豊臣秀吉の下で兵站・太閤検地・土木事業を担い、上杉・佐竹・島津・津軽等を圧伏して文治派筆頭官僚に躍進するが、朝鮮出兵と秀次事件で武断派に憎悪され秀吉没後すぐに失脚、己の復権のため関ヶ原合戦を起すが徳川家康の罠に嵌って惨敗した「才あって智ない」豊臣家崩壊の元凶
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石田 三成
1560年 〜 1600年
10点※
石田三成と関連人物のエピソード
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 淀殿(浅井茶々)は、浅井長政・市(織田信長の妹)の長女で母と義父柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉の側室となり嫡子秀頼を出産、太閤の遺命を振りかざして徳川家康に楯突き豊臣家を破滅へ導いた戦国時代の幕引き役、妹の初は京極高次の正室、江は徳川秀忠の正室で家光の生母である。浅井長政は信長に滅ぼされたが市と浅井三姉妹は秀吉に近江小谷城から救出され、本能寺事変後の清洲会議で勝家は市を妻にもらい母子は越前北の庄城へ移されたが翌年賤ヶ岳の戦いで勝家が滅亡、市は夫に殉じたが三姉妹は安土城・聚楽第で養われた。19歳の茶々は色魔秀吉の側室にされ、翌年嫡子鶴松を産んで山城淀城主となり(淀殿)北政所や松の丸殿(従姉)との女戦に勝利、鶴松は夭逝したが2年後に拾丸を出産した(豊臣秀頼)。不自然な懐妊で秀吉が別人の胤を植えた可能性が高いが、淀殿は乳母の大蔵卿局とその子大野治長を重用して家政を握り北政所派(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近、関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保も相次ぐ不審死、養子の秀秋は小早川隆景の養子に出された。1598年秀吉が死去、徳川家康は武断派など豊臣恩顧大名を取込んで天下獲りに乗出し、1600年失脚した三成は毛利輝元を総大将に担いで家康に宣戦、秀頼が立てば勝機はあったが淀殿は傍観の態を装い統率を欠いた西軍は関ヶ原で完敗し豊臣家は65万石の一大名に没落した。秀吉の追善供養という家康の甘言に釣られた淀殿は寺社修築で財力を削がれ、秀頼の正室に秀忠の娘千姫を迎え二条城会見には応じたが現実を直視せず感情的に臣従を拒んだ。1614年方広寺鐘銘事件の罠に落ちた淀殿は関ヶ原浪人を掻集めて家康に宣戦、愚将大野治長が真田信繁(幸村)ら五人衆の献策を退けて籠城を選択し、砲撃に怯えた淀殿は余力十分ながら不利な講和を強行、大阪城は内堀まで埋められ裸城となった(大坂冬の陣)。翌年浪人退去か移封かを迫られた淀殿が断固拒絶し大坂夏の陣が勃発、大坂方は不利な野戦を強いられたが淀殿は秀頼の出馬を拒絶し幸村の起死回生策も瓦解、大阪城は落城し淀殿の助命嘆願も虚しく秀頼と共に自害に追込まれた。
- 加藤清正は、又従兄弟の豊臣秀吉のもとで大名に出世し朝鮮出兵で武名を上げた猪武者、石田三成憎しで徳川家康に与し関が原合戦後に肥後熊本藩54万石の太守となるも豊臣家滅亡を招いて茫然慨嘆、後嗣忠広が改易され加藤家も断絶した。秀吉と同じ尾張中村の百姓の出で12歳のとき召抱えられ、早く譜代家臣を増やしたい秀吉に「賤ヶ岳の七本槍」と持上げられたが国内戦で目立つ軍功は無かった。織田信長討死で天下を奪った秀吉は加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長ら子飼い武将を大名に引上げ、1587年肥後国人一揆平定後に肥後の北半分(熊本城25万石)を清正・南半分(宇土城24万石万石)を行長に分け与えた。1592年天下統一を果した豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始(慶長の役)、二番隊を率いた加藤清正は一番隊の小西行長と先を競って進軍し、日本軍が首都漢城・平壌を制圧しても宣祖王を追撃し満州国境で臨海君・順和君の二王子を捕縛した。が、秀吉に面従腹背で講和を進める三成・行長ら文治派と清正・正則・黒田長政ら武断派の対立が深刻化、清正は讒言で内地へ召還され謹慎に処された。1596年三成・行長のゴマカシが破れて秀吉は朝鮮出兵を再開(慶長の役)、慶長伏見地震で秀吉救済に駆けつけた「地震加藤」は赦されて朝鮮へ出陣し蔚山城の戦いで生涯の晴れ舞台を飾った。