長州出身ゆえに後藤新平の引きで満鉄幹部に納まり軍部と大衆に迎合し強硬外交を扇動、独断で国際連盟脱退劇を演じ第二次近衛文麿内閣の外相として日独伊三国同盟・南部仏印進駐を主導した史上最悪の外政家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照松岡 洋右
1880年 〜 1946年
0点※
松岡洋右の寸評
松岡洋右の史実
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1880年
山口県熊毛郡室積村(現光市)で廻船問屋を営む松岡三十郎の四男に松岡洋右が出生
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1893年
家業が破産し13歳の松岡洋右が親戚を頼り渡米
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1894年
不平等条約改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
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1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1900年
北清事変
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1900年
松岡洋右がオレゴン大学法学部卒業
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、曾禰荒助蔵相の臨時兼任を経て小村寿太郎が外務大臣就任
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1902年
松岡洋右がアメリカ留学から帰国し明治法律学校入学
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
日露戦争開戦
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
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1904年
井上馨の依頼を受け高橋是清が日露戦費調達のため渡欧米
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1904年
第一次日韓協約締結
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1904年
松岡洋右が外交官試験に合格し上海領事館等勤務
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1905年
第二次日英同盟協約締結
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
桂太郎政府がアメリカと桂・タフト協定
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1905年
日比谷焼打事件
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、加藤高明が外務大臣就任(林薫と途中交代)
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1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
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1906年
南満州に関東都督府設置、松岡洋右も勤務
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1906年
松岡洋右が長州閥に連なる後藤新平満鉄総裁や山本条太郎(後に満鉄総裁)の知遇を得る
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1906年
対米関係悪化で行き詰まった加藤高明に代わって林薫が外相就任
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1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
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1907年
第一次日露協約締結
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、寺内正毅陸相の臨時兼任を経て小村寿太郎が外相就任、後藤新平が逓信大臣兼初代鉄道院総裁就任
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1908年
東洋拓殖会社設立
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1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
不平等条約改正で完全平等達成(関税自主権の完全回復)
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足、内田康哉が外務大臣就任
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、桂太郎が外相兼任(加藤高明と途中交代)
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1913年
加藤高明が駐英大使から外相へ転任
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1913年
桂太郎の立憲同志会発足、加藤高明が加盟
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足、牧野伸顕が外務大臣就任
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1913年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足、加藤高明が外務大臣就任(石井菊次郎と途中交代)
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
大浦兼武の選挙汚職事件により与党同志会の加藤高明外相・若槻禮次郞蔵相・大浦兼武内相が辞任
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1915年
石井菊次郎外相のもと幣原喜重郎が外務次官就任
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足、後藤新平が内務大臣就任(水野錬太郎に途中交代)
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1916年
松岡洋右が後藤新平内相の引きで首相秘書官兼外務書記官となる
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1916年
非政友会政党が合同し憲政会発足・同志会の加藤高明が総裁に就任
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1917年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1917年
石井・ランシング協定
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1918年
後藤新平がシベリア出兵推進のため内務大臣から外務大臣へ転任(後任内相は水野錬太郎)
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
朝鮮で三・一独立運動が起る
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)、随員の近衛文麿と松岡洋右が昵懇となる
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
松岡洋右が後藤新平の引きで中華民国総領事就任
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1921年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足
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1921年
松岡洋右が外務省を退官し後藤新平・山本条太郎の引きで満鉄理事となる
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1922年
ソビエト社会主義共和国連邦樹立、スターリンが最高指導者となる
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足、後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁就任
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足
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1924年
佐藤栄作が東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業、親戚の松岡洋右の引きで鉄道省に入省し門司鉄道局等勤務
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1924年
護憲三派による第二次護憲運動
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足、幣原喜重郎が外務大臣就任
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1925年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925年
高橋是清に代わって田中義一が政友会総裁就任
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1925年
普通選挙法制定
