祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーロー
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照柳生 十兵衞(三厳)
1607年 〜 1650年
60点※
柳生十兵衞(三厳)の寸評
柳生十兵衞(三厳)の史実
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1607年
将軍徳川秀忠の兵法指南役柳生宗矩の嫡子柳生十兵衞三厳が大和柳生の庄にて出生(生母おりんの父は豊臣秀吉の最初の主人で遠江久野藩主に引立てられた松下之綱)
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1607年
徳川家康が駿府城に移るが幕府の実権は留保し(大御所政治)大御所側近の本多正信・正純父子(吏僚派)と将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣・長安および正信を憎む本多忠勝ら(武功派)の対立が先鋭化、正信は秀忠付の年寄(老中)として幕閣を監督し権勢を握り更に武功派の恨みを買う
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1607年
戦争捕虜の回収を目的に朝鮮通信使が来航、以後徳川将軍の代替わりや世継ぎの誕生の都度祝賀使節が派遣される
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1607年
鍋島直茂の主家簒奪に憤る龍造寺高房(隆信の嫡孫)が江戸桜田藩邸で妻(の養女)を刺殺して自殺未遂を起し佐賀に戻って自殺決行、僅か1ヵ月後に父の政家も死去し龍造寺嫡流は断絶(隆信弟の信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受け存続)、後顧の憂いを断ち肥前佐賀藩32万石を完全掌握した直茂は嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据える
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1608年
徳川家康が側近の本多正純を下野小山藩3万3千石の大名に登用(老中首座の父本多正信は加増を固辞し死ぬまで相模玉縄1万石に留まる)
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1609年
[琉球征伐]謝恩使派遣を拒否した琉球王朝の討伐を徳川幕府が承認、島津忠恒が80隻・3千人の軍勢を派遣すると首里城の尚寧王はほぼ戦わずに降伏、忠恒に伴われた尚寧王は駿府城で徳川家康・江戸城で秀忠に謁見し「琉球は古来島津氏の附庸国である」ことと琉球国王の代替り毎に謝恩使・徳川将軍の代替り毎に慶賀使を派遣する旨を誓約、奄美群島の直轄領編入と琉球支配(尚王朝による間接統治)・貿易管轄権を獲得した薩摩藩は実高90万石(表高77万石)へ躍進し幕末雄藩への礎を築く
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1610年
戦国屈指の文化人大名で足利義昭・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康と主を替え肥後熊本藩54万石の開祖となった細川藤孝が隠居地の京都屋敷にて死去(享年77)
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1610年
武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将の本多忠勝が死去(享年63)、伊勢桑名藩10万石を継いだ嫡子の本多忠政は嫡子忠刻が千姫(徳川秀忠の娘)を娶り逆玉の輿で播磨姫路藩15万石へ栄転、上総大多喜藩5万石の次男本多忠朝の系統とあわせ忠勝の子孫から6大名家を輩出したが零細化し幕末には本家の三河岡崎藩5万石と播磨山崎藩1万石のみ存続
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1610年
富田勢源(中条流)仕込みの長大剣「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に剣名を馳せた佐々木小次郎が30余年続けた廻国修行を打切り豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招聘に応じて小倉城下に「巌流」兵法道場を開設、老いて名の高い小次郎は宮本武蔵に目を付けられ安穏な余生を妨げられる
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1611年
加藤清正・福島正則・浅野幸長らが淀殿を説き伏せ豊臣秀頼が京都二条城に伺候し徳川家康と会見、清正は万一に備え家臣5百人を洛中・伏見に潜伏させ自らは懐中に短刀を忍ばせて秀頼を護衛
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1611年
徳川家康を苦しめた西軍の敗将真田昌幸が次男の真田信繁(真田幸村)に打倒徳川の秘計を残し幽閉地の高野山九度山村にて死去(享年65)
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1611年
豊臣秀吉の母の従妹の子で石田三成憎しで徳川家康に与し肥後熊本藩54万石の太守となるも豊臣家滅亡を招いた加藤清正が失意のうちに死去(享年49)、後嗣加藤忠広は老中土井利勝に改易され加藤家は断絶するが熊本の「清正公」人気は今日でも藩主細川氏を凌ぐとなるも豊臣家滅亡を招いた加藤清正が失意のうちに死去(享年49)、後嗣加藤忠広は老中土井利勝に改易され加藤家は断絶するが熊本の「清正公」人気は今日でも藩主細川氏を凌ぐ
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1611年
アユタヤ王朝のエーカートッサロット王が長子のスタット親王を処刑したのち死去しシーサオワパークが即位するが間もなくクーデターが起り弑殺犯のソンタム(エーカートッサロットの子)が24代国王に就任、ソンタムが敵国ビルマも雇うポルトガル人傭兵団から津田又左右衛門が率いる日本人傭兵団(600人とも)に切替えると関ヶ原・大坂浪人・キリシタンや貿易商人がアユタヤに蝟集し日本人町は隆盛(最盛期に1500人とも)、中継貿易で財を成し日本人町・傭兵団の頭領に納まった山田長政は内乱や外征で武勲を重ねソンタムの信任を得てルアンの官位を授かる