1598年秀吉死去で朝鮮出兵は終了、報復に燃える加藤清正ら武断派諸将は老獪な徳川家康に取込まれ、前田利家逝去の翌日三成の大坂屋敷を襲撃、仲裁した家康は三成の奉行職を解き佐和山城へ押込めた。1600年失地回復を期す三成の策動で関ヶ原の戦いが勃発、熊本に居た加藤清正は行長不在の宇土城・八代城を攻落とし戦後に肥後一国54万石へ加増されたが、1603年家康は徳川幕府を開き豊臣秀頼を圧迫した。「はねだし」の石垣で熊本城を築いた加藤清正は築城名人と賞され、名護屋城・江戸城などの普請で徳川家への忠勤に励み、総金箔張りの江戸屋敷や歌舞伎興行で警戒解除に努めた。1611年淀殿を説伏せて秀頼と家康の二条城会見を実現させたが後の祭り、3ヶ月後に加藤清正は病没し、4年後に豊臣家は滅ぼされ、加藤家も後嗣忠広の代で滅亡した。
- 小早川秀秋は、ねねの甥で豊臣秀吉の養子となるが秀頼誕生で五大老小早川隆景に入嗣、関ヶ原合戦の寝返りで徳川家康に勝利を献上し備前岡山藩55万石に栄転するも僅か2年後に21歳で発狂死し無嗣改易となった精神薄弱児である。関白秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)・秀秋に続き秀頼も大坂陣で滅ぼされ豊臣大名は消失した。ねねの兄木下家定の五男に生れた秀秋は、3歳で秀吉の養子となり7歳で丹波亀山城10万石を与えられ豊臣を名乗ったが、1593年秀頼誕生の翌年15歳で小早川家に出され、翌年秀吉が豊臣秀次一家を惨殺し秀保急逝で大和豊臣家も断絶、秀秋は秀次遺領の筑前名島30万7千石を与えられたが粛清を恐れる身となった。慶長の役では総大将に任じられたが、小早川隆景が亡くなると蔚山城合戦の失策を理由に越前北ノ庄15万石へ減転封、筑前・筑後領は太閤蔵入地とされ実質的に代官の石田三成に奪われた。1598年秀吉が没すると三成を憎む武断派の決起で豊臣家は割れ、小早川秀秋は筑前名島の旧領回復で恩を受けた徳川家康に接近、1600年三成が挙兵すると西軍に引込まれ伏見城攻撃に従うが、同じく高台院(ねね)を母と仰ぐ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)の東軍加盟に逡巡し重臣の稲葉正成・平岡頼勝に押され黒田長政(家康の娘婿)に寝返りを承諾した。美濃大垣城から打って出た西軍が関ヶ原で東軍と激突、小早川秀秋は南西の松尾山に陣取り日和見していたが家康の威嚇射撃で尻に火がつき大谷吉継を急襲(先鋒を命じた松野重元は不義を憤り戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走した。立役者の小早川秀秋は宇喜多領を承継し備前岡山藩55万石へ増転封となったが祟りに怯えて狂人となり杉原重政を誅殺し稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔、間もなく突然死し小早川家は断絶した。
- 宇喜多秀家は、謀略と暗殺で備前岡山城57万4千石を分捕った宇喜多直家の嫡子で豊臣秀吉の引立てで朝鮮役総大将・五大老に栄進、父に似ぬ義侠心から関ヶ原合戦で最も奮闘するが改易され八丈島へ流罪、流人のまま83歳で没した関ヶ原最後の武将である。1581年梟雄宇喜多直家が死去、後事を哀願された秀吉は義理堅く9歳の宇喜多秀家を盛立て、14歳で元服させると養女(前田利家の実子)豪姫を娶わせて豊臣一門に加え、九州征伐で初陣、文禄の役では弱冠20歳の秀家を総大将に抜擢し、帰国すると五大老に就けた。関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保は不審死、小早川秀秋(ねねの甥)は突如減転封の憂き目をみたが、後継資格の無い秀家は猜疑を免れた。宇喜多秀家は、朝鮮役と秀吉没後の豊臣家分裂抗争を通じて石田三成・大谷吉継・小西行長と親交を深め三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政および黒幕の徳川家康と対立、1599年前田利家の死の翌日武断派七将が三成の大坂屋敷を襲撃すると秀家は佐竹義宣・上杉景勝と共に救助したが家康の裁定で三成は失脚に追込まれた。宇喜多家中では執政長船綱直の死(毒殺説が濃厚)を機に宇喜多詮家(直家の甥。後に坂崎直盛に改名し千姫強奪事件を起す)・戸川達安・岡利勝らが秀家に反逆し大坂屋敷を占拠、又も家康の裁定で首謀者追放で決着したが重臣の大半を失った宇喜多家は衰えた(宇喜多騒動)。