連合艦隊先任参謀として日露戦争の作戦を担い世界最強の太平洋艦隊・バルチック艦隊を撃破した帝国海軍随一の奇才にして『坂の上の雲』の主人公
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照秋山 真之
1868年 〜 1918年
70点※
秋山真之の寸評
秋山真之の史実
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1868年
松山藩の下級藩士秋山久敬の五男秋山真之が松山城下にて出生
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1883年
秋山真之が15歳で上京し共立学校から大学予備門に入学
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足、西郷従道が海軍大臣就任(海軍卿の川村純義は宮中顧問官へ転任)
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1888年
黒田清隆内閣発足、西郷従道が海軍大臣就任
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1888年
鎮台制を師団制に改編
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進
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1890年
第一次山縣有朋内閣発足、西郷従道が海軍大臣就任(樺山資紀に途中交代)
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1890年
秋山真之が海軍兵学校(17期)を主席で卒業、艦隊勤務に就き軍艦「比叡」乗組み
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1890年
エルトゥールル号遭難事件、秋山真之が乗務する軍艦「比叡」が生存乗員をイスタンブールへ送還
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1891年
山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行
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1891年
第一次松方正義内閣発足、樺山資紀が海軍大臣就任
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1891年
帝政ロシアがシベリア鉄道起工
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足、仁礼景範が海軍大臣就任(西郷従道に途中交代)
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1893年
日清戦争準備の作戦会議、伊藤博文首相が川上操六(陸軍)・山本権兵衛(海軍)の開戦論を採用
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1893年
海軍軍令部設置
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発、秋山真之は通報艦「筑紫」航海士として従軍
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
山本権兵衛が海軍省軍務局長就任
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
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1896年
秋山真之が海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)就学
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1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
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1896年
第二次松方正義内閣発足、西郷従道が海軍大臣に復職
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1896年
秋山真之が海軍軍令部諜報課員として満州でスパイ活動に従事
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1897年
秋山真之がアメリカに私費遊学し元海軍大学校長のマハンに師事
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
第三次伊藤博文内閣発足、西郷従道が海軍大臣就任
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1898年
米西戦争、秋山真之が観戦武官として米艦「セグランサ」搭乗を許されサンチャーゴ港包囲作戦を観戦
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1898年
第一次大隈重信内閣(隈板内閣)発足、西郷従道が海軍大臣就任
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1898年
第二次山縣有朋内閣発足、山本権兵衛が海軍大臣就任
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1899年
遊学中の秋山真之がアメリカからイギリスへ移動
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1899年
地租増徴
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1900年
秋山真之が米英遊学から帰国、海軍省軍務局課員・常備艦隊参謀を経て艦隊勤務に復帰
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1900年
軍部大臣現役武官制制定
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1900年
北清事変
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足、山本権兵衛が海軍大臣就任
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、山本権兵衛が海軍大臣就任
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1902年
西郷従道死去
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1902年
秋山真之が海軍大学校戦術教官に抜擢される
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1903年
東郷平八郎が第一艦隊兼連合艦隊司令長官就任
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1903年
秋山真之が第一艦隊兼連合艦隊次席参謀就任
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
仁川沖海戦
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1904年
日露戦争開戦、秋山真之は連合艦隊参謀として従軍
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1904年
秋山真之が第一艦隊兼連合艦隊先任参謀に昇進し東郷平八郎司令官のもと作戦立案を担う
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
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1904年
井上馨の依頼を受け高橋是清が日露戦費調達のため渡欧米
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1904年
第一次日韓協約締結
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1904年
遼陽会戦
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1905年
旅順攻略
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1905年
血の日曜日事件~ロシア革命が始まる
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1905年
加藤友三郎が連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長就任
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1905年
奉天会戦
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1905年
日本海海戦
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1905年
帝政ロシアで戦艦ポチョムキンの反乱
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1905年
第二次日英同盟協約締結
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
日比谷焼打事件
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1905年
連合艦隊解散、秋山真之は海軍大学校戦術教官に復職
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、山本権兵衛に代わって斎藤実が海軍大臣就任
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1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
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1906年
