徳川慶喜から京都守護職を押付けられ討幕派の目の敵にされた挙句に見捨てられ孤立、自己保身のため大義なき戦いを強行し会津人と東国諸藩を巻き添えにした「賊軍の将」
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松平 容保
1836年 〜 1893年
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松平容保と関連人物のエピソード
- 松平容保は、徳川慶喜から京都守護職を押付けられ討幕派の目の敵にされた挙句に見捨てられ孤立、自己保身のため大義なき戦いを強行し会津人と東国諸藩を巻き添えにした「賊軍の将」である。美濃高須藩主の六男に生れた松平容保は、松平容敬の婿養子に入り会津藩主を承継、島津久光の文久の改革で幕政を握った徳川慶喜・松平春嶽から「藩祖保科正之の遺訓」を持出され彦根藩の代わりに京都守護職を引受けた。生来病弱で神経質な松平容保はしばしば病臥しつつ、実弟の伊勢桑名藩主松平定敬を京都所司代に任じ、会津の藩財政を犠牲にして「一会桑政権」を支え、新撰組・見廻組を駆使して志士狩りに励み孝明天皇から信頼された。辞官納地を拒否した徳川慶喜が大阪城へ退くと、会津・桑名藩士は激発し鳥羽伏見の戦いを起したが官軍の洋式軍備と「錦旗」の前に完敗、徳川慶喜は松平容保・定敬を連れて大阪城を脱出し江戸へ逃避した。絶対恭順へ転じた徳川慶喜は上野寛永寺に謹慎し火種の松平容保・定敬と小栗忠順ら抗戦派幕閣を追放、甲州戦線に追い遣られた新撰組残党(甲陽鎮撫隊)は板垣退助の官軍に撃破され投降した近藤勇は斬首された。会津へ逃れた松平容保は、養子の松平喜徳(徳川慶喜の実弟)に藩主を譲り謹慎・恭順して赦免を請うたが赦されず、「江戸市中取締」で追討対象とされた庄内藩と提携し中央情勢に疎い東北諸藩を巻込んで同盟を結成、薩長が赦免を拒否すると軍事同盟へ発展し(奥羽越列藩同盟)会津若松城には幕府残党が参集した。守るべき幕府も将軍も無いのに松平容保は朝敵の汚名を雪ぐべく西郷頼母ら恭順派を退け徹底抗戦を強行、領民が挙って官軍に協力し白虎隊の悲劇も起るなか会津藩士は女子供に至るまで奮闘したが、板垣退助の官軍に攻囲され降伏した。死罪を免れた松平容保は江戸に蟄居し、会津藩は改易されたが松平容大が陸奥斗南藩3万石の立藩を赦され子爵に叙された。旧会津藩士は不毛の下北半島で辛酸を舐め、東北人は「賊軍」として差別されたが、日光東照宮の宮司職を与えられた松平容保は平穏な余生を送り孝明天皇の宸翰と御製を後生大事に首にかけ59歳まで生延びた。
- 京都守護職の負担は重く、幕府から役料5万石と3万両を支給されたが全然間に合わず、会津藩の財政は急激に悪化した。新撰組の超法規的な警察活動や素行不良もあって会津藩は尊攘派と京都市民から忌み嫌われ、割に合わないことは明白なので国元の重臣らは松平容保に辞任と帰国を促した。松平容保を引きずり込んだ徳川慶喜は将軍後見職・松平春嶽は政治総裁職を手前勝手に辞任し、松平容保も何度か辞任を試みたが逡巡する間に機を逃し、慶喜が禁裏御守衛総督となり一会桑政権を樹立するとなし崩し的に京都守護職に留まった。外国人恐怖症ながら過激な攘夷行動を嫌う孝明天皇は八月十八日政変で長州藩追放に一役買った松平容保に感謝し宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜、容保は小さな竹筒に入れて首にかけ死ぬまで手放さなかったというから勤皇精神が京都滞留の真意だったかも知れない。会津藩では京都滞留を強行した松平容保・側近と開明派が熾烈な主導権争いを演じたが、粛清を恐れる側近が強硬に容保の帰国を阻み京都に引留めたともいわれ、大政奉還後に容保が徳川慶喜に従い大坂へ退去した際には開明派の神保修理が軟弱と詰問され切腹に追込まれている。
- 井伊直弼は、「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で落命した。彦根藩主の子ながら十四男の井伊直弼は、自己研鑽に励んで養子の口を求めたが果たせず、生涯を不遇で終わる覚悟を決め三の丸尾末町の居宅を「埋木舎」(現存)と自嘲した。無聊な部屋住み生活のなか、学問・武芸はもちろん禅・書・絵・歌・茶道・能楽などあらゆる芸事に手を染め、得意の居合道では一派を開き、狂言制作や能面作りにも精通、茶道の「一期一会」を広めたのは井伊直弼といわれる。学問・思想的には国学に傾注し町学者の長野主膳を師と仰いだ。35歳まで不遇を託った井伊直弼だが、藩主の長兄と世子の次兄が相次いで無嗣没する幸運に恵まれ彦根藩主に就任、門外漢の長野主膳を謀臣に抜擢し幕府政治に乗込んだ。彦根藩では藩政改革を進めつつ堅実な善政を敷き名君と讃えられたいう。徳川慶喜から「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評された井伊直弼は、才略は長野主膳で補い忽ち譜代大名・守旧派の領袖へ台頭、徳川家定の将軍継嗣問題が起ると紀州藩主徳川家茂を担いで南紀派を形成し、徳川斉昭・「四賢候」の一橋派と対立した(なお佐賀藩主鍋島直正と会津藩主松平容保は南紀派)。老中阿部正弘の急死で幕閣の理解者を喪った一橋派は、老中首座堀田正睦の条約勅許失敗で攻勢を強め、松平春嶽・島津斉彬と謀臣の橋本左内・西郷隆盛の奔走で徳川慶喜の将軍勅許寸前まで漕ぎ着けた。が、長野主膳は謀略を駆使して井伊直弼を大老に就かせ大奥と将軍徳川家定を篭絡して徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄を発動した。島津斉彬の突然死で薩摩藩率兵上洛の脅威が去り、「戊午の密勅」に激怒した大老井伊直弼は一橋派諸侯を引退に追込み志士狩りを断行したが、恐怖政治は1年も続かず徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で井伊を殺害した。一時逼塞した全国の尊攘派志士は拍手喝采し幕府不要論が萌芽、逆に幕府は融和路線へ転じ一橋派諸侯を赦免した。