1600年復権を期す三成が動くと宇喜多秀家は強硬策を主張、軍勢を率いて鳥居元忠の伏見城を攻落とし、大阪城に陣取る毛利輝元に代わり西軍を率いて美濃大垣城へ出陣、関ヶ原で両軍激突すると福島正則と一進一退の激闘を演じたが小早川秀秋の寝返りで戦局が一変し姉婿吉川広家の妨害で毛利勢は不参戦、秀家は秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、薩摩へ逃れ島津義弘に匿われたが宇喜多家は潰され岡山藩55万石へは秀秋が入封した。徳川幕府へ引渡された宇喜多秀家は、義兄前田利長の嘆願で助命され駿河久能山幽閉を経て三児と共に八丈島へ流罪、前田家の援助で50年も寿命を保ち子孫は八丈島に根付いた。
- 竹中半兵衛重治は、僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師である。美濃岩手を所領する竹中重元の嫡子に生れ、父に従って道三亡き斎藤家の被官となったが、柔和な容貌から龍興主従の苛めに遭い、報復を決意した20歳の半兵衛は手勢14人で稲葉山城を急襲し占領してしまった。織田信長から美濃半国を条件に城の明渡しを誘われたが断って龍興に返還し、北近江の浅井長政に身を寄せた後、美濃岩手に戻り隠棲した。2年後の1566年、清洲同盟で東方を固めた織田信長が美濃に侵攻、竹中半兵衛は舅の安藤守就に従って信長に帰順し斎藤氏滅亡を傍観、1570年遁世欲を封印して豊臣秀吉の与力・軍師になると、長亭軒城を調略して美濃・近江の陸上封鎖を打破し、姉川合戦を戦った。徳川勢の奮闘で辛勝したものの信長包囲網が結成され、最前線の近江横山城に残された秀吉は苦境に置かれたが、軍師半兵衛の指揮で3年間浅井氏の反撃を凌ぎ、1573年武田信玄急死・信長包囲網瓦解と同時に一気に浅井・朝倉氏を討滅、殊勲者の秀吉は浅井遺領20数万石を与えられ長浜城に拠って織田家中屈指の将領に躍進した。1577年黒田官兵衛の要請を受けた織田信長が秀吉に軍団を預けて中国侵攻に着手すると、半兵衛・官兵衛「両兵衛」の軍略で秀吉軍団は播磨地方を席巻、別所長治の裏切りで山中鹿介の守る上月城を落とされ(上月城の戦い)、荒木村重謀反で使者に立った官兵衛が捕捉されたが、毛利方の備前国主宇喜多直家を寝返らせ、別所氏を三木城に追い詰めた。官兵衛反意を疑う信長は人質の嫡子黒田長政の殺害を厳命したが、竹中半兵衛は成敗覚悟で密かに長政を匿い、病身を押して東奔西走した後、三木城攻囲の陣中で力尽きた。中国大返しを差配して豊臣秀吉を天下人に押し上げた黒田官兵衛、関ヶ原合戦で小早川秀秋の寝返りを誘った黒田長政と比べると、裏方に徹した竹中半兵衛の業績は目立たず軍記者で和製張良に仕立てられたが、実像も誠実・智謀の名軍師であった。
- 黒田官兵衛孝高は、東播磨の盟主小寺家の筆頭家老で姫路城代の黒田職隆の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、備前の宇喜多直家を調略し、主君小寺政職に裏切られ荒木村重に幽閉されても操守を貫き、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で天下争覇の夢破れた心優しき天才軍師である。嫡子黒田長政は、徳川家康の養女婿となり小早川隆景・吉川広家を寝返らせた功績で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ諸大名中最大の加増を受けた。守護赤松氏がお家騒動で没落し播磨・備前・美作は国人割拠の情勢を強めるなか、21歳で家督を継いだ黒田官兵衛は、姫路へ侵攻した赤松政秀を寡勢で撃退して武名を上げ(青山・土器山の戦い)、1575年織田信長の天下を予見し主君小寺政職と別所長治を口説いて帰順させたが、織田方の備前国主浦上宗景が毛利の加勢を得た家臣の宇喜多直家に追放され(天神山城の戦い)、一向宗門徒の盟友三木通秋が反信長に転じて乃美宗勝の毛利水軍が来襲(英賀合戦)、偽装援軍の奇計で撃退するも国人衆は動揺し、局面打開のため嫡子長政を人質に送って援軍を督促した。