍上層部が失脚したため海軍省に呼ばれ人事局長に就任、艦政本部長から財部彪海軍大臣の次官へ上り司令長官ポストを経て田中義一内閣で海相に栄達した。ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると、無派閥の岡田啓介は条約派(国際協調)と艦隊派(反英米軍拡)の調整に奔走したが、海相に復した条約派のエース財部彪は予備役に追込まれ東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握った。海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため条約派の斎藤実が組閣すると岡田啓介は調整役を期待され海相に復帰、陸軍と右翼の攻撃(帝人事件)で斎藤内閣が倒れると岡田に組閣の大命が下された。満州事変後の軍拡景気で日本は逸早く世界恐慌を脱し、天皇機関説問題や国体明徴運動の扇動で国民が軍国主義に染まるなか、岡田啓介首相は母体である海軍の艦隊派にも突上げられ防戦一方、二・二六事件で一命を拾うも思考停止に陥り政権を投出した。広田弘毅・近衛文麿内閣が軍部に追従し傷口を拡げるなか、岡田啓介は重臣会議に列し米内光政・鈴木貫太郎ら海軍良識派を後援したが伏見宮博恭王ら艦隊派の優位は動かせなかった。対米開戦の大詰めで東郷茂徳外相からの海軍内強硬派の説得要請を黙殺した岡田啓介であったが、敗戦必至の状況に陥ると米内光政・鈴木貫太郎と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣の終戦工作をサポート、サンフランシスコ平和条約の発効・GHQ解散を見届け世を去った。
- 海兵(14期)・海大へ進むもエリートから外れた鈴木貫太郎は、日露戦争で「水雷屋」として頭角を現し、海軍重鎮から天皇側近となり首相へ上り詰めた。同年生れの岡田啓介(海兵15期)とよく似たキャリアで、共に草創期の帝国海軍に身を投じ幕引き役を果した。「海軍の父」山本権兵衛は陸軍の長州閥ほど派閥に拘らず海兵卒の秀才を多く登用したが枢要は自派閥(薩摩閥)で固めた。特に徳川譜代藩出身者は希で海兵同期では鈴木貫太郎(関宿藩)のみ、成績凡庸で山本権兵衛の引きもなく艦隊勤務や教育畑を歩み、一期下の財部彪(山本の娘婿)に中佐進級で先を越されたとき退官を決意したが父の手紙で思い留まった。とはいえ反骨心旺盛な鈴木貫太郎は水雷の技量を磨き日清戦争に従軍、日露戦争では主力戦艦「春日」の副長として旅順閉塞作戦や黄海海戦に活躍し、戦中に第五駆逐隊司令に抜擢され旗艦「不知火」から4隻を指揮し日本海海戦で奮闘、猛烈な指揮ぶりは「鬼貫」と畏怖された。日露戦争の前、速力半減に代えて航続距離を伸ばした「マカロフ式魚雷」が開発され、海軍軍令部は総入替えを検討したが、一軍事課員ながら実戦感覚に優れた鈴木貫太郎は猛反対して山本権兵衛海相に談じ込み、半分は従来型を残すこととなった。果して日本海海戦、マカロフ式魚雷の遠隔攻撃はほとんど役に立たなかったが、鈴木貫太郎の第五駆逐隊は敵艦に肉薄して高速魚雷を打込み3隻撃沈の大戦果、鈴木の評価は一気に高まり「実戦の雄」と讃えられた。この他にも鈴木貫太郎は実戦の見地からしばしば秋山真之(海兵17期)参謀らに意見し、多くは的確だった。日露戦争で武名を馳せた鈴木貫太郎は海軍水雷学校長に就き、第二艦隊・舞鶴水雷司令官を経て山本権兵衛首相・斎藤実海相のもと海軍中央へ栄進(海軍省人事局長)、シーメンス事件で海軍上層部が失脚すると海軍次官に昇進し、海相と並ぶ海軍最高位の連合艦隊司令長官・軍令部長に栄達した。60歳を過ぎた鈴木貫太郎は満州事変を前に予備役へ退き侍従長兼枢密顧問官へ転出、天皇側近に加わり岡田啓介・米内光政(29期)と共に専横を強める陸海軍に対抗した。