- 「幕末の魔王」長野主膳は、稀世の美男子で学識豊富・上品高雅な威厳に満ち、権謀術数を駆使して井伊直弼の大老就任から安政の大獄を差配したといわれる。怪人らしく前半生は不肖、伊勢滝野村に現れ国学塾を開いた長野主膳は、村の名士滝野次郎左衛門の妹滝を娶り、紀州藩付家老の水野忠央に接近、滝野の援助で近畿・東海道を巡歴したのち近江坂田郡志賀谷村に「高尚館」を開き彦根・京都へも出張って多くの門人を得た。京都では二条家に庇護され多くの公家や諸大夫の島田左近らを弟子にし、彦根藩では不遇期の井伊直弼に取入り政治的な助言も行う間柄となった。彦根藩主に就いた井伊直弼は長野主膳を150石で藩校弘道館の国学教授に召抱え、晴れて腹心となった長野は、水野忠央と紀州藩主徳川家茂の将軍擁立を図り、京都で朝廷工作を担いつつ江戸の幕閣や大奥へも謀略の手を伸ばした。野心家の水野忠央は、大名格の紀州藩付家老の地位に満足せず立藩・幕政参与を望み、妹二人を幕臣の養女に落として将軍徳川家茂に献上し幕府官僚に賄賂攻勢を仕掛けたが、逆に顰蹙を買って老中安倍正弘からも敬遠されていたところで、将軍継嗣問題は渡りに船だった。さて、老中間部詮勝の黒幕として安政の大獄を主導した長野主膳は多くのスパイを操り、島田左近は公家社会上層部の情報網・目明し猿の文吉(妹の君香が島田の妾)は一般社会の密偵として暗躍した。京都政界を戦慄させた島田左近と文吉は高利貸しなどで巨利を貪り「今太閤」と称されたが、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派が京都で台頭すると真先に「天誅」の標的となった。島田左近は京都木屋町で君香と逢瀬中に田中新兵衛らが斬殺、青竹に刺した首を先斗町川岸に晒され、文吉は岡田以蔵らが三条河原で細引で絞殺、裸体の肛門から頭頂まで竹で串刺し性器に釘を打った姿を晒された。そして長野主膳は、井伊直弼暗殺後もしぶとく彦根藩に留まり100石加増されたが、島田左近の斬殺で空気が一変、彦根藩士らは藩主井伊直憲に強訴して長野を禁固し牢内で縛り首(庶民刑)にした。2年後に成就した和宮降嫁(公武合体策)の発案者は長野主膳であったという。
- 大老井伊直弼の登場で将軍継嗣問題に敗れた一橋派の公武合体運動であったが、井伊の死によって再び息を吹き返した。島津斉彬の遺志を継いだ島津久光が率兵江戸に乗込んで幕閣を脅し上げ、幕政改革を強行した。久光は幕府に、雄藩連合による公武合体路線を認めさせ、将軍徳川家茂の上洛を強要し、徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職にねじ込んだ。幕府の実権は慶喜が握り、ここから幕末へ至る幕府の政策は概ね慶喜の意図による。
- 島津久光のクーデターによって幕政を掌握した徳川慶喜であったが、久光との主導権争いが発生し四賢候も慶喜の独断専行に反感を募らせた。こうしたなか1863年に雄藩連合・公武合体運動の結実ともいえる参預会議が開かれたが、横浜鎖港問題を巡って慶喜と久光が対立、慶喜が横浜鎖港を強行しようとしたことで参預会議は瓦解した。この後、慶喜は江戸へ戻らず禁裏御守衛総督として京都に留まり政局を独占(一会桑政権)、禁門の変、長州征討を主導していく。
- 徳川慶喜は、大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍である。股肱の臣である松平容保・定敬兄弟と新撰組、小栗忠順ら抗戦派幕臣をあっさり見捨て、宗家・慶喜家・水戸家の徳川3家が最高位の公爵に叙され慶喜は徳川将軍中最高齢の77歳まで生延びた。水戸藩主徳川斉昭の七男で御三卿一橋家に入嗣した徳川慶喜は、一橋派の将軍候補に担がれたが安政の大獄で挫折した。が、薩摩藩の島津久光は、率兵江戸へ乗込み徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込み、八月十八日政変で「破約攘夷」の長州藩を締出し「参預会議」で公武合体を実現した。が、禁門の変で自信を深めた徳川慶喜が専横を強め参預会議は挫折、禁裏御守衛総督に就いて半独立の気勢を示し、松平容保・定敬を京都守護職・所司代に任じて京都を制圧(一会桑政権)、武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが幕府が強硬策に出ると自ら追討軍に加わり捨て殺しにした。幕威発揚を期す徳川慶喜は長州征討を断行、長州藩は恭順し征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めたが、高杉晋作が長州藩政を奪回し再び幕府に挑戦した。徳川慶喜は直ちに長州再征を号令したが、薩摩藩の妨害で足止めされ薩長同盟が成立、6万の大軍ながら軍備に劣る幕府軍は高杉晋作・大村益次郎の洋式軍隊に完敗し大阪城の将軍徳川家茂も急死、小倉城陥落で慶喜は「長州大討入り」を撤回した。小栗忠順の日仏同盟構想(売国的条件による借款と軍事支援)に力を得た将軍徳川慶喜は、参預会議で長州藩赦免を拒否し薩摩藩は討幕を決意、「徳川家を盟主とする大名共和制」を期待し大政奉還するも辞官納地を強要された。大阪城の徳川慶喜は無視し諸外国に徳川政権継続を宣言したが、鳥羽伏見の敗報に接すると軍艦で江戸へ逃げ戻り上野寛永寺に謹慎、主戦派を追放し恭順派の勝海舟に全権を委ねた。徳川宗家を継いだ徳川家達は駿府70万石から公爵に叙され、徳川慶喜も公爵・貴族院議員に栄達した。
- 水戸藩主には江戸常府が義務付けられ公子は江戸藩邸で養育されるのが通例であったが、享楽的な江戸の風俗に馴染ませたくないという徳川斉昭の配慮により徳川慶喜は一橋家に入るまでのほとんどの期間を水戸で養育された。徳川斉昭自身は10人の江戸で妻妾を侍らし享楽生活を送ったが、息子には厳しかったようである。徳川慶喜は、父の徳川斉昭と同じく会沢正志斎ら水戸学の権威に薫陶され、少年期から英才を謳われ将来を嘱望された。12代将軍徳川家慶は、徳川慶喜に目を掛け偏諱を賜い、病弱な嫡子の徳川家定よりも優秀な慶喜を世子に立てようとしたが老中安倍正弘の諫止で思い止まったという。徳川慶喜は将軍家慶の計いで嗣子の無い一橋昌丸に入入嗣した。一橋家は田安家・清水家と並ぶ御三卿の一つである。御三卿は、8代将軍徳川吉宗が自分の血統で将軍を独占するために立てた家で、御三家(紀州藩・尾張藩・水戸藩)に次いで将軍を出す資格があるとされた。さて、13代将軍となった徳川家定は、精神薄弱児ながら徳川慶喜に嫉妬し、大奥に促されて徳川家茂を将軍継嗣にすると述べたといい(真偽不明)、将軍の言質を得た大老井伊直弼は徳川家茂の14代将軍就任を強行した。
