安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
毛利元就の寸評
毛利元就の史実
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1497年
安芸吉田の国人(3千貫の小領主)で郡山城主の毛利弘元の次男に毛利元就が出生
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1499年
家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた蓮如が死去(享年85)、五男実如が承継した一向教団は孫の顕如の代に摂津・加賀を支配する「戦国大名」へ発展し各地に一向一揆を起して諸大名を苦しめるが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し皇族に準ずる権勢を保持する
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1500年
追放された前出雲守護代尼子清定の嫡子尼子経久が山中勝重(鹿介の先祖)・鉢屋(賤視された遊芸民)を従え元旦の千秋万歳と偽り潜入する奇計を用いて月山冨田城を攻略、塩冶掃部介を討取って出雲守護代職を奪還し出雲国を制圧、石見・伯耆・安芸・備後へ侵出し西の大内義興・東の山名氏と対峙
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1500年
毛利弘元が嫡子毛利興元に家督を譲り次男毛利元就を伴い多治比猿掛城に隠居
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1504年
[立河原の戦い・長享の乱終結]関東管領山内上杉顕定が古河公方足利政氏(成氏の嫡子)を味方に付け扇谷上杉朝良(定正の後嗣)を圧迫、今川氏親・北条早雲と同盟した朝良は武蔵立河原(立川)の決戦で圧勝し顕定を北武蔵の鉢形城に追詰めるが、来援した越後守護代長尾能景(為景の父)が椚田城(八王子)・実田城(平塚)を攻落として扇谷上杉領と今川・北条領を遮断し河越城に孤立した朝良を降伏させて18年続いた長享の乱は山内方の勝利で終結、関東公方足利諸家に続いて疲弊した両上杉氏も没落し北条・今川・長尾・長野ら国人勢力に関東争覇の主導権が移る(西上野の領袖長野房兼は戦死するが後継の長野業尚・憲業・業正が台頭)
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1505年
実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
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1506年
毛利弘元が酒毒により死去、次男毛利元就が多治比75貫を分与され猿掛城主となるが、後見役の重臣井上元盛に所領を横領され困窮して「乞食若殿」と蔑まれる
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1506年
[九頭竜川の戦い・般若野の戦い]室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、越前では朝倉宗滴が圧倒的寡勢で九頭竜川の決戦に勝利し吉崎御坊を破却(1万対30万とも)、能登守護畠山慶致も防衛に成功すると一向一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾能景が来援するが砺波郡般若野の合戦で神保慶宗の裏切に遭い罠に嵌って討死(越後守護上杉房能は傍観)、長尾勢は越後へ敗走し嫡子長尾為景は復讐を誓う
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1506年
中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した雪舟が石見益田にて死去(享年86。雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)、雪舟は江戸時代に日本画壇を支配した狩野派に崇敬され芸術神となる
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1507年
[永正の錯乱~両細川の乱]室町幕府の実権を握る細川宗家(京兆家)で政元の養子3人(澄之・澄元・高国)の家督争奪戦が勃発、「半将軍」管領細川政元が重用する細川澄元が三好之長ら阿波勢を率いて入京し優位に立つと、細川澄之・香西元長が政元を暗殺して京兆家を簒奪(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)、澄元・之長は近江へ逃れるが、高国・政賢ら細川一族と丹後守護一色義有が澄之・元長を征伐、帰京した澄元が京兆家当主に納まる
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1508年
周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前を支配する大内義興の軍勢が京都を制圧、義興は将軍足利義澄を追放して足利義尹(義稙)を将軍に復位させ管領代・山城守護に就いて幕政を掌握、義興へ寝返った細川高国が細川宗家の家督を奪い細川澄元・三好之長は足利義澄を伴って近江へ逃亡するが京都奪還を窺い、義興不在に乗じた尼子経久が石見・伯耆・安芸・備後へ勢力を伸張
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1509年
[如意ヶ嶽の戦い・岡山城の戦い]近江甲賀で体制を立直した細川澄元・三好之長が京都奪還を目指して粟田口に侵入するが大内義興・細川高国の大軍に迎撃され本拠の阿波へ逃亡、義興・高国軍は近江岡山城に逃れた前将軍を追撃するが六角高頼に敗れ京都へ撤退
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1511年
[船岡山合戦]前将軍足利義澄を擁する細川澄元・政賢と三好之長ら阿波勢が京都を奪還するが、近江の六角高頼が寝返り義澄が病死、洛北船岡山に陣取って大内義興・細川高国に決戦を挑むが総大将政賢まで討取られ壊滅、澄元・之長は本拠地の阿波へ逃れ抵抗を続ける
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1511年
井上元盛死去、毛利元就が元服して分家を立て多治比の所領を取り戻す
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1512年
尼子経久が山名氏領に侵攻し備後を支配圏に収める
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1515年
尼子経久が大内氏領に侵攻し石見西半を支配権に収め安芸にも勢力拡大
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1516年
北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定
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1516年
[西の桶狭間・有田中井手の戦い]安芸吉田の国人(小領主)で郡山城主の毛利興元が急死し幼少の幸松丸が家督相続、安芸守護の武田元繁が「室町将軍の上意」を口実に毛利氏・吉川氏の領地に侵攻、興元の弟毛利元就が寡兵で撃退し武田元繁は討死
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1516年
大内義興が室町幕府から日明貿易の恒久的管掌権限を獲得、横槍を入れた細川高国と不仲になり寧波の乱へ発展
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1518年
尼子経久に領国を荒らされた大内義興軍が10年に及んだ京都滞在を終えて山口へ帰国、後ろ楯を失った将軍足利義稙・細川高国の政権基盤が揺らぎ、阿波で抵抗を続ける細川澄元・三好之長の陣営が盛り返す
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1518年
桜井宗的が出雲磨石城にて反旗、尼子経久は武勇の嫡子尼子政久を征討に送るが一矢に射抜かれ戦死(経久は政久の死を悼み嫡子晴久を家督とする)、新宮党を率いる次男尼子国久が猛攻で出雲磨石城を落とし城兵悉くを斬殺
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1519年
戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる
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1520年
中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続
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1520年
播磨・備前・美作守護の赤松義村が実権を奪った守護代浦上村宗(宗景の父)の備前三石城を攻撃するが宇喜多能家(直家の祖父)らの奮戦で撃退、幽閉された義村は翌年暗殺され赤松氏は没落し(村宗と敵対する浦上村国が8歳の嫡子赤松晴政を赤松氏当主に擁立)浦上氏の勢威が高まる
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1521年
[等持院の戦い]大内義興軍が去った京都を細川澄元・三好之長が奪回、細川高国は近江へ逃れるが六角定頼の加勢を得て反撃、追い詰められた之長は京都百万遍で自害し(嫡子元長が後継)、阿波へ敗走した澄元も病没(嫡子晴元が後継)、高国は寝返った将軍足利義稙を追放し前将軍義澄の子足利義晴を12代将軍に擁立
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1521年
毛利元就が横田村尾城を急襲、城主で毛利幸松丸の外祖父高橋興光を討取り所領400貫を奪取
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1521年
尼子経久が浦上氏領に侵攻し備中と備前西半まで支配圏に収める
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1522年
尼子経久軍が安芸高田郡に侵攻、先鋒の毛利元就が同族の坂氏を討滅
