父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ大和柳生藩1万2500万石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖にして『兵法家伝書』で「活人剣」「治国・平天下」を説いた「日本兵法の総元締」
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柳生 宗矩(但馬守)
1571年 〜 1646年
80点※
柳生宗矩(但馬守)と関連人物のエピソード
- 柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
- 柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
- 古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
- 上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
- 丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
- 塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3~4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
- 中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
- 伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
- 佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
- 宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
- 徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。
- 徳川家康は少数の従者と堺見物中に本能寺の変に遭遇、切腹も覚悟したが、服部半蔵の手引きで伊賀越えし生還、途中別れた穴山信君は落ち武者狩りに殺された。混乱に乗じた北条氏政が滝川一益を追い払って上野を押え織田領に殺到、上杉景勝も牙を剥き三つ巴戦となったが(天正壬午の乱)、和睦成って甲斐・信濃を制圧した徳川家康は三河・遠江・駿河と合わせて五ヶ国の太守となり、豊臣秀吉に対峙した。清洲会議、賤ヶ岳合戦は静観したが、1584年織田信雄に加担し挙兵、池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し優位に立つも、愚かな信雄が無断で単独講和、名目を失って停戦に応じた(小牧・長久手の戦い)。天下統一を急ぐ秀吉は宥和路線に切替え、母と妹を人質に送られた家康は遂に膝を折り、以後は織田信長同様に律儀に仕えた。1590年、九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は小田原征伐を開始、北条氏に近い家康は早期降伏を促すが氏政・氏直(娘婿)父子は拒絶、結局降伏開城するも滅ぼされた。秀吉は強敵家康から駿遠三甲信の5カ国150万石を召上げ、北条氏旧領の関八州250万石へ移封、東海道筋に子飼い大名を連ね会津に蒲生氏郷を配して封込策に出たが、家康は黙って従い江戸の都市開発に励んだ。朝鮮出兵を無傷で過ごし、1598年豊臣秀吉が死去、抑え役前田利家も翌年亡くなると、健康オタク徳川家康の独壇場となった。豊臣家の内部分裂に乗じて加藤清正・福島正則・黒田長政ら反石田三成・淀殿派の首領に納まり、勝手な婚姻政策で結束を固めると、1600年会津征伐の罠に掛かった石田三成が挙兵、小早川秀秋・吉川広家の寝返りを誘って関ヶ原合戦に勝利すると、1603年徳川幕府開設、2年後秀忠に将軍を譲り徳川氏世襲を世に示した。西軍諸将には大鉈を振るったが、本人の実力と為政者の都合で領地を入替えた信長流を廃し世襲藩固定化で外様大名を安心させつつ、政権運営は将軍家と小身の譜代衆が握り、参勤交代や天下普請で抵抗力を削ぎ、下々にも現在身分の凍結を強制して太平秩序を醸成した。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、翌年75歳で大往生を遂げた。