1577年中国征伐を決意した織田信長は豊臣秀吉軍団を派遣、姫路城に入った秀吉は忽ち要衝上月城を攻略するが、別所長治の離反を機に播磨国人の大半が毛利方へ靡き毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が来援、備前宇喜多直家の調略で窮地は凌いだが、息つく間もなく荒木村重が謀反、村重と通じた小寺政職に欺かれ説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の土牢に幽閉され、官兵衛反意を疑う信長は人質長政の殺害を命じた。1年後、有岡城落城で半死半生の官兵衛は救出され(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、竹中半兵衛に匿われた長政も無事、軍師官兵衛が戻った秀吉軍団は別所長治を滅ぼし(三木合戦)、反抗勢力を掃討して播磨を平定(小寺政職は官兵衛の嘆願で助命)、吉川経家の鳥取城を落として因幡を制圧、清水宗治の備中高松城を水攻めで攻囲した秀吉は手柄献上のため信長に出馬を要請した。
- 1582年本能寺の変報を備中高松陣で受けた豊臣秀吉は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、正気に返った秀吉は妥協的条件で毛利と即時和睦し、京都まで200kmを10日で移動(中国大返し)、柴田勝家らに先駆けて明智光秀を討ち果し後継レースの主役に躍り出た(山崎の戦い)。黒田官兵衛は、毛利・宇喜多との戦後処理をまとめ、大坂城築城の総奉行を務め、賤ヶ岳合戦から九州征伐に転戦、播磨篠の丸城5万石から1587年豊前中津12万石の大名となったが、功績に比して評価は過小であり、秀吉子飼いの石田三成に参謀長の地位も奪われた。中津入り直後、官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙に城井鎮房ら豊前国人が一斉蜂起、苦戦しつつも持久戦に切替えて無事鎮圧した。1589年家督を長政に譲り隠居、秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞き粛清を予見して引退したというが、官兵衛の智謀を頼む秀吉は軍師辞任は許さなかった。小田原征伐では北条氏政・氏直父子への勧降使を務め、秀吉が諫止を聞かず始めた文禄の役(朝鮮出兵)には軍監として渡航するが、現地で石田三成・小西行長と対立し無断帰国、剃髪入道して勘気赦免され(如水と号す)、慶長の役・蔚山城の戦いでは長政の後詰で采配を振るい、処罰覚悟で戦線縮小を図るなか、秀吉が大阪城で病没した。風雲急を告げる情勢下、黒田官兵衛は、長政を徳川家康に縁付けて西軍切崩しにあたらせ、関ヶ原合戦が起ると自身は豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、最古参の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門を従えて毛利配下大友義統の西軍勢を打破り(石垣原の戦い)、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け解軍した。最後の大勝負に負けた黒田官兵衛は、封土恩賞を辞退して筑前に隠居し、好々爺然で家臣・領民に親しみ悠々自適のうちに59年の生涯を閉じた。
- 千利休(千宗易)は、堺の豪商出身の侘茶の完成者で見方によっては大山師、茶頭として織田信長に出仕し本能寺事変後は豊臣秀吉に仕え「利休道具」の錬金術と「一期一会」の接待術で大名統治に貢献するが突如逆鱗に触れて死罪、子孫の「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて本願寺と並ぶ巨大教団に発展し今日まで繁栄を続ける。魚問屋に倉庫業を兼ね一代で財を成した田中与兵衛(千氏へ改姓)の嫡子で、北向道陳・武野紹鴎に師事して茶の湯を研鑽し、堺南宗寺(大徳寺の末寺)に入門して臨済禅の修行を積んだ。共に茶の湯の「天下三宗匠」と称された今井宗久・津田宗及は紹鴎門下の相弟子である。三好長慶の妹とされる宝心妙樹を妻に迎えたのは自治都市堺を守るための政略であったと考えられるが、1569年織田信長が堺から自治権を取上げると茶頭として出仕し、1582年信長の横死に伴い豊臣秀吉の茶頭に転身、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で頭角を現し、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出、天下人の寵を得た千利休は「利休七哲」(蒲生氏郷・細川忠興・芝山宗綱・古田織部・高山右近・瀬田正忠・牧村利貞)を筆頭に諸大名から崇敬を集め豊臣政権の内政にも深く関わった。