父の真田昌幸と共に「上田合戦」を闘い高野山幽閉を脱し大阪陣に見参、孤立無援の「真田丸」で奮闘し徳川家康を切腹寸前まで追詰めた破軍の星
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真田 信繁(幸村)
1567年 〜 1615年
60点※
真田信繁(幸村)と関連人物のエピソード
- 戦国末期に勇将は少ないが、1567年生れの真田信繁(真田幸村)と立花宗茂が掉尾の双璧、加藤清正・福島正則・井伊直政・伊達政宗・黒田長政らも実戦指揮では両人に及ばない。真田昌幸は領土に執着する余り次々主を替えた変節漢だが、二度の「上田合戦」で最も徳川家康を苦しめた山岳籠城戦の達人であり、共に闘った次男の真田信繁は寡兵で大軍を封じる極意を受継いだ。真田昌幸の死後、47歳の真田信繁は奇略で高野山九度山を脱出し「大坂冬の陣」に見参(条件は50万石とも)、松倉重政(大和五条代官)・浅野長晟(和歌山藩主)を介し徳川家康からも招聘されたが「父の遺言」と丁重に断った。厚遇された真田信繁は兵5千と百騎を預けられ浪人軍の最高幹部「五人衆」に担がれたが(他に長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登)、兄の真田信之が徳川方のため大野治長らに通謀を疑われ難渋、「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、豊臣秀頼自ら出陣して恩顧大名の離反を誘うべし」という真田昌幸の遺策を退けられた。が、真田信繁は信義を示すため孤立無援の出城「真田丸」を築き大阪城の弱点南方を防御、前田利常・松平忠直・井伊直孝ら3万の大軍を引受けた。真田信繁は、真田丸で捕えた南条元忠(伊達政宗の間諜)を逆利用し、前方の篠山から前田勢を狙撃し挑発、南条の内応を信じる敵勢が真田丸に殺到すると弓鉄砲の猛射を浴びせ散々に打破った。攻めあぐねた徳川家康は叔父の真田信尹を派して投降を勧め恩賞を十万石から信濃一国へ吊上げたが、真田信繁は礼儀正しく謝絶した。和議を違えて大阪城を内堀まで埋め真田丸も破却した徳川家康は翌年「大坂夏の陣」を再開、裸城の大坂勢は已む無く野戦に玉砕し豊臣家は滅亡した。真田信繁は、大阪街道を来る伊達政宗の騎馬鉄砲を我慢戦法で撃破し茶臼山に布陣、豊臣秀頼を餌に徳川本隊を引付け迂回部隊で敵の背後を衝く起死回生策を立てたが、肝心の秀頼が来ず万策尽きた。真田信繁は「十文字槍」を振って前田勢を切崩し後方に陣する徳川家康の旗本へ突進、家康を300mも追い自害も覚悟させたが、終に力尽きた。なお『真田十勇士』は立川文庫の創作である。
- 真田信繁(真田幸村)が5千人で20万人を撃退した「真田丸」は、実態が分らず日本史の謎とされてきたが、NHKが超音波地質調査および米軍撮影の航空写真を用いた立体視法により右の新説を立て『歴史秘話ヒストリア』で発表した・・・大阪城の巽(南東)を調査した結果、真田丸の所在地は従来説の真田山町・三光神社・玉造商店街などではなく、明星学園を含む180メートル四方の丘状地であり、形状は半円形ではなく変則的四角形であると導かれ、この仮定は広島藩が江戸時代初期に作製した絵図『摂津真田出丸』にピタリと一致したのだ。真田信繁(真田幸村)は崖上に立つ3寺院の石垣を利用して市街地に真田丸を築き、一本道から殺到する徳川軍を幅40メートルの空堀に落とし弓鉄砲で猛射、1万5千人を討取る大戦果で緒戦を飾った。さらに真田信繁(真田幸村)は射程300メートルの「大狭間銃」を多数配備して射撃を加え、徳川軍は弾除けの塹壕を掘り進み火縄銃の射程110メートルの三地点に射撃陣地「築山」を築いたが、真田信繁(真田幸村)は寄付けず戦線は1ヶ月も膠着した。