- 盛岡出身の米内光政は、苦学して海兵(29期)・海大へ進んだが成績は中程でエリートコースには乗れず、艦隊勤務から叩き上げた。海軍人の首相では岡田啓介・鈴木貫太郎と同型で、山本権兵衛・加藤友三郎・斎藤実の本流とは異なる。米内光政は、ロシア(ソ連)・ドイツ・ポーランド駐在を通じて国際協調派(条約派・良識派)の論客に台頭し、統帥権干犯問題で艦隊派が優勢になると鎮海司令官に「島流し」されたが読書三昧で学識を高め、斎藤実内閣・岡田啓介海相の派閥調整人事で第三艦隊司令長官に栄転、佐世保・第二艦隊・横須賀・連合艦隊の司令長官を経て林銑十郎内閣で海相に栄達した。この間、米内光政は後輩の山本五十六(海兵32期)・井上成美(第37期)と良識派トリオを組み対米英協調を説いたが、伏見宮博恭王元帥を担ぐ艦隊派は一層勢力を増し海軍軍縮条約を撤廃し建艦競争を再開した。ただ、中国には強硬な米内光政海相は近衛文麿首相・広田弘毅外相と共に「断固膺懲」を唱え日中戦争泥沼化に加担している。さて、ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の誘いが来ると、海軍艦隊派の岡敬純(海兵39期)ら反米英派は陸軍に同調し強硬に同盟締結を主張、対する米内光政海相は「五相会議」で討議を尽くし「日独伊の海軍力では米英に勝ち目は無い」と断言したが、モノグサの性分が出たか吉田善吾に海相を譲り予備役へ退いてしまった。が、第二次大戦が勃発し、複雑な三国同盟を棚上げした阿部信行内閣は米価高騰に躓き退陣、海外通の米内光政に組閣の大命が降った。米内光政首相は同盟阻止を貫いたが、海軍内でも突上げられ四面楚歌、陸軍は畑俊六陸相の辞任と後継指名拒否で米内内閣を倒した。次の第二次近衛文麿内閣で三国同盟は成立したが米内光政は山本五十六と共に対米妥協に奔走、開戦後は早期講和を唱え続け岡田啓介・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣と結束して東條英機内閣を打倒、次の小磯國昭から海軍消滅まで海相を担い終戦工作に尽力し、戦後3年で世を去った。ただ、「海軍善玉論」の立役者となった米内光政だが、鈴木貫太郎首相にポツダム宣言の「黙殺」を進言し原爆投下・ソ連侵攻の口実を与える失策を犯している。
- 山本五十六は、越後長岡から上京して海兵(32期)・海大へ進み、「アメリカ通」および「航空主兵論」で頭角を現した。海大を優等で卒業した山本五十六は、2年間米国ハーバード大学に学び、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭を経て駐米大使館付武官に2年間在任、ロンドン海軍軍縮会議で次席随員を務め対米妥協に猛反対した。反米軍拡派(艦隊派)と目された山本五十六は統帥権干犯問題後の粛清を免れ、条約で押付けられた艦隊の劣勢比率を挽回すべく航空兵力の増強を提唱、志願して海軍航空本部に入り、海軍が石川信吾らの大鑑巨砲主義に染まるなか粛々と航空母艦・航空機の整備を進めた。米国の圧倒的な生産力を知る山本五十六は対米協調へ転じ米内光政(海兵29期)・井上成美(37期)と良識派トリオを組み艦隊派に対抗、米国を正面敵化する日独伊三国同盟に猛反対したが、米内内閣は陸軍の陸相拒否で倒され、伏見宮博恭王元帥を担ぎ海軍を掌握した岡敬純・石川信吾ら艦隊派は陸軍・松岡洋右に同調し第二次近衛文麿内閣で三国同盟を成立させた。芝居気が強くズケズケものを言う山本五十六は新聞記者の人気を博し度々マスコミに登場、米内光政は「茶目」と評したが、過激派には憎まれ暗殺予告文書を送りつけられた。テロの標的にされた山本五十六は艦隊勤務に出され、米内光政から海相を継いだ吉田善吾(32期)は艦隊派の突上げで退任、ナアナアの及川古志郎(31期)・嶋田繁太郎(32期)・永野修身(28期)らは南部仏印進駐・対米開戦へと引きずられた。連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は「勝っても負けても早期講和」の決意のもと自ら育てた航空兵力で真珠湾攻撃を敢行し「大博打」に勝利したが、快勝に浮かれた山本の連合艦隊司令部は「痛撃後の早期講和」を忘却し杜撰な作戦計画でミッドウェー海戦を強行、予想外の大敗で主要空母を失い緒戦の勝利は帳消しとなった。真珠湾攻撃に瞠目した米軍は航空兵力の大増産に乗出し続々と前線に投入、守勢に転じた日本軍が太平洋の制海権を削られるなか、茫然自失の山本五十六は為す術無く日を送り、前線視察に出た搭乗機を狙い撃ちされ非業の死を遂げた。
