慶應義塾の創始者にして「西洋事情」の紹介者、「脱亜論」が後世に禍根を残したが、大隈重信の黒幕として自由民権運動をリードした文明開化のカリスマ
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
福澤 諭吉
1835年 〜 1901年
70点※
福澤諭吉と関連人物のエピソード
- 福澤諭吉は豊前中津藩の下級武士ながら欧米遊学経験と英語力を武器に立身出世を果した。幕末明治期の世界情勢は世界に冠たる大英帝国と新興大国アメリカを中心とする新秩序の確立期にあったが、幕府の鎖国政策で蘭書以外へのアクセスを阻止された日本では英語習得と英米新秩序への対応が遅れていた。緒方洪庵の「適塾」で蘭学を猛勉強し塾頭も務めた福澤諭吉は、中津藩の要請で築地鉄砲洲の藩屋敷に蘭学塾を開講、幕閣の目に留り通商条約批准の遣米使節で軍艦奉行木村摂津守の随員に選ばれ勝海舟艦長の「咸臨丸」で渡米した。英米新秩序を知った福澤諭吉は帰国後すぐに蘭学塾を英学塾へ改め、英語に飢えた学生の受け皿となり「慶應義塾」へ繋がる大発展、木村摂津守の引きで幕府外国方に就任し文久遣欧使節の随員に選ばれ直参旗本に出世した。明治維新後、福澤諭吉は新政府の招聘を断り慶應義塾で教育活動に専念、かたわら森有礼の「明六社」に参加し、『西洋事情』『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを刊行して大衆の洋化啓蒙活動を牽引し、慶應義塾と共に福澤派の牙城となる『時事新報』を創刊した。福澤諭吉は政治活動に一定の距離を置いたが、「脱亜論」に基づくイギリス流立憲主義を提唱し、三菱の岩崎弥太郎と共に後藤象二郎や大隈重信を支援した。明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、福澤諭吉は専横を強める伊藤博文・井上馨ら薩長藩閥と絶交し、福澤派・慶應義塾グループを母体に立憲改進党を発足させ大隈を党首に担いだ。大隈重信・犬養毅・矢野文雄・尾崎行雄ら福澤諭吉の門人は政界に隠然たる勢力を形成し、三菱はじめ財界へも荘田平五郎・豊川良平ら多くの門下生を提供した。固い結束を誇り今日も政財界の一角を占める慶應義塾「三田会」の親玉という点において、福澤諭吉が日本国に及ぼした影響は計り知れないものがある。また福澤諭吉は東大閥から締出された北里柴三郎を救い国立伝染病研究所および北里研究所の開設を主導、北里は慶應義塾大学医学科(医学部)の創設に尽くし無給で初代学部長兼付属病院長を務め福澤の恩義に報いている。
- 外圧を跳ね返すために明治維新を達成した日本においては、アジア諸国が連帯して西欧列強の侵略に対抗すべしとする「興亜論」が支配的であった。福澤諭吉もその論客の一人であり、朝鮮独立党支援にも動いたが、甲申事変が失敗に終わり朝鮮民衆の排日姿勢が強まるのをみて従来の方針を一変、『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表した。「亜細亜東方の悪友を謝絶する」といった強い論調で近代化を進めない清や朝鮮を非難する一方、日本は近代化路線を邁進して西欧列強の仲間入りを果し、他のアジア諸国に対しては西欧列強と同じ手法で接すべしと主張した。折りしも、日本国内では文明開化が進むにつれてアジア蔑視の風潮が起りつつあって、「脱亜論」が世論の主流となり、対清開戦機運が醸成されていった。没後のことなので福澤諭吉に責任はないが、「脱亜論」は大隈重信・加藤高明らの「対外硬」へと受継がれ、「対華21カ条要求」の暴挙へと繋がったとみることもできる。
- 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」の一節で有名な福澤諭吉の代表著作『学問のすゝめ』は、最終的に300万部以上売れたとされ、当時の日本人の10人に1冊という驚異的ベストセラーとなった。
- 「大教育者」福澤諭吉に武士らしい強壮なイメージは薄いが、身長173cmと当時としては大柄で、立身新流居合の免許皆伝を得た達人であった。福澤諭吉は晩年まで毎日千本以上の打込み稽古を続け、死を早めたともいわれる。
- 幕府は、正使の勘定奉行兼外国奉行竹内保徳以下使節団36名をイギリスに派遣(文久遣欧使節)、新潟・兵庫の開港と大阪・江戸の開市を5年間延期する旨のロンドン覚書の調印に成功した。随員には福澤諭吉・福地源一郎・寺島宗則・箕作秋坪もいた。長州藩から高杉晋作も候補にあがったが実現しなかった。
- 福澤諭吉は、明治政界では大鳥圭介と後藤象二郎びいきで、どういう訳か後藤には特に入込んだ。「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです」と公言し、近所に住む後藤と頻繁に往来した。また、後藤象二郎が「官有物払い下げ」で取得した高島炭鉱が放漫経営で破綻に瀕した際、福澤諭吉は参議筆頭の大隈重信を動かして岩崎弥太郎の三菱に買取らせ、後藤のピンチを救っている。大鳥圭介は、適塾で共に学んで以来の親友である。福澤諭吉は幕府重臣から明治政府の顕官に転身した勝海舟と榎本武揚を批判したが、大鳥は批判対象に加えていない。
- 適塾は、蘭学者・医者として高名な緒方洪庵が大坂に開いた私塾で、1838年から1868年までの間に600人以上が学んだ。「血尿が出るほど」の猛勉強で知られ、大村益次郎・橋本左内・福澤諭吉・大鳥圭介・箕作秋坪(三叉学舎創立者)・佐野常民(日本赤十字社初代総裁)・本野盛亨(読売新聞社創業者)・手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)・久坂玄機(玄瑞の兄)など、幕末維新期をリードする偉材を多く輩出した。大阪大学医学部の前身とされる。大村益次郎と福澤諭吉は共に適塾で塾頭を務めた大秀才だが就学時から反りが合わず、過激な攘夷屋を嫌悪し逸早く英語教育に目を着け文明開化のカリスマとなった福澤諭吉と、長州藩・明治政府で軍政の指導者となった大村益次郎(尊攘運動には距離を置いた)、二人は出発点を同じくしながら対照的な出世コースを辿った。大鳥圭介は、適塾を出てジョン万次郎に英語を学び尼崎藩・徳島藩に出仕、幕府の蕃書調所に招聘され日本初の合金製活版を作った(大鳥活字)。ここまでの経歴は同じ村医(庶民)の出自で宇和島藩を経て蕃書調所・講武所教授へ進んだ大村益次郎と同様だが、幕府に留まった大鳥は陸軍幹部となり、江戸開城の日に伝習隊を率いて江戸を脱走、新撰組の土方歳三らと共に北関東から会津へ転戦し仙台で幕府軍艦を率いる榎本武揚に合流して五稜郭へ入り陸軍奉行として函館戦争を戦った。大鳥圭介の人格と才能を惜しむ大村益次郎と福澤諭吉は赦免工作に努め、特赦で出獄した大鳥は明治政府に出仕、軍務には就けなかったが開拓使・工部省の技術官僚を経て日清戦争直前に駐清国特命全権公使・朝鮮公使を努め枢密顧問官・男爵に叙された。津山藩出身の箕作秋坪は、緒方洪庵の適塾に学んで洋学の権威となり、明治維新後に東京で三叉学舎を開いた。三叉学舎は福澤諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾で、東郷平八郎・原敬・平沼騏一郎(津山藩出身)らを輩出した。
