中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
家系・子孫
- 板垣退助は、武田信玄の筆頭重臣で村上義清に敗れ落命した板垣信方の末裔である。織田信長の甲州征伐で武田勝頼が滅亡した後、板垣信方の孫で乾を名乗った正信は、小田原征伐に陣借りして奮戦し、山内一豊の土佐移封時に召抱えられた。幕末の乾家は馬廻格300石の上級藩士で、嫡子の乾退助は吉田東洋の門人となり(新おこぜ組)、東洋甥で親友の後藤象二郎や福岡孝悌と共に土佐藩政に参画した。戊辰戦争が起ると乾退助は独断で官軍に馳せ参じ東山道先鋒総督府参謀に任じられたが、美濃から甲斐への進軍にあたり岩倉具視から「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と勧められ、300年ぶりに復姓し板垣退助を名乗った。明治政府の参議から自由民権運動のカリスマとなった板垣退助は、妻5人に五男五女をもうけたとされる。嫡子の板垣鉾太郎は土佐で教育言論活動に従事し「泰平学校」を創設、亡父の「一代華族論」に従って自ら廃嫡し襲爵せず、その嫡子(次男)板垣守正が板垣退助の伯爵位を返上した。板垣守正は、東京文学部を出て劇作家となったが板垣退助を侮辱する内容を含む『自由党異変』を帝国劇場で上演し廃嫡され(東京区裁判決により弟の板垣正貫が家督相続)、自由党系政友会と対峙する民政党に入党し永久勘当、土佐出身の仙石貢満鉄総裁に拾われ満州で第二次大戦終戦を迎えた。板垣退助の四女千代子は浅野泰治郎(浅野総一郎の嫡子)に嫁いでいる。
板垣退助と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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