あぐねた徳川家康はイギリス製の大砲を持込んで大阪城と真田丸を猛撃、実害は乏しかったが本丸に着弾した弾丸が侍女を圧死させる事件が起り、怯えた淀殿(豊臣秀頼の生母)が不利な講和を受入れ「大坂冬の陣」は終結した。大阪城の外堀と真田丸を破却する条項を呑ませた徳川家康は、本丸を除く内堀まで勝手に破壊し、大阪城は防御力を殺がれ「裸城」となった。障害を除いた徳川家康は翌1615年に早くも再征軍を興し「大阪夏の陣」が始まった。真田信繁(真田幸村)は、大阪城へ至る街道の要衝「茶臼山」(天王寺公園の一隅)に「もうひとつの真田丸」を築き、ここに大軍を引付ける間に「丸馬出」から出陣して後方の徳川家康本陣を衝く奇襲策を立てたが、天王寺口を守る毛利勝永の勇み足で頓挫した。万策尽きた真田信繁(真田幸村)は敵本陣へ突撃して300メートルも後退させ、徳川家康は二度自害を覚悟したというが、劣勢は如何ともならず福井藩兵に討取られた。真田信繁(真田幸村)終焉の地と伝わる安居神社では、毎年5月に慰霊祭が行われている。
- 真田昌幸は、武田信玄の智将真田幸隆の三男で、1575年長篠合戦で二兄が揃って戦死したため信濃真田郷6万石を相続、謀略で上杉方の信濃岩櫃城・上野沼田城を奪い、主君武田勝頼を滅ぼした織田信長に帰服、沼田を召上げられるも武田残党を吸収し勢力を増した。1582年本能寺事変が起り武田遺領の甲斐・信濃・上野が動乱の巷と化すと(天正壬午の乱)、真田昌幸は上杉→北条→徳川と乗換えつつ沼田を奪回し、徳川・北条同盟成立に伴う家康からの沼田割譲要求を拒絶し実力行使に出た北条軍を撃退した。1585年徳川・北条連合軍が大挙押寄せると、次男の真田信繁(真田幸村)を人質に送って上杉景勝に援軍を乞い、奇計を以て壊滅的打撃を与え上田・沼田の両城を死守したが(第一次上田合戦)、再び上杉を見限り天下人豊臣秀吉へ鞍替えした(真田信繁は上杉家を脱出し秀吉に近侍)。真田昌幸は海野竜宝(武田信玄の庶子)を盟主に担ぎ徳川領を侵食したが、秀吉の仲裁で家康と和睦し嫡子真田信之の妻に本多忠勝の娘(家康養女)小松姫を迎えた。1589年北条氏直の上洛を促す豊臣秀吉が懸案の沼田問題を裁定、真田昌幸は一応引渡しに応じたが泣付いて利根川西域と名胡桃城を留保し、怒った北条家臣の猪俣邦憲が真田の名胡桃城代から城を騙し取る事件が発生した。激怒した秀吉が小田原征伐を号令すると、真田昌幸は直ちに上野へ侵出し沼田領を奪回、戦後は関八州に入った徳川家康牽制の一翼を担った。1600年徳川家康が会津征伐を起し上方で石田三成が挙兵、真田昌幸は家康に従軍したが「甲斐・信濃二国進呈」を約す三成の書状で叛旗を翻し、真田信繁(妻は大谷吉継の娘)と共に上田城に籠城した。戦上手な真田昌幸は兵2千5百で徳川秀忠の中山道軍3万8千を足止めし関ヶ原合戦に遅参させる大功を立てたが(第二次上田合戦)西軍大敗で目論みは瓦解、東軍に付いた真田信之の嘆願で助命されたが高野山九度山村へ幽閉され同地で没した。真田信之は真田昌幸の遺領に3万石を加増され上田藩9万5千石を立藩、のち信濃松代藩13万石へ加転封され幕末まで存続した。真田信繁は高野山を脱走し大坂陣で徳川家康に一矢報いる。
- 信濃は山岳に分断された地勢で長野県人は纏まりを欠くといわれるが、更に交通不便な戦国時代には国衆割拠で統一勢力が育たず近隣大名の格好の標的となった。信濃のうち小県郡は古豪海野氏が関東管領山内上杉氏を後ろ盾に支配していたが、海野棟綱は甲斐守護武田信虎と結んだ村上義清・諏訪頼重に挟撃され、嫡子の海野幸義まで喪い上野へ亡命した(1541年海野平の戦い)。真田幸隆(真田幸綱)は父の海野棟綱(孫とも)に従い上野箕輪城主の長野業正に寄寓したが、諏訪頼重との和睦に失望し武田信虎を追放した武田信玄に帰参、三途の川の船渡賃「六文銭」を旗印に定め佐久・小県郡侵攻の尖兵となった。真田幸隆は武田信玄を北信濃に引込み謀略で戸石城を攻略、葛尾城の村上義清を越後に奔らせ武田信玄は甲斐・信濃の統一を果した。