「黄金の茶室」や聚楽第など成金趣味に奔る秀吉に美意識上の葛藤を抱きつつも、妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具、作庭にも工夫を凝らして侘茶の境地を開いた。が、1591年突如秀吉から堺に蟄居を命じられ、弟子の大名連や前田利家の助命嘆願も虚しく上杉景勝の兵に京都聚楽屋敷を囲まれるなか従容と切腹に応じ、首は一条戻橋に晒された。「大徳寺三門の利休像」など動機には諸説あるが、側近を牛耳りたい石田三成が耄碌した秀吉を煽り事を運んだ可能性が高い。数年後に秀吉は利休の遺族を赦免、嫡子の千道安は細川忠興に仕えたが後嗣無く病没し、利休婿養子の千少庵が家督を継いで京都に住し嫡子千宗旦の三児が武者小路千家・表千家・裏千家の祖となった。
- 前田利家は、織田信長の寵童から「槍の又左」へ成長し、下僕殺害で3年干されるが武功を重ねて能登国主に出世、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切り、親友豊臣秀吉の引立てで加賀・越中・能登三国の太守となり徳川家康の対抗馬に担がれた最も幸運な戦国武将である。武将としての実績は乏しいが、篤実な性格で敵からも信頼され、非情の決断と老獪な政界遊泳で大封の主に上り詰めた。尾張荒子2千貫の土豪の四男に生れ、14歳のとき家督相続間もない織田信長に小姓として出仕し、武芸を練磨して合戦毎に首級を重ねた。幸運の主豊臣秀吉は清洲・安土の侍長屋以来の親友である。1559年浮野の戦いで主君信長は尾張平定を完了し、利家は母衣衆(親衛隊)に抜擢され妻まつ(芳春院)も迎えたが、信長を真似た「かぶきもの」が嵩じて同朋衆拾阿弥を斬殺し放逐された。桶狭間合戦で一番首、森部の戦いで首二つを挙げて勘気赦免されると、信長の命令で兄利久(前田慶次郎の養父)を廃して前田家当主に納まり、石山合戦で単騎敵を防ぎ「日本無双の槍」と激賞され織田家大名衆に連なった。1575年長篠合戦で鉄砲隊を率いて奮戦し、佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられて柴田勝家の与力に参陣、1580年本願寺顕如の降伏で90年間加賀を支配した一向一揆も解体すると、柴田軍団は加賀・能登を制圧、前田利家は能登23万石を与えられ小丸山城に拠って上杉謙信勢と対峙した。そして1582年本能寺の変で信長が討死、44歳の前田利家は自ら槍を奮って能登国人の反乱を鎮圧し、翌年賤ヶ岳合戦が勃発すると柴田方で出陣するも突如戦線離脱、秀吉方に転じて北ノ庄攻めの先鋒を務め能登に加賀二郡を加増されて尾山(金沢)城へ移り、1585年佐々成政の反乱を撃退して(末森城の後巻)越中を加封され三国の太守となった。天下統一を急ぐ豊臣秀吉が人質攻勢で徳川家康を懐柔すると、前田利家は家康牽制の対抗馬に担がれ、秀吉の遺言により五大老筆頭・秀頼後見として大阪城に入ったが、家康との一触即発の騒乱を鎮めた直後に死去、翌日石田三成が加藤清正・福島正則らに襲撃され早くも豊臣政権崩壊の兆しが現れた。
- 蒲生氏郷は、近江日野城主の嫡子で、六角氏滅亡に伴い織田信長に仕えて娘婿となり本能寺事変後は豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて会津92万石に抜擢され伊達政宗の妨害を排して奥州仕置を完遂、徳川家康の抑え役を期待され本人は天下も夢見たが惜しくも40歳で病没した文武両道の大器である。「銀鯰尾兜」を着けて常に兵卒の先頭に立ち、松阪・会津に商業都市を築いた経済通、家臣には軍規厳正ながら気前良く、利休七哲筆頭の一流文化人、父祖譲りの義理堅さも備えた万能の武将であり、存命ならポスト秀吉政局を左右したに違いない。1568年織田信長の上洛軍を扼した六角義賢が滅ぼされ(観音寺城の戦い)、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は13歳の嫡子氏郷を人質に出して降伏した。翌年の伊勢侵攻で初陣した氏郷が介添役無しで首級を挙げる活躍を示すと、信長は烏帽子親となって氏郷を元服させ娘の冬姫を妻に与えて日野城への帰還を許した。蒲生氏郷は、姉川、長島、長篠、有岡城、伊賀攻めと順調に戦歴を積んで織田一門のホープとなったが、1582年本能寺の変が勃発、安土城から日野城へ信長の妻妾を護送して明智光秀と対峙し、山崎合戦で仇討を果した豊臣秀吉に帰服した。