中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
板垣退助の寸評
板垣退助の史実
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1837年
土佐藩上士(馬廻格300石)乾正成の嫡子板垣退助が高知城下中島町にて出生
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1853年
ペリー来航
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1854年
吉田東洋が松下嘉兵衛打擲事件を起し長浜に蟄居処分、密かに少林塾を開き後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎を教育
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1856年
板垣退助が高知城下四ヶ村禁足に処され神田村に蟄居
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1858年
吉田東洋が土佐藩主山内容堂に蟄居を解かれ江戸出府、参政に復帰し配下の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らを登用(新おこぜ組)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1859年
安政の大獄により一橋派諸侯処分、山内容堂は隠居し豊範が16代藩主となる
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1861年
武市半平太が土佐勤皇党を結成
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1861年
板垣退助が江戸留守居役兼軍備御用就任、志士と交わり尊攘思想に傾倒
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
幕府により山内容堂の謹慎が解かれる
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
山内容堂が青蓮院宮令旨事件を起した平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太を切腹に処す
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1863年
後藤象二郎が江戸遊学、開成所に入学
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1864年
岡田以蔵が拷問により自白
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1864年
野根山屯集事件
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1864年
山内容堂が新おこぜ組を藩政に復帰させ後藤象二郎・板垣退助を大監察に任じ土佐勤皇党の尋問を強化(尊攘派の板垣は辞職し江戸へ遊学)
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1866年
薩長同盟
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1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編
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1867年
土佐海援隊の「いろは丸」が紀州藩軍艦と衝突し沈没
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1867年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867年
京都で島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四候会議開催
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1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
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1867年
坂本龍馬が後藤象二郎に「夕顔丸」船上で船中八策を提案
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1867年
薩土密約
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1867年
板垣退助が土佐へ戻って大監察に復職し討幕戦準備に奔走
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1867年
薩土同盟
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1867年
イカロス号事件、坂本龍馬の土佐海援隊が疑われる
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1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
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1867年
坂本龍馬が土佐に小銃1000挺を運び、上京
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1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
山内容堂が後藤象二郎を参政(土佐藩政のトップ)に任じる
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1867年
坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が京都近江屋で見廻組に襲われ死去
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1867年
土佐海援隊の陸奥宗光らが天満屋事件を起す
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1867年
王政復古の大号令
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1867年
三職の設置、土佐藩からは山内容堂が議定に後藤象二郎・福岡孝弟らが参与に任じられる
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1867年
小御所会議(最初の三職会議)で薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛と朝臣の岩倉具視が徳川慶喜の辞官納地を強行採決
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
土佐藩の板垣退助が迅衝隊を率い独断で戊辰戦争に参戦、東山道先鋒総督府参謀として官軍を指揮
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
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1868年
板垣退助が岩倉具視の助言により乾から板垣に復姓
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1868年
木戸孝允の主導により明治天皇が五箇条の御誓文を公布
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1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868年
近藤勇・土方歳三ら新撰組残党が甲陽鎮撫隊を結成し甲州戦線へ
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1868年
甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍が近藤勇・土方歳三の甲陽鎮撫隊を撃破、近藤は板橋刑場で斬首され京都三条河原に首を晒される
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1868年
奥羽越列藩同盟が成立
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1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
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1868年
官軍が高崎市に隠遁した小栗忠順を襲い斬首
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1868年
木戸孝允の版籍奉還の献策を長州藩主毛利敬親が承諾
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置、土佐藩からは後藤象二郎・福岡孝悌が参与に任じられる
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1868年
河井継之助の長岡藩が降伏
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1868年
