祖父の狩野元信から「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
狩野 永徳
1543年 〜 1590年
90点※
狩野永徳と関連人物のエピソード
- 雪舟は、中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星、江戸時代に狩野派に崇敬され芸術神となった。作品の多くは山水画だが肖像画や花鳥画も描き、雪舟が造園を手掛けたという「雪舟庭」も山口・島根・福岡などに現存する。備中赤浜の武家小田氏に生れ幼少期に総社井尻野の臨済宗寺院宝福寺に入門、絵に熱中する余り禅修行に身が入らない雪舟(拙宗等揚)は柱に縛られるが足先を使い零した涙で実物と見紛う鼠を描き禅師を感嘆させたと伝わる。なお「達磨絵」や「頂相(師の肖像画)」に象徴されるように水墨画は禅宗のなかで発展した宗教芸術であり、屋敷を飾るための彩色画や工芸品の職人芸とは一線を画すものであった。さて雪舟は、10歳のころ京都相国寺に移り春林周藤から禅を学びつつ画僧として著名な天章周文・如拙から水墨画を学び『山水図』の制作を開始、24歳で卒業すると大内教弘の招きで周防山口に移住し「雲谷庵」で創作に専心する生活に入った。応仁の乱勃発の翌年、48歳の雪舟は本場中国で水墨画を学ぶため勘合貿易船に乗込み明へ渡海、夏珪・李唐など宋・元代の水墨画に感化されて模写に励み揚子江流域など中国各地を写生旅行し「風景こそ最大の師」という孤高の境地に到達、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」の尊称を贈られ首都北京でも画名を博した。2年弱の滞在を終え帰国した雪舟は、周防山口を拠点に豊後や石見へも足を伸ばし美濃や天橋立への創作旅行も敢行、86歳まで長寿を保ち石見益田で病没した(雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)。雪舟様式の特徴は安定感のある構図や力強い筆致に顕著で、大胆で構築的な空間構成,強調された輪郭線と細い線による簡略化された皴法,墨の濃淡を操る妙技は今も国際的に高い評価を得る。安土桃山時代になると武士の派手好みに応じて邦画の主流は岩絵具を用いる彩色画(いわゆる日本画)へ移ったが、江戸時代に画壇を支配した狩野派が雪舟を師と仰ぎ諸大名も追従、「雪舟作」を騙る作品が多く出回ることとなった。
- 足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周暠は殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。
- 織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。
- 織田信長には毀誉褒貶があるが、100有余年続いた戦国時代を制覇し中央集権国家の礎を打ち立てた事実は揺ぎ無い。武力では、先ず鉄砲と兵農分離だろう。鉄砲の国産体制を整備して大量に備蓄し、貿易都市堺を支配下において当時国内では産出しなかった煙硝の供給ルートを確保、装填に手間の掛かる元込銃の弱点を「三段撃ち」で克服し(紀州雑賀衆に倣った説あり)、長篠の戦いで戦国最強の武田軍団を撃破した。織田信長の台頭により鉄砲伝来から半世紀後には日本は世界最高の鉄砲装備を誇る最強の陸軍力を持つに至り、明侵攻(朝鮮出兵)は統帥の乱れと補給難で失敗したが戦闘では無敵だった。とはいえ、都会育ちの上方・尾張の兵は甲州兵の10分の1といわれるほど弱く、信長軍も然りで、姉川合戦では本陣手前まで崩されたのを徳川家康軍の奮闘で勝を拾い、三方ヶ原合戦では早々に敗退して完敗の元凶となった。弱卒のハンデを抱える織田信長は、武器と外交に活路を求め、鉄砲の前には集団戦に有利な長槍を導入する一方、上洛後も武田信玄と上杉謙信の機嫌をとって全力で対決回避に努めた。さて、当時も武士は「一所懸命」の土豪の集団で、戦争や集中訓練は農閑期に限られ、領地転換や長期遠征は困難であり、最強を誇る武田・上杉もこの制約に縛られたが、唯一織田信長は兵農分離の確立により束縛を脱した。職業軍人集団=傭兵感覚故に門閥無視・能力本位の人材活用も可能となり、譜代の柴田勝家・丹羽長秀らと新参の明智光秀・豊臣秀吉・滝川一益らを相競わせ、自在の配置転換と物量作戦で多方面作戦を成功させた。織田軍団の屋台骨は膨大な戦費を支えた経済力だが、信長は経済政策でも開明的であった。寺社や土豪の収入源というだけの関所や諸権益を撤廃(楽市楽座)して自由貿易と統一的気分を盛上げ、松永久秀のキリスト教宣教師追放令も撤廃し堺商人を通じて海外貿易で大きな利を占めた。一方で特権剥奪に抵抗する勢力には徹底弾圧で臨み、タブーを侵して比叡山・高野山・石山本願寺・一向一揆を討滅、有史以来武力・政治力を恣にしてきた宗教勢力を退治し人民を心の楔から解放した。
