父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ大和柳生藩1万2500万石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖にして『兵法家伝書』で「活人剣」「治国・平天下」を説いた「日本兵法の総元締」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
柳生 宗矩(但馬守)
1571年 〜 1646年
80点※
家系・子孫
- 柳生氏は、菅原道真の末裔を称する大和添上郡柳生郷の土豪で、元は春日大社の社人であったが大和を支配した興福寺の傘下に入り、山城・伊賀と隣接する隠れ里に在したことから諜報力と武芸が発達し小領主ながら独特の存在感を現した。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)に反抗するが長政が三好長慶に討たれ降伏、順昭没後は松永久秀(三好権臣)に転じ大和攻略の先棒を担いだ。長慶の死で孤立した久秀は三好勢・筒井順慶(順昭の嫡子)に攻囲されたが織田信長に臣従して局面を打開、久秀を支え柳生の庄2千石を保った家厳は順慶の織田家帰順を機に家督を嫡子宗厳に譲り隠遁した。柳生七郎左衛門(家厳の弟)は、京八流・中条流・神道流を学び柳生家に兵法を興した剣客で松永久秀とも懇意であった(実は名物「平蜘蛛」を譲受けたとも)。七郎左衛門に「当家の宝」と賞された柳生宗厳は、不惑に至って上泉伊勢守信綱に師事し並居る高弟を差置いて一国一人の印可を授かり新陰流正統を受継いだ。豊臣秀長の太閤検地で隠田を摘発され柳生家は全所領を失い一家は離散したが、柳生宗厳が徳川家康に「無刀取り」を披露したことで運が拓け居合わせた五男の柳生宗矩が200石で召抱えられた。長子の柳生厳勝は合戦で不具となったが、宗厳は厳勝次男の利厳の素質を愛し手元に置いて新陰流を授けた。宗厳四男の柳生宗章は小早川秀秋に仕官、小早川家改易に伴い伯耆米子藩に転じるがお家騒動に捲込まれ討死した。大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生但馬守宗矩は大和柳生2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に栄進、柳生新陰流は将軍家お家流とされ、大坂陣では秀忠を襲った敵兵7人を瞬時に斬殺、3代将軍徳川家光にも重用され大和柳生藩1万石(のち1万2500石)の大名となった(江戸柳生)。嫡子の柳生十兵衞三厳は剣名を馳せたが早世、三男の柳生宗冬が後を継ぎ柳生藩は幕末まで続いた。柳生兵庫守利厳は(妻は島左近の娘)、加藤清正に仕官するが同僚を斬殺し逐電、流浪10余年を経て尾張藩主徳川義直に仕官し子孫は兵法指南役を世襲した(尾張柳生)。
柳生宗矩(但馬守)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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