一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没、息子勝頼の代で家が滅ぼされた残念な英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
武田 信玄
1521年 〜 1573年
90点※
家系・子孫
- 甲斐武田氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光が甲斐守在任中に生した次男義清を祖とする。清和源氏の名門だが、逸見・甘利・板垣・小笠原・南部・秋山・平賀など甲斐の土豪は概ね同族で、飛び抜けた存在ではなかった。猛将武田信虎は、武力で諸豪を切従え甲斐守護職を獲得、伊沢(石和)から甲府躑躅ヶ崎に居館を移して東信濃に侵出し、遠江守護今川義元に娘を嫁がせ甲駿同盟を結んだ。暴虐な性質で、胎児の発育過程を見るため10人の妊婦の腹を割いたという。嫡子の武田信玄は、信虎が同母弟の信繁を偏愛したため少年期は阿呆な素振りで警戒をかわし、重臣と姉婿今川義元を味方につけて信虎を駿河へ追放し家督を奪った。武田信玄は、継室三条の方(本願寺顕如の妻如春尼の姉)との間に三児を生し、滅ぼした諏訪頼重の娘で「かくれなき美人」諏訪御料人を強引に側室にして四男勝頼を産ませた。嫡子の武田義信は優秀だったが今川氏真(正室の兄)を庇い駿河侵攻を狙う信玄と対立、謀反の嫌疑で廃嫡・自害させられた。次男信親は盲人で三男信之は夭逝したため、信玄は四男勝頼(公式には勝頼の嫡子信勝・生母は織田信長の姪で養女)を家督に据えた。長篠の戦いに敗れた武田勝頼は、北条氏政の妹を継室に迎え甲相同盟を固めたが、御館の乱で上杉景勝に乗換え(妹菊姫が入輿)実弟の上杉景虎を殺された氏政は甲相同盟を破棄して織徳同盟へ加盟、織田・徳川・今川が三方から甲斐へ攻込み孤立した勝頼は信勝・郎党90人と共に自害した。信玄娘婿の木曾義昌・穴山信君が寝返り信玄弟の武田信廉を筆頭に諸将悉くが降参するなか、仁科盛信(同五男)・武田信豊(同甥)は意地を貫き死花を咲かせた。勝頼が遺した一女は旗本宮原氏に嫁いで嗣子晴克を産み、信親(信玄次男)の孫信興は柳沢吉保の引立てで武田氏再興を許され表高家に列し、信清(同七男)は上杉景勝に仕え、信俊(同甥)の家も大身の旗本として残った。武田の精強を恐れる信長は根絶やし作戦を展開したが、生延びた遺臣の多くは徳川家康に召抱えられ、選に漏れた者は武蔵多摩に集住し「八王子同心」として武士の面目を許された。近藤勇ら新撰組の多くは八王子同心の家柄である。
武田信玄と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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