連合艦隊先任参謀として日露戦争の作戦を担い世界最強の太平洋艦隊・バルチック艦隊を撃破した帝国海軍随一の奇才にして『坂の上の雲』の主人公
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秋山 真之
1868年 〜 1918年
70点※
秋山真之と関連人物のエピソード
- 秋山真之の生涯において、兄の秋山好古が果した役割は大きい。生活苦に喘ぐ両親は幼児の秋山真之を寺の小僧に出そうとしたが、9歳上の秋山好古は「私が大きくなったら、こいつの面倒をみるので勘弁して欲しい」と押し留めたという。秋山好古は、故郷の松山で風呂屋の下働きをしながら苦学し補助教員から大阪師範学校に合格、名古屋師範学校附属小学校の教諭となった。当時、師範学校出の教員はキャリア官僚並のエリートで月俸は警察官の5倍ほどもあったが、秋山好古は同じ松山士族で名古屋鎮台法務官の山本忠彰に体格と性格を見込まれ陸軍士官学校にスカウトされた。試験科目は漢文・英語・数学の三教科、秋山好古は英語も数学も学んだことがなかったが、生徒司令副官の寺内正毅の手加減により漢文のみで合格してしまった。陸士騎兵科を出た秋山好古は陸軍大学進学を認められ、騎兵の本場フランスにも留学し気鋭の騎兵将校となった。なお同期の陸大1期生は10人で、主席は東條英教(東條英機の父)であった。この間、秋山好古は末弟の秋山真之を東京の自宅へ呼寄せ、学資・生活費一切の面倒をみて海軍兵学校に進学させている。質実剛健がモットーの秋山好古は弟に超質素な共同生活を強要、「嫁をもらうと気力が萎える」と信じ晩婚となった変わり者で、酒を片時も離さず前線で泥酔の狂態を演じたこともあった。とはいえ「最後の古武士」といわれた秋山好古は、日清戦争では騎兵第一大隊長として旅順攻略戦の最前線で命懸けの働きを示し、陸軍乗馬学校(騎兵学校)校長に就任、日露戦争では騎兵第一旅団(通称秋山支隊)を指揮し最前線で死線をかいくぐった。「日本騎兵の父」と称された秋山好古は陸軍大将・教育総監に栄達し(東條英教は中将止り)、退役後は松山へ戻って私立北予中学校の校長となり無遅刻無欠勤を通したという。秋山真之の追悼会で秋山好古は「弟真之は片時も御国の為という観念を捨てなかった」と亡弟に賛辞を贈った。
- 秋山真之は満州での諜報任務を嫌いアメリカへの私費遊学を願出て許された。アメリカ駐在武官の成田勝郎中佐を介して元海軍大学校長のアルフレッド・セイヤー・マハンを訪ね「本当の戦略・戦術を研究するなら海軍大学校で学ぶ数ヶ月の教育では足りない。古今の海陸戦史を渉猟し、また先達の戦術論を読破して、独自の兵術を見つけることだ」との助言を得た。マハンは高名な海軍学の権威で、その海軍戦術や理論は金子堅太郎によって日本の政治家や海軍高官に紹介され『海上権力史論』は日本でも出版されていた。発奮した秋山真之は、海軍文庫や海軍大学校図書館の海戦史や兵術関係の書物を読み漁り、星亨の駐米公使官邸に押しかけ蔵書を無断借用することもしばしばだった。星亨が注意すると秋山真之は「公使は貴重な本を多数お持ちですが、まったく読まれる様子がありません。そこで私が好意で、公使に代わって読んでいるのです」と悪びれず言返したという。滞米中に米西戦争が起り、秋山真之は観戦武官として米艦「セグランサ」に乗ることを許され、キューバのサンチャーゴ港包囲作戦を観戦した。アメリカ艦隊は、狭い湾口にボロ舟を沈め封鎖戦術に出たが激しい砲撃を受け作戦は失敗、湾内に逼塞するスペイン艦隊はフィリピンを目指し強行突破を敢行したが操船の練度と船速に優る米艦隊を振切れず砲撃戦となって大敗した。秋山真之は「スペイン艦艇の船速不足は長期間の停泊により船底に貝殻などが付着したためであり、米海軍の勝因は艦艇の不燃化、速射砲への装備転換、スタジオメーターの採用である」といった的確な観戦報告を日本へ送り、海軍中央は秋山真之の作戦参謀の資質に瞠目した。この秋山レポートが日露戦争の旅順港閉塞作戦の基になったともいわれるが、結果は米西戦争と同じく失敗であった。