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1926年
加藤高明が首相在任中に死去(享年66)、与党憲政会を継いだ若槻禮次郞が加藤内閣を受継ぐ
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足、幣原喜重郎が外相就任
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
幣原喜重郎外相が英米からの中国派兵要請を拒否
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
片岡直温蔵相の失言により金融恐慌が発生
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1927年
蒋介石軍が南京の日英領事館襲撃(南京事件)、対中国不干渉方針の幣原喜重郎外相が「軟弱外交」の批判を浴びる
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1927年
蒋介石が南京国民政府を樹立、第一次国共合作崩壊
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足
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1927年
憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が発足
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1927年
高橋是清蔵相が金融恐慌を沈静化、高橋は蔵相を依願退職
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1927年
山本条太郎が満鉄総裁に就任し腹心の松岡洋右が副総裁に昇進
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1928年
後藤新平がソ連訪問、スターリンと会見し国賓待遇を受ける
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
吉田茂が岳父の牧野伸顕のツテで田中義一首相に対中強硬論(大陸派)を直訴し外務次官就任
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
後藤新平死去
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足、幣原喜重郎が外相就任
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1930年
金解禁(金本位制復帰)
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1930年
松岡洋右が満鉄副総裁を辞し山口2区から衆議院議員就任(~1933)、軍部と大衆に迎合し幣原外交を激しく批判
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1930年
濱口雄幸首相銃撃事件
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1931年
幣原喜重郎外相が116日間首相代理を務める
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足、幣原喜重郎が外相就任
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1931年
永田鉄山軍事課長ら「五課長会」が「満蒙問題解決方策の大綱」を決定し関東軍へ「1年間の隠忍自重方針」を通達
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1931年
中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件、陸軍首脳が武力解決を決意
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
石原莞爾ら満州事変首謀者が「満蒙問題解決案」を策定
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1931年
十月事件、若槻禮次郞首相・幣原喜重郎外相らがテロの標的となる
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
外相退任の幣原喜重郎が隠退し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」が終焉
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
軍拡反米英派(艦隊派)首領の伏見宮博恭王が海軍軍令部長(総長へ改称)就任(~1941)
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会演説で強硬論を打ち大衆人気を博す
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
松岡洋右が衆議院議員を辞任し政党解消運動で全国遊説、大衆迎合で首相を狙うが挫折
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1933年
重光葵が外務次官就任
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
天皇機関説問題、国体明徴運動
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1935年
石原莞爾が参謀本部作戦課長就任、陸軍中枢の指導的地位に就く
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1935年
大衆扇動で首相を狙うも挫折した松岡洋右が満鉄に復帰し総裁就任(~1939)
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1935年
ナチス・ドイツが再軍備を宣言
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1936年
二・二六事件
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速
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1936年
「満州開拓移民推進計画」決定
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
西安事件
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場
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1937年
岸信介が満州国産業部次長に就任し(のち総務省次長)「産業開発五ヵ年計画」で統制経済を推進
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
日中戦争不拡大を説く石原莞爾が失脚し華北分離を主張する武藤章・田中新一ら統制派が陸軍中央を掌握
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1937年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
第二次国共合作成立
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1937年
イタリアが日独防共協定に参加
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1937年
鮎川義介が石原莞爾ら陸軍の要請に応じ満州重工業開発株式会社を設立し日産の重工業部門を満州へ移転
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1937年
近衛文麿内閣が統制経済推進のため企画院を開設
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1937年
大本営設置
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1937年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1938年
日本軍が武漢三鎮を占領するが蒋介石の国民政府は重慶へ退避
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
ドイツがオーストリアを併合
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足
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1939年
ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案を受ける
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1939年
武藤章が陸軍省軍務局長兼調査部長就任
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足
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1940年
日本が汪兆銘を擁立して南京に中華民国政府を樹立
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1940年
日本軍による重慶爆撃
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1940年
イタリアが英仏に宣戦布告
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1940年
ナチス・ドイツ軍がパリを占領しフランス降伏
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
松岡洋右外相が外務省の粛清人事を強行(重光葵駐英大使は免れる)
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1940年
