徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
家系・子孫
- 渋沢家は藍玉の製造販売も手掛ける武蔵血洗島の豪農で、嫡子の渋沢栄一は少年期から藍玉の仕入れ販売を手伝った。渋沢市郎右衛門・えい夫妻の子は夭逝が続き、渋沢栄一と貞の一男一女のみが成人した。出奔した渋沢栄一に代わり渋沢貞は婿養子をとり、輸入品の増加で藍産業が下火になると養蚕や葱作りに転換し家業を守った。貞は大成した渋沢栄一を「東京の大将」と気さくに呼び、たまの帰郷用に床の間付き十畳の専用座敷を設えた。渋沢栄一は貞夫妻の嫡子を可愛がり農家の跡取りにと願ったが、当の渋沢元治は工科大学へ進み実業界入りを断って学者となり、逓信省技師・東大教授を経て名古屋大学初代総長となった。明治の電機業界指導者は悉く渋沢元治の薫陶を受けたといわれる。さて、若き渋沢栄一は従兄の尾高惇忠の私塾に学び、尾高の妹千代を妻に迎えた。江戸に近い武州尾高塾には血気の若者が集い、水戸藩士とも交流し尊攘運動に目覚めた渋沢栄一は従兄の渋沢成一郎(後の上野彰義隊頭取)と共に幕末の風雲に乗出し、奇縁により徳川慶喜に仕え出世街道へ踏出した。徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれ欧州遊歴へ立つにあたり、当時無嗣だった渋沢栄一は尾高惇忠の弟平九郎を見立養子に迎えたが、渋沢平九郎は渋沢成一郎・尾高惇忠の「振武軍」に加わり飯能能仁寺で官軍に包囲され腹真一文字にかききって自決した。函館戦争まで転戦した渋沢成一郎は赦免後に渋沢栄一に拾われ、尾高惇忠と共に富岡製糸場の現場監督となり、その後も栄一の腹心として活躍した。さて女好きの渋沢栄一は庶子を含め50人ともいう子女を生し、男子は財界人・女子は大物財界人の妻となり華々しい閨閥を築いた。が、嫡子の渋沢篤二は父の遊蕩癖のみを受継ぎ、写真・絵画・芸事に熱中し花柳界に入り浸った挙句、妻子を離別して芸者を入籍すると言出し廃嫡された。渋沢栄一は篤二嫡子の渋沢敬三に岩崎弥太郎の孫娘を娶わせ子爵家を継がせたが、渋沢篤二は芝白金の豪邸と月々の仕送りで悠々自適の道楽生活を続けた。渋沢敬三は、横浜正金銀行から日銀総裁となり、大戦後は姻戚の幣原喜重郎内閣で蔵相を務めた。
- 岩崎氏の遠祖は甲斐武田氏の縁者とする説があるが、明確なのは戦国時代以降、安芸郡井ノ口村の「一両領足」として長曽我部元親に仕えてからである。山内一豊の土佐入封により岩崎氏は地下浪人に落とされ、やがて郷士株を買い武士身分を取戻すも、岩崎弥次郎右衛門が酒と博打で家産を潰し郷士株を手放した。地下浪人は、「元武士」として苗字帯刀は認められたが、村政では庄屋の下位に置かれ実態は一般農民と同然であった。数代後の岩崎弥次郎は、農業経営が下手なうえに大酒飲みで田畑を失い一家は困窮、しかも攻撃的で偏屈な性格のため庄屋の島田家や岩崎分家との諍いが絶えず集団リンチに遭難した。「三菱海上王国」を築いた岩崎弥太郎は、喜勢との間に嫡子の久弥と娘の春路・磯路を生し、妾腹の子も多くもうけた。福澤諭吉の門人で三菱幹部の荘田平五郎は弥太郎の姉佐喜の娘婿である。弥太郎から三菱2代目を継いだ弟の岩崎弥之助は、薩摩閥の猛攻をかわすため本業の海運業から撤退したが、鉱山・造船を軸に多角的経営を成功させ今日に続く三菱財閥の礎を築き、去り際も鮮やかに岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲、久弥と弥之助の両家が共に男爵に叙された。岩崎弥之助は大富豪には珍しく艶聞が無く、妻の早苗(後藤象二郎の長女)一筋で三男一女をもうけた。長男の岩崎小弥太は三菱4代目として第二次大戦後の財閥解体を受難、次男の岩崎俊弥は旭硝子の創業者、娘の繁子は外交官の松方正作(正義の次男)の妻である。また、官僚政治家の自家養成を図る岩崎弥之助は、岩崎弥太郎の長女春路を加藤高明に・妾腹の末娘雅子を幣原喜重郎に娶わせ、強大な三菱ファミリーに連なった加藤と幣原は総理大臣に栄達した。弥太郎次女の磯路は木内重四郎に嫁がせ、その長女の美艸子は山内豊中(最期の土佐藩主山内豊範の四男)・次女の登喜子は日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた渋沢敬三(栄一の嫡孫)の妻となった。兄弟で三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎・弥之助の生家は高知県安芸市に保存され、弥太郎少年が日本列島を模った石群も見ることができる。
渋沢栄一と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
陸奥 宗光
1844年 〜 1897年
100点※
紀州藩重臣の子ながら坂本龍馬に随従、薩長藩閥政府に反抗し「立志社の獄」で投獄されるが、伊藤博文の引きで復活し第二次伊藤内閣の外相として不平等条約改正と日清戦争を牽引した波乱万丈の風雲児
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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