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1612年
徳川幕府直轄領にキリスト教禁止令、キリシタンでないことを仏教寺院に証明させる寺請制度を創設(宗門人別帳に発展)
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1612年
徳川幕府が寺院諸法度による仏教教団の保護・統制政策を開始
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1612年
[岡本大八事件]本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信にお家最高を持ちかけ賄賂を詐取した罪で火あぶり刑(有馬も死罪)、将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣・長安(武功派)が大御所徳川家康側近の本多正信・正純父子(吏僚派)に巻返しを図る
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1612年
[巖流島の決闘]豊前小倉藩の剣術師範で西国一円に剣名を馳せる佐々木小次郎(富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれた中条流随一の強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始)に宮本武蔵が挑戦し藩主細川忠興の許可を得て小倉沖舟島(巖流島)で対決、武蔵は二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(享年は60歳前か。手段を選ばぬ武蔵は約を違えて弟子を同行し倒した小次郎を共に打殺したとも)、巌流と佐々木小次郎の盛名は忽ち消えうせ(1776年に武蔵の伝記物語『二天記』が世に出て復活)後に細川家の後釜には武蔵が座る
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1612年
「巖流島の決闘」で佐々木小次郎を斃し13歳から29歳まで60余の真剣勝負に全勝を収めた宮本武蔵が血闘に終止符を打ち円明流の普及と仕官探しに専念し水野勝成(忠勝の嫡子)ら徳川譜代大名に接近を図る
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1613年
[大久保長安事件]将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣(武功派)の腹心で徳川家の金銀山経営を統括した大久保長安(金春流猿楽師の下層民の出自で武田信玄に仕え徳川家に移籍)が死去、大御所家康側近の本多正信・正純(武功派)は膨大な遺産を不正蓄財と断罪し長安の一族郎党を処刑
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1613年
[慶長遣欧使節]仙台藩主伊達政宗が徳川幕府の許可を得てガレオン船を建造し正使ルイス・ソテロ-副使支倉常長を通商交渉のためスペインへ派遣(キリスト教禁止へ傾く徳川幕府への軍事介入を要請したとも)、一行180人はメキシコ経由で日本人初の太平洋・大西洋横断を果しソテロ・常長はマドリードでスペイン国王フェリペ3世・ローマで教皇パウルス5世に謁見、1620年に帰藩した常長は棄教を受入れ2年後に病没し密入国したソテロは長崎大村にて火刑に処される(使節が長期滞在したセビリア近辺コリア・デル・リオには現在支倉常長像が建てられ従者の子孫を称するJapon・Xapon姓の住民が数百人存在する)
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1613年
敵対する盗賊鳶沢甚内(後北条の遺臣)の密告により徳川幕府が向崎甚内(武田信玄の寵臣高坂昌信の子孫とも)を捕殺、瘧(マラリア)のために捕縛されたことから浅草甚内神社は瘧治癒で崇敬され、鳶沢甚内は目明し兼古着商支配役を世襲し住地富沢町の名の由来となる
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1614年
大御所家康側近の本多正信・正純父子(吏僚派)が大久保長安事件と豊臣秀頼への内通を口実に将軍秀忠側近の大久保忠隣(武功派の総帥)を改易に追込む
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1614年
方広寺鐘銘事件の罠に嵌った大阪城の淀殿・豊臣秀頼が徳川幕府に宣戦、大野治長(淀殿の乳母の子というだけで家老に出世した凡将)の招聘を受けた真田信繁(幸村)が参陣を受諾(条件は50万石とも)、真田を恐れる徳川家康は上田藩主真田信之(信繁の兄)・大和五条領主松倉重政を送り勧誘するが信繁は拒否し手勢130人と高野山九度山村を脱出し大阪城入城、長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と共に浪人軍「五人衆」に迎えられ兵5千を託されるが、治長らに兄への通謀を疑われ信義を明かすため大阪城の弱点南方に孤立無援の「真田丸」を構築、信繁は「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、時間を稼く間に秀頼自ら出陣して豊臣恩顧大名の離反を誘うべし(だが貫禄不足の幸村が説いても誰も従うまい)」という父真田昌幸の秘計を開陳、又兵衛ら老練者は賛同するも治長らに退けられ已む無く籠城策に従い真田丸に籠る
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1614年
[大坂冬の陣]徳川家康が20万の大軍を率いて豊臣秀頼の大阪城を攻撃、孤立無援の真田丸に兵5千で籠る真田信繁(真田幸村)は前田利常・松平忠直・井伊直孝・伊達政宗・藤堂高虎・松倉重政の寄せ手を奇計を以て散々に痛撃し、信濃一国を条件に投降を勧める家康の誘いを拒絶、後藤又兵衛らの浪人軍10万も奮戦して鉄壁の大阪城を守り抜くが、戦知らずの豊臣家家老大野治長(淀殿の乳母の子)の差配で勝機を逸し、徳川方の大砲が本丸に着弾し侍女8名の圧死に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は真先に破壊され欺かれて内堀まで埋められた大阪城は裸城となる