松岡洋右外相が松岡・アンリ協定を締結(親独の仏ビシー政権が仏印における日本の優越的地位を承認)
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1940年
アメリカが対日屑鉄輸出を全面禁止、ABCD包囲網による経済封鎖が本格化
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1940年
「バトル・オブ・ブリテン」でイギリスがナチス・ドイツの本土上陸作戦を阻止
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
陸軍統制派で最強硬の田中新一が参謀本部第1部長に就任、対米妥協論の武藤章軍務局長と対立
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
海軍の出師準備発令
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1940年
岡敬純・石川信吾ら対米強硬派が海軍を完全掌握し海軍国防政策委員会を設置
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1941年
アメリカがレンドリース法を成立させ連合国へ大規模軍事支援開始
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1941年
軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争を松岡洋右外相が沈静化
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1941年
松岡洋右外相がナチス・ドイツのヒトラーを表敬訪問、シンガポール攻撃を吹込まれる
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉が松岡洋右外相の妨害により停止
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
独ソ戦勃発に動揺した松岡洋右外相が突如北進政策へ転じ対ソ開戦を主張
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、松岡洋右外相を放逐
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1941年
関東軍特種演習~対ソ連開戦に備えた関東軍増強
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが在米日本資産を凍結し英蘭らも追随
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
ナチス・ドイツ軍がモスクワ攻略に失敗し後退が始まる
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1942年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942年
日本軍がインドネシア全域を占領し石油供給源を獲得(シーレーン断絶で宝の持ち腐れとなる)
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1942年
東條英機首相が武藤章軍務局長を近衛師団長に左遷しフィリピン方面軍に送る
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1942年
ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
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1942年
東條英機首相が田中新一参謀本部第1部長をビルマ方面軍に左遷
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1943年
スターリングラード攻防戦でソ連軍がドイツ軍を撃退
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1943年
日本軍がソロモン沖海戦で敗北しガダルカナル島撤退
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1943年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1943年
東條英機首相・重光葵外相が東京で大東亜会議を開催
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1943年
米英中が「カイロ宣言」発表
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1944年
東條英機の意を受けた牟田口廉也が無用無謀のインパール作戦を強行
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1944年
マリアナ沖海戦敗北・サイパン島陥落で日本の敗戦が決定的となる
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1944年
伏見宮博恭王の示唆により軍令部で特攻作戦の計画が具体化
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1944年
小磯國昭内閣(陸軍)発足
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1944年
レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅し南方補給路が断絶(伏見宮博恭王元帥の示唆で「特攻作戦」始動)
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1945年
米英ソがヤルタ会談(ソ連の対日参戦を秘密合意)
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1945年
陸海軍統帥部が「本土決戦完遂基本要綱」を決定
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1945年
東京大空襲はじめ米軍の空爆で全国主要都市が焼け野原と化す
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1945年
硫黄島陥落で日本軍は本土制空権も完全喪失
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1945年
沖縄戦が始まる
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1945年
ソ連が日ソ中立条約廃棄を通告
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1945年
吉田茂が近衛上奏文事件で憲兵隊に2ヶ月間拘置され反軍部の「勲章」獲得
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1945年
鈴木貫太郎内閣(海軍)発足
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1945年
ドイツが連合国に降伏
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1945年
鈴木貫太郎政府がソ連を仲介とする日米和解工作に動く
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1945年
連合国がポツダム宣言発表
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1945年
トルーマン米大統領が広島に原子爆弾投下
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1945年
ソ連が日ソ中立条約を破り満州・樺太・朝鮮へ侵攻
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1945年
トルーマン米大統領が長崎に原子爆弾投下
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1945年
日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告
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1945年
玉音放送
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1945年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足
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1945年
マッカーサー連合軍最高司令官が着任し連合軍進駐開始
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1945年
日本代表の重光葵外相が降伏文書に調印し第二次世界大戦終結、ソ連は満州侵略を止めず北朝鮮まで制圧
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1945年
GHQが東條英機を逮捕し戦犯狩り始動、松岡洋右もA級戦犯容疑で巣鴨拘置所入獄
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1945年
GHQが自主路線の重光葵外相を更迭し超従米路線の吉田茂に外相交代
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1945年
連合軍総司令部(GHQ)による間接統治開始(~1952)
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1945年
幣原喜重郎内閣(外務官僚・従米路線)発足
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1946年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
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1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開始(~1948)