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1523年
[鏡山城の戦い]尼子経久方の毛利元就率いる安芸国人衆が大内義興方の安芸西条鏡山城を攻略、尼子は安芸を支配圏に収め毛利は武名を上げるが、恩賞を巡り両者の関係が悪化
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1523年
毛利家当主幸松丸が急死(謀殺説あり)、叔父の毛利元就が尼子経久の介入を退け弟の就勝(元綱説あり)一派を殺害して毛利家の家督と吉田郡山城を承継、嫡子毛利隆元誕生
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1523年
[寧波の乱]明の貿易港寧波で細川高国と大内義興の使者が争う
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1523年
備前三石城の浦上村宗が播磨へ出兵し赤松晴政(村宗が暗殺した義村の遺児)を播磨・備前・美作守護に擁立した浦上村国・御着城主小寺則職を攻撃、浦上軍指揮官の宇喜多能家は次男四郎の戦死に逆上し敵陣に突撃奮戦して決定的勝利を挙げ、晴政を確保し播磨・備前・美作を掌握した浦上氏は戦国大名へ発展
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1524年
大内義興軍が安芸に侵攻、尼子経久方の武田光和(元繁の嫡子)が籠る銀山城を攻囲するが毛利元就が夜襲で撃退
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1524年
[大永の五月崩れ]尼子経久が南条宗勝ら反抗勢力と守護山名澄之を追放し尼子晴久を守護に就けて伯耆を支配権に収める
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1525年
独立を期す毛利元就が束縛の強い尼子経久を離反して統制の緩い大内義興に鞍替え(正式な手切れ通告は1534年の安芸守護武田氏滅亡後)
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1526年
薩摩・大隅守護の島津勝久が薩州家島津実久の専横に圧迫され伊作家島津忠良(日新斎)の嫡子島津貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の反抗と勝久の寝返り遭って貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、13年に及ぶ長期内戦に発展、日新斎・貴久は長期戦の構えをとり自領の防備を固めて土豪勢力の取込みを進める
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1527年
将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛し波多野・三好連合軍を掃討して京都を制圧するが、宗滴は高国との対立により翌年撤兵し細川晴元・三好元長が再び京都を奪回
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1527年
[細沢山の戦い]大内と山名が反尼子で提携、尼子経久は備後に出陣するも陶興房(晴賢)率いる大内軍に敗北、国人衆は尼子から離脱し大内義興が安芸・備後を支配圏に収める
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1529年
日明・朝鮮貿易を牛耳り周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に君臨した大内氏絶頂期の当主大内義興が死去(享年52)、嫡子の大内義隆が家督を継ぐが京都を凌ぐ文化都市となった周防山口で遊芸に溺れ家運は傾く
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1530年
安芸吉田郡山城主毛利元就の次男に毛利元春が出生(のち母の実家の安芸吉川家を継ぎ吉川元春)
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1530年
尼子経久の三男で西出雲を治める塩冶興久が謀反、出雲を二分する大乱となるが、漁夫の利を狙う大内義隆は経久と和睦・支持、興久は敗北し備後に落ち延びるが4年後に自害、西出雲は経久の次男国久の支配地となる
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1530年
[田手畷の戦い]少弐政資を滅ぼした周防の大内義隆(義興の嫡子)が止めを刺すべく杉興連に軍勢1万を預けて肥前勢福寺城の少弐資元(政資の後嗣)を攻めるが龍造寺家兼が撃退、少弐氏から実権を奪った家兼は大内義隆(義興の嫡子)に通じて独立を図る
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1530年
将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する
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1531年
[大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行
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1532年
町衆を中心とする日蓮宗門徒が京都の自治権を掌握し山科本願寺焼打ちなどで他宗派を排斥
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1532年
[飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避
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1533年
伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始
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1533年
安芸吉田郡山城主の毛利元就の三男に毛利隆景が出生(のち備後三原の小早川家を継ぎ小早川隆景)
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1533年
尼子経久が大物崩れで戦死した浦上村宗の遺領に攻込み備前・美作を奪取、播磨は細川晴元が制圧し村宗の嫡子浦上政宗は西播磨に追詰められる
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1534年
尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生
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1534年
銀山城主武田光和が重臣熊谷信直との対陣中に急死し安芸守護武田氏は空中分解で断絶、熊谷・宍戸・山内・天野氏等を従え安芸国人の盟主となった毛利元就が正式に尼子経久に手切れを通告し大内義隆へ鞍替え(事実上の転籍は1525年頃)、大内家からの独立も企図する元就は尼子領の備後を襲って領土拡張に励む
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1536年
周防の大内義隆(義興の嫡子)に攻められた肥前勢福寺城の少弐資元が降伏開城するが、和睦条件を反故にされ大宰大弐の官職と所領を奪われたうえ攻められて梶峰城で自害(嫡子冬尚は助命される)、義隆に通謀し主君を見捨てた龍造寺家兼は東肥前の戦国大名へ台頭
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1536年
[天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺
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1537年
毛利元就が尼子氏に正式に手切れを通告し嫡子毛利隆元を人質として大内義隆に提出(尼子側に居た人質15人は討死)、宮氏攻めを皮切りに備後攻略を本格化させ勢力伸張
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1537年
尼子経久と大内氏との石見銀山争奪戦開始、尼子経久は家督を孫の尼子晴久に譲り隠居
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1537年
豊臣秀吉が尾張国中村の下層民(焙烙売り・賤民とも)の家に出生(父は織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門とも伝わるが不詳、母なかは徳川家康の人質に出した大政所、弟秀長は優秀な副将、姉日秀の子は豊臣秀次、妹あさひは徳川家康に入輿)、20歳前後で織田信長に仕えるまでの事跡は不明(家出して悲惨な放浪生活を送り、武家奉公の最初は今川家臣松下之綱だったとされる)
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1538年
[第一次国府台合戦]鎌倉から武蔵江戸城まで制圧した北条氏綱に対し、小弓公方足利義明が里見義堯・真里谷信応を誘って下総国府台城で挙兵、家柄と武勇を過信し江戸川渡河中の攻撃策を捨てた義明が嫡子義純・弟基頼もろとも討死、戦線離脱し兵力を温存した安房里見氏が漁夫の利を得て久留里城・大多喜城を落とし房総半島の大半を掌握
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1538年
尼子晴久が播磨に侵攻、守護赤松晴政と浦上政宗を敗走させるが三木城主別所就治の抵抗に遭い、安芸戦線を毛利元就に脅かされたため出雲へ撤退
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1539年
凡愚な島津勝久が国人衆に見放され再び島津実久と抗争を始めると、島津忠良(日新斎)・貴久父子は反攻を開始、加世田別府城・市来鶴丸城の戦いで実久を降伏させて鹿児島内城に入り、反抗した実久も追放(最後は大友氏を頼り豊後で客死)して島津宗家の家督と薩摩・大隅守護職を奪回、領国に割拠する土豪征伐に乗出す
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1540年
龍造寺家兼・馬場頼周ら旧家臣団が少弐冬尚を当主に担ぎ名目上少弐家を再興
