祖父の狩野元信から「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
狩野 永徳
1543年 〜 1590年
90点※
家系・子孫
- 狩野氏は、藤原武智麻呂(南家)の四男乙麿の子孫を称し、平将門の乱の武功により駿河守に任じられた藤原為憲の孫維景が伊豆狩野郷日向堀内に移って狩野を名乗り、4代後の狩野茂光が伊豆大島で蜂起した源為朝征伐に働き伊豆屈指の勢力となった。木崎原の戦いで島津義弘に敗れ没落した(伊東崩れ)伊東義祐の日向伊東氏は茂光の兄の子孫である。狩野茂光は源頼朝の挙兵に参じたが緒戦の石橋山合戦で討死にし嫡子の親光は奥州藤原氏攻めで戦死、子の親成が狩野城を再建したが子孫は執権北条氏や三浦氏に圧迫され小領主に没落した(現存する狩野城跡は「狩野派発祥の地」の看板でPR中)。戦国時代、堀越公方の足利政知・茶々丸に属した狩野氏は北条早雲に滅ぼされたが、その60年前に将軍足利義教に画才を見込まれた一族の狩野正信が幕府御用絵師に採用され、子の狩野元信は一族男児を悉く画家に仕立て多くの門人を擁して職業画家集団「狩野派」を形成した(妻は宮廷絵所預で大和絵土佐派を興した土佐光信の娘千代とも)。元信の後は三男の狩野松栄が継ぎ、その嫡子狩野永徳が織田信長・豊臣秀吉の寵遇を得て狩野派400年の隆盛をもたらした。永徳の後は嫡流の光信・貞信が早世したため次男の狩野孝信が狩野派を承継、嫡子の狩野探幽は京都を去って江戸幕府の御用絵師となり江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画事業を次々成功させて世襲家の地位を磐石にした。『牡丹図』『紅白梅図』の作者で江戸時代も京都に留まり「京狩野」を興した狩野山楽は永徳の養子、『南蛮屏風』の狩野内膳は弟子である。探幽後の狩野派は旗本格の「奥絵師」4家(探幽の鍛冶橋家・弟尚信の木挽町家および分家した浜町家・狩野宗家を継いだ弟安信の中橋家)を頂点に「表絵師」(約15家)、一般町人の需要に応える「町狩野」と階層構造を日本全国に張巡らし幕末まで日本画壇を支配したが、大量均質生産のため技量の習得に重きが置かれ次第に芸術的創造性を失った。明治初期に狩野芳崖と橋本雅邦が日本画壇の重鎮となったが幕府の消滅により狩野派は存立基盤を失い西洋画に主役の座を奪われた。
狩野永徳と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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