- 緒方洪庵は、種痘を広めた蘭方医にして「適塾」から大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・大鳥圭介らを輩出した大教育者である。政治への影響では討幕の原動力となった吉田松陰の「松下村塾」に及ばないが、純粋な学問的成果において緒方洪庵の適塾は際立っており、日本庶民に学問による立身出世の夢を与えた。備中足守藩の下級藩士の三男に生れた緒方洪庵は、虚弱体質のため武士を諦め16歳で大坂の中天游に入門、江戸で坪井信道や宇田川玄真(玄随の養子)に学び長崎でオランダ人医師ニーマンに師事して西洋医学を修めた後、大阪で町医者を開業し蘭学塾「適々斎塾(適塾)」で後進の指導にあたった。緒方洪庵のオランダ語の読解・翻訳力は抜群で、多数の秀才が適塾に入門したが誰も敵わなかったといわれる。が、思考が柔軟で偏見に捕われない緒方洪庵は、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書を購入して英語学習に取組み、本業では漢方医学も積極的に取入れた。適塾はスパルタ教育で知られ、門人は寝食を惜しみ「血尿が出るほど」猛勉強に励んだが、緒方洪庵はしばしば花見や舟遊びに連れ出し、歌会を開いて得意の和歌を披露、学習態度には厳格でしばしば叱責したが笑顔で諭すのが常で決して声を荒げたことは無かったという。緒方洪庵は医師としても活躍した。幼少期に天然痘に罹患した緒方洪庵は、「人痘法」で患者を死なせたことを悔やみ、佐賀藩を通じてイギリスのジェンナーが発明した「牛痘接種法」を導入、「牛痘を打つと牛になる」といった無知と戦いながら大阪と備中足守に「除痘館」を設置し幕府の理解を促しつつ普及に努めた。コレラが流行すると治療の手引書『虎狼痢治準』を出版し医師に配布している。江戸幕府は「名医」緒方洪庵を招聘、健康不安を抱える緒方は逡巡するも断り切れず奥医師兼西洋医学所頭取を引受け将軍徳川家茂の侍医として法眼の地位を与えられた。医師の極冠に栄達した緒方洪庵だったが、堅苦しい宮仕えに馴染めず、攘夷派志士の襲撃を心配する不安な日々を送り、僅か1年後に54歳で病没した。
- 大村益次郎(村田蔵六)は、木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」である。周防の村医の嫡子に生れた大村益次郎は、防府の梅田幽斎(シーボルトの弟子)に師事し豊後日田の咸宜園にも遊学、22歳で大坂の適塾に入門し長崎遊学を経て塾頭に就いたが、父の懇請で帰郷し村医を開業した。が、2年後のペリー来航で蘭学者の需要が急増し、無愛想の治療下手で評判の悪い大村益次郎は早々に医業を畳み宇和島藩に仕官、砲台建設や洋式軍艦製造を差配し、藩主伊達宗城に従い江戸へ出ると麹町に蘭学塾「鳩居堂」を開講、幕府に招聘され蕃書調所を経て最高学府の講武所教授に栄達した。一流洋式兵学者の名声を博した大村益次郎は、長州藩に軍制改革を託され藩政に参画(政務座役)、藩校明倫館や私塾「普門塾」で兵卒を熱血指導し「火吹き達磨」と渾名された。尊攘運動に関与せず俗論党からも重宝された大村益次郎は、禁門の変後も重職に留まり、高杉晋作が藩政を奪回すると但馬出石から木戸孝允を呼戻して指導者に迎え、正規軍と奇兵隊など諸隊を統合再編して軍事教練を施しミニエー銃・ゲベール銃を大量購入して長州藩軍を洋式軍隊へ変貌させた。第二次長州征討では山陰方面軍を指揮、新式兵器と巧みな用兵で浜田城を攻落し「その才知、鬼の如し」と評された。薩摩藩嫌いの大村益次郎は戊辰戦争出兵に反対し左遷されたが、すぐに上京を命じられ諸藩献上の御親兵を訓練し伏見に兵学寮を開設、江戸の治安回復を託されると兵員不足を危惧する薩摩藩士を一喝し西郷隆盛を説伏せて武力討伐を断行し上野彰義隊を殲滅した。大村益次郎は、明確なプランのもと近代的国軍建設に邁進、持論の徴兵制は兵制論争で退けられたが、軍政のトップ(兵部大輔)に就いて京都河東操練所・兵学寮の開設や軍事工場建設を進めたが兇漢に襲われ横死、「西国(薩摩)から敵が来るから四斤砲をたくさんこしらえろ」との遺言は8年後の西南戦争で的中した。靖国神社境内には今も大村益次郎の銅像が聳える。
- 橋本左内(1834-1859)は、緒方洪庵の適塾で蘭学を修め松平春嶽の側近に抜擢され中央政局で活躍した福井藩改革派のホープである。白面の美男子で弁舌も爽やかな橋本左内は、藤田東湖(水戸藩徳川斉昭の謀臣)・西郷隆盛(薩摩藩主島津斉彬の謀臣)・梅田雲浜らと提携し長野主膳(大老井伊直弼の謀臣)への対抗馬として一橋派の将軍継嗣運動をリードしたが、安政の大獄で捕えられ頼三樹三郎と共に江戸伝馬町牢屋敷で斬首に処された。中根雪江は高齢・横井小楠は学者・由利公正は経済官僚で、志士活動において橋本左内に代わり得る人材は出ず福井藩と松平春嶽の政治活動は後退を余儀無くされた。なお、水戸藩は、安政の大地震で藤田東湖が圧死し水戸斉昭は迷走の末に病没、水戸浪士が桜田門外・坂下門外の変を起したが佐幕派が藩政を握り尊攘派(天狗党)を大粛清した。薩摩藩は、島津斉彬は非命に斃れたが西郷隆盛・大久保利通が生残り討幕の原動力となった。