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1615年
井伊直政没後の家督争いを徳川幕府が裁定し次男井伊直孝に近江彦根藩15万石を継がせ病弱(素行不良)の長男井伊直勝には上野安中藩3万石の分知で決着、直孝は将軍秀忠から3代将軍家光の大政参与(後の大老職)に任じられ家光政権を支えて35万石に加増され譜代筆頭の家格を固める
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1615年
[大坂夏の陣・元和偃武]淀殿・豊臣秀頼が大阪城からの浪人退去か移封かの講和条件を断固拒絶すると、徳川家康は15万余の大軍を率いて大阪城を再攻、裸城の大坂方は打って出るほかなく早々に後藤又兵衛・木村重成が戦死、真田信繁(真田幸村)は伊達政宗の騎馬鉄砲隊を撃破して(道明寺の戦い)茶臼山に陣取り敵の背後を衝く起死回生の陽動作戦を講じるが淀殿が秀頼の出馬を拒絶し挫折、信繁は愛槍「十文字槍」を振って突撃し松平忠直の越前勢1万5千を切崩し本陣に迫るが力尽き討死(享年49)(天王寺口の戦い、家康は二度も自害を覚悟したという)、長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登(生存説あり)も討たれて大阪城は落城し淀殿は助命嘆願虚しく秀頼と共に城中で自害(享年46)(戦犯の大野治長も自刃、真田幸昌は父信繁の命令で大阪城へ戻り秀頼の自害を見届けた後に傍らで切腹)、豊臣家を滅ぼした家康は秀吉=豊国大明神の神号も剥奪し徳川の一人勝ちで戦国時代は終結
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1615年
大坂陣で将軍徳川秀忠に近侍した(馬廻り)柳生宗矩が秀忠を襲った木村重成の死兵7人を見事な所作で各々一刀で斬捨てる(宗矩が人を斬った唯一の記録)
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1615年
大坂陣の先鋒大将水野勝成と対立した仙台藩主伊達政宗が味方討ちの嫌疑をかけられるがお咎め無し、武功により庶長子伊達秀宗に伊予宇和島藩10万石の立藩が許される(仙台藩は次男伊達忠宗が相続)
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1615年
[佐野道可事件]毛利輝元が従兄弟の佐野道可こと内藤元盛を密かに大阪城へ送込み豊臣秀頼を支援した事実が露見、輝元は直ちに元盛を自害させ子孫を盛立てるとの約束を破り口封じのため子の内藤元珍と粟屋元豊を自害させる
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1615年
徳川幕府が武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定
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1615年
徳川幕府が貿易都市堺を直轄地とし堺奉行を設置
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1615年
徳川将軍家をライバル視する尾張藩主徳川義直が柳生利厳(宗厳の長子厳勝の次男)を兵法指南役に採用、柳生新陰流正統を自認する利厳は柳生宗矩の江戸柳生と張合い尾張柳生を立てる(剣技では長く宗厳の薫陶を受けた利厳が宗矩に優ったとも)
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1616年
戦国の最終勝利者徳川家康が駿府城にて大往生(享年75)、東照大権現を推す南光坊天海が明神を推す金地院崇伝との神号争いに勝利、亡骸は久能山に葬られ(久能山東照宮)1年後に日光東照宮に改葬
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1616年
信濃川中島・越後高田藩主で徳川家康六男の松平忠輝が行状不良により将軍徳川秀忠に改易処分、高田藩には上野高崎藩5万石の酒井家次が10万石で移封(酒井家は最終的に出羽庄内藩17万石へ累進し庶家が3藩を立てる)
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1616年
徳川家康の側近で老中首座として初期幕政を握りながら加増を固辞した本多正信が相模玉縄1万石のまま死去(享年79)、家督と幕政を引継いだ嫡子の本多正純は「3万石以上の加増自重」の遺命を破り下野小山藩3万3千石から5万3千石への加増を受ける(正純は更に自ら運動して下野宇都宮藩15万5千石への大幅加転封を受けるが将軍徳川秀忠と大久保忠隣一派・土井利勝ら秀忠側近の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易となる)
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1616年
徳川幕府が中国船以外の船の入港を長崎・平戸に限定し南蛮貿易を独占
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1616年
[千姫事件]石見津和野藩3万石の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)が大坂陣で千姫(徳川秀忠の娘)を救出し4万3千石に加増されるが徳川家康が「救出者に千姫を与える」との言葉を違え本多忠刻(本多忠勝の嫡孫)との縁談を決めたことから千姫強奪を画策、懇意の柳生宗矩は直盛を諭して切腹させるが(坂崎家臣に暗殺させたとも)家康は相続を赦さず坂崎家は断絶、慙愧の宗矩は直盛の嫡子平四郎らを召抱え副紋に坂崎家の二蓋笠を採用
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1616年
遠江久野藩1万6千石の松下重綱(豊臣秀吉の引立てで大名に出世した松下之綱の後嗣で柳生十兵衞の伯父)が大坂陣の功で2万800石へ加増される
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1619年