旧幕府海軍の榎本武揚らが軍艦8隻を奪い江戸を脱出、仙台で旧幕府軍を吸収し箱館五稜郭で蝦夷共和国樹立を宣言するが旗艦の開陽丸が座礁沈没
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1868年
板垣退助が土佐藩家老格・陸軍総督に任じられ600石に加増される
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
王政復古の賞典禄下賜、後藤象二郎・板垣退助は賞典禄永世1000石を賜る
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1869年
版籍奉還
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1869年
東北戦争から凱旋した板垣退助が明治政府の参与に任じられる
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1869年
四民平等~華族・士族・平民の三身分制の実施
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1869年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1870年
国内初の日刊紙・横浜毎日新聞創刊
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1871年
明治政府が大村益次郎の徴兵制を退け(兵制論争)薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設
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1871年
陸奥宗光の紀州藩政改革により「陸奥王国」が現出
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1871年
廃藩置県
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1871年
岩倉使節団派遣、板垣退助・後藤象二郎が留守政府の参議に就く
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1872年
山城屋事件、絶体絶命の山縣有朋は西郷隆盛に救われ初代陸軍卿に就任し徴兵令準備に奔走
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1873年
徴兵令布告
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1873年
岩崎弥太郎が三菱商会を設立
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1873年
地租改正法・地租改正条例布告
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1873年
岩倉使節団が帰国
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1873年
明治六年政変、板垣退助・後藤象二郎は西郷隆盛の征韓派に与し下野
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
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1873年
最初の世界恐慌、帝国主義列強による世界分割競争が始まる
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1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1874年
板垣退助が愛国公党を結成し『民撰議院設立建白書』を提出
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1874年
板垣退助が高知で立志社を設立
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1874年
佐賀の乱
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1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野
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1875年
讒謗律・新聞紙条例公布
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1876年
秩禄処分
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1876年
神風連の乱
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1876年
秋月の乱
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1876年
萩の乱
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1877年
西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878年
西南戦争に呼応する立志社の策動が発覚、陸奥宗光は5年の禁固刑を受け山形監獄に収容される
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1879年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
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1880年
板垣退助ら土佐派が国会期成同盟結成
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1881年
開拓使官有物払下げ事件
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
自由党結党、板垣退助が総理就任
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1882年
板垣退助遭難事件
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1882年
板垣退助と後藤象二郎が立憲政治視察のため渡欧、後藤が三井から受取った洋行費を散財し板垣の自由党総理を引責辞任
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1882年
福澤諭吉・慶應義塾派が立憲改進党を結成し大隈重信を党首に担ぐ
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1882年
西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と井上馨が三菱潰しのため共同運輸会社を設立
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1882年
大隈重信が東京専門学校創立(早稲田大学)
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1882年
集会条例改定、自由民権運動が激化
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1882年
伊藤博文が立憲制視察のため渡欧
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1883年
板垣退助・後藤象二郎がヨーロッパ視察旅行より帰国、公金流用疑惑で自由党が分裂し板垣は総理辞任に追込まれる
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1884年
伊藤博文の計いで陸奥宗光がヨーロッパ遊学
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1884年
華族令公布
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1884年
松方デフレによる不況深刻化
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1884年
秩父事件
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1884年
朝鮮で甲申事変、自由党の板垣退助・後藤象二郎や福澤諭吉が金玉均の独立党を後援
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1884年
加波山事件、自由党が一旦解党
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1885年
福澤諭吉が「脱亜論」を発表
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1885年
大阪事件
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1885年
岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に東京六義園にて死去(享年51)、弟の岩崎弥之助が三菱を承継
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1885年