- 横井小楠は、開国通商・民主主義の開祖と呼ぶべき天才思想家で、吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛・勝海舟らを教化し、坂本龍馬の「船中八策」や愛弟子の由利公正が起草した「五箇条の御誓文」は「国是七条」「国是十二条」など横井著作の焼直しである。熊本藩士の次男に生れた横井小楠は、立身のため猛勉強して藩校時習館の優等生となり江戸へ遊学、吉田松陰・藤田東湖・川路聖謨らと交流したが酒乱で喧嘩騒ぎを起し熊本へ召還された。横井小楠は水戸学・尊攘論に染まったが、経世済民を重視する実学へ転じ、一を聞いて十を知る頭脳は『海国図志』や勝海舟の米国談から国際情勢を理解し開国通商・殖産興業・富国強兵・民主主義に開眼、さらに「西洋列強は実業の学ばかりで心徳の学がないから戦争の止む日がない」と看破し日本は富国強兵を果し平和主義のアメリカと共に(横井はワシントンを尊敬し自宅に肖像画を飾った)道義をもって国際平和を牽引すべしという崇高な国連思想に到達した。佐久間象山と並称された横井小楠は、熊本藩に開国論を説くも宮部鼎蔵ら尊攘派の旧同志からも憎まれ失脚した。が、私塾「小楠堂」には藩内外から門人が参集し、三寺三作を介して福井藩の松平春嶽に招聘され政治顧問に就任、春嶽は宿願の藩校再興(明道館)を果し横井に託した。安政の大獄で松平春嶽は松平茂昭への藩主交代を強いられ橋本佐内は処刑されたが井伊直弼暗殺で復活、公武合体運動に乗出し薩摩藩・島津久光の文久の改革で幕府中枢に入った。謀臣の横井小楠は西郷隆盛ら志士と交流し、勝海舟・坂本龍馬の神戸海軍操練所に福井藩から資金提供した(横井の甥二人が入学)。が、徳川慶喜の専横を持余した松平春嶽は政治総裁職を投出し福井に帰国、横井小楠は「士道忘却事件」(刺客に襲われ友人を置去りにして逃走)で苦境に陥り、主従は乾坤一擲の「挙藩上洛計画」で巻返しを図るも中根雪江ら守旧派の反対で挫折、横井は熊本藩に連戻され士籍剥奪・知行召上げに処された。熊本に隠棲するも松平春嶽らの援助で生延びた横井小楠は、由利公正と共に明治政府の参与に徴され念願の「国師」となったが、間もなく京都寺町で攘夷狂に暗殺された。
- 幕府は、正使の外国奉行親見正興以下使節団17名を派遣、ブキャナン米大統領と会見し日米通商条約を批准した。使節団はアメリカ軍艦ポーハタン号で横浜からサンフランシスコへ渡り、そこから汽車と海路でワシントンに到着した。勝海舟艦長の幕府軍艦咸臨丸が先発した。咸臨丸には、軍艦奉行木村摂津守の従者として福澤諭吉が加わっていた。
- 勝海舟は、西郷隆盛に長州宥和を促し徳川慶喜に絶対恭順を説いて江戸城無血開城を果した開明派幕臣にして坂本龍馬の師匠、明治政府の高官に列すも距離を置き徳川家と旧幕臣の救済に余生を捧げた。勝海舟は、15歳で父から旗本勝家を継ぎ、「幕末の三剣士」に数えられた従兄の男谷精一郎と島田虎之助の道場で剣術修業に励み直心影流の免許皆伝に達したが、時勢を先取りして洋式兵学へ転じ永井青崖や佐久間象山に師事して赤坂田町に「氷解塾」を開いた。ペリー来航に発奮した勝海舟は海防意見書を提出、老中安倍正弘や大久保一翁の目に留まって長崎海軍伝習所の1期生に選抜され島津斉彬や尊攘派志士と交流、就学5年を経て遣米使節の「咸臨丸」艦長に任じられ太平洋横断を果した。勝海舟は咸臨丸の快挙を自賛したが、福澤諭吉は「日本人は皆船酔いして役に立たず、勝も自室に籠り切りで姿を見なかった」と回想している。凱旋した勝海舟は、蕃書調所頭取・講武所砲術師範・軍艦操練所頭取を経て、文久の改革に伴い海軍創設の牽引役として軍艦奉行に抜擢され士官育成のため神戸海軍操練所を創設、弟子にした坂本龍馬ら浪士群を神戸海軍塾で養い、征長軍全権の西郷隆盛に「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と説いた。が、塾生が長州藩に加担した事実が発覚、勝海舟は軍艦奉行を罷免され神戸海軍操練所は廃止、勝は薩摩藩に坂本龍馬らを託し江戸へ去った。徳川慶喜が長州再征を号令すると人材難の幕府は勝海舟を軍艦奉行に復帰させ5千石へ加増、薩長同盟が成り幕府軍が敗れると宥和論者の勝は停戦交渉を一任され安芸厳島に乗込んだ。時流は一気に大政奉還から戊辰戦争へと流れ、江戸へ逃げ戻った徳川慶喜は土壇場で絶対恭順へ転じ小栗忠順・松平容保ら抗戦派を追放、全権を委任された勝海舟は新撰組を追払うなど反乱抑止に奔走し東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を成遂げた。明治政府に出仕した勝海舟は参議・海軍卿・伯爵に栄進したが大した業績は無く、徳川慶喜と旧幕臣の復権を果し慶喜十男の精に勝家を譲り77歳で没した。
- 富国強兵政策において教育制度改革を重視する木戸孝允文部卿の主導により、国民皆学政策・学制が導入された。木戸孝允の諮問に応じた慶應義塾の福澤諭吉も重要な役割を果したとされる。学制は、フランスの教育制度に詳しい箕作麟祥が中心となって策定した日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令で、大学・中学校・小学校を規定した。小学校優先で直ちに村ごとに学校建設が開始され、僅か3、4年のうちに全国に2万6千の小学校がつくられ、明治中期には就学率が50%に達した。その後1886年には一県一中学校令が施行され、各府県に尋常中学校が開校した。
- 木戸孝允(桂小五郎)は、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没した。先を見通す識見に優れ、久坂玄瑞と「破約攘夷」運動を主導したが池田屋事件・禁門の変を間一髪で生延び、明治政府ではリベラルな政策を牽引した。木戸孝允は、長州藩医の和田家に生れ中級藩士桂家に入嗣、藩校明倫館で俊秀を謳われ兵学教授の吉田松陰に兄事した。幼少から剣術に打込み、19歳で江戸四大道場の練兵館に入門すると翌年には免許皆伝、塾頭・師範代を任され剣名を馳せたが、ペリー来航で国事に目覚め江川坦庵や中島三郎助から海外知識を習得した。長州藩に出仕した木戸孝允は、大村益次郎を招聘して洋式軍制改革を推進し、久坂玄瑞と共に「航海遠略策」の長井雅楽を斃して藩論を「破約攘夷」へ転換し外国船砲撃(下関事件)や攘夷親征計画(大和行幸)を主導したが八月十八日政変で一夜にして瓦解、周布政之助・高杉晋作と共に出兵論を抑えたが池田屋事件で決壊し禁門の変が勃発、久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。開戦直前に失踪した木戸孝允は、変装して京都を脱出し但馬出石に潜伏、第一次長州征討・馬関戦争で長州藩が窮地に陥っても動かず、高杉晋作が藩政を奪回すると指導者に迎えられ、薩長同盟を結び討幕へ突進んだ。明治政府の首班に就いた木戸孝允は、「五箇条の御誓文」で民主主義を宣言し、版籍奉還・廃藩置県を断行、四民平等・学制制定で国民皆学の平等社会を実現し、奇兵隊など長州諸隊の反乱を断固鎮圧した。岩倉使節団から戻った木戸孝允は、教育・政体優先の立場から征韓論に反対し憲法制定へ動いたが、大久保利通と対立し台湾出兵に抗い下野、立憲を条件に参与に復帰すると立憲政体の詔書を発布し地方官会議を開いたが大久保の内務省に無効化され、病状が悪化した木戸は秩禄処分を機に大久保政府を去った。木戸孝允の予見通り特権を奪われた不平士族の反乱が続発し、西南戦争が起ると自ら鎮撫使を希望したが「西郷、もういい加減にせんか」の言葉を残し病没した。