将軍徳川秀忠が広島城の無断改築を口実に福島正則を改易、子の福島正利を召抱え大身の旗本として福島家を存続させる
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1619年
九州制覇目前に野望を絶たれ西軍に与しながらも本領を保った西国最強武将島津義弘が死去(享年85)
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1619年
徳川将軍家の血のスペアとして尾張(家康九男徳川義直)・紀州(家康十男徳川頼宣)・水戸(家康十一男徳川頼房)の御三家体制が確立、大久保忠隣を失脚させ幕政を握った本多正純が下野小山藩5万3千石から下野宇都宮藩15万5千石へ大幅加転封
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1619年
柳生宗矩が嫡子の柳生十兵衞三厳を徳川家光の小姓に入れる
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1620年
朝幕融和のため将軍徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇の中宮に輿入れ(東福門院)、伊勢津藩主藤堂高虎は露払い役を買って出て徳川氏への忠節をアピール
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1620年
田中忠政の無嗣絶家に伴い立花宗茂が10万9千石で筑後柳川藩主に復帰、翌年立花直次(宗茂の実弟)が筑後三池藩1万石を立藩
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1621年
アユタヤ王朝のソンタム王が徳川幕府に修好使節を派遣、日本人町・傭兵団頭領の山田長政は部下を同行させ老中土井利勝へ親書を送るなど斡旋の労をとり以後も幕閣に贈物や書状を送り両国の修好に努める
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1621年
狩野探幽(永徳の孫)が徳川幕府の御用絵師に採用され狩野派は京都から江戸へ本拠を移転(永徳養子の狩野山楽は京都に留まり「京加納」を立てる)、泰平時代に合う淡麗瀟洒な画風で江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画を次々手掛けた狩野派は磐石の地位を築き探幽子孫の「奥絵師」4家を頂点に幕末まで日本画壇を支配するが大量均質生産のため技量の習得に重きが置かれ次第に芸術的創造性を失う
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1621年
柳生宗矩が徳川家光の兵法指南役に任じられ柳生新陰流を教授、嫡子で家光の小姓を勤める14歳の柳生十兵衞三厳は稽古に相伴
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1622年
[最上騒動]出羽山形藩57万石を承継した最上義俊(義光の嫡孫)の暴政に反発する楯岡光直(同弟)・鮭延秀綱ら家臣団が山野辺義忠(同四男)擁立を画策、孤立した義俊は佞臣松根光広(同甥)を通じて幕府に泣付くも6万石への減封を言渡され、家臣団が頑なに義俊更迭を主張したため佐竹家は取潰し、上野山義直(同五男)・大山光隆(同六男)は配流先で切腹したが張本人の最上義俊は近江大森1万石を供され子孫は5千石の交代寄合として存続、山野辺・楯岡・松根は10余年後に赦免され水戸藩・熊本藩・宇和島藩の重臣となり子孫は家老職を世襲、鮭延は赦免後に家臣を伴い流転し「乞食大名」と称されたが最期に土井利勝の招聘に応じ5千石で仕官
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1622年
[宇都宮城釣天井事件]幕閣を牛耳る下野宇都宮藩主本多正純が宇都宮城で将軍徳川秀忠暗殺を企てた嫌疑を掛けられ改易・出羽久保田藩主佐竹義宣にお預けとなる
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1623年
徳川秀忠の嫡子徳川家光が三代将軍就任
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1623年
遠江久野藩2万800石の松下重綱(柳生十兵衞の伯父)が下野烏山藩2万800石へ移封される
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1624年
イギリスの日本撤退に続き、キリスト教を先鋒に植民地化を推進するイスパニア(スペイン)と断交
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1624年
徳川幕府がスペイン人の来航禁止、慶長遣欧使節正使を終えて密入国したルイス・ソテロとキリスト教宣教師4名を長崎大村にて火刑
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1624年
豊臣秀吉の正室ねね(北政所・高台院)死去、実家の木下家は足守・日出の両藩主として、養家の浅野家は広島藩主として幕末まで存続
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1625年
天海が上野寛永寺を創建
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1625年
将軍徳川秀忠の側近として宇都宮城釣天井事件で本多正純を倒し幕政を握った土井利勝が下総佐倉藩6万2千石から14万2千石へ加増される(のちに下総古河藩16万石)
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1626年
本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った下間頼廉が死去(享年89)、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官を世襲し繁栄
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1626年