- 本多平八郎忠勝は、武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将、伊勢桑名藩10万石と上総大多喜藩5万石を獲得したが幕府創設で役割を終え本多正信・正純に主導権を奪われた。徳川(松平)最古参「安祥七譜代」に列する本多家の当主で、生後間もなく父忠高が織田信秀との合戦で戦死、補佐役の叔父忠真も三方ヶ原合戦で討死した筋金入りの三河武士である。1559年徳川家康が永い人質生活を終え岡崎城に帰還、翌年「大高城の兵糧入れ」で12歳の本多忠勝は初陣を飾り、桶狭間合戦で今川義元が討たれ三河衆は悲願の独立を達成、家康は凡愚な今川氏真と手を切り織田信長(信秀の嫡子)との同盟を選択した。武功を重ねる本多忠勝は19歳で家康子飼いの旗本先手役・将校に列し、姉川合戦では単騎駆けで朝倉陣を切裂き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍、1572年武田信玄に遠江二俣城を奪われた家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された(一言坂の戦い)。翌年三方ヶ原の戦いで徳川軍は信玄に一蹴されたが、左翼を担う本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を食止め殿軍の大役を果して家康を浜松城へ逃した。1582年堺見物中の家康を本能寺の変が襲うと随行の本多忠勝は殉死を制止して岡崎城へ生還させ、1584年小牧・長久手の戦いでは奇襲軍を破られ反撃に出た豊臣秀吉の大軍を僅かな手勢で食止め、第一次上田合戦では真田昌幸に敗れた徳川勢の撤退を指揮し娘を真田信之に縁付けて講和を纏めた。1590年小田原征伐に向け京都に参集した諸大名の前で秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と激賞され、家康の関東移封に伴い上総大多喜城10万石に入封、1600年関ヶ原合戦では井伊直政と共に実戦を指揮し要衝の伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ配された。徳川幕府発足後は武功派の本多忠勝に用は無く家康は吏僚派を重用、本多正信を「腰抜け」と罵りつつも危険な政争に巻込まれることなく63歳の生涯を閉じた。
- 井伊直政は、武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして寝返り工作を担った関ヶ原勝利の殊勲者、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝が将軍徳川秀忠・家光の信任を得て譜代筆頭彦根藩30万石を確立した。遠江の古豪の嫡子だが生後間もなく父が主君今川氏真に誅殺され零落した。仇敵氏真を滅ぼした徳川家康に14歳で出仕すると、家柄が良く美男子の井伊直政は寵遇され(男色相手の寵童説あり)旧領井伊谷を回復、1582年家康の養女を娶り子飼いの旗本先手役に登用され甲州征伐に活躍、本能寺事変後の家康の伊賀越えに随行し、天正壬午の乱で北条氏政との講和を纏め政治的手腕を発揮、家康は家臣団を持たない直政に武田遺臣と山県昌景の「赤備え」を承継させ井伊谷4万石に加増した。「赤備え」を率い小牧・長久手の戦いで武功を挙げた井伊直政は若輩ながら「徳川四天王」の一角に躍進し6万石に加増、1590年家康の関東移封に伴い家中最大の上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)に封じられた。1600年外交を託された井伊直政は、家康の養女栄姫との縁談で黒田官兵衛・長政父子を抱込んで小早川秀秋・吉川広家を篭絡し、京極高次・加藤貞泰・稲葉貞通・関一政・相良頼房ら豊臣賜姓大名の調略も成功させた。そして関ヶ原合戦、井伊直政は娘婿の松平忠吉(家康の四男)と共に先鋒の福島正則を出抜き先端を開くと、小早川秀秋の寝返り攻撃で戦局は一変し家康本隊を抑える毛利隊は吉川広家の妨害で動けず西軍は壊滅したが、不敵に中央突破を図る島津義弘を追撃し銃弾を浴びた(島津の退き口)。井伊直政は重傷をおして戦後処理に奔走、周章狼狽する毛利輝元を本領安堵の偽約で大阪城から釣出し、長宗我部盛親の改易処理・山内一豊の土佐入封支援や島津義弘との和平交渉を担当、家康の世子問題が起ると忠吉擁立に動いた。戦後の論功行賞で井伊直政は石田三成遺領を引継ぎ近江佐和山城18万石へ増転封となったが激務で鉄砲傷が悪化し翌年41歳の若さで病没、智勇兼備の中核を喪った幕閣では武功派と吏僚派の対立が深刻化した。後継の井伊直孝は譜代筆頭彦根藩30万石を確立し幕末の井伊直弼まで大封を保った。
- 本多正信は、徳川家康の謀略を担い天下簒奪に貢献、本多忠勝・大久保忠隣ら武功派を退け初期幕政を握るも加増を固辞し相模玉縄藩1万石に留まるが嫡子本多正純が遺命に背いて下野宇都宮藩15万5千石への加増を受け将軍徳川秀忠・土井利勝の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易となった。「安祥七譜代」の本多一族だが末流で身分は低く鷹匠として徳川家康に出仕、1564年三河一向一揆で出奔し松永久秀を経て加賀一向一揆に加わるが1580年本願寺顕如が織田信長に屈服、一揆は解体され流浪した。大久保忠世の取成しで家康に帰参を許された本多正信は武辺揃いの三河武士のなかで異彩を放ち、1590年家康の関東に伴い相模玉縄1万石(2万2千石とも)で大名に列し豊臣秀吉没後の謀略を主導、1599年加賀征伐を画策し前田利長(利家の嫡子)を挑発すると、豊臣秀頼に救援を断られた利長は生母の芳春院(まつ)を人質に差出し養嗣子の前田利常と珠姫(徳川秀忠の娘)の縁談を受入れ屈服した。関ヶ原合戦では中山道隊の軍監を務めたが(家康隊は東海道を進軍)大将の秀忠が真田昌幸の信濃上田城攻めに固執し関ヶ原に遅参、戦後正信に加増は無かったが家康の信任は不変だった。