二度の「上田合戦」で徳川家康に苦渋を舐めさせた戦国屈指の戦上手だが大局眼無き領地欲の権化、叛服の果てに小田原征伐を誘発し関ヶ原合戦で勲一等の殊勲を挙げながら西軍敗北で破滅
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
真田 昌幸
1547年 〜 1611年
40点※
家系・子孫
- 真田氏の本姓滋野氏は信濃小県郡発祥の海野氏の一流で、海野氏は源義朝・源義仲に従って源平合戦で武功を挙げ子孫は信濃全域に広がった。16世紀に至り海野棟綱に四児あり、嫡子の幸義が海野を継ぎ、幸隆が小県郡真田郷を領して真田氏を称し、頼幸は矢沢氏、隆家は常田氏の祖となった。真田幸隆は、甲斐の武田信虎に属したが村上義清に所領を奪われ、上野箕輪城の長野業正に寄寓したあと武田信玄に帰参して無数の戦功を重ね真田郷を奪還、総身に35の戦傷があったという。真田幸隆には信綱・昌輝・昌幸・信尹の四児があり共に勇武知略を賞されたが、信綱と昌輝は長篠合戦で戦死し、武藤家を継いでいた三男の真田昌幸が復姓し遺領6万石を相続した。武田勝頼に仕えた真田昌幸は北条氏から上野沼田を奪ったが、武田家を滅ぼした織田信長に乗換え、本能寺事変後は主を転々し勢力を保った。が、真田昌幸は関ヶ原合戦で次男の真田信繁(真田幸村)と共に西軍に属し破滅、嫡子真田信之の嘆願で辛くも助命されたが高野山へ幽閉され同地で没した。真田信之は、徳川家康との和睦の際に本多忠勝の娘(家康養女)小松姫を妻に迎え、関ヶ原合戦で東軍に属し昌幸領に3万石を加増され信濃上田藩9万5千石を立藩、後に信濃松代藩13万石へ加転封された。松代藩は2代藩主真田信政の後継選でお家騒動を起し幕府裁定で沼田藩3万石が分立したが、両家とも幕末まで存続した。真田信繁(真田幸村)は、大谷吉継の娘(竹林院)を妻に迎え、舅の薦めで豊臣秀吉の近習となった。高野山幽閉中にもうけた嫡子の真田幸昌は大阪陣に従軍し、死地へ赴く真田信繁の厳命で大阪城へ戻り豊臣秀頼の自害を見届け傍らで切腹した。次男の真田守信は助命され、姉の梅(片倉重長の後妻)を頼り伊達政宗に仕官、厚遇され片倉姓を名乗ったが嫡子の辰信が真田復姓を許された。真田信繁は側室の隆清院(豊臣秀次の娘)に二児を産ませ、三男の幸信は三好へ改姓して出羽亀田藩士となり、四男の之親は讃岐へ逃れ血脈を伝えたという。真田信繁の娘「あくり」は、滝川一積(滝川一益の孫)に匿われ蒲生郷喜に嫁いだが、真田の血がお家騒動を招き養父一積改易の悲運に泣いている。
- NHK大河ドラマはこと女性に関してフィクションが多いが(男性社会に女性の史実は極めて少ないので仕方ないが)、『真田丸』は相当に史実を踏まえているようだ。真田幸隆の正室(『真田丸』では「とり」、落飾して恭雲院)は海野氏(真田氏の本家)の譜代家老河原氏の娘で、幸隆に嫁いで信綱・昌輝・昌幸・信尹の四男と二女を産んだが、長篠合戦で上の二児を喪い家督を継いだ三男真田昌幸のもと豊臣秀吉が天下を獲るまで長寿を保った。恭雲院の兄の河原隆正は海野棟綱の家老だったが、武田信虎・村上義清との「海野平の戦い」に敗れ主家と共に没落し信濃国衆の主導権を義弟の真田幸隆に奪われている。真田昌幸の正室(山手殿)は菊亭晴季(公家)の娘とも宇多頼忠(信濃中野牧の土豪)の娘とも言われ、MHK『真田丸』の薫夫人は前説を踏まえ戦乱の渦中に着物ばかり気にする都人風に描かれている。菊亭晴季説は信濃松代藩主として生残った真田信之の子孫が伝えるが、三男坊「武藤喜兵衛」時代の真田昌幸に中級公家との縁談は高嶺の花、宇多頼忠の別の娘が石田三成の正室であり徳川家を憚る真田家が隠蔽を図ったものとみられる。さて真田昌幸に嫁いだ山手殿は村松殿(『真田丸』の松)・真田信之・真田信繁(真田幸村)を産んだが、甲府新府城の人質に置かれ武田勝頼の滅亡に際し命からがら上田へ帰還、関ヶ原合戦時には石田三成に捕えられ大坂城に拘留されたが家臣の機転で窮地を脱している。西軍に与した真田昌幸・真田信繁(真田幸村)は高野山へ幽閉されたが、山手殿は信濃上田藩主となった真田信之に引取られ(落飾して寒松院)昌幸の死の2年後1613年に他界した。小山田茂誠に嫁いだ長女の村松殿(松)も実在で、織田信長の安土城へ人質に出された可能性もあるという。真田信之に近侍した小山田茂誠は松代藩重臣となり子孫は次席家老を世襲、村松殿は安穏な余生を過し1630年に永眠した。
真田昌幸と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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