柳生十兵衞三厳(宗矩の嫡子)が将軍徳川家光の勘気を蒙り蟄居を命じられ(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、隠密任務の隠蔽とも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が小姓出仕、大和柳生に戻った十兵衞は上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿って新陰流研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成(柳生利厳に倣い武者修行に出て山賊退治や剣豪との仕合に励んだともいうが真偽不明)
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1627年
伊予松山藩20万石の加藤嘉明が会津藩40万石へ栄進、娘婿で下野烏山藩2万800石の松下重綱(柳生十兵衞の伯父)は加藤家与力として陸奥二本松藩5万石へ増転封となるが間もなく病没し後嗣の松下長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移される
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1628年
ソンタム王がアユタヤ王朝の軍事を担う日本人町・傭兵団頭領の山田長政に王女を入輿させオークヤー(人臣最高の三位)の官位を授与したあと病没、長政はソンタムの遺言に従い日本人傭兵800人とシャム軍2万を率いて王宮を護り遺児のチェーターティラート・次いでアーティッタヤウォンを即位させるが政敵のプラーサートトーン(ソンタムの従兄弟)が幼君を殺害・廃位し王位を簒奪、貿易を牛耳る日本人に対抗する華僑勢力の圧力も受けて長政はアユタヤから追出され南方マラッカの防衛拠点リゴール(ナコーンシータマラート)の王(知事とも)に左遷される
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1629年
勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した丸目蔵人長恵が死去(享年89)
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1629年
柳生宗矩が但馬守に任官
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1629年
[紫衣事件]徳川幕府の朝廷統制に憤る後水尾天皇が幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用を勅許、幕府は禁中並公家諸法度違反を理由に勅許無効を宣し沢庵宗彭(大徳寺154世住持)ら反抗者を流罪、不満の後水尾は幕府に無断で明正天皇に譲位
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1630年
アユタヤ王朝を簒奪したプラーサートトーン王との政争に敗れ南方のリゴール(ナコーンシータマラート王国)王に左遷された山田長政が日本人傭兵団を率い反乱を起したパタニ王国ラジャ・ウング女王を攻撃するがプラーサートトーンの刺客により負傷した足に毒を塗られ死亡、後を継いだ子のクン・セーナーピムックは日本人傭兵に暗殺されアユタヤ日本人町は焼打ちにより壊滅(2年後に日本人町は復興するが徳川幕府の鎖国政策で流入が激減し自然消滅する)
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1630年
浅井長政の足軽から豊秀秀長に仕えて大名となり真先に徳川家康へ鞍替えして譜代大名格・伊勢津藩32万3千石の太守に出世した藤堂高虎が死去(享年75)、嫡子藤堂高次から幕末まで藤堂藩は存続するが藤堂高猷は鳥羽・伏見の戦いで真先に官軍へ寝返り「さすがは藩祖高虎の薫陶」と嘲笑を浴びる
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1631年
徳川幕府が貿易統制のため奉書船以外の渡航を禁止・徳川家康発行の朱印状の回収が困難なため老中連署による奉書を義務付け
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1631年
本多忠純(正信の三男)が家臣に殺害され養嗣子の本多政遂(正信次男政重の子)が下野榎本藩2万8千石を相続、政遂と嫡子犬千代が相次いで死去し本多氏は無嗣断絶で改易・榎本藩も廃藩となる
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1632年
前将軍徳川秀忠が死去
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1632年
3代将軍徳川家光が徳川秀忠の死に伴う大赦令を出し沢庵宗彭(大徳寺154世住持)ら紫衣事件受刑者を赦免、親友の柳生但馬守宗矩に推挙された沢庵は家光に近侍
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1632年
肥後熊本藩54万石の加藤忠広(清正の後嗣。将軍徳川秀忠の養女婿)が嫡子光正の家臣相手の謀反遊戯(謀書偽造の一件。老中土井利勝の謀略とされる)を徳川幕府に付込まれ改易され忠広は庄内・光正は飛騨高山へ配流処分、代わって細川忠利(忠興の後嗣)が豊前小倉藩39万9千石から加転封となるが熊本では「清正公(せいしょこ)」の神格化が進み今日でも加藤清正人気は藩主細川氏を凌ぐ
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1632年
柳生但馬守宗矩(将軍徳川家光の兵法指南役)が3千石加増され(合計6千石)初代の幕府惣目付(大目付)に任じられ老中・諸大名の監察にあたる
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1634年
将軍徳川家光が寵臣柳生友矩(宗矩の次男。男色相手か)に山城相楽郡2千石を与える
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1635年
徳川幕府が日本人の海外渡航を禁止
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1635年
徳川幕府が参勤交代制を導入
