「強い力の中間子の予言」で素粒子論の扉を開き日本人初のノーベル賞受賞で敗戦国日本に勇気を与えた学術界の英雄
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戦後
湯川 秀樹
1907年 〜 1981年
80点※
家系・子孫
- 湯川秀樹が生れた小川家は累代の学術家系であった。祖父の小川駒橘は長屋家の三男に生れ同じ紀州藩士の小川家を相続、慶應義塾を出て文部省翻訳課・内務省戸籍寮・長崎師範学校校長を歴任し、横浜正金銀行の創立に参加し役員を務めた。小川駒橘は和漢に精通しつつ西洋文明を進んで受入れ『ロンドン・タイムズ』を定期購読した。父の小川琢治は、紀伊田辺藩の藩儒浅井家の次男で小川駒橘の長女小雪の婿養子となり小川家を継いだ。小川琢治は東大地質学科卒、農商務省地質調査所を経て京大地理学講座の教授となり退官に伴い名誉教授となった。湯川秀樹は小川琢治・小雪夫妻の五男二女の三男、寡黙なため父に能力を疑われたが京大理学部物理学科を卒業し、「中間子の存在の予想」で日本人初のノーベル賞を受者し敗戦国日本の英雄となった。湯川秀樹の兄弟も優秀で、長兄の小川芳樹は冶金学者で東大教授、次兄の貝塚茂樹は東洋史学者で京大名誉教授、次弟の小川環樹は中国文学者で京大名誉教授まで務めている(末弟の小川滋樹は第二次大戦で戦病死)。湯川秀樹は湯川スミに婿入りし湯川へ改姓、岳父の湯川玄洋は大阪胃腸病院の創業者で初代院長である。大阪胃腸病院は1968年湯川胃腸病院へ改称され2015年現在も営業中、湯川姓の院長は3代で途絶えたが湯川紘未(女性)が理事長に就いている。湯川紘未は湯川秀樹の子孫ではなく湯川玄洋の別の養子の系統とみられる。湯川秀樹・スミ夫妻は二男をもうけたが、いずれも学者ではなくサラリーマンになった。長男の湯川春洋は大阪市立大学から平凡社に入社し勤務の傍ら近世演劇の研究書を出版、『湯川家に生きた子と母』を上梓し平和主義者・反核活動家としての湯川秀樹を強調している。次男の湯川高秋は講談社に勤めたが36歳で急逝した。なお、第85代内閣総理大臣の森喜朗(石川県出身)は湯川秀樹の遠縁を自称するが、ラグビー推薦の早稲田大学第二商学部(夜間部)卒、福田赳夫に「場持ちが良い」と可愛がられ清和会領袖となり本人も愕然の首相就任となったが、数々の低能発言でマスコミの集中砲火を浴びた。