- 大隈重信は、語学力と外国人相手の「対外硬」で明治政界に売出した。佐賀藩の上級藩士だった大隈重信は、江藤新平・副島種臣・大木喬任らと尊攘派グループを組み、お家大事の『葉隠』教育に反抗し藩校弘道館を追われたが、藩の蘭学寮に学びフルベッキの英学塾「致遠館」で教頭格となった。井伊直弼に肩入れした鍋島直正は佐賀に逼塞し藩士の政治活動を禁じたが鳥羽伏見戦後に官軍参加を表明、脱藩罪を赦された大隈重信は長崎裁判所に派遣され副参謀として関税問題などにあたった。この頃、幕府長崎奉行所が浦上のキリシタン68人を逮捕した「浦上四番崩れ」が外交問題化しパークス英公使は明治政府に信徒の赦免を強要、薩長人は叱られ役を嫌がり井上馨が推薦した大隈重信を参与兼外国事務局判事に採用した。発奮した大隈重信は恫喝外交のパークスを相手に「信教問題は内政干渉」と突撥ね(結局本件は木戸孝允が片付けたが)、英語音痴の政府首脳にあって外交折衝の第一人者となった。大隈重信は井上馨や伊藤博文ら長州人と親しく西郷隆盛ら無骨な薩摩人を敬遠したが、小松帯刀の推挙により薩長人敬遠で空席の外国官副知事(外務次官)に就任、木戸孝允にも認められ参議兼大蔵卿に昇進した。が、無能な紙幣濫発がインフレを招き政府財政は破綻に瀕した。伊藤博文と共に大久保利通に仕えた大隈重信は、大久保の横死後薩長平等の原則に乗り主席参議に担がれたが、国会開設問題の暴走で長州閥に見放され、開拓使官有物払下げ事件では民権派に煽られ黒田清隆を非難、薩長は提携して「明治十四年政変」を起し大隈一派を政府から一掃した。福澤諭吉に師事する大隈重信は立憲改進党の党首に担がれ、井上馨から外相職を奪うも条約改正に行詰り玄洋社員に爆弾を投げられ右脚を失った。一命を取留めた大隈重信は、岩崎弥之助・三菱の援助で東京専門学校(早稲田大学)を創設し、日清戦争では伊藤博文内閣を軟弱外交と非難、板垣退助と合同して「隈板内閣」を成立させるも内部分裂により4ヶ月で瓦解、70歳を前に政界引退を表明したが井上馨の誘惑に飛付いて第二次大隈内閣を組閣し薩長藩閥のために働き「対華21カ条要求」の愚を犯した。
- シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、元老の井上馨は「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と山縣有朋や松方正義の反対を抑え大隈重信を首相に擁立、薩長藩閥の手先と化した大隈は衆議院解散により政友会議員を半減させて井上の期待に応え山縣の言うままに二個師団増設を断行、褒美に侯爵を与えられた。そして「対外硬」の大隈重信首相と加藤高明外相は、第一次世界大戦で列強の手がアジアに回らない間隙を突いて袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告、山東半島におけるドイツ権益の承継、遼東半島と満州における日本権益の99年延長、漢冶萍公司(中国最大の製鉄所)への経営参画、政治・経済・軍事に係る日本人顧問の受入れなど国際常識に反する無茶な要求を突きつけた。当然ながら欧米列強の干渉で画餅に帰し大隈重信内閣の国内向け対外硬パフォーマンスに終わったが、対華21カ条要求は中国民衆のナショナリズムに火をつけ欧米列強へ向かうべき怒りが日本に集中し「五・四運動」など大規模抗日運動に発展、根深い反日意識は日中戦争泥沼化の原因となり、受諾日の5月9日は現代中国で「国恥記念日」とされ「侵略」の象徴となっている。恫喝外交のパークス英公使らに対するハッタリと強談判で出世の糸口を掴んだ大隈重信は、おそらく福澤諭吉の『脱亜論』でアジア蔑視思想に染まり、日清戦争では伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省も日本の領土として要求せよなどと下関条約にケチをつけた。83歳まで長寿を保った大隈重信は「失敗とか成功とかいうことは、人の客観、主観によって相違がある。また、時の経過、時潮の流れによっては、一時の失敗もあるいは大きな成功ともなる・・・すべてはタイムが解決する。功名誰か論ずるに足らんや、である」と実に無責任な言葉を残し、盛大な「国民葬」で送られた。大隈重信の大衆迎合的対外硬パフォーマンスは加藤高明や(直接の関係は無いが)「史上最悪の外交官」松岡洋右へと受継がれ、軍部・マスコミと結託して幣原喜重郎らの協調外交を葬った。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 三菱商会の第一の成長要因は岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力であり、膨大な設備投資を要する海運業への参入を可能にした。また、多くの土佐藩士を引受けた三菱商会では「士族の商法」が横行したが、岩崎弥太郎は「前垂れ」の着用を義務付け顧客本位のサービス戦略を徹底した。競争相手の日本国郵便蒸気船会社は、親方日の丸で勤労意欲が乏しいうえ、政府から払下げを受けた老朽船の割合が多く、さらに地租改正によって租税が金納となり年貢米輸送を独占していた郵船は大打撃を蒙った。近代的な会社組織の確立を目指す岩崎弥太郎は、国益奉仕の使命を謳い列強諸国に負けない海運事業を興すことを目的に掲げ、就業規則などの福利厚生施策を導入、社則のほか会計規程「三菱会社簿記法」も整備した。が、一方で岩崎家による社長独裁を宣言し、没後も三菱財閥の伝統となった。三井財閥は早くから三井家の当主のもと「番頭政治」といわれた役員寡頭体制を敷き、渋沢栄一は合本組織を好み自身を含む世襲制を排除した。岩崎弥太郎は人材を重視し、社員養成のため三菱商船学校・三菱商業学校・明治義塾を創設、社員の2割も外国人を雇い当時希少な大学卒業者を多く採用した。「はじめは一般の若者を採用していた。彼らはみな従順で、言われたことは素直に黙々とやってくれた。しかし教養がないものだから、事の軽重がわからずよく大失敗をしでかすことがあった。これに対して大卒者は、エリートゆえに高いプライドを持ち、客に対して高飛車で愛想もないが、深い知識があるのでいざというときの談判でも堂々と渡り合うことができた。一長一短はあるが、教養のない者に大卒者の気風を養わせるのはとても難しい。反対に、大卒者をしっかり教育して三菱色に染めていくのはたやすいことだ。」・・・岩崎弥太郎は福澤諭吉が唱える事業立国構想に共鳴し大きな影響を受けたという。福澤諭吉も「岩崎氏は噂に聞いたのとは全く違い、山師ではない。今日の様子では成功は疑いない。殊に店の前におかめ面を掲げ、店内に敬愛を重んじさせているのは、近頃の社長にはできぬことだ」と胸襟を開き、岩崎弥太郎は立憲改進党の資金源となり慶應義塾生を大量に雇用した。