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1541年
[吉田郡山城の戦い]毛利元就に安芸・備後の領地を切取られた尼子晴久が武田光和の遺児武田信実を担ぎ反攻、大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略(12歳の次男吉川元春が家臣の制止を振り切って初陣)と大内家陶隆房(晴賢)の援軍により撃退され尼子久幸(経久の弟)も戦死、武田信実は出雲に逃亡し安芸守護武田氏滅亡、元就は反抗勢力を皆殺にして安芸を制圧
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1541年
流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)
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1542年
斎藤道三が反抗勢力の首領土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、これにより対立した傀儡の美濃守護土岐頼芸の大桑城を急襲、土岐頼芸・頼次父子は織田信秀を頼って尾張に亡命し斎藤道三が名実ともに美濃一国を平定、土岐頼芸の落胤と考えられていた嫡子斎藤義龍を後継指名して反抗を鎮める
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1542年
徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)
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1543年
[月山富田城の戦い]大内義隆率いる大軍(毛利元就も従軍)が出雲に反攻し尼子晴久の月山富田城に攻込むが吉川興経らの寝返りと補給難により退陣、兵力十分ながら下手な退却戦指揮により被害甚大(備後竹原高山城主小早川正平も戦死)、尼子方が勢いを盛返し大内方から石見銀山も奪還
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1543年
[鉄砲伝来]倭寇の頭目王直(五峯)の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子は火縄銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製に成功、貿易商人を通じて忽ち畿内へ伝播し早くも同年中に和泉堺・紀州根来寺・近江国友などで鉄砲製造がスタート、鉄砲と硝石の調達・鉄砲鍛冶の獲得・鉄砲隊の調練は戦国大名の軍事戦略の要諦となる
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1544年
尼子晴久勢が月山富田城の戦いで戦死した小早川正平の備後竹原高山城に侵攻するが毛利元就出陣により撤退、正平の嫡子又鶴丸が盲目のため毛利元就が三男又四郎を婿養子に送り込む(元服後に又鶴丸一派を粛清して家督を継ぎ小早川隆景を名乗る)
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1546年
[河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙
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1546年
河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙
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1546年
[舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)
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1546年
毛利元就が形式上隠居し嫡子毛利隆元を当主に据える、正妻妙玖(吉川家当主興経の叔母)死去
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1546年
肥前の領袖有馬晴純を後ろ盾に付けた少弐一門の馬場頼周が大内氏への通謀を名分に肥前水ヶ江城の龍造寺家兼を急襲、龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害されるも家兼は逃亡、筑後柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り鍋島清房・千葉胤連を従えて頼周・政員父子を討滅、間もなく家兼は病没し宝琳寺に預けられていた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継ぎ水ヶ江城主となる
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1547年
寝返りの常習者吉川興経が毛利元就の仲介で大内義隆に帰順するが家臣団の反抗で強制隠居、毛利元就は次男を養嗣子に入れ新当主吉川元春を擁立(3年後に興経と一族を殺害)、毛利氏は養子戦略(毛利の両川体制)により安芸一国を制圧
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1547年
大内義隆の命を受けた毛利元就が備後神辺城を攻略、初陣の三男小早川隆景は単独で城を攻落とす活躍
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1547年
村上義益と従弟村上武吉による能島村上氏の家督争いが激化し大内義隆・小早川水軍を味方に付けた村上義忠(武吉の父)・村上隆重(同叔父)の攻撃を受けた義益は来島中途城へ逃れたのち早世、武吉は義益派の来島村上通康の娘を娶って懐柔し家督を継ぐが通康は帰服せず伊予河野氏に属し独自路線を歩む
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1547年
龍造寺隆信が主家の少弐冬尚を攻め勢福寺城から追放
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1548年
毛利元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景を伴い山口の大内義隆を伺候、美少年の隆元は男色家の義隆に寵遇され養女と婚約、武勇の吉川元春と陶隆房(晴賢)は義兄弟の盟を結ぶ
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1548年
連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成
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1549年
[キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)
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1549年
龍造寺本家当主の胤栄(龍造寺隆信の傀儡)が後嗣無く死去、隆信は大内義隆を後ろ盾に付けて反対派を抑え胤栄未亡人に入婿する形で龍造寺本家の家督を横領(このとき義隆の偏諱を受けて隆信を名乗る)
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1549年
[江口の戦い~細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)
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1550年
[二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる
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1550年
毛利元就が専横を強める権臣井上元兼の一族30人を誅殺(井上馨の家は生き残りの裔)
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1550年
ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断
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1550年
毛利元就が大内義隆の協力を得て盲人の小早川又鶴丸(戦死した正平の嫡子)を出家に追込み田坂全慶ら反対派を大粛清して婿養子の三男小早川隆景が家督を承継(高山城主に納まった隆景は沼田川対岸に新高山城を築き転居)、竹原・沼田の両小早川家を乗取り安芸・備後沿岸部の支配を確立した元就は大内家からの独立を果たす
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1550年
吉川元春が安芸新庄の小倉山城から日野山城に移る
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1550年
筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)
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1551年
一代で尾張国の旗頭に成り上がった織田信秀が死去、うつけの悪評が高い嫡子織田信長が家督相続、主筋の清洲城主織田信友が反逆し柴田勝家・林秀貞ら宿老も織田信行(信長の同母弟)擁立を企て尾張は内戦状態となる
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1551年
信濃中部まで制圧した武田晴信(信玄)が北信濃に再侵攻、大苦戦に陥るも真田幸隆が謀略で戸石城を攻略、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)に亡命、武田氏は甲斐・信濃二国を制圧
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1551年
[大寧寺の変]周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前守護の大内義隆が権臣(元寵童)陶隆房(晴賢)の謀反により自害(嫡子義尊も討たれ戦国大名大内氏は事実上滅亡)、陶は大友義長(宗麟の弟で大内義隆の甥)を義隆の養子に迎えて名目上の当主に担ぎ大内家を簒奪、毛利元就は陶に属して安芸・備後を転戦、陶と同盟した大友義鎮(宗麟)は貿易都市博多を確保し戸次鑑連(立花道雪)が土豪を切従えて大内領の筑前・豊前の実権を掌握し龍造寺隆信ら肥前の大内勢力も一掃