西郷従道農商務卿の和解勧告を岩崎弥之助が受入れ共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を併合し日本郵船会社が発足
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1886年
岩崎弥之助が三菱社設立
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)
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1886年
民権諸派の大同団結運動が始まる(発起人の後藤象二郎は黒田清隆内閣に懐柔される)
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1887年
板垣退助が政府の要請を受入れ伯爵を受爵(後に孫の板垣守正が爵位を返上)
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1887年
徳富蘇峰が民友社結成、『国民之友』創刊
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1887年
保安条例
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1887年
鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代
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1888年
黒田清隆内閣発足、逓信大臣を餌に後藤象二郎を懐柔
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
民法典論争が起る
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1889年
大隈重信外相が玄洋社来島恒喜に襲撃される
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1890年
第一次山縣有朋内閣発足
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1890年
岩村通俊に代わって陸奥宗光が農商務大臣就任、陸奥は原敬を重用
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1890年
第一回衆議院総選挙で民党が過半数を獲得
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1890年
板垣退助が立憲自由党を再興
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1890年
第一回帝国議会開催
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1891年
板垣退助が自由党総理に復帰
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1891年
足尾銅山鉱毒事件
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1891年
第一次松方正義内閣発足、後藤象二郎が逓信大臣に就任
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1891年
内村鑑三不敬事件
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1892年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足、板垣退助が内務大臣就任
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1894年
後藤象二郎が収賄事件により農商務大臣を引責辞任
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1896年
第二次松方正義内閣発足、大隈重信外相と板垣退助内相が揃って入閣
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1896年
板垣退助に代わって樺山資紀が内務大臣就任
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1897年
板垣退助が自由党総理辞任
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1897年
後藤象二郎死去
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1897年
陸奥宗光死去
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
第三次伊藤博文内閣発足
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1898年
憲政党結成~2大民党の合同
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1898年
第一次大隈重信内閣(隈板内閣)発足~初の政党内閣
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1898年
明治民法施行
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1898年
共和演説事件で辞任した尾崎行雄に代わって、犬養毅が文部大臣就任
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1898年
憲政党で大隈重信首相・犬養毅文相ら進歩党系が自由党系に追出され憲政本党を分立
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1898年
第二次山縣有朋内閣発足
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1899年
地租増徴
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1899年
文官任用令改定
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1900年
治安警察法公布
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1900年
立憲政友会結成、板垣退助が政界引退
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足
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1901年
社会民主党結成
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足~桂園時代始まる
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1901年
田中正造が足尾鉱毒問題を天皇に直訴
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
西園寺公望が伊藤博文に代わって政友会総裁就任
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1903年
幸徳秋水らが平民社を結成、『平民新聞』創刊
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1904年
日露戦争開戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
日比谷焼打事件
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、寺内正毅が陸軍大臣就任
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
大逆事件
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1911年
警視庁に特別高等課設置
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1911年
平塚雷鳥が青鞜社結成、『青鞜』創刊
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1913年
桂太郎の立憲同志会発足、西園寺公望から寝返った加藤高明が加盟し外相就任
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足
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1914年
原敬が西園寺公望に代わって政友会総裁就任
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1916年
吉野作造が民本主義を提唱~大正デモクラシーの萌芽
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足
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1916年
非政友会政党が合同し憲政会発足・同志会の加藤高明が総裁に就任
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1918年
インフレ進行で小作争議が蔓延し「米騒動」で寺内正毅内閣退陣