- 政府は台湾出兵に係る海上輸送業務を国策会社「日本国郵便蒸気船会社」に依頼したが拒否され、やむなく依頼した三菱の岩崎弥太郎は即決快諾し社運を賭けて協力した。郵船は大量の保有船舶を回す間に国内輸送シェアを三菱に奪われることを危惧したというが、経営母体である三井などの政商は井上馨ら長州閥と昵懇で、台湾出兵に反対し下野した木戸孝允に気兼ねしたとも考えられる。一方、岩崎弥太郎が「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕えずして逸してしまう。これを捕捉するには、透徹明敏の識見と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である。」と物語ったように三菱にとって台湾出兵は飛躍への画期となった。感謝した大久保利通は「政府の保護のもと民間会社を育成し、この会社に海運事業を一任する」という一社独占による海運業振興策を採用し三菱商会を「保護育成会社」に指定、大久保の意を受けた駅逓頭の前島密は「第一命令書」を交付し「政府の依頼を優先し航路開設の命令に応じる見返りとして、台湾出兵時に貸与した政府船10隻に2隻を加えた12隻を無償貸与し年間25万円の運航費助成金を与える、1年間の試用期間を経て15年間継続」という大盤振る舞いを約束、更に大久保政府は非協力的と断じた郵船を解散させて三菱に引継がせ(郵便汽船三菱会社へ改称)、岩崎弥太郎には民間人異例の勲四等旭日小綬章のオマケも付けた。政府の12隻と郵船の18隻を合わせ三菱の保有船舶は40隻に膨らみ全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」が出現、西南戦争でピークを迎えたが、大久保利通の暗殺で岩崎弥太郎は政界の後ろ盾を失い大隈重信(福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れしたことで薩長藩閥の猛反撃に遭遇、弥太郎の憤死に伴い弟の岩崎弥之助は海運業からの撤退を選択した。
- 開拓使長官の黒田清隆が、開拓使に属する事業や施設を不当な廉価で薩摩系政商の五代友厚らへ払下げようとしていることが発覚(約1400万円を投じた官有事業が約39万円と「簡保の宿」より酷い安値、しかも支払い条件は無利息30年割賦)、民権派新聞の糾弾で払下げは中断され藩閥専制への批判が沸騰した。「維新の三傑」没後、佐賀藩出身の大隈重信が主席参議に推されたが薩長平等の建前を保つため担がれたに過ぎず政権基盤は脆弱だった。大隈重信は伊藤博文・井上馨と親密で長州閥を後ろ盾に出世の階段を上ってきたが国会開設問題で暴走し信用を喪失、その矢先に開拓使官有物払下げ事件が起り福澤諭吉ら民権派に煽てられた大隈は黒田清隆を非難したため情報リークを疑われ薩摩閥からも見放された。黒田清隆・西郷従道は即座に報復へ動き伊藤博文・井上馨と提携して明治天皇臨席の緊急閣議を開催、大隈重信の参議職を罷免し大隈派の官僚群を追放するクーデターを決行した(明治十四年の政変)。これにより完全な薩長藩閥政府が現出したが、首班の伊藤博文は薩長の「超然主義」の限界を悟り自由民権運動との協調を図るべく官有物払下げの中止を発表したうえ「国会開設の詔」で憲法制定および10年以内の国会開設を国民に約束、民権派は沸立ち板垣退助は自由党を結成し、下野した大隈重信は福澤諭吉・慶應義塾派が結成した立憲改進党の党首に担がれた。黒田清隆・西郷従道ら薩長閥の矛先は大隈重信の資金源である岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社へ向けられた。
- 西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と「三井の番頭」井上馨の主導により、政府出資に加え渋沢栄一・益田孝・雨宮敬次郎・大倉喜八郎・川崎正蔵ら主要財界人から出資を募り資本金600万円で「共同運輸会社」が設立された。社長・副社長はじめ多くの海軍人が送込まれ事実上海軍の一部ともいえる組織であり、国家規模の露骨な三菱潰しに岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社は存亡の淵に立たされた。当時、岩崎弥太郎が後援する大隈重信の立憲改進党と板垣退助の自由党は対立しており、自由党系の新聞が「海坊主退治、偽党撲滅」の論陣を張ったため世論も三菱に冷淡だった。共同運輸との熾烈な顧客争奪戦はタダ同然の廉価競争へ陥り三菱の海運収益は3年で半減、西郷従道はしぶとく抵抗を続ける岩崎弥太郎を国賊呼ばわりしたが岩崎は「俺を国賊と呼ぶのか。ならば俺も所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼払い、残りの財産は全部自由党に寄付してやる。そうなれば、薩長藩閥政府はたちまちにして転覆するだろう」と放言した。が、共同運輸側も業績悪化で無配に陥り、現場で凌ぎを削る両社船舶の衝突事故が発生、政府内でも厭戦ムードが濃くなった。死闘のなか岩崎弥太郎は胃癌の悪化で壮絶死、後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して「日本郵船」が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助は残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、晩年には日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも称される財務官僚・実業家でる。藍玉の製造販売も手掛ける武蔵の豪農に生れた渋沢栄一は、少年期から商売に親しみつつ、従兄尾高惇忠の影響で尊攘運動に身を投じ同志と共に高崎城襲撃・横浜焼打ちを企てるが頓挫し逃亡(従兄の渋沢成一郎は上野彰義隊頭取となり箱館戦争まで転戦)、一橋家重臣の平岡円四郎に拾われた。一橋家に仕官した渋沢栄一は忽ち「建白魔」となり領内の農民兵徴募や財政改革を任されて成功を収め、主君の徳川慶喜にも評価された。