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1551年
後ろ盾の大内義隆を喪った龍造寺隆信に対し大友宗麟に通じ龍造寺鑑兼を担ぐ国人衆が反旗、肥前を追われた隆信は曽祖父家兼を援助した筑後柳川城主蒲池鑑盛を頼る
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1551年
大友義鎮(宗麟)がフランシスコ=ザビエルを豊後府内に招聘、ザビエルは数千の信者を獲得し2か月滞在後にインドへ去るが(義鎮自身のキリスト教入信は30年後)、キリスト教は大友領内で繁栄し南蛮船・中国船の来航が数倍となって府内は殷賑を極め大友氏は貿易の利を占める
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1551年
陶晴賢の命を受けた毛利元就が安芸頭崎城を攻略、城主平賀隆保を自害させ毛利氏の傘下に収める
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1552年
南近江守護六角定頼が死去(子の義賢が後継)し庇護者を失った細川晴元派は弱体化、近江朽木に籠る将軍足利義輝は三好長慶に帰順し京都へ帰還するが翌年晴元と共に反乱を起し再び近江朽木へ逃亡
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1552年
肥前の領袖で南蛮貿易を始めた有馬晴純が嫡子有馬義貞に家督を譲り隠居、キリスト教への関心が高い義貞は晴純と対立(1550年義貞は次男純忠を養嗣子に押付けて三城城主大村家を乗取り、1563年大村純忠は日本初のキリシタン大名となる)
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1553年
毛利隆元(毛利元就の嫡子で吉川元春・小早川隆景の兄)の嫡子に毛利輝元が出生
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1553年
龍造寺隆信が筑後柳川城主蒲池鑑盛の助勢を得て肥前へ攻め戻り反対派を恭順させる
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1554年
[甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念
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1554年
石見の吉見正頼からの同盟要請に応じた毛利元就が陶晴賢に反旗、救援軍の宮川房長を討取り安芸西部沿岸の諸城を制圧、陶晴賢は吉見正頼と和睦して対峙するが元就の謀略に乗せられて智謀の重臣江良房栄を殺害
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1554年
毛利元就の謀略に乗せられた尼子晴久が家中最有力の新宮党尼子国久・誠久父子を殺害
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1554年
島津貴久に降った大隅加治木城主肝付兼盛を蒲生範清・祁答院良重・入来院重朝ら大隅国人が攻撃するが、島津の援軍が岩剣城の決戦で大隅連合軍を撃滅、貴久の嫡子義久と次男義弘が初陣を果たす
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1554年
二階崩れの変に乗じて相良晴広ら反大友の肥後国人衆が決起、菊池義武(大友宗麟の叔父)は隈本城に迎えられ菊池家再興を図るが戸次鑑連(立花道雪)率いる大友軍に敗れ自害(名門菊池氏は名実共に滅亡。なお西郷隆盛の家は菊池氏の子孫と称した)、鑑連は反抗勢力を討ち従えて肥後を制圧
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1555年
朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる
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1555年
[厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走
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1555年
能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握
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1555年
天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される
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1555年
北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる
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1556年
[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず
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1556年
[忍原崩れ・降露坂の戦い]陶晴賢を滅ぼした毛利元就が次男吉川元春・宍戸隆家・口羽通良を石見に派遣し大内方諸城を落として主目的の石見銀山も制圧するが尼子晴久に奪回され、拠点の山吹城に入った本城常光の奮戦で1562年まで攻略できず
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1556年
67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国
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1557年
[防長経略]毛利元就が陶晴賢の勢力を駆逐して大内家を乗取り周防・長州を奪取、陶の傀儡大内義長(義隆の甥)は実兄の大友義鎮(宗麟)に見捨てられ自害(毛利氏は義長の助命を申送ったが身内への猜疑心が強い義鎮はむしろ処刑を要求したとも)、元就は北九州へ食指を伸ばすが義鎮は筑前古処山城主の秋月文種を自害させるなど毛利方勢力を掃討して豊前・筑前を制圧(実行役は立花道雪)
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1558年
[北白川の戦い]将軍足利義輝・細川晴元が挙兵し京都奪回を図るが、三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存ら阿波勢の来援を得た三好長慶が勝利、晴元派の庇護者六角義賢も和睦に動き義輝・晴元は降伏し5年ぶりに京都へ帰還、室町幕府を牛耳った三好政権は摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路を掌握し最後は河内・大和まで10カ国を勢力圏に収めて全盛期を迎える
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1558年
浦上政宗に与する赤松義祐が浦上宗景派の父赤松晴政から家督を奪い播磨置塩城から追放、晴政を庇護した龍野城主赤松政秀が第三勢力へ台頭し小寺政職など国人衆を巻き込んで備前・播磨情勢は混迷を深める
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1559年
[浮野の戦い]織田信長が犬山城主織田信清と同盟し織田一門の宗家で岩倉城主の織田信賢を撃破、守護斯波義銀も追放し尾張一国を平定~武功を挙げた前田利家は「槍の又左」(利家の字は又左衞門)の異名をとり母衣衆(信長親衛隊)に抜擢されて妻まつ(芳春院)を迎えるが、笄を盗んだ同朋衆(給仕役)拾阿弥(信長の異母弟説あり)を斬殺し信長の勘気を蒙って織田家を追放される
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1559年
毛利元就と対峙する大友義鎮(宗麟)が室町将軍足利義輝に多額の献金をして豊前・筑前守護と九州探題の官職を獲得、義鎮は本領の豊後・筑後に豊前・筑前・肥後・肥前を併せ6カ国に君臨する大友家の最大版図を実現するが、義鎮の享楽生活と見境無い女漁りが家臣の離反を招き元就に離間工作の隙を与え、戸次鑑連(立花道雪)が孤軍奮闘で大友家の屋台骨を支える状況となる
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1559年
龍造寺隆信が恩人の筑後柳川城主蒲池鑑盛を通じて大友義鎮(宗麟)に臣従し援軍を得て巻返し、旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前の支配権を確立
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1559年
備前国主浦上宗景の家臣宇喜多直家が宗景と共謀して沼城主中山信正(直家の舅)と鷹取城主島村盛実(祖父宇喜多能家の仇)を騙し討ちで殺害、重臣二人の身代を乗取った直家は沼城に拠って浦上家中第一の権臣となる(元の砥石城へは弟の宇喜多春家を入れる)
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1559年
和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす
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1559年
和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす
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1560年
[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる
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1560年