- ロンドン海軍軍縮会議から帰国した山本五十六は、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言して航空兵力の重要性を説き、自ら海軍航空本部技術部長に就任、以後一貫して海軍における空軍力拡充を主導し、5年後には海軍航空本部長に昇った。山本五十六は、このときから10年前の海軍大学校教官在任中、教頭の職にあった山本英輔の影響で航空主兵論に目覚め、長期のアメリカ滞在を通じてその確信を深めていた。当時の海軍はパナマ運河開通を受けて石川信吾らが主導した大鑑巨砲主義に偏り、傍流の航空本部は巨大戦艦製造の予算を奪う形で苦労しながら航空母艦と航空機の整備を進めた。航空本部では、大西瀧治郎・源田実ら幕僚が山本五十六をよくサポートした。果して太平洋戦争が勃発し、連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は、手塩に掛けた航空兵力と画期的な航空機爆撃によって真珠湾攻撃で快勝を収め航空主兵論の正しさを実証した。一方、大鑑巨砲主義の象徴である戦艦大和は、大戦直前に就役したものの使い道が無く、「大和ホテル」と嘲笑された挙句、大戦末期にようやく沖縄戦の特攻作戦に投入されたが、移動中に敵爆撃機の的にされあえなく撃沈した。真珠湾攻撃やシンガポール攻略戦で日本軍の航空兵力の威力を目の当たりにしたアメリカ軍は、すぐさま航空機と航空母艦の大増産に乗出して続々と戦線に投入した。アメリカの物量作戦により瞬く間に彼我の航空兵力は逆転し、太平洋戦争の勝敗を分ける決め手となった。
- 皇族軍人の伏見宮博恭王は、1932年の満州事変直後から1941年の対米開戦に至る最重要期に10年も軍令部総長の座を占めた海軍暴走のキーパーソンである。伏見宮愛親王の庶子ながら華頂宮を相続した伏見宮博恭王は、皇族男子の慣例に従い軍部へ進み、ドイツ海軍大学校留学を経て海軍将校となった。宮様として名誉職を歴任した伏見宮博恭王は飾雛で終わるべきだったが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると軍拡反米英の「艦隊派」に加担、「海軍の父」山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで一躍実力を伴う軍令部総長に擁され、東郷平八郎の死に伴い唯一の海軍元帥となった。統帥権干犯問題は喧嘩両成敗で決着し艦隊派首領の加藤寛治・末次信正が失脚したが、加藤から軍令部総長を継いだ伏見宮博恭王は天皇の名代として軍令部の権限強化を図り海軍人事を掌握、米英との軍事衝突回避を最優先する「条約派」を一掃し海軍のバランス機能を破壊した。伏見宮博恭王元帥のもと海軍主流となった岡敬純・石川信吾・大角岑生・南雲忠一ら艦隊派は、広田弘毅内閣で海軍軍縮条約廃棄を果し「大和」「武蔵」の巨大戦艦建造に邁進(大鑑巨砲主義)、米英に対抗すべく陸軍・松岡洋右が進めるナチス・ドイツとの同盟を支持した。アメリカを正面敵に回す愚を知る米内光政・山本五十六・井上成美の「良識派」トリオは劣勢ながら抵抗を続け、連合艦隊司令長官の山本は海軍首脳会議で最後の抵抗を試みたが、伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり海軍は日独伊三国同盟承認に決した。伏見宮博恭王は昭和天皇から海軍出師準備令を引出し、海軍中央は石川信吾ら「海軍国防政策委員会」の独壇場となり近衛文麿内閣に南部仏印進駐を迫り対米開戦へ導いた。開戦責任回避のため伏見宮博恭王は軍令部総長を退いたが最後まで影響力を保持し、終戦翌年に薨去した。サイパン陥落後の元帥会議で伏見宮博恭王は「何か特殊兵器(特攻の意)を使え」と指示、禁断の特攻作戦が現実プランに浮上し海軍軍令部はレイテ沖海戦に「神風特別攻撃隊」を投入、万余の若者が狂気の特攻隊に駆出されることとなった。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
東郷平八郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照