- 徳川慶喜は、島津久光(薩摩藩)・松平春嶽(福井藩)ら雄藩連合・公武合体派に担がれて幕政を握ったが、身勝手な行動が薩摩藩を薩長同盟へ奔らせ倒幕の決定的要因となった。英明を謳われた徳川慶喜は将軍らしからぬ政治力を発揮し「家康の再来を見るがごとし」と木戸孝允を慨嘆させたが、世襲貴族らしく人を利用し人が自分に奉仕するのを当然と考える性質が強く思いやりや協調性が欠落、多くの部下を便利使いの末に見殺しにした。京都に一会桑政権を樹立した徳川慶喜は武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが、幕府が強硬策を採ると自ら追討軍に加わり助命嘆願を黙殺、絶望した天狗党は投降し首謀者の武田耕雲斎・藤田小四郎だけでなく352人もが斬首された。政権の武力を担わされた会津藩は更に悲惨な末路を辿った。徳川慶喜・松平春嶽より京都守護職を押付けられた会津藩主松平容保は、実弟の桑名藩主松平定敬を京都所司代に任じ、藩財政を犠牲にして多くの藩士を京都に駐在させ新撰組・見廻組も雇って長州藩や尊攘派志士と闘った。戊辰戦争が起ると徳川慶喜は松平容保・松平定敬を伴い江戸へ逃避、絶対恭順に決すると薩長に目の敵にされ引くに引けない松平兄弟と小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払った。松平容保は会津藩士のみならず奥羽越列藩同盟で隣藩も巻込み大義名分の立たない会津戦争を強行、白虎隊・少年隊に象徴される多くの犠牲者を出した。維新後、徳川慶喜は公爵に叙され幸福な余生を送ったが正に「一将功成って万骨枯る」、朝敵とされた東北諸藩人は明治政府で出世の機会を制限され、会津藩士に至っては不毛の下北半島に押込められ(斗南藩)付随う領民も無く塗炭の苦しみに喘いだ。
- 松平春嶽は、島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」である。御三卿田安家の八男ながら従兄の将軍徳川家慶の後援で福井藩主となり、将軍徳川家定の継嗣争いで徳川慶喜を担ぎ一橋派「四賢候」に数えられたが、大老井伊直弼に敗れ藩主職を奪われた。が、薩摩藩の島津久光が率兵江戸へ乗込みクーデターを成功させると、松平春嶽は政治総裁職に就き将軍後見職の徳川慶喜と共に幕政を掌握した。松平春嶽は徳川慶喜を大所高所に置き実質的な政権運営は自ら行う腹積りであったが、慶喜は意外にも我を張り「公武合体のためには攘夷やむなし」と主張する春嶽に対し「攘夷など無理」と対抗、外国人嫌いの孝明天皇は「即時攘夷」に固執し参預会議は膠着状態に陥った。松平春嶽は、会津藩主松平容保に汚れ役の京都守護職を押付けながら自分は政治総裁職を放出し福井へ帰国、横井小楠の献策に従い公武合体政権を樹立すべく「挙藩上洛計画」を試みたが中根雪江ら守旧派の反対で頓挫した。禁門の変後、専横を強める徳川慶喜は京都に「一会桑政権」を樹立し長州征討を強行、松平春嶽の福井藩は幕府軍の主力を担ったが、征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めた。高杉晋作が長州藩政を奪回すると徳川慶喜は長州再征を断行したが、薩摩藩は薩長同盟へ転じ幕府軍はまさかの完敗、松平春嶽は薩摩藩の側に立って長州赦免を説いたが慶喜は小栗忠順の日仏同盟構想を頼みに妥協を拒否、島津久光は西郷隆盛・大久保利通に討幕のゴーサインを出した。徳川慶喜は大政奉還で体制温存を図ったが薩摩藩は小御所会議で辞官納地を強要、松平春嶽は山内容堂と共に反抗したがねじ伏せられ自ら慶喜への伝達使を務めた。板垣退助の参戦を黙認した土佐藩の山内容堂と異なり、松平春嶽は戊辰戦争に距離を置き、横井小楠や由利公正が新政府の参与に任じられたものの福井藩は「薩長土肥」に入れなかった。薩長の公爵・土肥の侯爵に対し福井藩主松平茂昭は家格並の伯爵に留められたが、勝海舟らの運動により特別に侯爵を与えられた。
- 山内容堂は、「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公である。西郷隆盛ら他藩士をも「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と憤慨させた。12代土佐藩主の弟の子ながら嫡流が相次いで没し幸運にも土佐藩主となった。「鯨海酔侯」と豪傑を気取り学識も豊富な山内容堂は、織田信長に自己投影し中央進出を志したが襲封当初は家老連の圧迫で思うに任せず、吉田東洋に不遇を救われた。大目付の吉田東洋は、家老や家族の私生活をスパイし非行を見つけて失脚へ追込み、重臣に分散した権力を藩庁の直轄下におく中央集権化を断行、安政の大獄も追い風となり藩主専制を確立した。山内容堂は恩人の吉田東洋に藩政を託し(参政)吉田はよく期待に応えたが、特権を奪われた重臣連は吉田を憎み武市半平太の吉田暗殺に加担した。山内容堂は島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と共に「四賢候」と称され将軍継嗣問題に乗出したが、書類作成や藩外折衝は専ら吉田東洋が担い、吉田の死で舵を失った。山内容堂は、武市半平太が長州藩と提携し「破約尊攘」運動を牽引すると気前良く外交を委ねたが、下克上に機嫌を損ね突如弾圧へ転換、第一次長州征討が起ると勇み足で武市を誅殺し土佐勤皇党を掃討した。が、長州藩では高杉晋作が功山寺決起で藩政を奪回し薩長同盟を結び第二次長州征討で幕府軍に完勝、慌てた山内容堂は後藤象二郎(吉田東洋の義理甥)を参政に任じ、後藤は坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込んで薩摩藩に接近し大政奉還建白で政局復帰を果した。が、武力討幕を期す薩摩藩は小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行、徳川家擁護を図る山内容堂は猛反発するが泥酔状態で遅参し暴言を吐いて自滅し、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても出兵を逡巡、板垣退助が土佐勤皇党の残党「迅衝隊」を率い独断参戦し土佐藩は辛くも「薩長土肥」に食込んだ。山内容堂は下克上の明治政府に馴染めず隠退、薩長専制に「武市半平太が生きていれば」と憤りつつも酒池肉林の生活を続け46歳で没した。
- 島津久光は、質朴・剛健で保守的な性格であり、利発で学問好きだったが専ら国学と漢学を好み洋楽は嫌いだった。こうした性格が守旧派の父島津斉興に気に入られ、開明的な兄島津斉彬との後継争いを招く原因となった。斉彬が没したとき既に42歳と高齢だった島津久光は藩主に就かず、長子の島津忠義を斉彬に入嗣させ藩主とした。藩政を奪回した島津斉興は薩摩藩を保守佐幕路線へ急転回させ斉彬派を弾圧して西郷隆盛・月照の入水事件などを引起したが(久光のせいではない)、斉興の死により実権を握った「国父」の島津久光は兄斉彬の雄藩連合・公武合体運動を踏襲し中央政局へ踏出した。参勤交代・江戸住みの経験が無く中央政局に疎い島津久光の政治的手腕を疑う藩士が多く、西郷隆盛は「ジゴロ(田舎者)に斉彬公の真似は無理でごわす」と面罵したが、久光は敢然と反抗勢力を追払い大久保利通・小松帯刀を要路に就け率兵上洛を挙行した。京都から江戸へ乗込んだ久光は、クーデターで幕府政治改革を強行、一橋派の徳川慶喜と松平春嶽を幕閣の中枢に送込み、参預会議を発足させて見事に公武合体を果した(文久の改革)。