[長浜の戦い・潮江堤合戦]土佐岡豊城主の長宗我部国親が宿敵本山茂辰(国親の父長宗我部兼序を討った本山茂宗の嫡子)を攻撃、大工の手引きで長浜城を夜討ちして攻め獲り浦戸城も落として朝倉城に追詰めるが渦中に国親が陣没、嫡子長宗我部元親は茂辰に攻め返されるも自ら槍を振るって撃退、「姫若子」と侮っていた家臣を忽ち心服させた元親は一領具足を動員し土佐国司一条兼定と提携して本山派諸豪を降し茂辰を追詰める
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1561年
尼子晴久死去により嫡子尼子義久が家督を相続
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1561年
[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る
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1561年
ポルトガル人殺傷事件が発生し肥前平戸への来航停止、肥前三城主大村純忠は自領の横瀬浦へポルトガル船を誘致し平戸領主松浦隆信から南蛮貿易の利を奪取、2年後に改宗し日本初のキリシタン大名となる
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1562年
[門司城の戦い]豊前門司城を守る毛利元就軍が小早川隆景の奮闘により大友義鎮(宗麟)の大軍を撃退、義鎮は引責剃髪して宗麟と号し室町将軍足利義輝の調停により和睦成立 、戸次鑑連は毛利氏との和睦に断固反対するが容れられず剃髪入道し道雪と号す(道に落ちた雪は消えるまで場所を変えないように武士も一度主君を得たならば死ぬまで忠節を尽くすのが本懐である・・・との決意を表明)
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1562年
[清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念
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1562年
[久米田の戦い・教興寺の戦い]和泉岸和田城主十河一存(三好長慶の弟)の急死に乗じた畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢と連携し細川晴之(晴元の次男)を担いで挙兵、三好長慶は三好義興(嫡子)・安宅冬康(弟)・松永久秀の奮闘で挟撃の危機を凌ぐが(高政を再追放して河内を回復し六角と和睦して京都を奪回)、一存と共に兄長慶を支えた三好実休が敗死、両翼を喪って弱体化した三好政権は反三好勢・将軍足利義輝の反抗に手を焼き家中では松永久秀の勢力が伸張
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1562年
大友宗麟の被官で筑前岩屋城・宝満山城主の高橋鑑種(一萬田鑑相の実弟)が毛利氏へ寝返り宗像氏貞・秋月種実・筑紫惟門・龍造寺隆信らと反大友連合を結成(女漁りに見境の無い宗麟が一萬田家の嫁に横恋慕し強奪したため鑑種は憤慨し謀反したという)、戸次鑑連(立花道雪)の強諌にも関らず宗麟は享楽生活を改めず夫人に呪詛された挙句に失踪事件を起したかと思えば臨済禅に凝って家臣を辟易させる
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1562年
門司城の戦いで大友宗麟を撃退し大内方諸豪を滅ぼして山陽道を征した毛利元就が山陰の尼子攻めに注力、吉川元春率いる毛利軍は山吹城を攻落として守将の本城常光を族滅し富の源泉石見銀山を奪回、石見全域を制圧し尼子義久の籠る出雲月山富田城を攻囲
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1562年
宇喜多直家が金川城主松田元輝の嫡子元賢に娘を縁付けて油断させ「鹿と間違えた」と恍けて武勇の宇垣宗右衛門を射殺したうえで、妹を娶せ寝返らせた伊賀久隆を先鋒に夜襲を仕掛け松田父子を討滅、中山信正・島村盛実に続いて名門松田氏の身代を奪った直家は主君浦上宗景を凌ぐ権勢を誇り金川城に拠って独立の機を窺う(支城の富山城へは弟の宇喜多忠家を入れる)
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1563年
毛利元就の嫡子毛利隆元が死去し11歳の嫡子毛利輝元が家督を相続、吉川元春・小早川隆景(元就の子)の「毛利両川」が毛利家を宰領する
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1563年
[丹坂峠の戦い]肥前の大半を支配する島原城主有馬義貞・三城主大村純忠の兄弟が東肥前で台頭著しい龍造寺隆信を攻撃するが敗退、南肥前へ勢力を伸ばす隆信を危険視した大友宗麟は後援を打切って反抗勢力を支援
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1563年
毛利元就被官で備中衆首領の三村家親が美作へ侵入するが備前を征し美作を窺う宇喜多直家が刺客の遠藤秀清・俊通を送り込み家親を鉄砲で射殺(次男三村元親が後継)、大将を討たれた三村軍は備中へ撤退
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1564年
弟の浦上宗景に降参した浦上政宗が復権を期して小寺家重臣の黒田職隆に接近し黒田家の娘(官兵衛の養妹か)を嫡子浦上清宗の妻に迎えるが、室山城での婚礼当日に宇喜多直家と赤松政秀(赤松晴政の庇護者)の夜襲を受け政宗・清宗父子が討死、直家は政宗派の備前岡山城主金光崇高を討ち金川城から岡山城へ移動(弟の忠家を砥石城・春家を沼城に配置)、翌年晴政が病没し政秀は赤松義祐(政宗と組んで晴政から家督を奪った晴政嫡子)と一時和解するも播磨制覇の野心は捨てず
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1564年
陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」三好長慶が死去(享年43)、三好長慶・三好実休・安宅冬康・十河一存の四兄弟を一挙に喪った三好政権は内部分裂で瓦解し京都・堺・奈良の三大都市を握る松永久秀が台頭、織田信長の畿内侵攻に遭って三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は掃討され、久秀と長慶の養嗣子三好義継は信長に降るが最後は謀反し滅ぼされる
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1565年
[永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周暠は殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展
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1565年
興福寺に幽閉された将軍足利義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)が三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を宣言し南近江守護六角義賢が献上した野洲郡の矢島御所に移り還俗して足利義秋(義昭へ改名)を名乗り、関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに三好三人衆・松永久秀打倒を要請するが三好長逸に矢島御所を襲撃され六角義治(義賢の嫡子)に内通疑惑が生じたため若狭守護武田義統を頼り亡命、力不足の武田家を去り越前朝倉氏を頼るが朝倉義景は重い腰を上げず
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1566年
[箕輪城落城]局地戦では無敵ながら関東に安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に落とされ長野業盛(業正の後嗣)は自刃し上野長野氏は滅亡、輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦するが挽回できず関東制覇を断念、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩し勢力を回復
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1566年
箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
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1566年
[第二次月山富田城の戦い]毛利元就・吉川元春が5年に及んだ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家臣として存続、後に尼子再興軍を旗揚げする山中鹿介は上京へ逃れ諸国巡歴)、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇
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1566年
松平家康が改姓し徳川家康を名乗る(松平氏は三河賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、家祖徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河一国の太守に相応しい源姓・名字徳川に改めたと考えられる)
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1566年
島津貴久が隠居し嫡子島津義久が16代島津宗家を承継、義久・義弘・歳久・家久の島津4兄弟による九州統一への挑戦が始まる
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1567年
毛利元就に通謀した秋月種実(文種の次男)が筑前で挙兵し呼応した筑前宝満城・岩屋城主の高橋鑑種と筑後の筑紫惟門が大友宗麟に反旗を掲げ筑前の宗像氏貞・原田隆種と肥前の龍造寺隆信も呼応、征伐軍を率いる戸次鑑連(立花道雪)は戸次一族と譜代重臣の多くを喪う激戦の末に立花山城を攻略し(城主の立花鑑載は自害)筑前・筑後の反抗勢力を鎮圧
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1567年