賤ヶ岳合戦では羽柴秀長旗下で伊勢攻めの先鋒を務め、木造具正ら織田信雄方伊勢国人を掃討、小牧合戦では秀吉退却の殿を務め、1584年伊勢松ヶ崎12万石へ加転封され松阪城に移った。その後も蒲生氏郷は秀吉に従って各地を転戦、九州征伐の岩石城攻略で武名を轟かせ、1590年小田原征伐後の奥州仕置で会津42万石に躍進、天下への夢絶たれたと嘆きつつも、間もなく大崎・葛西一揆が起ると伊達政宗の妨害を排して木村吉清・清久父子を救出し、九戸政実の乱も忽ち討平して92万石に大加増された。朝鮮出兵が始まると秀吉の供をして肥前名護屋に入ったが病に倒れ、「限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころ短き 春の山風」の見事な辞世を遺して陣没した。嫡子の蒲生秀行は、一旦会津領の相続を許されるも力量不足で上杉景勝と交代、関ヶ原合戦後に会津藩主に復帰したが、重臣の抗争が絶えず、次男の代で蒲生家は無嗣断絶となった。
- 徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。
- 徳川家康は少数の従者と堺見物中に本能寺の変に遭遇、切腹も覚悟したが、服部半蔵の手引きで伊賀越えし生還、途中別れた穴山信君は落ち武者狩りに殺された。混乱に乗じた北条氏政が滝川一益を追い払って上野を押え織田領に殺到、上杉景勝も牙を剥き三つ巴戦となったが(天正壬午の乱)、和睦成って甲斐・信濃を制圧した徳川家康は三河・遠江・駿河と合わせて五ヶ国の太守となり、豊臣秀吉に対峙した。清洲会議、賤ヶ岳合戦は静観したが、1584年織田信雄に加担し挙兵、池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し優位に立つも、愚かな信雄が無断で単独講和、名目を失って停戦に応じた(小牧・長久手の戦い)。天下統一を急ぐ秀吉は宥和路線に切替え、母と妹を人質に送られた家康は遂に膝を折り、以後は織田信長同様に律儀に仕えた。1590年、九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は小田原征伐を開始、北条氏に近い家康は早期降伏を促すが氏政・氏直(娘婿)父子は拒絶、結局降伏開城するも滅ぼされた。秀吉は強敵家康から駿遠三甲信の5カ国150万石を召上げ、北条氏旧領の関八州250万石へ移封、東海道筋に子飼い大名を連ね会津に蒲生氏郷を配して封込策に出たが、家康は黙って従い江戸の都市開発に励んだ。朝鮮出兵を無傷で過ごし、1598年豊臣秀吉が死去、抑え役前田利家も翌年亡くなると、健康オタク徳川家康の独壇場となった。豊臣家の内部分裂に乗じて加藤清正・福島正則・黒田長政ら反石田三成・淀殿派の首領に納まり、勝手な婚姻政策で結束を固めると、1600年会津征伐の罠に掛かった石田三成が挙兵、小早川秀秋・吉川広家の寝返りを誘って関ヶ原合戦に勝利すると、1603年徳川幕府開設、2年後秀忠に将軍を譲り徳川氏世襲を世に示した。西軍諸将には大鉈を振るったが、本人の実力と為政者の都合で領地を入替えた信長流を廃し世襲藩固定化で外様大名を安心させつつ、政権運営は将軍家と小身の譜代衆が握り、参勤交代や天下普請で抵抗力を削ぎ、下々にも現在身分の凍結を強制して太平秩序を醸成した。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、翌年75歳で大往生を遂げた。
- 藤堂高虎は、浅井長政の足軽を振出に8度も主君を替えた変節漢、豊臣秀長のもとで台頭するが真先に徳川家康へ寝返り忠勤に励んで譜代大名格・伊勢津藩32万3千石へ大出世を遂げた。身長190cmの押出しと智謀を頼り活躍場所を得た「転職の達人」「勤め人の鏡」と評する向きもある。近江の土豪で浅井亮政に仕えた藤堂虎高の次男で、兄の高則が戦死したため家督となり、14歳のとき足軽として姉川の戦いに従軍したが、主君の浅井長政(亮政の嫡孫)が織田信長に滅ぼされ仕官を求めて転々流浪、織田へ寝返った浅井重臣の阿閉貞征・磯野員昌に仕えるが芽が出ず、員昌から近江高島郡を奪った津田信澄に転じるも長続きしなかった(員昌は出奔し帰農)。