- 島津久光の文久の改革で幕政を握った徳川慶喜・松平春嶽が朝廷警護部隊の京都駐留を主張、幕府は土佐藩主に御親兵提供の言質を与えていたため拒否できなかった。京都守護職には「京都守護」の彦根藩が就くのが常道であったが、安政の大獄を行った井伊家の就任はさすがに憚られた。京都守護職は小浜藩ら数万石クラスの大名が就く京都所司代の上に立つため譜代の大大名が求められたが、白羽の矢が立ったのが彦根藩30万石に匹敵する会津藩28万石の松平容保であった。明らかな貧乏くじであり、国家老の西郷頼母らは必死に松平容保を制止したが、「藩祖である保科正之公は将軍家への忠誠を失えば我が子孫にあらずと遺訓されていたはず」という春嶽の言葉に窮した容保は結局引受けるはめとなった。
- 将軍徳川家茂の上洛に際し、尊攘派浪士の清河八郎(出羽庄内藩領清川村の豪農出身)は幕府を唆し「浪士組」を創らせた。恩赦を餌に前科者まで掻き集めたため実態は愚連隊であり、江戸小石川伝通院を出発した234人は大半が浮浪者然で蓑ゴザの乞食姿もあり、紋付羽織姿は芹沢鴨一党のみで、講武所仕官に挫折した近藤勇は破れかぶれで「試衛館」の門人を率い加盟したのだという。清河八郎は浪士組を「勤皇兵」として朝廷に献じたのち江戸の尊攘運動に投入する腹だったが、佐幕家の芹沢鴨ら水戸派と近藤勇・土方歳三ら試衛館派は猛反対、京都に留まって「壬生浪士組」を称し豪商から強奪した金で自活生活に入った。一方、清河八郎の先導で江戸へ戻った浪士組は、幕府直轄の「新徴組」に改組され江戸市中取締の庄内藩へ預けられた。長州藩の奇兵隊と同じく庶民徴募の義勇兵は画期的であったが、清河八郎の策謀は完全に裏目に出て京都と江戸に強力な佐幕派浪士集団が発足、尊攘派にも見放された清河は麻布一ノ橋で幕府刺客の佐々木只三郎らに斬殺された。八月十八日の政変が起ると、京都守護職松平容保の会津藩に雇われた壬生浪士組は仙洞御所前・御所南門の警備で武威を示し、「新撰組」の隊名を授かり会津藩から報奨金と月俸制を獲得、芹沢鴨と近藤勇の両局長は大御番頭取の格式で月俸50両・副長の土方歳三は40両・沖田総司ら副長助勤が30両・平隊士が10両であった。当時、会津藩は京都守護職の重負担に喘ぎ国元では反対派の勢いが強く、高録なうえ死傷時保障も要する正規藩士の動員は避けたい状況にあって、戦意旺盛で使捨て可能・違法捜査も厭わない武装傭兵集団の存在は渡りに船であった。だが、幕臣部隊の「見廻組」と違い元来愚連隊で独立志向の強い新撰組は統制に馴染まず、手柄を求めて過激化し池田屋事件などで尊攘派志士と京都市民に恨まれ、長州藩から目の敵にされた松平容保は恭順も赦されず会津藩は武力討伐の対象とされた。
- 京都に留まり「壬生浪士組」と称したものの、隊士の大半は一旗組の「無知文盲の徒」で、首領の芹沢鴨・近藤勇にも確たる政治理念はなかった。幕府から残留浪士の束ね役に任じられた殿内義雄は、水戸派の芹沢鴨・試衛館派の近藤勇と反目し、四条大橋で近藤と沖田総司に斬殺された。こうしたなか芹沢鴨は清河八郎を嫌う幕臣佐々木只三郎の斡旋により京都守護職の会津藩に嘆願書を提出、壬生浪士組は「松平肥後守(松平容保)御預」という一応の身分を与えられ不逞浪士の取締まりと京都市中の警備に任じられた。名分を得た芹沢鴨・近藤勇らは京阪の商人に献金を強要し浪士団の生活の糧を得たが、暴虐な芹沢一派は献金を拒否した生糸問屋大和屋庄兵衛宅に放火焼尽させるなどの狼藉を繰返し京都市民から「みぶろ」と忌み嫌われた。
- 新撰組は水戸派の芹沢鴨・試衛館派の近藤勇の二局長体制で始まり、当初は神道無念流の免許皆伝で大勢を率いる芹沢が優勢であった。が、新撰組が京都守護職松平容保のお抱えとなっても芹沢鴨らは愚連隊的性格が抜けず豪商への献金強要や狼藉事件を繰返し、見兼ねた会津藩は近藤勇に一派の粛清を求めたといわれる。新撰組を維持するうえで会津藩の庇護は不可欠であり、隊士の治安破壊行為を廃絶する必要に迫られた近藤勇は、芹沢鴨が遊女屋吉田屋を破壊し芸妓2人を断髪させた狼藉事件を機に土方歳三・沖田総司・藤堂平助らに暗殺を指令、芹沢は島原角屋で芸妓総揚げの乱痴気騒ぎをしたあと愛妾お梅と同衾中を襲われ共に惨殺された。会津藩の信頼を繋いだ近藤勇・土方歳三は水戸派を粛清して新撰組の独裁体制を確立、「局中法度」のような明文の隊規は無かったようだが隊士を厳格な統制下に置き粛清や処刑を繰返した。無秩序な浪士団をまとめるには「鉄の掟」が必要であろうが、庶民出身故に古武士への憧れが強い近藤勇・土方歳三には軟弱化した武士階層への反発心があったようにも思える。ただ、新撰組は「鬼の副長」土方歳三のもと鉄壁の結束を誇ったと思われがちだが、所詮は浪士の寄せ集めであり、上層部には対立もあった。近藤勇・土方歳三・沖田総司の試衛館枢軸は磐石であったが、もともと同志のつもりで加盟した永倉新八・斎藤一・原田左之助・島田魁らは、池田屋事件を機に京都政界でチヤホヤされ主君のように振舞い始めた近藤に反感を募らせ、幹部連名で松平容保に近藤排斥を訴え出る事件を起した。会津藩の慰撫により事なきを得たが、近藤勇は腹いせに永倉派の隊士を処刑している。
- 徳川慶喜・会津藩主松平容保に薩摩藩が加担し、孝明天皇の支持を得て、得意の絶頂で大和行幸を画策した長州藩と尊攘派公家を武力クーデターにより京都から追放した(八月十八日の政変)。薩摩・会津藩兵が御所を囲むかなかで朝議が行われ、大和行幸の中止、長州藩主毛利敬親・定広父子と尊攘派公家の処罰等を決議した。堺町御門警備の任を解かれた長州藩士千余人は京都から追出され失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人を伴い長州へ下った(七卿落ち)。長州藩の久坂玄瑞・木戸孝允と土佐藩の武市半平太が主導した「破約攘夷」「草莽崛起」運動は、病的な外国人嫌いながら過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の叡慮と徳川慶喜・松平容保と薩摩藩の共同謀議により一夜にして瓦解し、勤皇藩を自認し朝廷の権威回復を志した長州藩は皮肉にも天皇に掣肘された。
