織田信長の畿内平定戦で台頭し北陸方面軍司令官に就任、上杉謙信急死と本願寺和睦により越前から加賀・能登を征し越中に進むが本能寺の変が勃発、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭家老
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柴田 勝家
1522年 〜 1583年
40点※
家系・子孫
- 柴田家は、尾張守護斯波氏の庶流で尾張愛知郡上社を所領した土豪である。織田信秀に出仕した柴田勝家は信長の家督相続時に既に重鎮であったから相当の名家のはずだが、何故か父親は不詳で勝家自身の妻子の存否も定かでない。養子に柴田勝豊(姉の子)・勝敏(妹の子)・勝政(佐久間盛次三男)をもらっているから、成人した男児は無かったかも知れない。柴田勝豊は、清洲会議で勝家の所領となった近江長浜城の守将を任されたが、豊臣秀吉の調略を受けて長浜城ごと寝返り、賤ヶ岳合戦の直前に京都東福寺で病死(?)した。寝返りの原因は勝家に寵遇された勝政への嫉妬というから愚か、その勝政と勝敏も賤ヶ岳合戦後に滅ぼされた。柴田勝家よりも、清洲会議後に後妻にもらった信長の妹お市が有名だろうか。輿入れ翌年に起った賤ヶ岳合戦で市は勝家に殉じたが、浅井長政胤の連れ子三姉妹は秀吉に降って助命され歴史に名を刻んだ。秀吉に身を献じて後嗣秀頼を産んだ茶々は、淀城をもらって女大名「淀殿」となり、秀吉没後の大阪城に君臨したが、徳川家康の世となっても亡き太閤の威光にすがりつき豊臣家を破滅に追い遣った。初は京極高次正室、江は徳川秀忠正室となり三代将軍家光を産んだ。柴田勝家は、織田家譜代仲間の佐久間信盛・盛次兄弟と深い縁を結び、特に盛次嫡子で鬼玄蕃と称された猛将佐久間盛政を重用して前田利家と並ぶ両翼と頼んだが、賤ヶ岳合戦では盛政が命令に背いて敵を深追いし敗死したことが勝家滅亡の導火線となった。なお、盛次次男の佐久間安政は信濃飯山藩主(3万石)、四男の佐久間勝之は佐々成政の婿養子から復姓して信濃長沼藩主(1万8千石)に出世した。
柴田勝家と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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