1576年20歳のとき織田家で活躍する豊臣秀吉の弟豊臣秀長に3百石で出仕、丹波攻略の軍功で3千石取の鉄砲大将に任じられ、1582年本能寺の変が起り(渦中に阿閉貞征と津田信澄は落命)織田家から天下を奪った秀吉のもとで勇躍、1585年紀州征伐で雑賀衆首領鈴木重意を謀殺した功績で紀伊粉河1万石の大名に栄達、紀伊猿岡山城・和歌山城の普請で築城の才能を現した。1591年秀長が没すると大和豊臣家を切盛りし水軍の将として朝鮮役に出征したが、1595年豊臣秀保(秀長の甥で婿養子)が急逝し無嗣断絶(謀殺説あり)、藤堂高虎は高野山で出家する素振を見せるが直ちに説諭に応じて豊臣秀吉に仕え一気に5万石を加増されて伊予板島(宇和島)7万石に封じられた。直後に秀次事件が起り豊臣秀勝も朝鮮役で戦病死、秀保の三兄弟は同時期に闇へ消えた。慶長の役で再び出征した藤堂高虎は日本水軍が朝鮮水軍を撃破した漆川梁海戦・鳴梁海戦で武功を挙げ大洲城1万石を加増され宇和島城を築いたが、石田三成を巡り豊臣家臣団が割れるなか逸早く徳川家康に帰服し武断派懐柔に暗躍、1600年関ヶ原合戦では脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保らの寝返工作を担い伊予今治城20万石の太守となった。1608年家康の信任篤い藤堂高虎は伊勢津藩22万石へ栄転(大坂陣後32万3千石に加増)、1616年大御所家康没後は徳川秀忠・家光に忠勤を抜出て立場を保持し75歳で世を去った。
- 上杉景勝は、武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落した。超寡黙・無表情で家政は直江兼続に任せたが合戦には強かった。1564年宇佐美定満が上杉謙信の三条長尾家と対立する上田長尾家の当主政景と共に溺死し、8歳の嫡子景勝は謙信の養子にとられ越後坂戸城から春日山城へ移された。上杉景勝は上田衆を率いて武勇を示し、謙信から弾正少弼の官位を譲られ一門衆筆頭と目されるも世子の明示は無く、1578年謙信が急逝すると相養子の上杉景虎(北条氏政の実弟)との激烈な家督争いが勃発、北条と甲相同盟を結ぶ武田勝頼が信越国境に迫り窮地に陥ったが妹菊姫の入輿を乞い東上野と膨大な献上物を差出して勝頼篭絡に成功、上杉景虎・道満丸父子と上杉憲政(謙信の養父)を滅亡に追込んだ(御館の乱)。が、2年の内乱で上杉家は弱体化し極端な上田衆優遇に怒った新発田重家らが伊達輝宗・蘆名盛隆を後ろ盾に蜂起、1582年武田を滅ぼした織田軍団が越中・信濃・上野の三方面から越後へ殺到し柴田勝家に越中魚津城を落とされたが信長討死で蘇生、天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪い取った。越中の佐々成政を牽制しつつ新発田重家を攻めるも討死寸前の惨敗(放生橋の戦い)、しかし蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った重家を押返し、1586年豊臣秀吉に臣従し越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められると重家を討って越後を回復、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)領地は90万石に膨らんだ。1598年蒲生騒動を機に秀吉から会津120万石と徳川家康の押え役を託されると、1600年家康を会津征伐に誘い出し盟友石田三成が関ヶ原合戦を起すが家康追撃を説く直江兼続を「義に非ず」と退け挟撃策が破綻、最上義光を攻めるも打破れず西軍完敗で撤退し(慶長出羽合戦)、上洛して家康に陳謝し改易は免れたが米沢藩30万石へ落とされた。
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 毛利輝元は、石田三成の甘言に釣られ関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれるも家中すら統率できず小早川秀秋・吉川広家の寝返りで徳川家康に勝利を献上、本領安堵の偽約にすがり鉄壁の大阪城を明け渡すが祖父毛利元就が築いた120万石を長州藩36万石に削られ重臣を誅殺して保身を図った戦国一の馬鹿殿である。父の毛利隆元が早世したため元就から家督を継いだが家政は叔父の吉川元春・小早川隆景に委ねられ(毛利両川)、隆景が豊臣秀吉に臣従して大封を保った。毛利輝元は、安芸の吉田郡山城から広島城へ本拠を移し、隆景と共に五大老に任じられ、1597年隆景の死により名実共に当主となった。