- 近藤勇・土方歳三の新撰組が京都池田屋に参集する尊攘派志士を襲撃した(池田屋事件)。死亡7人(吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助)・負傷4人(望月亀弥太は当日自決)・召捕り23人の受難者を出した尊攘派は壊滅的打撃を蒙り、憤激した長州過激派が暴発し禁門の変を起した。木戸孝允は池田屋へ出向いたが事件発生時にたまたま中座しており間一髪で難を逃れた。捕縛者は京都六角獄舎に繋がれたが、禁門の変の渦中に大半が幕吏に殺害された(生野の変で投獄された平野国臣も巻添えとなる)。続く禁門の変でも武威を示した新撰組は、朝廷・幕府・会津藩から感状を賜り合計で200両余りの賞金を与えられた。近藤勇・土方歳三は賞金を元手に隊士募集を行い組織を拡大、伊東甲子太郎一派も合流し新撰組は200人を超す大所帯となった。
- 八月十八日政変の巻返しを期す長州藩が池田屋事件を受け激発、藩主毛利敬親の冤罪雪辱と京都守護職松平容保らの排除を名目に京都へ攻込み、徳川慶喜(禁裏御守衛総督)の指揮のもと京都御所を守る会津・桑名藩兵と市街戦に及んだ(禁門の変または蛤御門の変)。西郷隆盛率いる薩摩藩兵が慶喜方で参戦し敗北した長州藩は久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉ら尊攘派中核メンバーが戦死し京都の尊攘派は壊滅(木戸孝允は逃亡失踪)、京都政局は徳川慶喜・会津藩・桑名藩の天下となった(一会桑政権)。この挙兵に際し木戸孝允・高杉晋作・周布政之助らは慎重論をとなえたが、真木和泉ら過激派浪士の扇動に乗った来島又兵衛・久坂玄瑞らの主戦論を抑えられなかった。戦闘は一日で終了したが、京都市外は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ3万戸の家屋や社寺が消亡した。この事件による長州人の薩摩・会津に対する怨念は深く(薩奸会賊)維新後も尾を引いた。
- 幕府軍艦奉行の勝海舟から「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と長州宥和を促された薩摩藩(征長軍大参謀)の西郷隆盛は、征長総督徳川慶勝に武力衝突を回避する穏当策を提言、慶勝は西郷を征長軍全権に任じ長州藩との折衝を委ねた。西郷隆盛は、岩国藩主吉川監物を通じて禁門の変で上京した国司信濃・益田弾正・福原越後の三家老切腹、四参謀斬首、三条実美ら五卿の追放を降伏条件として提示、長州藩主父子が謝罪文書を提出し恭順したため開戦は回避された(第一次長州征討)。これに対し、奇兵隊などの諸隊には不満を抱く者が多く、高杉晋作は即時挙兵を主張したが、俗論党に懐柔された奇兵隊総督赤根武人をはじめ諸隊の長官は応じなかった。徳川慶喜政権の後ろ盾であった薩摩藩は長州征討を機に幕府批判へ転じ薩長同盟・討幕へ突進んだが、西郷隆盛を長州宥和へ転換させた勝海舟の役割は非常に大きかった。西郷隆盛は大久保利通への書簡で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と評している。勝海舟は幕臣でありながら雄藩諸侯や尊攘派志士と広く交流、西郷隆盛が神と仰いだ島津斉彬とも懇意であり、開国の利と幕藩体制変革の必要性を説いて反幕府陣営に大きな影響を与えた。幕府首脳で軍艦奉行も務めた勝海舟の言葉は非常に重く、討幕を奨励するような言説は志士たちを大いに勇気づけたに違いない。この3年後に薩摩藩が戊辰戦争を引起すと、勝海舟は徳川慶喜を説いて絶対恭順を決意させ、幕府代表として西郷隆盛に会い江戸城無血開城を成遂げた。
- 勝海舟は、西郷隆盛に長州宥和を促し徳川慶喜に絶対恭順を説いて江戸城無血開城を果した開明派幕臣にして坂本龍馬の師匠、明治政府の高官に列すも距離を置き徳川家と旧幕臣の救済に余生を捧げた。勝海舟は、15歳で父から旗本勝家を継ぎ、「幕末の三剣士」に数えられた従兄の男谷精一郎と島田虎之助の道場で剣術修業に励み直心影流の免許皆伝に達したが、時勢を先取りして洋式兵学へ転じ永井青崖や佐久間象山に師事して赤坂田町に「氷解塾」を開いた。ペリー来航に発奮した勝海舟は海防意見書を提出、老中安倍正弘や大久保一翁の目に留まって長崎海軍伝習所の1期生に選抜され島津斉彬や尊攘派志士と交流、就学5年を経て遣米使節の「咸臨丸」艦長に任じられ太平洋横断を果した。勝海舟は咸臨丸の快挙を自賛したが、福澤諭吉は「日本人は皆船酔いして役に立たず、勝も自室に籠り切りで姿を見なかった」と回想している。凱旋した勝海舟は、蕃書調所頭取・講武所砲術師範・軍艦操練所頭取を経て、文久の改革に伴い海軍創設の牽引役として軍艦奉行に抜擢され士官育成のため神戸海軍操練所を創設、弟子にした坂本龍馬ら浪士群を神戸海軍塾で養い、征長軍全権の西郷隆盛に「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と説いた。が、塾生が長州藩に加担した事実が発覚、勝海舟は軍艦奉行を罷免され神戸海軍操練所は廃止、勝は薩摩藩に坂本龍馬らを託し江戸へ去った。徳川慶喜が長州再征を号令すると人材難の幕府は勝海舟を軍艦奉行に復帰させ5千石へ加増、薩長同盟が成り幕府軍が敗れると宥和論者の勝は停戦交渉を一任され安芸厳島に乗込んだ。時流は一気に大政奉還から戊辰戦争へと流れ、江戸へ逃げ戻った徳川慶喜は土壇場で絶対恭順へ転じ小栗忠順・松平容保ら抗戦派を追放、全権を委任された勝海舟は新撰組を追払うなど反乱抑止に奔走し東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を成遂げた。明治政府に出仕した勝海舟は参議・海軍卿・伯爵に栄進したが大した業績は無く、徳川慶喜と旧幕臣の復権を果し慶喜十男の精に勝家を譲り77歳で没した。