- 天才の裏返しか、織田信長は躁鬱のうえに猜疑心が強く、当時常識外の悪逆非道を行って魔王と恐れられ、最後は家臣の裏切りで殺された。幼少期から変わり者だったようで、乳母の乳首を噛み切ったとか女装趣味伝説まであり、長じるとドラマでお馴染みの異装で奇行を繰返し、傅役平手政秀の諌死にも改めず、うつけの他に「たわけ(戯け)」と陰口されたのは実妹の市を犯したためとする説もある。とはいえ家督を継いで10余年尾張平定までは辛抱強く家臣の人心掌握に努め、弟の信行に与して叛逆した柴田勝家・林秀貞らを赦し、岳父斎藤道三が義龍に攻められた際には律儀に救援に駆けつけた。再度謀反を企てた信行を殺し、尾張織田家を滅ぼしたことは戦国の世の習い、身分低く有能な者には夢のような名君であった。ところが、浅井長政離反で猜疑心が鎌首をもたげ、討取った長政の頭蓋骨に金箔を施して御肴に供した。最も織田信長の評価を落とした比叡山焼き討ちや一向一揆の殺戮は、宗教を笠に着て武力抵抗を続けた門徒側の自業自得なのだが、迷信が根強い当時においては神をも恐れぬ所業であった。室町幕府滅亡も、大恩を忘れて信長打倒の謀略に励んだ足利義昭の自業自得だが、大義名分や権威主義を重視する世論は主君追放の大逆と見做した。武田信玄急死という桶狭間合戦以来の大幸運で信長包囲網の窮地を脱した織田信長は、自らを神格視するほどに増長し、平気で講和の約束を破り家臣に無理難題を押し付ける暴君となった。徳川家康の正室築山殿の武田家への内通が露見すると無実の嫡子徳川信康まで自害させ、丹波攻略では城主助命の約を違えて人質の明智光秀叔母を捨て殺しにし、最古参の佐久間信盛・林秀貞らを大昔の罪状を突きつけて突然追放、信長の留守中に物見遊山に出掛けた女中数名を斬り殺したかと思えば、突然各地の軍団を京都に呼び上機嫌で大軍事パレードを挙行するなど、手に負えない有様となった。松永久秀と荒木村重の相次いぐ謀反は抑えたが、家臣達のストレスは頂点に達していただろう、無防備で京都本能寺に入ったところを突如明智光秀に襲われ落命した。
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
- 千利休(千宗易)は、堺の豪商出身の侘茶の完成者で見方によっては大山師、茶頭として織田信長に出仕し本能寺事変後は豊臣秀吉に仕え「利休道具」の錬金術と「一期一会」の接待術で大名統治に貢献するが突如逆鱗に触れて死罪、子孫の「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて本願寺と並ぶ巨大教団に発展し今日まで繁栄を続ける。魚問屋に倉庫業を兼ね一代で財を成した田中与兵衛(千氏へ改姓)の嫡子で、北向道陳・武野紹鴎に師事して茶の湯を研鑽し、堺南宗寺(大徳寺の末寺)に入門して臨済禅の修行を積んだ。共に茶の湯の「天下三宗匠」と称された今井宗久・津田宗及は紹鴎門下の相弟子である。三好長慶の妹とされる宝心妙樹を妻に迎えたのは自治都市堺を守るための政略であったと考えられるが、1569年織田信長が堺から自治権を取上げると茶頭として出仕し、1582年信長の横死に伴い豊臣秀吉の茶頭に転身、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で頭角を現し、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出、天下人の寵を得た千利休は「利休七哲」(蒲生氏郷・細川忠興・芝山宗綱・古田織部・高山右近・瀬田正忠・牧村利貞)を筆頭に諸大名から崇敬を集め豊臣政権の内政にも深く関わった。「黄金の茶室」や聚楽第など成金趣味に奔る秀吉に美意識上の葛藤を抱きつつも、妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具、作庭にも工夫を凝らして侘茶の境地を開いた。が、1591年突如秀吉から堺に蟄居を命じられ、弟子の大名連や前田利家の助命嘆願も虚しく上杉景勝の兵に京都聚楽屋敷を囲まれるなか従容と切腹に応じ、首は一条戻橋に晒された。「大徳寺三門の利休像」など動機には諸説あるが、側近を牛耳りたい石田三成が耄碌した秀吉を煽り事を運んだ可能性が高い。数年後に秀吉は利休の遺族を赦免、嫡子の千道安は細川忠興に仕えたが後嗣無く病没し、利休婿養子の千少庵が家督を継いで京都に住し嫡子千宗旦の三児が武者小路千家・表千家・裏千家の祖となった。
狩野永徳と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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