徳川慶喜の将軍就任に伴い幕府御家人に大出世した渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれる大幸運に恵まれ、維新の動乱期を優雅な外遊生活で過ごした。帰国した渋沢栄一は徳川宗家と慶喜が移された静岡に移住するも仕官は断り、石高拝借金の合本組織運用を提案し静岡商法会所の頭取となって資本主義の実践に着手した。がその矢先、渋沢栄一は大蔵大輔の大隈重信に突然スカウトされ新政府に出仕、改正掛の革新運動を牽引し、岩倉使節団に出た大久保利通に代わり大蔵省のトップに就いた井上馨の腹心となり、銀座煉瓦街建設、富岡製糸場開設、第一国立銀行設立・国立銀行条例制定など洋化政策を主導した。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省は再び大久保利通の掌中に帰し、井上馨は尾去沢銅山汚職事件で引責辞任、渋沢栄一は井上に殉じ実業界へ転じた。第一国立銀行に天下った渋沢栄一は、三井組の吸収工作撃退で実権を掌握して頭取に就き本格的な財界活動に入った。西南戦争後、薩長藩閥と大隈重信=三菱の対立が激化し、井上馨に連なる渋沢栄一は矢面に立たされ窮地に陥ったが、明治十四年政変で薩長藩閥が勝利を収め政府から大隈一派を追放、「三菱海上王国」も共同運輸会社に吸収された。以降の渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に順風満帆の活躍を続け財界人で唯一子爵を受爵、自ら60社近い事業を立上げ、東京証券取引所・東京瓦斯・東京海上火災保険・王子製紙・東京急行電鉄・秩父セメント・秩父鉄道・京阪電気鉄道・キリンビール・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテルなど500社以上の設立に関与した。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- 開拓使官有物払下げ事件で自由民権運動が沸騰し薩長閥が国会開設の詔を発布した翌年、民権派との融和を期す伊藤博文は数人の随員を従え自らドイツ・オーストラリアを歴訪、ウィーン大学のシュタイン教授、グナイスト、モッセらの法学者からドイツ(プロイセン)流の憲法理論や政治制度を学んだ。なお伊藤博文は、岩倉具視よりフランス流自由主義にかぶれた西園寺公望の懐柔を依頼され随員に加えた。反動勢力を率いた岩倉具視が没し、帰国した伊藤博文は、華族令を定めて貴族院の土台を作り、民権派との妥協を嫌う山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らを説伏せ、来るべき国会開設に対し強力な行政府を備えるべく内閣制度を発足させた。権力の所在が曖昧で意思決定に難のある太政官制を廃し、各省庁の長が国務大臣として内閣を構成し国務大臣を束ねる内閣総理大臣を政府の最高責任者とする近代的な行政府制度が現出した。伊藤博文が自ら初代内閣総理大臣に就き、国務大臣は薩長のバランスに配慮して長州閥4人(伊藤博文・井上馨、山縣有朋・山田顕義)に対し薩摩閥5人(松方正義・大山巌・西郷従道・森有礼・榎本武揚は旧幕臣だが黒田清隆の配下)および土佐1人(谷干城)とし、太政官の最高位(太政大臣)にあった三条実美には名誉職の内大臣をあてがった。戊辰戦争以来薩長に伍して来幅を利かせてきた公家層を政治の実質から締出した意義も大きかった。伊藤博文は3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り、憲法問題に専念するため枢密院を設立し初代議長に就任した。
- 国会開設の詔を受けて国会期成同盟が発展解消し自由党が発足、大御所の板垣退助が総理に就き、中島信行(元海援隊士)・片岡謙吉・後藤象二郎ら土佐人のほか河野広中・星亨らが幹部となった。自由党は、フランス流自由主義を標榜して急進的な政体改革を主張し、士族や豪農を支持層とした。大隈重信の立憲改進党とは、薩長藩閥・有司専制(官僚支配)を批判し政党政治の実現を目指す点で一致していたが、主義主張の相違から対立することも多かった。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 後藤象二郎は、山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻させた。武市半平太に暗殺された土佐藩執政の吉田東洋は義理の叔父で、板垣退助は竹馬の友、下僚の岩崎弥太郎を商事に引込み弟の岩崎弥之助に娘を嫁がせた。中岡慎太郎の遺志を継いだ板垣退助が戊辰戦争に独断参戦し土佐藩は「薩長土肥」へ食込み、板垣退助と後藤象二郎は新政府首脳に採用されたが、明治六年政変で征韓派に属し下野、板垣は薩長藩閥に対抗すべく民衆を動員して自由民権運動を牽引し後藤も行動を共にした。良く言えば豪快な後藤象二郎は、豪遊で公金を散財し、高島炭鉱など事業で失敗を重ね借金まみれだった。板垣退助が立憲政治・議会制度視察のため洋行を志向し金策中との情報を得た山縣有朋は、陸軍省御用商人でもある三井の番頭に命じ2万ドルの大金をあるとき払いの催促なしで拠出させ、金を受取った後藤象二郎は板垣を促しヨーロッパへ旅立った。が、山縣有朋のリークだろう、洋行費が政府から出ているとの噂が立ち自由党内は騒然、後藤象二郎は2万ドルの件を隠し一人で費消したうえにシラを切り、板垣退助は支持者から3千ドルを借りて弁済にあてたが窮地に追込まれた。山縣有朋の分断工作は図に当り自由党は分裂、板垣退助の権威は失墜し総理の地位も失った(後に復帰)。伊藤博文が最初の内閣を発足した翌年、後藤象二郎は民権諸派に大同団結運動を提唱したが、次の黒田清隆内閣で逓信大臣の餌に飛付いて懐柔され、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣に就くも収賄事件で引責辞任、60歳で生涯を閉じた。大町桂月は後藤象二郎を「たとえていえばナイル河の水で、氾濫して人びとをさわがせるが、土地を肥やしもする」と評したが、後半部分は三菱への便宜供与を指すかも知れない。新貨条例の施行を前に後藤象二郎から新政府が各藩札を買上げるとの情報を得た岩崎弥太郎は、10万両を調達し安値で買叩いた藩札を政府に転売して巨利を積んだというが、後藤の放漫経営で破綻した高島炭鉱を押付けられ(後に巨利を生むが)死ぬまでに相当な金を貢いだと考えられる。
