陸軍長州閥の領袖ながら政友会総裁に納まって首相に上り詰めたが、張作霖爆殺事件で昭和天皇と陸軍中堅幕僚の板挟みとなった「おらが首相」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
田中 義一
1864年 〜 1929年
30点※
家系・子孫
- 田中家は長州藩士とはいえ最下級の家柄で、田中七五郎信祐は藩主毛利敬親の陸尺(駕籠かき)で六尺二寸(186cm)の屈強漢だった。三男の田中義一も大柄で萩の乱に(兄の田中千町に従い前原一誠側で)従軍した12歳の頃には既に大人並の体格だったという。陸軍に進んだ田中義一は、大築尚志の六女ステ子を妻に迎えた。大築尚志は佐倉藩出身の砲術の権威で、田中義一の結婚時は陸軍少将、日清戦争後に中将となり予備役に入った。田中義一は、第二夫人の出口ふみ子を麹町の別宅に囲い、一男四女をもうけた。狭心症の発作で急死した(自殺説あり)田中義一を看取ったのは別宅のふみ子だった。男爵を継いだ一人息子の田中龍夫は、東大法学部を出て商工官僚となり、第二次大戦後は山口県知事から衆議院議員に転じ福田赳夫の側近として通商産業大臣・文部大臣・自民党総務会長を歴任、旧山口1区の地盤は河村建夫へ引継いだ。
田中義一と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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