総身に35の戦傷を負いつつ本領回復を果した真田幸隆は1574年戸石城にて62歳で病没、「武田二十四将」屈指の智謀と謳われた。真田幸隆には四男あり、長男の真田信綱は「武田二十四将」に数えられたが次男の真田昌輝と共に長篠の戦いで戦没、三男の真田昌幸が家督を継ぎ四男の真田信尹は謀臣として昌幸を支えた。真田昌幸は、長篠合戦で重臣の大半を喪った武田家で重きを成し信濃国人の領袖に収まったが、間もなく主の武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、乗換えた信長も本能寺の変で横死、最前線の信濃は徳川家康・上杉景勝・北条氏政が覇を競う「三国志」状態となった(天正壬午の乱)。目先の領土に執着する真田昌幸は上杉→北条→徳川と乗換えつつ上野沼田を奪回したが、北条への沼田返還を強要する徳川家康を「第一次上田合戦」で撃退、次男の真田信繁(真田幸村)を人質に差出して豊臣秀吉に臣従し領土保全に成功した。が、真田昌幸は大詰めの関ヶ原合戦で大局を見誤り「第二次上田合戦」で西軍一の武功を立てながら破滅、幽閉地の高野山に没し次男の真田信繁(真田幸村)も復活を賭けた大坂陣に散ったが、舅の本多忠勝に従い東軍に属した嫡子の真田信之は信濃最大の松代藩13万石の主となり子孫は幕末まで封土を保った。
- 武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。
- 「武田二十四将」は今なお有名だ。山本勘助は、諸国巡礼の末に52歳で武田信玄に仕官し足軽大将に抜擢された。容貌醜悪で片足が不自由だが、諸国情勢や兵法・築城術に通じ、信玄に恨みを含む諏訪御料人の側室採用、北信濃攻略などに大功があったが、第4次川中島の戦いで上杉謙信に啄木鳥戦法を見破られ戦死した。江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡勘兵衛の『甲陽軍鑑』で一躍有名軍師となったが、その雛形は勘助の子が作ったもので、実際は軽格と見る向きが強い。ただ、二十四将中で門外漢は山本勘助のみであり、浪々の身から破格の昇進を遂げた事実は動かない。同じ謀略系では真田幸隆がいる。信玄に属して合戦で奪われた所領を回復、戸石城攻略で大功を挙げ、巧みなゲリラ戦術は子の真田昌幸・孫の真田信繁(真田幸村)へ受継がれた。猛者揃いの武田軍でも「武田四天王」馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景は別格だが、最強は山県昌景だろう。140センチ足らずの小兵で口蓋裂の醜貌ながら、常に先陣を疾駆し「赤備え」と恐れられた。「赤備え」の元祖は昌景の兄飯富虎昌、信虎追放劇に加担した宿老だが、武田義信の傅役故に謀反疑惑に連座し処刑された。長篠の戦いで山県昌景が戦死した後、「赤備え」は井伊直政と真田幸村が踏襲した。高坂昌信も強いが、少年期は信玄の寵童であったという。板垣信方は、信虎追放以来の腹心で、享楽に耽る武田信玄を諌め、北信濃方面軍司令官の大役を担ったが、上田原の戦いで緒戦の勝利に油断し前線で首実験中に村上義清に襲撃され落命した。長篠の戦い後、武田勝頼の求心力は衰え、最期は譜代重臣にも見捨てられた。小山田信茂は、信玄の従弟で家中屈指の大族だったが、織田信長の甲州征伐で逃亡する武田勝頼の保護を拒み滅亡に追いやった。戦後信長に降伏するが、余りの不忠を咎められ処刑。穴山信君は、武田一族の名門だが、従兄弟の勝頼と対立し長篠の戦いで戦線離脱、甲州征伐では織田方に内通し本領安堵のうえ武田宗家を継承した。が、徳川家康と堺見物中に本能寺の変が勃発、木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命した。