- 国会開設の詔を受けて立憲改進党が結成された。大御所の大隈重信が党首に座り河野敏鎌・前島密・犬養毅・矢野文雄ら幹部が党務を差配、大隈重信に近い岩崎弥太郎の三菱が後ろに控え豊富な資金源を擁した。立憲改進党は、自由党より穏健なイギリス流立憲主義を主張し、慶應義塾出身者など都市部の知識人を基盤とした。板垣退助の自由党とは、薩長藩閥・有司専制(官僚支配)を批判し政党政治の実現を目指す点で一致していたが、主義主張の相違から対立することも多かった。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 伊藤博文が実現に漕ぎ着けた最初の衆議院議員選挙において、有権者は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に制限され人口比1.1%の45万人に過ぎなかった。結果は、定数300人に対して板垣退助の立憲自由党130人・大隈重信の立憲改進党41人と民党勢力が過半数の議席を占め、初代衆議院議長には第一党の立憲自由党から中島信行(元土佐海援隊士)が就任した。なお、貴族院は皇族・華族・勅撰議員・多額納税者議員により構成され選挙によらず互選か勅撰で議員が選出された。
- 壬午事変以後、閔氏一派を中心とする事大党は急速に清への依存を強めたが、日本の明治維新を範とした国体改革と清からの独立を志す金玉均らの独立党が台頭、日本公使館の援助を得てクーデターを図ったが(甲申事変)、壬午事変同様に清によって鎮圧された。日本においては、金玉均の支援要請を受けた自由党の板垣退助と後藤象二郎が伊藤博文に運動し、政府の独立党支援政策に発展した。また、福澤諭吉も朝鮮の自立的な近代化に期待を寄せ、独立党への資金援助のほか、慶應義塾への留学生受入れ、弟子の井上角五郎を朝鮮に派遣して新聞『漢城旬報』の発行を支援するなど後援活動を行った。日清両国は、伊藤博文が天津に乗込んで李鴻章との講和交渉にのぞみ、両軍の朝鮮からの撤兵と、今後派兵する際の事前通告などを定めた天津条約を1885年に締結した。独立党を支援した日本政府内では対清開戦論もあったが、立憲政体への移行など内治を優先すべしとする伊藤博文・井上馨の主張が通り、結局は矛を収めることとなった。
- 犬養毅は慶應義塾在学中に西南戦争の従軍記事で名を上げ、大隈重信の郵便報知新聞や末広鉄腸の朝野新聞で花形記者となった。結党時から改進党に参加した犬養毅は第一回総選挙に出馬し、暴漢の襲撃に遭いながら(護衛係が仕込杖で撃退)演説一本槍で当選、以後42年間18回連続当選を果した(慶應仲間の尾崎行雄に次ぐ記録)。犬養毅は尾崎行雄と友に改進党・進歩党を牽引、薩摩閥と結び第二次松方正義内閣で大隈重信外相を実現させ(松隈内閣)、板垣退助の自由党と合同し(憲政党)第一次大隈内閣(板隈内閣)で初の政党内閣が成立、犬養は文相で初入閣した。が、憲政党は内部分裂し野合政権は4ヶ月で瓦解、星亨ら多数派の自由党系が進歩党系を追放し伊藤博文の政友会に合流した。犬養毅らは憲政本党(→国民党→革新倶楽部)を発足させたが、尾崎行雄ら多くの党員が政友会へ奔り大隈重信も退隠、さらに桂太郎が同志会(→憲政会→民政党)を結成すると大半の幹部を奪われジリ貧となった。国民党の犬養毅と政友会の尾崎行雄は第一次護憲運動で第三次桂太郎内閣を倒し「憲政の神様」と囃されたが(大正政変)、少数政党の犬養は脇役に過ぎず政友会・憲政会の二大政党の狭間で迷走を続けた。第二次護憲運動で二大政党が合同し加藤高明内閣が発足、相乗りした犬養毅は逓信相で入閣するも護憲三派の野合は忽ち崩壊し、70歳の犬養は普通選挙法成立を花道に政界引退を表明し革新倶楽部は政友会に吸収された。が4年後、張作霖爆殺事件で中国問題がこじれ田中義一が急死すると、床次竹二郎・鈴木喜三郎・望月圭介の後継争いに窮した政友会は分裂回避のため犬養毅を暫定総裁に擁立、世界恐慌と満州事変で機能停止した民政党の第二次若槻禮次郞内閣に代わり犬養内閣が発足した。かつて孫文を支援した「中国通」の犬養毅首相は国民の期待を集め総選挙で圧勝、高橋是清蔵相の金輸出再禁止と軍事費拡大で景気回復を果したが、荒木貞夫の陸相就任で永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が陸軍を掌握し第一次上海事変・満州国建国を強行、海軍将校のテロで犬養首相は殺害され(五・一五事件)政党内閣は終焉した。
- 犬養毅は、「中国革命の父」孫文を支援したことで知られ、孫文を継いだ蒋介石にも独自のパイプを持つ中国通と目された。また、インド人革命家ラス・ビハリ・ボースは、日本亡命時に犬養毅らの庇護を受け、新宿中村屋の相馬家の婿となりカレーを伝授、インドに帰国後に対英独立運動の指導者となり東條英機政権の「大東亜会議」に加盟した。ボースの援軍要請を受けた東條英機首相が配下の牟田口廉也に命じインパール作戦を発動したとされる。さて、慶應義塾・大隈重信に属した犬養毅は福澤諭吉の「脱亜論」が説くアジア蔑視観の影響下にあったが、大陸浪人の宮崎滔天や玄洋社の頭山満との交流を通じて「アジア主義」革命運動のシンパとなり、広州武装蜂起に失敗し東京に逃げて来た孫文を保護し「中国同盟会」結成のお膳立てをした。その後、孫文は辛亥革命で清朝を滅ぼし南京で中華民国建国を宣言し臨時大総統に就いたが、武力を握る袁世凱との政争に敗れ再び日本に亡命し犬養毅らに匿われた。逆境にめげない孫文は、東京で中国革命党(→国民党)を組織して広東に舞戻り、革命拠点を築いて中国統一を目指した。孫文は志半ばで病没したが、後継者の蒋介石が北伐を敢行、張作霖(日本軍の傀儡)ら軍閥勢力を一掃して北京政府を倒し南京に一応の中国統一政権「国民政府」を樹立した。
- 北里柴三郎は「血清療法」を発明した東洋人初の世界的医学者にして北里研究所・慶應義塾大学医学部・日本医師会の創立者である。熊本阿蘇の庄屋に生れた北里柴三郎は、熊本医学校から東大医学部へ進み、内務省衛生局に出仕しドイツ留学を許された(同僚の後藤新平は生涯の親友となった)。独ベルリン大学に入った北里柴三郎は「近代細菌学の開祖」コッホに師事し研究に没頭、「破傷風菌純粋培養法」「破傷風菌抗毒素」を発見し1890年「血清療法」を発表し世界の医学会を驚かせた。ただし、1901年北里柴三郎は第1回ノーベル医学生理学賞の候補となったが人種的偏見から共同研究者ベーリングの単独受賞となり、また1894年には香港で「ペスト菌」を発見したが第一発見者は同時期に香港に居たイェルサンとなった。さて北里柴三郎は、欧米研究機関の招聘を断り国費留学の責務を果すべく帰国したが、緒方正規教授の「脚気病原菌説」を否定したことで東大医学部閥が牛耳る日本医学会から締出された。