- 「江戸の御家人」は貧乏の代名詞だったが、将軍に御目見えが許された直参旗本とは身分が全く違った。「殿さま」と呼ばれた旗本は格式上は大名と対等の立場であり、将軍の家臣たる大名の家臣(陪臣)との身分は懸絶していた。江戸弁で気さくに志士と付合った勝海舟は身分が軽いと錯覚しがちだが実際は高級旗本であり、坂本龍馬・西郷隆盛ら下級武士揃いの志士群からみると山内容堂や島津斉彬ら諸侯の同類で雲の上の身分であった。旗本のなかでも家格差は歴然とあり、無役の小普請組・40俵扶持から軍艦奉行・5千石に上り詰めた勝海舟ほどの大出世は大奥関係を除くと異例で、本人の能力というより幕末混乱の為せる業であった。勝海舟のライバルで日仏同盟構想を頼りに徹底抗戦を主張した小栗忠順は、同じ旗本でも知行2500石の大身、合戦の度に一番槍を挙げた祖先が徳川家康から「又一」と賞賛され代々この名跡を受継いだ名門である。幕府要人ながら「勝てば官軍」に与した勝海舟は、抗戦派幕臣からみれば「獅子身中の虫」「二重スパイ」といわれても仕方ない役回りを演じたが、有能を自認し時局眼が鋭い勝にすれば愚鈍な世襲門閥が牛耳る幕閣に我慢ならず、徳川幕府の体制温存より機能不全の打倒を優先したとの見方もできよう。遣米使節が帰国し将軍徳川家茂に拝謁した際、老中からアメリカと日本の違いは何かと問われた勝海舟は「我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。」とやって溜飲を下げたという。勝海舟は大風呂敷を広げて大言壮語し物事を面白おかしく誇張する癖が抜けないまま「コレデオシマイ」と嘯いて大往生を遂げた。
- 第二次長州征討を前に長州藩が生残る道は薩長同盟しかなかったが、政府首脳の木戸孝允は禁門の変の恨み「薩賊会奸」に感情を捕われ西郷隆盛が下関会談を反故にし面子を潰された一件を言い募り上洛を逡巡した。現実的な高杉晋作は「薩摩の芋が何を」と言いつつも藩論を薩長和解に纏め、長州藩主毛利敬親に受けの良い井上馨の奔走で藩命を取付け、高杉を代役に立てようとする木戸に対し「木戸さん1人が殺されても長州藩は問題ない」と突撥ね背中を押した。会津藩兵・新撰組が厳重に警護する京都に潜入した木戸孝允は、京都の小松帯刀邸で西郷隆盛・小松帯刀と会談し軍事同盟たる薩長同盟を締結した(攻守同盟だが第二次長州征討について薩摩藩は表面上中立を保ち後方支援に留める)。土佐浪士の坂本龍馬は薩摩方・中岡慎太郎は長州方として両藩の斡旋に奔走、薩長同盟の場に同席した坂本は木戸の要請で約定書に裏書した。浪人で薩摩方の坂本に担保力は無く、非命に散った武市半平太や吉村寅太郎に報いるためか、土佐藩の参加を含んだものと考えられる。実際この直後に土佐藩は、中岡慎太郎の斡旋で板垣退助・谷干城が薩土密約を、坂本龍馬の仲介で後藤象二郎が薩土同盟を結んでいる。薩土同盟は大政奉還と共に無視されたが、板垣退助は独断で戊辰戦争に賛成し薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の末座に滑り込んだ。中岡慎太郎は三条実美ら五卿の世話を焼くため大宰府に行っており会盟の場面に立会えなかったが、同志の福岡藩士早川勇曰く・・・「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというても過言でないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州藩の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおり、ことに遊撃隊に身をおいてその苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国にかえった後に長州に来た人であるから、どれだけの功労があったか知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 第二次長州征討の最中に大阪城に陣取る将軍徳川家茂が急逝、徳川慶喜は喪を秘して戦争を継続し自ら出馬すべく「長州大討入り」を勇ましく宣言し、孝明天皇に頼み岩清水八幡宮への戦勝祈願までやらせた。が、小倉城陥落の敗報を聞くとあっさり進発を撤回し薩長に近い勝海舟に講和交渉を命令、直後に孝明天皇が崩御した。孝明天皇は、病的な外国人嫌いだが長州藩の過激な尊攘運動を嫌い徳川慶喜に好意的で禁門の変や長州征討を支持し続けた。徳川慶喜は大きな後ろ盾を喪い、14歳で即位した明治天皇は後に岩倉具視ら薩長派公卿の傀儡となる。さて、嗣子の無い将軍徳川家茂は、江戸を発つとき万一のときには田安亀之助(徳川家達)を跡継ぎにと言い残したが、老中の板倉勝静や小笠原長行は3歳の将軍では難局に対処できないとして徳川慶喜に将軍就任を要請した。徳川慶喜は「将軍継嗣問題のとき野心を疑われて不愉快な思いをした。いま将軍職を引受ければ、その悪評を裏付けることになろう」などと逡巡、このため先ず徳川宗家のみを相続し4ヶ月の間をおいて孝明天皇の説得により将軍就任という体裁をとった。徳川慶喜の説得にあたった松平春嶽は「ねじあげの酒飲み」(口ではもう飲みたくないといいながら、杯を勧めないと機嫌が悪くなり、結局はまた飲む)と評している。徳川慶喜は将軍就任に際し側近に王政復古を匂わせる発言をし諌められたともいわれる。
- 朝廷は京都に近い兵庫の開港を拒絶し続けたが、徳川慶喜は異人嫌いの孝明天皇の死に乗じ公卿を説得して勅許を獲得、安政五カ国条約の障害を片付けた幕府は諸外国に面目を施し参預会議は将軍慶喜の独壇場となった。が、皮肉にも幕権回復を警戒する薩長首脳に討幕を決意させる結果を招いた。長州藩の木戸孝允は「家康の再来を見るがごとし。軍制も改革され幕府は衰運再び勃興する勢いにある」と慨嘆し、薩摩藩の島津久光は公武合体を完全に放棄し西郷隆盛・大久保利通の討幕方針を承認した。
- 松平春嶽・島津久光・山内容堂・伊達宗城(四候)と将軍徳川慶喜が二条城で参会したが、長州赦免先決を主張する四候と兵庫開港先決を主張する慶喜が対立し、結局慶喜が押切る形で長州赦免問題が曖昧なまま会議は終結した。山内容堂は真先に見切りをつけて早々に帰国の途につき、島津久光は大久保利通・西郷隆盛・小松帯刀に討幕方針への転換を了承し鹿児島へ退去、西郷らは岩倉具視を抱込んで朝廷を掌握し武力討幕へ邁進した。中岡慎太郎の盟友である小笠原唯八は山内容堂に随い土佐へ戻ったが、江戸で形勢を観望していた板垣退助が入れ替わるように上京し同志に加わった。
- 土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静を尋ね、山内容堂の建白書と副書一通を呈出した。討幕挙兵を決意した薩長はこの動きを無視した。なお、この建白は坂本龍馬が後藤に提唱した「船中八策」に基づくとされるが、大政奉還論は坂本の独創ではない。幕府では大久保一翁が早くから唱え、朝廷の攘夷要求に手を焼いた将軍徳川家茂は征夷大将軍返上を仄めかした。民主主義の開祖である福井藩の横井小楠は、松平春嶽が政治総裁職に就任した1862年に『国是七条』を献策し大政奉還論を説いている。