織田信長が美濃国を制圧、中国周王朝の発祥地に因んで稲葉山城を岐阜城へと改名し本拠を移動、国境を接した武田信玄を贈物攻勢と婚姻政策で宥めつつ「天下布武」を掲げて京都を窺う
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1567年
丸目蔵人長恵が愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ世人に真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず、師の上泉伊勢守信綱は長恵に新陰流の印可を授与(「殺人刀」教授は認めるが「活人剣」は秘匿すべしとの制限付)、長恵は肥後人吉へ戻り相良晴広の命により薩摩大口城守将の東伊勢守の旗下に入る
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1567年
[明禅寺合戦~備中兵乱]沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々に謀殺し身代を併せた宇喜多直家が主君浦上宗景を圧伏して備前の実権を掌握、父の三村家親(毛利元就被官の備中領袖)を直家に暗殺された嫡子の三村元親は大軍を率いて備前へ攻め込むが撃退され、直家は毛利・三村勢が九州遠征に出た隙を衝いて備中へ攻め返し松山城・猿掛城を奪取するも毛利軍来援で撤退
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1568年
将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死
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1568年
足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃
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1568年
[観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する
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1568年
織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る
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1568年
長宗我部元親が瓜生野城攻囲中に宿敵本山茂辰が死去し嫡子本山親茂を降伏させて土佐中部を平定、翌年の八流の戦いで安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部も制圧した元親は土佐統一を臨み毛利氏の伊予出兵に敗れ衰亡へ向かう伊予国司一条兼定を標的に据える
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1568年
島津義久が日向国主伊東義祐の猛攻に晒された飫肥城を放棄、城主島津忠親は庄内(都城)へ撤退し間もなく病没、「九州の小京都」佐土原に拠り日向国内に四十八支城を構えた伊東氏は全盛期を迎える
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1568年
[毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する
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1569年
[本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える)
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1569年
[掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙
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1569年
戦国大名屈指の名門で駿河・遠江・三河を領有した今川氏が滅亡、今川氏真は流転の末に徳川幕府に庇護され77歳の長寿を全うし子孫は高家旗本として存続
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1569年
織田信長の木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍団が但馬に侵攻、山名祐豊を降し生野銀山(秀吉の強力な経済基盤となる)などを制圧
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1569年
[三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える
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1569年
筑前・筑後を制圧した戸次鑑連(立花道雪)が龍造寺隆信討伐のため肥前へ転戦すると、龍造寺と通謀する毛利元就が豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景が拠点の立花山城を攻略、鑑連は龍造寺と和睦して馳せ戻り最前線で奮戦するも戦線は膠着、大友宗麟が軍師吉岡長増の後方撹乱策を容れて山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)を誘発すると毛利軍は撤退、宗麟は戸次鑑連(立花道雪)・高橋鎮種(紹運)を守将に据え筑前・筑後支配を確立
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1569年
[尼子再興(第一回)]山中鹿介幸盛ら尼子残党が京都東福寺にいた尼子勝久(新宮党国久の孫)を還俗させて主君に担ぎ大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、隠岐から本土に渡って兵を募り、北九州攻めで手薄な毛利勢の虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻し月山富田城に迫るが、大友宗麟と和睦した毛利元就が次男吉川元春に大軍を預け派遣、間もなく元就が病没するが元春は弔い合戦と称して踏み留まり児玉就英の毛利水軍が制海権を奪い最後の拠点新山城も攻略、鹿介は捕捉されるが偽りの投降で助命され監視の目を逃れて伯耆尾高城から脱走
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1569年
[大内輝弘の乱]大友宗麟の軍師吉岡長増の後方撹乱計略により大内一族の輝弘が豊後から周防に入り挙兵、北九州攻めで手薄な高嶺城を攻囲するが、毛利元就が大友宗麟と和睦し吉川元春・小早川隆景の精鋭が駆け戻ると反乱は瓦解し輝弘は自害
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1569年
能島村上水軍の村上武吉が九州侵攻に失敗した毛利元就から離れ大友宗麟に接近、大内輝弘の乱で大友水軍に伊予灘を素通りさせたため毛利家との関係が悪化
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1570年
織田信長が朝倉義景討伐で越前に攻め込むが浅井長政離反により撤退、殿軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の決死の奮戦で挟撃の窮地を脱出(金ヶ崎の退き口)、逃避行に随従した松永久秀は近江朽木谷城主の朽木元綱の協力を取り付ける活躍
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1570年
出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)が権臣中野宗時・牧野久仲父子を追放し父伊達晴宗を隠居に追込んで家中を掌握、鬼庭左月斎・遠藤基信を側近に登用して外交活動を展開、蘆名氏との同盟を保ちつつ南奥羽諸豪の紛争を調停し織田信長・柴田勝家・北条氏政らと友好関係を構築
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1570年
[姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝(本多忠勝は単騎駆けで戦端を開き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍)、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦
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1570年
美濃岩手城主竹中半兵衛重治が舅の安藤守就の勧めで朋輩の牧村利貞・丸毛兼利と共に織田信長に帰服、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加えられた軍師半兵衛は旧知の堀家家老を口説いて長亭軒城を寝返らせ浅井長政が固めた美濃・近江の陸上封鎖を打破、姉川の戦いにも従軍し弟の竹中重矩が浅井家の豪傑遠藤直経を討取る活躍、合戦後最前線の近江横山城に留め置かれた藤吉郎は小谷城の浅井長政と対峙し半兵衛の軍略により均衡を保つ
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1570年
[石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し石山合戦が勃発(下間頼廉・鈴木重秀の指揮のもと11年も織田軍団の猛攻を凌ぎ切る)、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を脱出、和睦を成功に導いた明智光秀(このときは義昭・信長への両属)は近江坂本城10万石を与えられ44歳で一城の主となり、春日井堤の合戦で単騎踏み留まり味方の潰走を食止めた前田利家は信長から「日本無双の槍」と激賞され1万石余の加増を受けて織田家大名衆に加わる
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1570年
本願寺顕如の要請を受けた雑賀衆の鈴木重意が根来衆と協力し鉄砲隊600余を率いて三好三人衆に加勢し織田信長軍団と交戦(佐々成政を負傷させる)、石山合戦が起ると鈴木重秀(重意の次男)が石山本願寺に入り下間頼廉と共に一向一揆軍団の軍事指揮を担う(大坂左右大将)