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1636年
徳川秀忠の隠し子保科正之を兄の将軍徳川家光が認知し寵遇、信濃高遠藩3万石から出羽山形藩20万石、最終的に陸奥会津藩23万石へ加転封し松平姓を認可、保科正之は優秀な将軍参謀として徳川幕府の屋台骨を築く
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1636年
会津蘆名氏を滅ぼして南奥羽150万石を征し豊臣秀吉・徳川家康に楯突き減封されるも仙台藩62万石を保った「独眼流」伊達政宗が死去(享年70)、次男伊達秀宗が家督を相続(庶長子の伊達秀宗は伊予宇和島藩10万石で独立)
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1636年
徳川幕府が肥前長崎に出島を構築し市中に居住していたポルトガル人を押込める
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1636年
柳生但馬守宗矩(将軍徳川家光の兵法指南役)が4千石加増され大和柳生藩1万石を立藩(のち次男柳生友矩の遺領分を加増され1万2500石)、柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立(江戸柳生)
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1637年
[島原の乱]島原藩主松松倉重政・勝家の苛政とキリシタン弾圧により天草四郎率いる農民一揆が勃発、ローマ教皇・ポルトガルの援軍を期待して島原原城に籠城し力攻めした幕府軍を破り統率者板倉重昌を戦死させるが、老中松平信綱(知恵伊豆)率いる12万余の増援軍による兵糧攻めで落城し一揆勢全滅(生存者1名)、松倉勝家は切腹でなく斬首(江戸時代の大名では唯一)
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1638年
柳生十兵衞三厳(宗矩の嫡子)が将軍徳川家光から12年続いた勘気を解かれ書院番に補される
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1639年
[鎖国]徳川幕府がポルトガル船の日本来航および日本人の外国往来を禁止、オランダの平戸商館と清の博多商館を長崎出島へ移し幕末まで外国貿易を独占
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1639年
将軍徳川家光の寵臣柳生友矩(宗矩の次男。男色相手か)が27歳で病没、柳生但馬守宗矩は遺領分2千石および5百石を加増され大和柳生藩は1万2500石となる
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1640年
徳川幕府がキリシタン廃絶のため宗門改役を設置、諸藩にも宗門改制度導入を命令(宗門人別帳に発展)
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1641年
徳川幕府が平戸のオランダ商館を長崎出島に移す
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1641年
男色専門だった将軍徳川家光が女性に目覚め側室お楽の方が世子を出産(徳川家綱)
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1643年
徳川幕府が農民の没落を防ぎ年貢を確保するため田畑永代売買禁令を発令
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1643年
[会津騒動]会津藩40万石の加藤明成(嘉明の後嗣)の暴政に怒った筆頭家老の堀主水が一族郎党を伴い関所を押し破って脱出、高野山から紀州藩へ逃れた堀は徳川幕府の命で引戻され処刑されるが会津藩も改易処分(徳川秀忠の隠し子保科正之が23万石で出羽山形藩から移封)、幕府は明成の嫡子加藤明友に石見吉永藩1万石を与え家名存続を許す(のち近江水口藩2万石へ移され大名加藤家は幕末まで存続)、翌年陸奥三春藩3万石の松下長綱(嘉明の外孫)が乱心し改易に処される
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1645年
我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した宮本武蔵が肥後熊本にて死去(享年61)、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保つ
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1646年
将軍徳川家光や柳生但馬守宗矩・十兵衞三厳に慕われ大徳寺派・妙心寺派を再興した沢庵宗彭(大徳寺154世住持)が死去
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1646年
父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖にして『兵法家伝書』で「活人剣」「治国・平天下」を説いた柳生但馬守宗矩が死去(享年75)、嫡子の柳生十兵衞三厳が家督を継ぐが三男柳生宗冬に4千石を分与したため大名の家格を喪失、三厳の死により後を継いだ宗冬が22年後に1万石に達し柳生藩主に復活する
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1649年
徳川幕府が農民に質素勤勉を促す「慶安の御触書」布告
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1650年
祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われた柳生十兵衞三厳が鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死(享年43)、家光の命により遺領8千300石は弟の柳生宗冬が相続(宗冬の4千石は召上げられるが1668年1千700石加増で柳生家は1万石の大名に復帰する)
柳生十兵衞(三厳)の交遊録
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柳生石舟斎宗厳