- 大政奉還の直後、京都近江屋で会食中の坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われ、頭蓋を斬られた坂本はほぼ即死、中岡は後頭部の傷が悪化し3日後に死去した。「坂本龍馬暗殺の謎」は面白おかしく語られ、フリーメーソン(イギリス)の謀略説や、薩長が遣わした中岡が坂本を斬ったという珍説まである(長州系の中岡は強硬な討幕論者で、土佐藩の大政奉還を差配した坂本は徳川家擁護に動いていた)。が、元新撰組の大石鍬次郎および元見廻組の今井信郎(函館戦争で投降)・渡辺篤の供述により、佐々木唯三郎ら見廻組7人の犯行であることが明らかになった。見廻組は新撰組と同じく京都守護職松平容保(会津藩主)の指揮下で京都の治安維持にあたった警察組織である。新撰組の実態は過激浪士の傭兵集団だが、歴とした幕臣からなる見廻組は統率のとれた幕府機構であり、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺も上層部の命令によるものと考えられ、命令者は松平容保とも京都所司代松平定敬(容保の実弟で伊勢桑名藩主)ともいわれる。会桑両藩と松平容保・定敬兄弟は、藩兵と新撰組・見廻組を駆使して京都に厳戒体制を敷き池田屋事件などで尊攘派志士を多数殺害したことから目の敵にされ、後戻りできない立場故に最強硬な佐幕派であった。ここで将軍徳川慶喜が大政奉還を遵守し薩長に取込まれると会桑両藩は完全に宙に浮いてしまうが、大政奉還を差配した坂本龍馬は幕臣の永井尚志を通じて幕府に現実的妥協案を呑ませる根回しに動いており会桑両藩にとっては危険人物となっていた。雄藩の後ろ盾がなく身辺警護も脆弱な坂本が真先に狙われ、中岡慎太郎は巻添えを喰ったと考えられる。暗殺事件後、激昂する海援隊・陸援隊に対し土佐藩は復讐禁止令を敷いたが、陸奥宗光ら16人は「いろは丸事件」を恨む紀州藩士三浦休太郎を首謀者と断じ、明る正月一日に油小路花屋町天満屋の酒宴の場を襲撃した。斎藤一ら護衛の新撰組隊士数名が居たため接戦となり、陸奥一派は中井庄五郎を殺され三浦は討ち漏らしたが数名を殺害し逃走、官軍の天下で陸奥宗光らにお咎めは無かった。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎(桑名藩の飛び領地)を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
- 岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
- 明治の大実業家となった渋沢栄一は、旧主徳川慶喜の名誉挽回のため、25回ものインタビューを行い「昔夢会筆記」を編纂した。これによると徳川慶喜は・・・小御所会議で徳川宗家の辞官納地が決定された後、会津・桑名藩兵や新撰組が激昂し抑え難くなったので状況緩和のため京都から大阪へ移った。朝廷は徳川慶喜に大兵を伴わず上京するよう命じたが、大阪城内の会津兵らはこれを拒絶し「君側の奸を払う」と称し京都へ出撃、薩長軍と遭遇し鳥羽伏見の戦いが始まった。この間、徳川慶喜は老中の板倉勝静に「西郷や大久保のような人物もいないのに戦っても必勝期しがたい。いたずらに朝敵の汚名を着るのはいやだ」と言い、病気と偽って大阪城内に逼塞していた。鳥羽伏見の敗報が届くと大阪城内は徹底抗戦の気分に満ちたが、「錦旗」相手の戦闘を避けたい徳川慶喜は「即刻出馬」と偽り火種である松平容保・松平定敬兄弟を連れ出し共に大阪城を脱出、天満から天保山まで小船で下り米軍艦イロコイ号で一夜を過ごし幕府軍艦開陽丸で江戸へ戻ったという。
- 御陵衛士残党に狙撃され負傷した近藤勇に代わり土方歳三が新撰組を率いて鳥羽伏見合戦を闘ったが、薩長軍の洋式銃器の前に為す術なく敗退、多くの死傷者を出すと共に隊士の脱走も相次ぎ新撰組は実質上壊滅した。土方歳三らは大阪城へ退き会津藩士と共に徹底抗戦を主張したが、大将の徳川慶喜は松平容保・定敬を連れて大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰り、近藤・土方らは幕府軍艦富士山丸に乗込み後を追った。江戸城に登城した土方歳三は、鳥羽伏見の戦いについて尋ねた幕閣に対し「洋式軍備でなければ歯が立たず刀槍は一度も使わなかった」と報告した。新撰組隊士から「鬼の副長」と恐れられた土方歳三だが、浪士統率の重荷を下したためか、武士と刀への執着を捨てたためか分からないが、戊辰戦争で転戦するうちに穏やかになったという。さて、徳川慶喜・勝海舟に江戸から追払われた新撰組の残党を中核とする「甲陽鎮撫隊」が甲州勝沼に進出した東山道軍に挑むが、官軍は圧倒的な洋式軍備と参謀板垣退助の指揮により僅か1日で潰走させた。敗走中に離脱した永倉新八らは靖兵隊を称して会津へ奔り、原田左之助は上野彰義隊に合流、沖田総司は結核の病状が悪化し開戦前に江戸に戻されていた。近藤勇・土方歳三は江戸へ退いて兵を募り下総流山に屯集し再起を図ったが、香川敬三率いる官軍に包囲され近藤は投降、土方は江戸へ脱出し勝海舟らに近藤の助命を嘆願するが黙殺され、偽名を見破られた近藤は板橋刑場で斬首され首は京都三条河原に晒された。徹底抗戦に燃える土方歳三は島田魁らと江戸へ潜行し大鳥圭介の幕府陸軍に合流、斎藤一に新撰組残党を託し会津へ先発させた。
- 恭順するも赦されず朝敵として追討の対象とされた会津藩の松平容保は、同じく朝敵とされた庄内藩(江戸市中取締の職にあって討幕派の恨みを買っていた)と提携し、中央情勢に疎い東北諸藩を巻込んで両藩の赦免嘆願を目的に同盟を結成した。薩長・朝廷が赦免を拒絶すると態度を硬化させ軍事同盟に変化、新政府との会談が決裂した河井継之助の越後長岡藩も加わり奥羽越列藩同盟となった。
- 官軍が江戸へ迫ると、彰義隊と称する旧幕臣が輪王寺の宮を担いで上野寛永寺(徳川将軍家の霊所)に立篭もり一戦を辞さない構えをとった。が、徳川慶喜の恭順で大義名分を失うと主戦派の天野八郎(上野国の名主出身)らが撤兵を説く頭取の渋沢成一郎(一橋家家臣で渋沢栄一の従兄、こののち榎本武揚に従い箱館戦争に従軍)らを追出し大義無き賊軍と化した。坊主ながら首謀者の覚王院義観は諫止する勝海舟・山岡鉄舟を逆に挑発し江戸市中だけでなく諸藩に檄文を送って反官軍熱を煽り立て、彰義隊は博徒や無頼漢が大勢を占める暴徒集団と化し江戸中心部を無法地帯に陥れた。江戸城無血開城を果し徳川家への微温策を図る西郷隆盛(東海道軍筆頭参謀)は攻撃回避に努めたが、江戸府判事として京都から乗込んだ大村益次郎は黙々と兵器や軍用金を調達し戦争準備を終えると軍議で必勝策を開陳、兵員不足を理由に慎重論を説く有村俊斎(西郷の子分で横柄な態度が他藩人から憎まれた)を「君は戦を知らぬ」と侮辱し、西郷を説伏せ武力討伐に決した。かくして上野戦争が始まり、西郷隆盛率いる薩摩勢は主戦場の黒門口を攻撃、搦手口から後背を衝いた長州勢はぐずついたが江藤新平率いる佐賀藩のアームストロング砲が威力を発揮し諸藩の砲撃に晒された彰義隊は潰走し捕えられた天野八郎らは処刑、作戦用兵を一人で取仕切った大村益次郎の武名は天下に轟いた。なお、大村益次郎は翌年京都で兇漢に襲われ死亡したが、大村を憎悪する有村俊斎が扇動したという噂が立った。徳川家の守衛たらんと発足した彰義隊だが、官軍に大戦果を与えただけに終わり、西郷隆盛の奔走で100万石以上もらえるはずだった徳川家達(徳川慶喜の後継者)は封地を駿府70万石に減らされた。
