豊臣秀吉の下で兵站・太閤検地・土木事業を担い、上杉・佐竹・島津・津軽等を圧伏して文治派筆頭官僚に躍進するが、朝鮮出兵と秀次事件で武断派に憎悪され秀吉没後すぐに失脚、己の復権のため関ヶ原合戦を起すが徳川家康の罠に嵌って惨敗した「才あって智ない」豊臣家崩壊の元凶
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石田 三成
1560年 〜 1600年
10点※
家系・子孫
- 石田氏は、木曽義仲を討った三浦党の勇士で相模石田郷に居住した石田為久の末裔で、近江坂田郡に土着して居住地を石田郷とし、北近江の守護京極佐々木氏の被官になったといい、近江が織田信長の勢力圏に入り豊臣秀吉が近江長浜城主になると石田正継は嫡子正澄・次男三成を伴って秀吉に出仕した。秀吉が近江で鷹狩りの途中に某寺(観音寺とも舜動院とも)で一服した際、寺小姓をしていた13歳の石田三成が一杯目は温い茶を波々と、二杯目はやや熱いのを、三杯目に熱く濃い茶を小椀で出し、機転に感服した秀吉が住持に請うて貰い受けたという「三杯の茶」伝説がある。石田正継・正澄も文吏的才幹に優れ、秀吉の下で出世する三成を支えて留守中の佐和山城や領国を差配し、堺の統治や朝鮮出兵の兵站にも活躍したが、関ヶ原に敗れた三成が捕まる前に守備する佐和山城を裏切り者の小早川秀秋・脇坂安治に攻め落とされ父子共に自害して果てた。関ヶ原合戦後、石田三成の嫡子重家は徳川家康に助命されて出家し百歳余の長寿を全うしたといい、次男重成は津軽信建に匿われ子孫の杉山氏は津軽藩士として存続した。三成の娘辰姫は、秀吉没後に高台院の養女となり、弘前藩2代藩主津軽信枚に入輿して3代藩主信義を産み三成の血を大名家に伝えた。
石田三成と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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