偉材の窮状を見兼ねた福澤諭吉が森村財閥の援助で1892年「伝染病研究所」を開設し北里柴三郎を所長に迎えたが、骨抜きを図る東大閥は「国立伝染病研究所」へ改組させ東大医学部への吸収を強行、北里所長以下全職員が一斉辞任する「伝研騒動」を引起した。1914年北里柴三郎は私立「北里研究所」を設立、北島多一・志賀潔(赤痢菌発見者)・秦佐八郎(梅毒特効薬発明者)ら研究員も挙って移籍し狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発と伝染病研究を継続した。学閥に屈さず実力通り日本医学界の重鎮となった北里柴三郎は、結核療養施設・日本結核予防協会・貧民救済病院などの創設に努め、1916年府県医師会の統合により「大日本医師会」を発足させ初代会長に就任した(1923年法定化され「日本医師会」となる)。また北里柴三郎は、慶應義塾大学医学部の創設に尽力し初代学部長兼付属病院長を引受け、北里研究所から教授陣を派遣するなど無償で福澤諭吉の旧恩に報いている。北里柴三郎は男爵に叙され、慶大医学部長および日本医師会会長を北島多一に引継ぎ、78歳で永眠した。
- 安田善次郎は、欧米の生命保険会社を参考に、旧幕臣で朝野新聞社長の成島柳北らの賛同を得て、限定少数の財界人同志のための互助組織で死亡時に遺族に香典を送る「偕楽会」を創設、会員が500名に達すると「共済五百名社」へ改称した。山岡鉄舟が第一号会員となったように当初は旧幕臣扶助の意味合いが強く、安田善次郎の信用で会員数こそ増加したが、社会的地位のある高年齢者が会員の大多数を占めたため保険収支が悪化し共済五百名社の経営は行詰まった。そこで安田善次郎は、日本生命診察医の矢野恒太を招聘し抜本的な事業改革を依頼、組織も改組し安田一族の全額出資により改めて「共済生命保険合資会社」を設立した。社長には同族の安田善四郎が就いたが、経営の主導権は支配人の矢野恒太が担い2年間の欧米視察を経て本格的な事業改革に取組み業績を上向かせた。喜んだ安田善次郎は、矢野恒太を総支配人格に昇格させ安田系会社の支配人中最高額の月俸を与えたが、古参幹部の不満で社内不和が起り已む無く矢野を退職させた。共済生命保険合資会社は、安田善次郎の没後に「安田生命保険」へ改称し、今に続く「明治安田生命保険相互会社」の母体となった。一方、安田を追われた矢野恒太は、一旦官途に就くも生命保険への夢断ちがたく、1902年に日本で最初の相互会社形式による「第一生命保険」を創業し「保険学の泰斗」と称された。なお、安田善次郎の共済五百名社と福澤諭吉の肝煎りで翌年発足した明治生命保険会社、どちらに「日本初の生命保険会社」の名を冠すべきか長い議論があったが、両社合併し明治安田生命が発足したことで論争は終息した。
- 小林一三は、鉄道・宅地造成・商業・娯楽施設の一体開発により沿線住民の生活を丸抱えする「私鉄経営モデル」で阪急東宝グループを築いた大衆消費社会のパイオニア、政商・軍閥ばかりの明治企業家で異彩を放つ存在である。甲州屈指の素封家に生れた小林一三は慶應義塾へ進み小説家を志すも挫折、三井銀行でヤル気の無い社会人となったが、大阪支店長の岩下清周との出会いで運命が一変、北浜銀行を創設した岩下の勧誘で設立間もない箕面有馬電気軌道の経営者となった。経営難の敗戦処理を託された小林一三だが、当時斬新なパンフレットで事業の将来性と「田園趣味に富める楽しき郊外生活」を謳い、甲州財閥を口説き資金調達に成功、現在の宝塚本線・箕面線の開業に漕ぎ着けると、沿線の土地買収と宅地造成で巨利を博し阪神急行電鉄へ改称した(→阪急電鉄)。さらに「阪急沿線の分譲住宅に住み、買物は阪急百貨店、レジャーも阪急宝塚で」という着想を得た小林一三は、終点の宝塚に宝塚新温泉を開設し唱歌隊(→宝塚歌劇団)で集客に注力、始点の大阪梅田にはターミナルビルを建てて阪急梅田百貨店を開業し、沿線土地の付加価値を膨らませつつ新規事業を開拓した。「鉄道王」小林一三の私鉄経営モデルは、五島慶太の東急・堤康次郎の西武・根津嘉一郎の東武らに踏襲され鉄道・レジャー産業発展の原動力となった。阪急百貨店は支店網を広げ全国ブランドへ成長し、数寄者の小林一三は温泉座興で始めた宝塚少女歌劇に巨費を投じ宝塚大劇場・東京宝塚劇場(略して東宝)・宝塚音楽歌劇学校を創設、帝国劇場など日比谷一帯の劇場も傘下に収め浅草の松竹と東京興行界を二分するに至り映画配給でも成功を収めた。ホテル事業を創業し(阪急阪神第一ホテルグループ)阪急ブレーブス・阪急西宮球場も作った小林一三は63歳で社業を退いたが、財界重鎮として東京電燈(東京電力)の経営再建や昭和肥料(昭和電工)設立に働き、第二次近衛文麿内閣の商工大臣も引受けた。第二次大戦後、小林一三は幣原喜重郎内閣に入閣したが公職追放に遭い、東宝社長に復帰し阪急東宝グループを同族経営を固めたあと84歳で永眠した。
- 慶應義塾同窓の親友で「電力の鬼」と称された松永安左エ門は、小林一三の性格を「我不関焉(われ関せず)」すなわち「腹が決まっており動揺しない・・・そんなことは俺の知ったことじゃない。そんなことのために、いきり立ったり、癇癪を起したり、そんなことは俺の分野ではない。俺はだいたいそういうことは嫌いなんだ、という性格である」と評した。福澤諭吉が心血を注いだ『時事新報』が経営難に陥ったとき、松永安左エ門・武藤山治(鐘紡の実質的創業者)ら慶應義塾OBは支援に乗出したが、小林一三は「我不関焉」とばかりに松永らの協力要請を断り涼しい顔で批判を受流した。小林一三の読みどおり資金を注いでも『時事新報』の再建は成らず数年後に廃刊となり東京日日新聞に吸収された。冷徹な事業家の顔を見せた小林一三だが、東京電燈(東京電力)の経営再建など多くの事業を引受けたことや豊富な女性遍歴が示すように、情誼に篤く人に慕われる性質も多分に持ち合わせていた。大衆消費社会のパイオニアとして後進を薫陶した小林一三は、松下電器の松下幸之助から「すべて逸翁(小林の雅号)は我が師」「神様」と崇敬され、ダイエーの中内功も「逸翁を見習いたい」と語った。小林一三から宅地造成で稼ぐ私鉄経営モデルを直伝され東急(田園都市←東京急行電鉄)を築いた五島慶太は完全な「小林崇拝者」であったが、「強盗慶太」が慶應閥が牛耳る三越の買収に乗出すと、支援要請を受けた小林一三は「蛙が蛇を飲み込むより無理ではないか」と突放し、三井銀行・三菱銀行から支援を取付けて三越防衛を成功へ導き五島の野望を粉砕している。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
福澤諭吉と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照