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1946年
第一次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足
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1946年
死刑を確実視される松岡洋右が東京裁判公判中に東大病院で病没(享年66)
松岡洋右の交遊録
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近衛文麿
亡国仲間
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広田弘毅
同志
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大島浩
同志
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白鳥敏夫
同志
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末次信正
同志
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久原房之助
同志
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徳富蘇峰
同志
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中野正剛
同志
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後藤新平
出世の恩人
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山本条太郎
満鉄仲間
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伊藤博文
敬愛する郷土の英雄
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桂太郎
同郷の同志
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小村寿太郎
対外硬仲間
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寺内正毅
同郷の同志
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田中義一
同郷の同志
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東條英機
亡国仲間・「弐キ参スケ」仲間
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石原莞爾
よくやった
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板垣征四郎
よくやった
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林銑十郎
よくやった
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武藤章
同志
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田中新一
同志
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伏見宮博恭王
同志
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岡敬純
同志
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豊田貞次郎
同志
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米内光政
政敵
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山本五十六
政敵
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井上成美
政敵
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野村吉三郎
政敵
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吉田善吾
気の毒な政敵
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及川古志郎
なあなあ同志
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加藤高明
同志
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濱口雄幸
軟弱外交
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若槻禮次郞
軟弱外交
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幣原喜重郎
軟弱外交
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重光葵
軟弱外交
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石井菊次郎
外交仲間
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林薫
外交仲間
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内田康哉
外交仲間
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有田八郎
外交仲間
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吉田茂
外交仲間
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東郷茂徳
逆らうな
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芦田均
外交仲間
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牧野伸顕
政敵
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西園寺公望
政党仲間
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尾崎行雄
政党仲間
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犬養毅
政党仲間
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原敬
政党仲間
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高橋是清
政党仲間
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鳩山一郎
政党仲間
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鮎川義介
遠い親戚・「弐キ参スケ」仲間
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岸信介
遠縁の「弐キ参スケ」仲間
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佐藤栄作
遠い親戚
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星野直樹
「弐キ参スケ」仲間
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河辺貞吉
信仰の父
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スターリン
騙された
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ヒトラー
翻弄された
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リッペントロップ
翻弄された
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チャーチル
八紘一宇で対抗
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マッカーサー
殺された
松岡洋右と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 20点
松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
減点 -20点
近衛文麿首相・松岡洋右外相のコンビが躍動した第二次近衛内閣は、ポピュリズムが国を誤まらせる典型例であった。五摂家筆頭の近衛文麿には欧米秩序への反発があるだけで出世や栄達の野心は感じられないが、野心剥き出しの松岡洋右は軍部と大衆のウケをとっては有頂天となった。松岡洋右の外交に大局は無く「漁夫の利」狙いに終始、第二次大戦当初優勢だったナチス・ドイツと同盟し火事場泥棒の如き南進政策で英仏蘭のアジア植民地を掠め取ろうと図ったが、大英帝国の早期崩壊・ソ連敗退・アメリカ不参戦・日独伊ソ連携などの希望的観測は悉く裏目に出て、日本は最悪の対米単独開戦へ引込まれた。また松岡洋右は日ソ中立条約を締結し南進政策を強めたが、日本敗戦の土壇場でソ連は条約を反故にし関東軍が去った満州を蹂躙した。悲惨な目に遭わされた満州居留民は気の毒であったが、ソ連を手玉にとったつもりの松岡洋右は独ソ戦開戦に伴い対ソ侵攻を主張しており、松岡個人の不信義は魔王スターリンと五十歩百歩であった。日ソ中立条約に際しチャーチル英首相は論理的に軽挙妄動を諌めたが、松岡洋右は「八紘一宇の大目的実現のためにやっているのだから構うな」と日本固有の皇国史観で反駁している。こんな人物を外相に就けた近衛文麿首相と軍首脳の責任は極めて重いが、それにしても松岡洋右外相は憲政史上最悪の人選であった。