- 3年間の米英留学から帰国した秋山真之は常備艦隊参謀に任命され、軍艦「常盤」「松島」「千歳」などで艦隊勤務をこなしたが、更なる戦術研究を望む秋山はエリートコースを辞退し斎藤実軍務局長に書簡で直訴し海軍大学校教官に就任、艦隊勤務に出た山屋他人(海兵12期)の後任として34歳(17期)の若さで戦術教官に抜擢された。坂本俊篤海大校長から打診された八代六郎大佐(8期)が「戦術論なら秋山少佐の方が適任」と推薦したためであるという。が、対露関係が風雲急を告げ、陸大戦術教官の秋山真之は就任1年で連合艦隊次席参謀へ異動、日露戦争を想定した大演習において巧みな艦隊行動と魚雷の奇襲攻撃で先任(主席)参謀の山屋他人を下し、開戦に伴い先任参謀に昇格した。東郷平八郎司令官を「智謀如湧」と感嘆させ島村速雄参謀長(7期)の信任も篤い秋山真之は開戦から終戦まで作戦立案をほぼ一任され、連合艦隊は世界最強と謳われたロシアの太平洋艦隊・バルチック艦隊を撃破し世界海軍史に輝く偉業を成遂げた。日露戦争の英雄となった秋山真之は海軍で神聖視され聖典「秋山兵術」は帝国海軍の最期まで受継がれた。連合艦隊解散に伴い秋山真之は陸大教官に復職し、巡洋艦艦長・第1艦隊参謀長・軍令部第1班長と出世街道を直走り海軍省枢要の軍務局長に栄進し海軍将官会議に名を連ねたが、心身を病んで大本教に傾倒し、目立った活躍の無いまま49歳で病没した。
- 秋山真之は天才的戦術家で男前ではあったが、NHKドラマ『坂の上の雲』で本木雅弘が演じた綺麗な人物像には程遠く、希にみる奇人変人だった。母貞が送ってくれる好物の煎豆を始終噛んでいたのは事実のようだが、実際の秋山真之は身なりに無頓着で数日入浴しないこともしばしば、人前の放屁はもちろん、会食中に靴下を脱いで水虫をボリボリ掻き、軍服姿で所構わず立小便したという。日露戦争中、旗艦「三笠」の船床で布団を被り作戦に没頭する秋山真之に上官の島村速雄参謀長は「君は少し頭脳を休ませる工夫をせよ」と気遣ったが、心身消耗の反動か、戦後は深刻な鬱状態に陥り著しく精彩を欠いた。秋山真之は軍人らしからぬナイーブな性格で、敵味方双方の多くの死傷者を目の当たりにして心を傷め「自分は坊主になって戦死者を弔うのだ」と周囲に漏らした。戦中に最愛の母を亡くしたことも鬱に拍車を掛けたらしい。日露戦争後間もなく、秋山真之は日蓮宗信仰に熱を入れるようになり出口なおの大本教に入信、周囲を勧誘する熱心な信者となった。とはいえ日露戦争の英雄秋山真之は海軍で出世街道を直走り海軍省枢要の軍務局長にも就いたが、盲腸炎に罹り手術を拒否したため急速に衰弱、軍務不能となって待命(予備役入り前の措置)の身となった。秋山真之は「心霊の力で病気を治す」と断言して大本教の本拠地綾部で精神修養に励み、激痛に襲われると出口王仁三郎の手かざしにすがった。最後まで手術を拒み死の床についた秋山真之は、嫡子の秋山大に「お父さんは死ぬるんですよ」と静かに語り「不生不滅、明けて鴉の三羽かな」と辞世、同郷松山出身の陸軍人白川義則に今後日本が迎えるであろう困難を語り、教を唱えつつ静かに息を引取ったという。
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 陸軍から分離発足した海軍は境界が曖昧で、海相の西郷従道さえ陸軍中将のままであり、上層部には海軍の素人が多かった。海相官房主事に任じられた山本権兵衛は人事と統帥部の分離独立を掲げ大胆な改革を断行、薩長藩閥を問わず96人もの将官佐官をリストラ(予備役編入)する一方で斎藤実(仙台)・加藤友三郎(広島)・岡田啓介(福井)ら海軍兵学校出身者を積極的に登用、海軍は山縣有朋の長州閥が牛耳る陸軍と異なりオープンな組織となった。なお、加治屋町の先輩東郷平八郎も整理リストに入っていたが山本権兵衛の一存で残された。急激な改革は軍人のみならず新聞の酷評を受け世論も反発、大ボスの山縣有朋が山本権兵衛退治に乗出したが、山本は「閣下」と煽てて篭絡し応援の井上馨らも理路整然と説伏せた。山場を乗切った山本権兵衛は、日清戦争準備の作戦会議で海軍輸送の重要性を説き統帥部(海軍軍令部)の独立に成功、終戦直後には対露開戦の不可避を予見しロシアの軍拡を上回る速度で軍艦を建造し10年以内に戦艦六隻・重巡洋艦六隻を整備するという「六六艦隊計画」に着手、西郷従道から海相を継ぎ戦争準備に邁進した。