翌年秀吉が死に前田利家も病没、天下を狙う徳川家康が三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派大名を取込み三成を失脚に追込むと、復権を期す三成は五大老の宇喜多秀家・上杉景勝と西国大名を誘引し、1600年景勝・直江兼続の挑発に乗った家康が会津征伐を挙行すると毛利輝元を総大将に担ぎ挙兵、西軍は伏見城を落として畿内を制圧し東軍迎撃の拠点美濃大垣城へ進軍、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り毛利勢は毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家(元春の後嗣)・小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)・安国寺恵瓊が出陣した。両軍は関ヶ原で激突、真田昌幸が信濃上田城に徳川秀忠隊を釘づけにして東軍兵力を半減させ、布陣有利な西軍は善戦したが、小早川軍が突如西軍に襲い掛かり寝返り続発で西軍は壊滅、吉川広家の妨害で毛利軍は参戦せず、周章狼狽した輝元は立花宗茂や秀元の主戦論を退け鉄壁の大阪城を自ら明渡した。吉川広家は黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており開城に際しても念押ししたが反故にされた。毛利家は防長36万石へ押込められ、広家は岩国藩3万石を立藩、秀秋は筑前名島30万7千石から岡山藩55万石へ増転封されるが2年後に発狂死し無嗣改易となった。毛利輝元は、楯突く熊谷元直・吉見広長を族滅して保身を図り、大阪陣で内藤元盛を密かに大阪城へ送込み秀頼を支援した事実が露見すると元盛と二児を自害させ隠蔽(佐野道可事件)、自身は73歳の長寿を保った。
- 真田信繁(真田幸村)は謀将真田昌幸の次男、15歳で織田方の沼田城へ人質に出され「第一次上田合戦」で武将デビュー、上杉景勝の人質を脱して豊臣秀吉に近侍し大谷吉継の娘婿となった。真田昌幸に従う真田信繁は小田原征伐を闘い上野沼田領を奪回、1600年「第二次上田合戦」で徳川秀忠の中山道軍を関ヶ原合戦に遅参させたが西軍惨敗で破滅、東軍に付いた長兄真田信之(妻は本多忠勝の娘)の嘆願で辛くも助命され父と共に高野山九度山村へ幽閉された。真田信之は昌幸領を安堵・加増され子孫は幕末まで松代藩13万石を保った。真田昌幸は没したが1614年「大坂冬の陣」が起ると、真田信繁は兄の勧誘を断って高野山を脱出し大阪城に見参(条件は50万石とも)、手勢130人ながら長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と並ぶ浪人軍「五人衆」に迎えられ5千の兵を託された。真田の通字は「幸」、兄の信幸は徳川を憚り「真田信之」へ改めたが、弟の信繁は「真田幸村」を名乗り意気地を示している。さて、大野治長(淀殿の乳母の子)らに兄への通謀を疑われた真田信繁は、大阪城の弱点である南方に孤立無援の「真田丸」を築いて信義を立て、真田昌幸の遺策を披露し「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、豊臣秀頼自ら出陣して恩顧大名の離反を誘うべし」と説いたが、「貫禄不足の信繁が説いても誰も従うまい」との父の予言通りとなった。真田信繁は無念を抑えて真田丸に籠り20万の徳川軍を奇計で翻弄、信濃一国の恩賞で投降を勧められたが謝絶し大坂城を護り切った。が、愚将大野治長の差配で豊臣方は勝機を逃し大砲に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は破壊され大阪城は内堀まで埋められた。翌1615年、徳川家康は15万余の大軍で「大坂夏の陣」を起し裸城を再攻撃、真田信繁は伊達政宗自慢の騎馬鉄砲隊を撃退し、茶臼山に布陣し起死回生の陽動作戦を献じたが肝心の豊臣秀頼が出馬せず挫折、「十文字槍」を振い家康本陣に斬込んだが包囲殲滅された。真田信繁の猛撃に徳川家康は二度も自害を覚悟したという。豊臣家は滅亡し戦国時代は徳川の一人勝ちで終結したが、真田信繁は己の死花で掉尾を飾った。
石田三成と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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