柳生の祖
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柳生但馬守宗矩
父・宗厳五男
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柳生友矩
早世した宗矩次男
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柳生宗冬
大名に復帰した宗矩三男
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柳生兵庫守利厳
宗厳長子厳勝の次男・尾張徳川家の兵法指南役に採用された尾張柳生の祖
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柳生連也斎厳包
利厳後嗣
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松下重綱
母おりんの兄弟・遠江久野藩1万6千石から二本松藩5万石へ累進
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松下長綱
陸奥三春藩3万石に移され乱心し改易された重綱嫡子
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加藤嘉明
松下重綱舅
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加藤明成
会津騒動で改易された嘉明後嗣
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加藤明友
石見吉永藩1万石で加藤家再興を許された明成嫡子
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徳川家康
神影流・新当流・一刀流を修めた剣豪将軍
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徳川秀忠
小野忠明・柳生宗矩を兵法指南役に任じた2代将軍
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徳川家光
柳生但馬守宗矩を重用した3代将軍
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松平秀康
家康が出生を疑い養子に出した次男
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松平忠直
家臣虐殺の狂人・秀康後嗣
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徳川忠長
叛逆した秀忠次男
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保科正之
幕府の礎を築いた秀忠の隠し子
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松平忠吉
家康四男・井伊直政娘婿
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武田信吉
家康五男・水戸藩25万石で武田家を再興したが早世
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松平忠輝
家康が嫌った六男
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徳川義直
家康九男・尾張徳川家
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徳川頼宣
家康十男・紀州徳川家
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徳川頼房
家康十一男・水戸徳川家
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江
秀忠正室・織田信長姪
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春日局
家光乳母・斎藤利三娘
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本多忠勝
徳川四天王
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井伊直政
徳川四天王
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本多正信
家康謀臣
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本多正純
正信後嗣・改易された吏僚派首領
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大久保忠隣
改易された武功派首領
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大久保長安
忠隣腹心・私腹を肥やした金山奉行
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土井利勝
家光側近
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松平信綱
知恵伊豆
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沢庵宗彭
宗矩親友
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服部半蔵正成
忍者
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南光坊天海
明智光秀かも
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金地院崇伝
学僧
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立花宗茂
宗矩友人
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黒田長政
宗矩友人