徳川の世になると、本多正信は家康に本願寺の分断工作を献策し准如(秀吉が保護した顕如の三男)の西本願寺に対抗して教如(秀吉が追放した顕如の長男)を法主とする新本願寺を創建(東本願寺)、現在まで続く泥仕合を導出した。1605年家康は徳川の天下(豊臣への不返還)を明示すべく秀忠に将軍位を譲り駿府城に退くが実権を保持したため幕府は二頭体制となり(大御所政治)、秀忠側近の大久保忠隣・長安に正信憎しの本多忠勝らが加担し(武功派)家康側近で結城秀康を将軍に推した本多正信・正純ら(吏僚派)の対立が先鋭化した。1612年劣勢の武功派は本多正純の家臣と有馬晴信の贈収賄事件(岡本大八事件)で巻返すが、翌年吏僚派は死去した大久保長安の不正蓄財を糾弾し一族郎党を処刑(大久保長安事件)、親分の大久保忠隣も改易に追込んだ。2年後に本多正信は病没、嫡子の正純が幕政を牛耳ったが加増自重の訓戒に背き墓穴を掘った。
- 服部半蔵正成は、徳川家康に仕えた伊賀「上忍三家」当主で「神君伊賀越え」で露払い役を果し知行8千石・伊賀甲賀衆支配役に任じられた忍者の出世頭、江戸城「半蔵門」の由来となった嫡子の服部半蔵正就は部下の総反発で改易されたが子孫は桑名藩家老として存続した。服部氏は伊賀北部を支配した「伊賀忍」領袖だが、服部保長(初代半蔵)が出稼ぎで室町将軍足利義晴に出仕し三河岡崎城主松平清康へ転じたが、清康は突如家臣に暗殺され嫡子の松平広忠は早世、幼君家康を人質にとられた三河武士は今川義元に隷属した。家康と同年に三河で生れた服部正成は、岡崎城帰還を果した家康に出仕し父の保長から二代目服部半蔵を襲名したとみられる。非忍者説があるが、そもそも支配層の上忍で、所領は依然として伊賀にあり家来は概ね忍者だろうから間諜・撹乱などの特殊技能をもって家康に仕えたと考えられる。1560年桶狭間の戦いで今川義元が討たれると徳川家康は織田信長と清洲同盟を締結し今川方諸城を攻め落として三河を制圧、服部正成は鵜殿長照(義元の甥)の蒲郡宇土城攻略で武功を顕し、今川氏真を滅ぼした遠江掛川城攻略、浅井・朝倉氏を破った姉川の戦い、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い、武田勝頼を滅ぼした甲州征伐と武功を重ねた。正室築山殿の謀反で家康は信長の命により嫡子信康を切腹させたが、介錯役の服部正成は涙に咽んで役目を果たせず、むしろ家康の信任を増した。1582年安土で信長の饗応を受けた家康が堺見物に赴いた矢先に本能寺事変が勃発、供廻34人の家康は窮地に陥り追い腹を覚悟したが本多忠勝の制止で思止まり茶屋四郎次郎・服部正成の手引きで伊賀越えに成功し三河岡崎城へ生還した。協力した忍者の多くは徳川家に召抱えられ伊賀同心・甲賀同心として服部正成の支配下に置かれ、正成は家康の関東移封に伴い知行8千石を与えられた。「上忍三家」の百地丹波・藤林長門守ら有力国人は天正伊賀の乱で信長に滅ぼされていた。服部正就の改易に伴い忍者衆の多くは伊賀へ戻され帰農したが、藤堂藩の行政下で半士(忍)半農の「無足人」とされ天草の乱など全国の一揆鎮圧に派遣された。
- 明智光秀の筆頭重臣で共に滅ぼされた斎藤利三の血族は意外にも大発展を遂げた。美濃守護代家の血を引く斎藤利三は、斎藤道三に仕えて娘を妻にもらうが道三滅亡で失脚、織田家に転じた稲葉一鉄の娘(姪とも)を娶り稲葉家臣となったが、喧嘩別れして明智家に移った。信長からの利三返還要求を固辞した光秀は「推参者め!」と激しく打擲され恨みを含んだという。利三の異父妹は長宗我部元親の正室で、織田家との同盟の架け橋となったが、信長が同盟を反故にして四国征伐に変じたため光秀・利三主従は面目を失った。山崎合戦に敗れた斎藤利三が京都六条河原で斬首された後、男児は追われて落ち武者に転落したが、4歳の末娘お福は稲葉重通(母の兄または従兄、稲葉一鉄の庶長子)の養女となり、重通の婿養子で小早川秀秋家臣(家老5万石)の稲葉正成の後妻に入り、正勝など四男を産んだ。正成は関ヶ原合戦の小早川寝返りに働いて徳川幕府の覚えが目出度かったが、秀秋と対立して美濃に退き戻り、秀秋狂死で小早川家が断絶すると浪人に転落した。妻のお福は、正成と別れて京に上り(正成の浮気相手を斬殺したとも)、竹千代(徳川家光)の乳母募集に合格、次男国松(忠長)を偏愛する生母江に嫌われた竹千代の母代わりとなり、家康に長子相続の正当性を直訴、家光は家康の鶴声で将軍位を掴んだ。家光に有難がられたお福改め春日局は、大奥を牛耳って絶大な権勢を誇り、前夫の正成を2万石で召し出したのを皮切りに、前妻の子を廃して自分の産んだ正勝に稲葉家を継がせ8万5千石と老中職を獲得、その子正通の代には14万石に引き上げた。さらに、正成前妻が産んだ堀田正盛を自分の養子分とし、千石の身代から一躍15万石の大封と老中職を授けた。春日局が樹立した稲葉・堀田の両家は、幕閣首脳を世襲して大いに栄え、幕末には井伊直弼に排斥された老中堀田正睦が出ているが、徳川綱吉施政期には大老堀田正俊が江戸城内で稲葉正休に刺殺されるという大事件も起している。
柳生宗矩(但馬守)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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