- 武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
- 上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
- 上杉景勝は、武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落した。超寡黙・無表情で家政は直江兼続に任せたが合戦には強かった。1564年宇佐美定満が上杉謙信の三条長尾家と対立する上田長尾家の当主政景と共に溺死し、8歳の嫡子景勝は謙信の養子にとられ越後坂戸城から春日山城へ移された。上杉景勝は上田衆を率いて武勇を示し、謙信から弾正少弼の官位を譲られ一門衆筆頭と目されるも世子の明示は無く、1578年謙信が急逝すると相養子の上杉景虎(北条氏政の実弟)との激烈な家督争いが勃発、北条と甲相同盟を結ぶ武田勝頼が信越国境に迫り窮地に陥ったが妹菊姫の入輿を乞い東上野と膨大な献上物を差出して勝頼篭絡に成功、上杉景虎・道満丸父子と上杉憲政(謙信の養父)を滅亡に追込んだ(御館の乱)。が、2年の内乱で上杉家は弱体化し極端な上田衆優遇に怒った新発田重家らが伊達輝宗・蘆名盛隆を後ろ盾に蜂起、1582年武田を滅ぼした織田軍団が越中・信濃・上野の三方面から越後へ殺到し柴田勝家に越中魚津城を落とされたが信長討死で蘇生、天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪い取った。越中の佐々成政を牽制しつつ新発田重家を攻めるも討死寸前の惨敗(放生橋の戦い)、しかし蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った重家を押返し、1586年豊臣秀吉に臣従し越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められると重家を討って越後を回復、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)領地は90万石に膨らんだ。1598年蒲生騒動を機に秀吉から会津120万石と徳川家康の押え役を託されると、1600年家康を会津征伐に誘い出し盟友石田三成が関ヶ原合戦を起すが家康追撃を説く直江兼続を「義に非ず」と退け挟撃策が破綻、最上義光を攻めるも打破れず西軍完敗で撤退し(慶長出羽合戦)、上洛して家康に陳謝し改易は免れたが米沢藩30万石へ落とされた。
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 本多平八郎忠勝は、武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将、伊勢桑名藩10万石と上総大多喜藩5万石を獲得したが幕府創設で役割を終え本多正信・正純に主導権を奪われた。徳川(松平)最古参「安祥七譜代」に列する本多家の当主で、生後間もなく父忠高が織田信秀との合戦で戦死、補佐役の叔父忠真も三方ヶ原合戦で討死した筋金入りの三河武士である。1559年徳川家康が永い人質生活を終え岡崎城に帰還、翌年「大高城の兵糧入れ」で12歳の本多忠勝は初陣を飾り、桶狭間合戦で今川義元が討たれ三河衆は悲願の独立を達成、家康は凡愚な今川氏真と手を切り織田信長(信秀の嫡子)との同盟を選択した。武功を重ねる本多忠勝は19歳で家康子飼いの旗本先手役・将校に列し、姉川合戦では単騎駆けで朝倉陣を切裂き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍、1572年武田信玄に遠江二俣城を奪われた家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された(一言坂の戦い)。