叔父のお陰で長州閥首脳に取り入り、日露戦争勝利の栄誉に恵まれた山縣有朋の側近
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
桂 太郎
1848年 〜 1913年
50点※
家系・子孫
- 桂太郎の父桂與一右衛門は知行125石の馬廻役で長州藩の上士身分であった。母喜代子の兄中谷正亮は藩校明倫館きっての秀才といわれ、吉田松陰の親友で松下村塾の後援者であり、木戸孝允とも親交があった。桂太郎は好色で、しばしば新聞ダネにもなった。最初と2番目の妻は離婚、3番目と4番目の妻はそれぞれ一男一女をもうけたが病没、5番目の可那子(井上馨の養女)が二男一女を産んだ。日露戦争勝利で公爵に栄達した桂太郎は方々で浮名を流し、日比谷焼打事件の折には愛人お鯉の妾宅に怒れる民衆が押しかける騒ぎとなった。
- 和田氏は毛利元就の七男天野元政の末裔を称した長州藩医の家柄で、木戸孝允(小五郎)は、和田昌景の嫡子だが生来病弱で成人は無理と考えられたため異母姉の婿養子和田文讓が和田家を継ぎ、7歳のとき和田家の向いに住む桂九郎兵衛孝古が無嗣没したため末期養子に入り桂小五郎となった(萩城下に生家の和田邸が現存)。桂氏は、毛利元就を支えた桂元澄から続く長州藩の名門で、小五郎の家は庶流ながら家禄150石の中級藩士で養父は膨大な遺産を遺した。なお同族の桂太郎は、維新期には無名の若輩ながら木戸孝允のお陰で王政復古の賞典禄下賜に名を連ね(250石)ドイツ留学を経て陸軍長州閥に入り首相に栄達した。さて木戸孝允は、長州藩・明治政府の領袖のうえ男前で大変女性にもてたが、禁門の変後に窮地の木戸を援けた愛人の幾松(京都三本木の遊女)を正妻に迎え苦労に報いた(木戸松子)。しかし幾松は子を生さず、木戸孝允は妹の治子と来原良蔵の次男正二郎を養嗣子に迎え、孝允没後に木戸正二郎は侯爵に叙されたが急逝、兄の孝正が候爵木戸家を承継した。木戸孝正は、木戸孝允が妾に産ませた一人娘の好子(生母は不明)を妻としたが新婦は早世し(孝允の血統は断絶)、山尾庸三の娘寿栄子を後妻に迎え幸一をもうけた。候爵木戸幸一は、長州閥の御曹司として内務大臣などを経て内大臣に就任し天皇側近として宮廷政治を宰領した。木戸幸一は、軍部のテロに腰砕けとなり「虎穴に入らずんば虎子を得ず」などといって東條英機を首相に指名、東京裁判でA級戦犯となり終身禁固刑に処されたが投獄を免れた。昭和天皇と自らの弁護に躍起の木戸幸一は、GHQに悪名高い『木戸日記』を提出して軍部の横暴を誇張し「戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました」とまで哀訴、これを知った橋本欣五郎から「なんという事をいう奴だ、この大馬鹿野郎が」と罵倒されても一言も返せず赤面を覆った。木戸幸一は、児玉源太郎の娘ツルを妻とし、多くの子孫に囲まれ1977年まで長寿を保った。
- 井上氏は清和源氏の一流で安芸に土着し国人領主となったが、同格の国人から勢力を伸ばした毛利弘元の家臣団に組込まれた。井上元兼ら「井上党」は弘元次男の毛利元就の家督相続を援けたことで主家を凌ぐ権勢家となり、専横を憎む元就の謀略により粛清された。ただ、一門の多い井上党のなかには粛清を免れ存続を赦された家もあり井上就在もその一つ、子孫の井上馨の家は家禄100石の大組士で、高杉晋作(200石)・桂太郎(125石)らと同じ中級藩士であった。井上馨は志道家に入嗣した後に井上家に復籍したが、志道家も毛利元就の代から続く譜代長州藩士で禄高は250石であった。井上馨は男児を生さず、兄井上光遠の次男勝之助を養嗣子とし侯爵井上家を継がせたが、勝之助も男児に恵まれなかった。男系の幸薄い井上馨だが閨閥づくりに励み、特に桂太郎とは濃い縁戚関係を結んだ。桂太郎の次男三郎を実娘千代子の婿養子にとって侯爵井上家の3代目とし、桂太郎の最後(5番目)の妻可那子を養女にした。井上三郎・千代子夫妻の間に生れた井上光貞は、昭和初期に『日本国家の起源』『日本の歴史第一巻・神話から歴史へ』など一般読者に分り易い概説書を著して古代史ブームに火をつけ、大戦後はマルクス主義全盛期にあっても実証主義的立場を貫き歴史学に独自の方法を築いた。「光貞史学」の根底には、常に貴族の誇りが貫かれていると評する人もいる。男児の無い伊藤博文は井上馨の甥の博邦に公爵伊藤家を継がせ、原敬は井上馨の後妻武子の連子(実父は薩摩人の中井弘)貞子を妻に迎えたことで出世し、鮎川義介は母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し日産コンツェルン創業者となった。閨閥家の井上馨は養子女縁組を乱発したが、岸信介・佐藤栄作兄弟の大叔父(母である佐藤茂世の伯父)井上太郎も養子の一人といわれる。
桂太郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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