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1570年
[今山の戦い]毛利元就を撃退して豊前・筑前の支配を固めた大友宗麟が傘下で台頭する龍造寺隆信を討つため6万の大軍を率いて肥前へ侵攻、佐賀城に追詰められた隆信は鍋島直茂の提言を容れて敵本陣への夜襲を敢行、敵将大友親貞(宗麟の従弟)をはじめ2千人を討取る大戦果を挙げて宗麟と和睦、大友氏の干渉を脱した隆信は肥前諸豪を切り従え大友・島津に対抗する第三極へ躍進
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1570年
島津家久の軍勢が相良氏に奪われた薩摩大口城を攻囲、肥後人吉城主相良義陽は援軍を派遣するが丸目蔵人長恵(柳生宗厳と双璧を為す上泉信綱の高弟でタイ捨流兵法の創始者)の勇み足により大敗(義陽は激怒し長恵を逼塞に処す)、菱刈氏の降伏開城で大口城を奪回した島津義久は東郷氏・入来院氏も降伏させて薩摩統一を達成
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1571年
能島村上水軍の村上武吉が毛利元就に反旗を掲げ宇喜多直家・浦上宗景に加勢するが小早川隆景に拠点の備前児島本太城を攻落とされ来島通総の来島水軍・村上吉充の因島水軍も毛利につき孤立、能島に押込められた武吉は大友宗麟の毛利攻めに期待を繋ぐが龍造寺隆信に敗れた大友に余力は無く毛利に帰参する
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1571年
一土豪の次男から旧主の大内氏・尼子氏を滅ぼして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を征服した毛利元就が吉田郡山城にて死去(享年72)、山中鹿介の尼子再興・大内輝弘の乱を鎮圧した吉川元春・小早川隆景(元就の次男・三男で「毛利両川」と称される)が家督の毛利輝元(元就の嫡孫)を担いで毛利家を宰領し迫り来る織田信長に対峙
毛利元就の交遊録
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毛利弘元
父
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毛利興元
兄
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毛利幸松丸
家督を奪った興元嫡子
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毛利就勝
弟
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毛利元綱
弟
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毛利隆元
早世した元就嫡子
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毛利輝元
痛恨の隆元嫡子
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毛利秀就
輝元嫡子
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毛利秀包
元就末子で隆景養子
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穂井田元清
元就庶子
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毛利秀元
元清嫡子で輝元養子
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吉川元春
元就次男の猛将
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吉川元長
早世した元春嫡子
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吉川広家
吉川家を継いだ元春三男
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吉川国経
元就舅の盟友
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吉川元経
国経嫡子の盟友
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吉川興経
元経嫡子の寝返り常習犯・殺害し元春が家督承継
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吉川千法師
殺害した興経嫡子
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吉川経世
国経末子の吉川重臣
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吉川経家
秀吉に殺された鳥取城主
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森脇祐有
吉川重臣
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小早川隆景
元就次男の智将
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小早川興平
沼田小早川氏当主
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小早川正平
戦死した興平嫡子で竹原小早川氏当主・隆景舅
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小早川又鶴丸
盲目の正平嫡子・出家させ隆景が家督承継
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乃美隆興
小早川重臣
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乃美景興
隆興嫡子
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乃美宗勝
小早川水軍
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椋梨弘平
小早川重臣
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田坂全慶
誅殺した小早川重臣
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宍戸隆家
元就娘婿の重臣
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志道広良
重臣
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桂元澄
重臣
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渡辺通
重臣
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福原貞俊
重臣
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平賀広相
重臣
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益田藤兼
石見重臣
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益田元祥
藤兼嫡子で元春娘婿
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吉見正頼
石見重臣
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吉見広頼
正頼嫡子
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吉見元頼
広頼嫡子で元春娘婿
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口羽通良
石見重臣
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刺賀長信
尼子に討たれた山吹城守将
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南条元続
織田へ寝返った伯耆国人
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熊谷信直
武田征伐に働いた熊谷党首領・元春舅
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熊谷高直
信直嫡子
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熊谷元直
高直嫡子
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井上元兼
一族誅殺した権臣
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児玉就忠
毛利水軍
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児玉就方
就忠弟
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児玉就英
就方嫡子
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児玉就秋
元就側近で元春との連絡役
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清水宗治
救えなかった備中国高松城主
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安国寺恵瓊
武田氏庶流・毛利の謀僧
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河野通直
伊予国主・村上通康舅
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河野通政
村上通康との家督争いに勝利した通直養嗣子