翌年三方ヶ原の戦いで徳川軍は信玄に一蹴されたが、左翼を担う本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を食止め殿軍の大役を果して家康を浜松城へ逃した。1582年堺見物中の家康を本能寺の変が襲うと随行の本多忠勝は殉死を制止して岡崎城へ生還させ、1584年小牧・長久手の戦いでは奇襲軍を破られ反撃に出た豊臣秀吉の大軍を僅かな手勢で食止め、第一次上田合戦では真田昌幸に敗れた徳川勢の撤退を指揮し娘を真田信之に縁付けて講和を纏めた。1590年小田原征伐に向け京都に参集した諸大名の前で秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と激賞され、家康の関東移封に伴い上総大多喜城10万石に入封、1600年関ヶ原合戦では井伊直政と共に実戦を指揮し要衝の伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ配された。徳川幕府発足後は武功派の本多忠勝に用は無く家康は吏僚派を重用、本多正信を「腰抜け」と罵りつつも危険な政争に巻込まれることなく63歳の生涯を閉じた。
- 淀殿(浅井茶々)は、浅井長政・市(織田信長の妹)の長女で母と義父柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉の側室となり嫡子秀頼を出産、太閤の遺命を振りかざして徳川家康に楯突き豊臣家を破滅へ導いた戦国時代の幕引き役、妹の初は京極高次の正室、江は徳川秀忠の正室で家光の生母である。浅井長政は信長に滅ぼされたが市と浅井三姉妹は秀吉に近江小谷城から救出され、本能寺事変後の清洲会議で勝家は市を妻にもらい母子は越前北の庄城へ移されたが翌年賤ヶ岳の戦いで勝家が滅亡、市は夫に殉じたが三姉妹は安土城・聚楽第で養われた。19歳の茶々は色魔秀吉の側室にされ、翌年嫡子鶴松を産んで山城淀城主となり(淀殿)北政所や松の丸殿(従姉)との女戦に勝利、鶴松は夭逝したが2年後に拾丸を出産した(豊臣秀頼)。不自然な懐妊で秀吉が別人の胤を植えた可能性が高いが、淀殿は乳母の大蔵卿局とその子大野治長を重用して家政を握り北政所派(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近、関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保も相次ぐ不審死、養子の秀秋は小早川隆景の養子に出された。1598年秀吉が死去、徳川家康は武断派など豊臣恩顧大名を取込んで天下獲りに乗出し、1600年失脚した三成は毛利輝元を総大将に担いで家康に宣戦、秀頼が立てば勝機はあったが淀殿は傍観の態を装い統率を欠いた西軍は関ヶ原で完敗し豊臣家は65万石の一大名に没落した。秀吉の追善供養という家康の甘言に釣られた淀殿は寺社修築で財力を削がれ、秀頼の正室に秀忠の娘千姫を迎え二条城会見には応じたが現実を直視せず感情的に臣従を拒んだ。1614年方広寺鐘銘事件の罠に落ちた淀殿は関ヶ原浪人を掻集めて家康に宣戦、愚将大野治長が真田信繁(幸村)ら五人衆の献策を退けて籠城を選択し、砲撃に怯えた淀殿は余力十分ながら不利な講和を強行、大阪城は内堀まで埋められ裸城となった(大坂冬の陣)。翌年浪人退去か移封かを迫られた淀殿が断固拒絶し大坂夏の陣が勃発、大坂方は不利な野戦を強いられたが淀殿は秀頼の出馬を拒絶し幸村の起死回生策も瓦解、大阪城は落城し淀殿の助命嘆願も虚しく秀頼と共に自害に追込まれた。
真田信繁(幸村)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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