- 旧幕府海軍の榎本武揚らは官軍への投降を拒み、大鳥圭介ら徹底抗戦派の幕臣と共に「開陽丸」など8隻の幕府艦隊を奪い品川沖から蝦夷地へ向かった。榎本艦隊は途中で仙台に寄航し、会津戦争から退避した伝習隊・衝鋒隊などの旧幕府軍および新撰組や彰義隊の残党を吸収、同行者には元老中の永井尚志・板倉勝静・小笠原長行や元京都所司代の松平定敬(容保の弟)ら幕閣の大物もいた。榎本艦隊は蝦夷地(北海道)へ乗込み箱館五稜郭・松前城を容易に占拠し「蝦夷共和国」樹立を宣言、入札(選挙)により榎本武揚が総裁・松平太郎(元幕府陸軍奉行並)が副総裁・大鳥圭介が陸軍奉行・土方歳三が陸軍奉行並に就き、天才剣士の伊庭八郎・元浦賀奉行所与力の中島三郎助・元上野彰義隊頭取の渋沢成一郎(栄一の従兄)も仕官に名を連ねた。オランダ留学から開陽丸に乗って帰国した榎本武揚であったが操船術は未熟で、江戸出航直後の暴風で咸臨丸・美賀保丸を失い、官軍に対する優位性の拠り所であった開陽丸を座礁沈没、制海権を失った蝦夷共和国は黒田清隆率いる官軍の猛撃に晒され、弁天台場砲台を奪われ守将の土方歳三は玉砕、全艦喪失の末に榎本武揚は降伏を決断した。その後の榎本武揚は、黒田清隆の奔走で助命され嫡子の妻に黒田の娘を迎えて薩摩閥に連なり、最初の伊藤博文内閣から6内閣で大臣を歴任、子爵に叙され73歳まで生きた。
- 土方歳三は、武蔵多摩の農民ながら近藤勇と共に幕府浪士組に身を投じ京都の尊攘派志士を戦慄させた新撰組「鬼の副長」、新撰組壊滅後も戊辰戦争を戦い抜き武士の意気地を示して函館に散った佐幕派志士のヒーローである。機能不全に陥った幕府の汚れ役を担い志士弾圧に狂奔した新撰組の行動は時流に逆行するものであったが、裸一貫で幕末の風雲に身を投じ度胸剣法と命懸けの働きで身分制の壁を打破り、惰弱化した大名や武士達が続々と無条件降伏するなか最も武士らしく闘い抜き幕府の有終の美を飾った。潔い新撰組の青春群像が日本人を魅了するのは尤もな現象であり、現在も文芸・観光の重要資源として活躍を続けている。土方歳三は、百姓身分ながら武士に憧れて剣術修行に励み「試衛館」道場主の近藤勇と共に幕府浪士組に応募、清河八郎の策謀を排し京都守護職松平容保のもとに「新撰組」を結成すると、芹沢鴨を斃して愚連隊を統制のとれた精強部隊に改造し、八月十八日政変・禁門の変・池田屋事件などに活躍、幕末混乱の「位打ち」で新撰組隊士全員が幕臣に採用された。鳥羽伏見の戦いが起ると刀剣専門の新撰組は薩長軍の洋式軍備を前に為す術無く壊滅、土方歳三は負傷した近藤勇を励まし徳川慶喜を追って江戸へ下るが厄介払いされ、「甲陽鎮撫隊」で官軍に挑むも完敗した。失意の近藤勇は投降を選び斬首されたが、なお闘志の衰えない土方歳三は江戸へ戻って旧幕府軍に合流し北関東で官軍と戦いつつ会津戦争に参陣、庄内藩に援軍を断られると仙台から榎本武揚の旧幕府海軍に合流し北海道へ乗込んで箱館五稜郭・松前城を占拠した。榎本武揚は「蝦夷共和国」樹立を宣言したが、頼みの綱である「開陽丸」の座礁沈没で官軍に制海権を奪われ、五稜郭は猛撃に晒され次々に拠点を落とされた。頽勢挽回が不可能となっても土方歳三は徹底抗戦を貫き、死に場所を求めるように弁天台場に突撃し官軍の銃撃に身を晒した。
- 刀剣専門の新撰組は鳥羽伏見の緒戦で薩長の洋式軍備を相手に為す術無く壊滅、近藤勇・原田左之助・沖田総司に続き函館戦争まで戦い抜いた土方歳三も戦死したが、さすがに歴戦の幹部は豪傑で生延びた者もあった。江戸に聞こえた剣豪で試衛館の助人から新撰組に参加した永倉新八は、池田屋事件など多くの重要戦闘で斬込み役を務めたが主君気取りの近藤勇を糾弾し、「甲陽鎮撫隊」潰走中に土方歳三と袂を別つと「靖兵隊」を率い北関東を転戦したが会津藩降伏で抗戦を断念、江戸へ潜行し旧主家の松前藩に保護され北海道へ移った。永倉新八は、北海道で妻子をもうけ剣術師範として生業を立て、一時江戸へ移住して牛込や浅草で町道場を開き、寄付を募って近藤勇が処刑された板橋刑場跡に「隊士殉難の碑」を建てた。永倉新八は北海道で悠々自適の晩年を過ごし77歳まで長寿を保ったが、56歳のとき日清戦争が起ると抜刀隊に志願するも高齢を理由に謝辞され、孫を連れて映画館を訪れたときヤクザ者にからまれたが無言の気合で一蹴し「あんなのは屁みたいなものだ」と嘯いたという。斎藤一は、京都で壬生浪士組に加盟し新撰組の発足と同時に幹部に抜擢され、脱党した伊東甲子太郎・藤堂平助らが「御陵衛士」を結成するとスパイ工作を担った。甲陽鎮撫隊が壊滅すると土方歳三の指示で会津へ先発、庄内へ奔った土方と決別し最後まで会津戦争を闘い、敗戦後は斗南藩士となって松平容保に近侍し、容保の仲人で会津藩士の娘と結婚し三児を生した。廃藩置県後、斎藤一は警視庁に仕官して警部まで勤め、官軍の小隊長として西南戦争にも参加、会津人の庇護を受けつつ72歳まで長生きした。
- 会津戦争に際して、国家老の西郷頼母らは状況の不利を悟り降伏を勧めたが、松平容保は徹底抗戦を強行した。藩士たちは婦女子に至るまでよく戦い、斎藤一ら新撰組の残党も善戦したが、遂に敗北し降伏した。松平容保は死一等を減じられて江戸に蟄居、官軍は西郷頼母・田中玄清・神保内蔵助ら三家老の切腹を求めたが、西郷は失踪し神保と田中は城下の戦闘で自刃していたため次席の萱野長修が責任を負って切腹した。一方、戦乱による苛斂誅求にあえぐ会津の民衆は藩と松平容保に冷淡だった。農民を徴用した官軍がきちんと駄賃を払うことに驚き、「会賊」の幟を立てて積極的に官軍に協力、江戸へ連行される松平容保を見送るために作業の手を止めることもしなかった。官軍を率いた板垣退助は「一般の人民は四方に逃げ散り、漸次翻って官軍の手足となった」様子を見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、後に自由民権運動に身を投じる動機となったという。
松平容保と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照