南満州に関東都督府設置
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
帝国国防方針において海軍が「八八艦隊」建造計画を決定
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1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
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1907年
第一次日露協約締結
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1908年
秋山真之が艦隊勤務に復帰し巡洋艦艦長を歴任
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
秋山真之が第1艦隊参謀長就任
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
秋山真之が海軍軍令部第1班長就任
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1912年
二個師団増設問題、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に西園寺公望内閣を倒す
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1913年
軍部大臣現役武官制緩和
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1914年
シーメンス事件、第一次山本権兵衛内閣が退陣し山本および斎藤実海相が予備役編入
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足、八代六郎が海軍大臣就任(加藤友三郎に途中交代)
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1914年
秋山真之が海軍省軍務局長兼海軍将官会議議員就任
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1914年
パナマ運河開通
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1916年
秋山真之が海軍軍令部に転出
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足、加藤友三郎が海軍大臣就任
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1916年
秋山真之が第一次世界大戦視察のため渡欧
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1916年
秋山真之が第二水雷戦隊司令官就任
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1917年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1917年
秋山真之が海軍将官会議議員再任
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1917年
秋山真之が盲腸炎で入院、待命
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1918年
秋山真之が死去(享年49)
秋山真之の交遊録
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秋山好古
兄にして恩人
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山本権兵衛
海軍のボス
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西郷従道
薩摩海軍閥のドン
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東郷平八郎
日露戦争のボス
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島村速雄
日露戦争の上官
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加藤友三郎
眼中に無い上官
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川村純義
海軍仲間
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伊藤祐亨
海軍仲間
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井上良馨
海軍仲間
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日高壮之丞
海軍仲間
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山屋他人
海軍仲間
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八代六郎
海軍仲間
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斎藤実
海軍仲間
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松本和
海軍仲間
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岡田啓介
海軍仲間
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鈴木貫太郎
海軍仲間
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広瀬武夫
海軍仲間
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財部彪
海軍仲間
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大山巌
薩摩陸軍閥のドン
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川上操六
日清戦争の指揮官
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伊藤博文
長州藩のドン
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児玉源太郎
長州藩の偉材
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山縣有朋
陸軍長州閥のドン
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桂太郎
山縣の子分
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寺内正毅
山縣の子分
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田中義一
同志
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白川義則
同志
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久原房之助
同志
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川島浪速
同志
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出口なお
教祖様
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出口王仁三郎
心の師
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正岡子規
郷里の親友
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夏目漱石
同窓生
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高橋是清
共立学校の英語教師
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星亨
蔵書を借用した駐米公使
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アルフレッド・セイヤー・マハン
師匠
秋山真之と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 70点
秋山真之は、日露戦争における海軍参謀陣のエースとして連合艦隊の作戦立案を担った『坂の上の雲』の主人公、司馬遼太郎史観の潤色で胡散臭さが漂うが正真正銘の奇才であった。松山の貧乏藩士の五男に生れた秋山真之は、9歳年長の兄秋山好古の援助で東京へ進学、共立学校・大学予備門から東大を目指したが志を転じて海軍兵学校(17期)へ進んだ。陸大1期生だった秋山好古は「日本騎兵の父」と称され陸軍大将となり、松山中学校・大学予備門で共に学んだ親友の正岡子規は東大(哲学科→国文科)へ進み「明治の文豪」となった。さて、「試験の神様」秋山真之は海兵を主席で卒業し米英へ留学、最新の海軍学と古今の戦史を渉猟して独自の戦術眼を養い、帰国後は顕職の常備艦隊参謀を経て34歳の若さで海軍大学校戦術教官に抜擢された。間もなく日露開戦が迫り、連合艦隊に呼ばれた秋山真之は山屋他人(海兵12期で前任戦術教官)ら並居る先輩を押退け先任参謀に昇格、東郷平八郎司令官・島村速雄(7期)参謀長から作戦立案を託された。秋山真之は旗艦「三笠」の寝床に籠って作戦に没頭し、島村から参謀長を継いだ加藤友三郎(7期)の頭越しに東郷平八郎司令官は秋山案を採用、連合艦隊は陸軍の支援を得て(203高地占領)旅順港に逼塞する太平洋艦隊を殲滅し、ウラジオストク港へ向かうバルチック艦隊を対馬沖で捉え「T字戦法(東郷ターン)」で撃破し海戦史上に輝く劇的勝利、世界最強と謳われたロシア海軍を壊滅させ皇帝ニコライ二世をポーツマス講和へ追込んだ。日露戦争後、秋山真之は海軍で神聖視され海軍省枢要の軍務局長に栄進したが、心身の不調で目立った活躍は出来ず、大本教に没入して盲腸炎の手術を拒み49歳の若さで世を去った。秋山真之が編出した「秋山兵術」は聖典となり、ほとんど修正されることなく太平洋戦争終結まで海軍大学校で継承されたという。