慶應義塾グループ・大隈重信派の「バルカン政治屋」として台頭、中継ぎの政友会総裁となり首相に上り詰めたが、五・一五事件に斃れた政党政治の生き字引
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
犬養 毅
1855年 〜 1932年
40点※
家系・子孫
- 備中国賀陽郡庭瀬村の犬養家は名字帯刀を許された大庄屋だったが明治維新後に没落、犬養毅は苦学を強いられ慶應義塾入学は21歳と遅れ、学資を稼ぐため在学中に郵便報知新聞に入社した。犬養毅は、後妻と不仲な長男の彰を廃嫡し次子の健に家督を継がせた。東大哲学科を出た犬養健は白樺派の作家となり『一つの時代』『南京六月祭』などを刊行、政界へ転じ政友会所属の衆議院議員となった。犬養毅と同じ「大陸派」の犬養健は近衛文麿と親しく、近衛側近の尾崎秀実が起したゾルゲ事件で起訴処分を受けている。第二次大戦後、犬養健は公職追放を経て政界に復帰し民主党総裁に就任、吉田茂の自由党に乗換え第四次・五次吉田内閣に法相で入閣したが、造船疑獄で窮地に立つ佐藤栄作幹事長を救うため法相の指揮権発動を強行し引責辞任に追込まれた。犬養健は妻の仲子(後藤象二郎の孫娘)との間に一男一女を生し、家督を継いだ犬養康彦は共同通信社社長、犬養道子は津田塾を出て米仏へ長期留学し『お嬢さん放浪記』などを刊行した。女優で奥田瑛二夫人の安藤和津は、犬養健が柳橋芸者に産ませた庶子で犬養毅の孫である。
- 1948年生まれの安藤和津こと犬養和は、犬養健が51歳のとき柳橋芸者の荻野昌子に産ませた子で、後に認知された。犬養健は、首相在任中に五・一五事件で暗殺された犬養毅の跡取り息子(三男)で、近衛文麿内閣の大政翼賛会に協力し衆議院議員となったが、1847年に公職追放の網にかけられ不遇を託っていた。しかし安藤和津が福娘だったのか、間もなくGHQは公職追放を解除し犬養健は政界に復帰、一派を率いて自由党の吉田茂内閣に合流し法務大臣の栄職を授かった。さて、犬養家の令嬢として育てられた安藤和津は「犬養毅の家系図」に華を添えることとなった。安藤和津は父の犬養健と同じく初等科から学習院に学び上智大学文学部独文科へ進学、優雅な外遊生活を経てTVキャスターやエッセイストとして活躍した。安藤和津は人気俳優の奥田瑛二と結婚して二人の娘を産み、長女の安藤桃子はロンドン大学およびニューヨーク大学を出て映画監督となり、次女の安藤サクラは学習院女子大学を出て映画女優となった。安藤サクラは一般にはあまり知られていなかったが、2016年に映画『百円の恋』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞して脚光を浴び、日本テレビの連続ドラマ『ゆとりですがなにか』のヒロインに抜擢された。安藤サクラが結婚した柄本佑もその弟の柄本時生も俳優で父親はコメディアンの柄本明、夫婦が更に有名になれば「犬養毅の家系図」は俄然注目されるだろう。
犬養毅と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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