徳川慶喜から京都守護職を押付けられ討幕派の目の敵にされた挙句に見捨てられ孤立、自己保身のため大義なき戦いを強行し会津人と東国諸藩を巻き添えにした「賊軍の将」
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松平 容保
1836年 〜 1893年
0点※
家系・子孫
- 会津藩初代の保科正之は2代将軍徳川秀忠の庶子だが、恐妻家の秀忠は正室江の目を憚り生涯認知しなかった。隠し子は見性院(武田信玄の娘)に預けられ信濃高遠藩主保科正光に入嗣、3代将軍徳川家光は保科正之を実弟と認知し会津藩23万石に引立てた。保科正之は、徳川家光の恩義に報いるため『会津家訓十五箇条』の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、家光の遺命により4代将軍徳川家綱を後見し幕藩体制の基礎を築いた。3代藩主の正容(正之の六男)から松平の名乗りを許され、会津藩は幕末まで強い佐幕の風を受継いだ。時代は下り、8代会津藩主の松平容敬が無嗣没し婿養子の松平容保が9代藩主を継いだ。松平容保は、美濃高須藩主松平義建の六男で、兄の徳川慶勝(14代尾張藩主)・徳川茂徳(15代尾張藩主から御三卿一橋家当主)および弟の松平定敬(伊勢桑名藩主)と共に「高須四兄弟」と称された。徳川慶喜・松平春嶽に京都守護職を押付けられた松平容保は、松平定敬を京都所司代に任じ共に尊攘派志士の粛清に奔走したが、戊辰戦争が起ると慶喜は恭順へ転じ厄介払いされた松平兄弟は官軍のターゲットにされた。会津に戻った松平容保は、養嗣子の松平喜徳(徳川斉昭の十九男で慶喜の実弟)に10代藩主を譲り謹慎・恭順して助命を請うたが赦されず、会津藩士・領民と東北諸藩(奥羽越列藩同盟)を巻き添えにして官軍に抗戦した。板垣退助率いる官軍に敗れた「賊軍」会津藩は家名断絶・領地没収に処されたが、間もなく容保の長子に松平容大が誕生、明治政府はこれに家名存続を赦し陸奥斗南藩3万石に封じた。松平喜徳は養子縁組を解消し実兄の前松川藩知事松平頼之の家督を継いで子爵に叙された。旧会津藩士は不毛の下北半島で辛酸を舐め、反抗児となった松平容大は校則違反により学習院を退学処分となったが、長じて陸軍人となり子爵・貴族院議員となった。
- 松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。
松平容保と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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