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1919年
自由民権運動のカリスマ板垣退助が死去(享年82)
板垣退助の交遊録
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山内容堂
主君
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山内豊範
殿様
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吉田東洋
大師匠
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後藤象二郎
不肖の親友
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福岡孝悌
新おこぜ組の同志
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小笠原唯八
新おこぜ組の同志
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岩崎弥太郎
後藤の子分
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岩崎弥之助
三菱2代目
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武市半平太
師匠の仇
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那須信吾
師匠暗殺の刺客
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中岡慎太郎
尊攘派の同志
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佐々木高行
尊攘派の同志
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谷干城
尊攘派の同志
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坂本龍馬
後藤の盟友
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陸奥宗光
坂本の部下
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小松帯刀
薩土盟約の相手
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西郷隆盛
征韓派の首領
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江藤新平
西郷派の仲間
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副島種臣
西郷派の仲間
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大久保利通
反征韓派の首領
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岩倉具視
大久保の盟友
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三条実美
お公家さん
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伊藤博文
大久保の後継者
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井上馨
伊藤の親友
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大隈重信
大久保の後継者から脱落してライバル
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福澤諭吉
大隈党の黒幕
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犬養毅
大隈党の番頭
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大木喬任
反征韓派の政敵
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木戸孝允
反征韓派の政敵
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山縣有朋
宿敵
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由利公正
民権派同志
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黒田清隆
薩摩閥の重鎮
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松方正義
薩摩閥の重鎮
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西郷従道
薩摩閥の重鎮
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桂太郎
山縣の子分
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西園寺公望
伊藤の後継者
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長岡謙吉
坂本の部下転じて政党仲間
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中島信行
坂本の部下転じて政党仲間
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河野広中
政党仲間
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星亨
政党仲間
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尾崎行雄
政党仲間
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原敬
政党仲間
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後藤新平
見つけた才能
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金玉均
支援に値せず
板垣退助と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 80点
「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。西郷隆盛との「薩土密約」を果たすべく土佐藩兵を戊辰戦争に投入した板垣退助は、中山道軍を指揮し会津戦争を鎮定したが、苛斂誅求に喘ぐ会津民衆が早々に藩を見捨て官軍に協力するのを見て「四民平等でなければ国は守れない」と痛感し、早くも1874年に『民撰議院設立建白書』を提出した筋金入りの活動家であった。明治六年政変で板垣退助は私淑する西郷隆盛に殉じたが、不平士族反乱を起した西郷隆盛・前原一誠・江藤新平ら他の征韓派参議とは一線を画し、「土佐派」を中核に自由党を結成し武力行使によらない自由民権運動を推進した。板垣退助は民意を喚起して薩長藩閥政府に対抗し、遂に伊藤博文を動かして大日本帝国憲法制定・衆議院議員総選挙・帝国議会開設へ導き、改進党の大隈重信と合同し初の政党内閣「隈板内閣」を成立させた。山縣有朋らの「超然主義」政権が集会条例改定など弾圧姿勢を強めると、志士あがりが多い自由党急進派は過激化し「秩父事件」など暴動事件を扇動、党首の板垣退助は手を焼き自由党内の主導権争いに振回されたが、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉どおり民権派カリスマの重責をよく果した。板垣退助の自由党系政党は伊藤博文が創設した政友会の基盤となって五・一五事件まで政権政党として重きを為し、戦後自民党の源流となった。
加点 10点
坂本龍馬の手引きで土佐藩執政の後藤象二郎が演じた大政奉還劇は薩長に無視され「討幕の密勅」で戊辰戦争が勃発、徳川慶喜の擁護に固執する山内容堂は出兵を躊躇ったが、中岡慎太郎の斡旋で西郷隆盛と「薩土密約」を結んだ板垣退助は「土佐勤皇党」の流れを汲む「迅衝隊」を率い独断で官軍に参陣、東山道先鋒総督府参謀として会津城攻略等で華々しい武勲を挙げ、土壇場の板垣の活躍で土佐藩は「薩長土肥」の一角に滑り込んだ。戊辰戦争で抜群の軍才を現した板垣退助は、薩摩の西郷隆盛からも長州の大村益次郎からも高く評価された。明治維新後、薩長が軍首脳を牛耳り文官へ弾き出されたが、板垣退助の軍事的才能は突出していたといわれる。
加点 10点
板垣退助は金銭に潔癖で清貧を貫いたことで知られ、晩年は生活費にも困窮し恩賜の刀剣を売却するほどであった。また板垣退助は自由民権思想に基づき華族制度や世襲制の旧弊に反対し、三度目の勅を断り切れず伯爵は受爵したが、貴族院議員の勅撰を断り、華族に被選挙権を認めない衆議院議員にも出馬しなかった。このため、意外なことに板垣退助は自由党総理ながら死ぬまで帝国議会に議席を持たなかった。嫡子の板垣鉾太郎は自ら廃嫡して襲爵せず孫の板垣守正が爵位を返上、子孫も爽やかに板垣退助の「一代華族論」を全うしている。明治維新後「俄か志士」が栄耀栄華を極め汚職が蔓延するなか、こうした板垣退助の生き様は「一服の清涼剤」であり、高潔な人柄は国士と呼ぶに相応しい。ポストに固執しない板垣退助は首相にはなれなかったが、親友の後藤象二郎やライバルの大隈重信のように薩長藩閥に懐柔されることはなく、転向も政治的失策も犯さずに済んだ。