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細川藤孝
塚原卜伝門人の茶人大名
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細川忠興
藤孝嫡子
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伊達政宗
徳川幕府のご意見番
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藤堂高虎
家康謀臣
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愛洲移香斎久忠
陰流創始者
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上泉伊勢守信綱
移香斎門人で新陰流を興した剣聖・塚原卜伝にも学ぶ
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疋田景兼
上泉伊勢守門人で疋田流の祖
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神後伊豆守宗治
上泉伊勢守門人で神後流の祖
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丸目蔵人長恵
上泉伊勢守門人でタイ捨流の祖
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奥山休賀斎公重
上泉伊勢守門人で神影流(真新陰流)の祖・徳川家康の師
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穴沢浄賢
上泉伊勢守門人で穴沢流の祖
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宝蔵院胤栄
上泉伊勢守門人で宝蔵院流槍術の祖
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中条兵庫頭長秀
中条流創始者
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富田勢源
中条流継承者(富田流)
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富田景政
中条流と富田家を継いだ勢源弟
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富田重政
名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
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戸田一刀斎
景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
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山崎左近将監
富田一族・山崎流開祖
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長谷川宗喜
景政高弟・長谷川開祖
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佐々木小次郎
勢源門人で巌流を興すが宮本武蔵に敗北
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伊東一刀斎景久
中条流から一刀流を創始した天才剣士
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小野忠明(神子上典膳)
徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者
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小野忠常
(小野派)一刀流を継いだ忠明後嗣
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伊藤忠也
伊藤派一刀流を分派した小野忠明弟
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古藤田俊直
北条氏遺臣・唯心一刀流を興した伊東一刀斎高弟
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飯篠長威斎家直
天真正伝香取神道流・道術兵法の創始者
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塚原卜伝
神道流継承者で新当流創始者
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根岸兎角之助
塚原卜伝高弟(微塵流)
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斎藤伝鬼坊
塚原卜伝高弟(天道流)
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師岡一羽
塚原卜伝高弟
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神取新十郎
塚原卜伝高弟で柳生宗厳の師
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竹中半兵衛
飯篠門人の豊臣秀吉軍師
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真壁氏幹
飯篠・塚原門人の佐竹義重重臣「鬼真壁」
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東郷重位
神道流から薩摩示現流を創始
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宮本武蔵
円明流(二天一流)を興した野獣剣士
柳生十兵衞(三厳)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 60点
柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。