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河野通宣
家督を継いだ通政実弟・元就孫娘婿で毛利に臣従
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河野通直(2代目)
滅亡した通宣嫡子
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村上武吉
能島村上水軍当主
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村上元吉
武吉嫡子で小早川隆景養女婿・三津浜夜襲で戦死
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村上景親
武吉次男・毛利家に留まり御船手組組頭の微役で生涯を終える
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村上通康
伊予河野氏簒奪を狙った来島村上水軍当主・武吉舅
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来島通総
織田へ転じ伊予風早郡1万4千石に出世した通康嫡子・朝鮮役で戦死
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来島長親
豊後森藩主となった通総嫡子
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村上吉充
因島村上水軍当主
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村上亮康
吉充弟
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宇都宮豊綱
滅ぼした伊予大洲城主
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西園寺公広
伊予攻略の同盟者
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一条兼定
撃退した土佐国司
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武田元繁
返討ちにした安芸守護
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武田光和
滅ぼした元繁嫡子
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大内義興
山陽の盟主
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大内義隆
陶晴賢に討たれた義興嫡子
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大内義長
滅ぼした大内氏傀儡当主・宗麟弟
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大内輝弘
反乱軍
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相良武任
大内氏滅亡の元凶
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陶晴賢
毛利氏躍進の踏み台・元春義兄弟
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宮川房長
撃退
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江良房栄
謀殺
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尼子経久
山陰の風雲児
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尼子政久
早世した経久嫡子
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尼子晴久
政久嫡子
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尼子義久
滅ぼした晴久嫡子
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尼子国久
謀殺した新宮党首領・経久次男
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尼子誠久
謀殺した国久嫡子
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本城常光
族滅した石見守将
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山中鹿介
三度目に討ち果した尼子再興軍首領
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尼子勝久
尼子再興旗印の誠久五男
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大友宗麟
九州の敵
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大友義統
自滅した宗麟愚息
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吉岡長増
宗麟軍師
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立花道雪
大友家大黒柱
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立花宗茂
道雪養嗣子の勇将
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高橋紹運
宗茂実父で道雪与力
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龍造寺隆信
島津に討たれた反大友の同志
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龍造寺政家
隆信嫡子
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鍋島直茂
龍造寺家簒奪者
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宗像氏貞
反大友の同志
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秋月文種
反大友の同志
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秋月種実
文種後嗣
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高橋鑑種
反大友の同志
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筑紫惟門
反大友の同志
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筑紫広門
惟門嫡子
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島津忠良
島津氏当主
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島津貴久
忠良嫡子
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島津義久
貴久嫡子
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島津義弘
貴久次男の猛将
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島津家久
貴久四男の天才武将
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三村家親
直家に暗殺された備中の被官
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三村元親
織田に寝返り攻め滅ぼした家親嫡子
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浦上宗景
直家に乗取られた備前大名
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宇喜多直家
織田へ寝返った備前の梟雄
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宇喜多秀家
直家嫡子
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長宗我部元親
四国の雄
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織田信長
東の雄
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豊臣秀吉
信長重臣
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柴田勝家
信長重臣
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徳川家康
信長舎弟
毛利元就と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
狩野 永徳
1543年 〜 1590年
90点※
祖父の狩野元信から「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨
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年
基礎点 90点
毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。
加点 10点
天下を獲った織田信長軍団以外で、一代で最大版図を築いた毛利元就の下克上ストーリーはスケール壮大で最も面白い。殊に神業ともいうべき権謀術数は痛快で逸話も多いが、温厚で律儀な一面のせいか卑劣さは感じられない。「三本の矢」は後世の作為だが、筆まめで律儀な毛利元就は一族郎党に手厚い訓戒を残している。そのなかで「毛利氏が大になったから家臣は面従しているに過ぎない、毛利一族は固く団結して決して心を許すな」という遺訓は謀略王ならではであろう。