正に10年後に桂太郎内閣が対露開戦を決定すると、山本権兵衛海相は軍令部も掌握して作戦を指揮し連合艦隊に出撃命令を下した。連合艦隊司令長官は常備艦隊司令長官の日高壮之丞(薩摩)の順送りが筋だったが、日高の独断専行を嫌う山本権兵衛は命令遵守型の東郷平八郎への交代を強行、懸念を示す明治天皇には「東郷は運の良い男ですから」と奏上した。加治屋町の先輩で陸軍総司令官の大山巌は出征直前に山本権兵衛を訪ね内地で早期講和に尽くすよう依頼、奉天会戦・日本海海戦の勝利で日露戦争の帰趨が決すると山本海相は伊藤博文・井上馨・陸軍の児玉源太郎と共に桂太郎首相の無謀な継戦論を抑え日本の国益を護った。
- 山本権兵衛は最高の軍人だが、国際感覚に長けた優秀な政治家でもあった。日清戦争の最中、連戦連勝の勢いで広島の大本営を旅順へ進める案が有力となった。欧米列強の干渉を危惧する伊藤博文首相は反対だったが正面切って軍令に口出しできず、海軍を仕切る山本権兵衛に助勢を求めると、真意を汲んだ山本は天皇の名代として小松宮参謀総長を旅順へ送る妥協案を示し丸く収めた。伊藤博文は山本権兵衛の政治センスを評価し第三次伊藤内閣の海相に推薦、山本が辞退したため西郷従道が留任したが、同年の第二次山縣有朋内閣で山本海相が実現した。山本権兵衛海相は日露戦争前後8年の重要任務を完遂し、子飼の斎藤実・加藤友三郎に海軍を託した。政界へ転じた山本権兵衛は、伊藤博文から西園寺公望・原敬へ受継がれた政友会の支持を得て2度組閣したが、長期政権を期待されながらシーメンス事件・虎の門事件の不運に遭い通算1年半足らずの短命政権に終わり、軍部大臣現役武官制の緩和と関東大震災後の帝都復興(後藤新平の抜擢)くらいしか業績を残せなかった。シーメンス事件のせいで元老になれなかった山本権兵衛は、首相辞任後は政治・軍事に口出しせず潔い引際を示した。隠退後の山本権兵衛は愛妻家・子煩悩の好々爺で、囲碁・将棋・ゴルフなどの道楽はせず散歩を唯一の趣味とした。統帥権干犯問題で「艦隊派」に担がれた東郷平八郎元帥と対照的だが、海軍が対英米強硬へ傾くのを座視したことは不作為の失策だろう。また、山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで海軍軍令部総長(後に元帥)に担がれた伏見宮博恭王は第二次大戦終結まで海軍に君臨、国際協調派(良識派)の粛清から軍拡・日独伊三国同盟・対米開戦へ至る海軍暴走の旗頭となり、特攻作戦の封印を解く役割も演じた。
- 中国東北部を狙うロシアは、同盟国フランスおよびロシアの関心をアジアに向けさせたいドイツと結び、日本が下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう強要した(三国干渉)。伊藤博文政府では列国会議で反論すべしとの案が優勢だったが、列強の更なる干渉を恐れる陸奥宗光外相の主張により受諾に決した。この間も陸奥宗光は、ロシアの南進政策を警戒し局外中立の立場をとる英米に働きかけ局面打開を狙ったが、イギリスが傍観で望みを絶たれ「要するに兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れない」と現実的妥協を受入れた。日本では、大隈重信の立憲改進党など「対外硬派」の扇動で反露世論が沸騰、「臥薪嘗胆」で軍備拡張に邁進した。日清戦争を主導した陸奥宗光の『蹇々録』は第一級史料だが、国民が勝利に酔うなか冷静に警鐘を鳴らしている。いわく「日本人は、かつて欧米人が過小評価したよりは、文明を採用する能力あることを示したが、はたして、今戦勝の結果、過大評価されているほど進歩できるのだろうか。これは将来の問題に属する。・・・日本人は戦勝に酔って、進め進めという以外、耳に入らない。妥当中庸の説を唱うる人は、卑怯未練といわれるので黙っているほかはない。愛国心は別に悪いものではないが、愛国心の使い方をよく考えないと、国家の大計と相反することもある。・・・今や、わが国は、列国からの尊敬の的となると共に、嫉妬の対象ともなった。わが国の名誉が高くなると同時に、わが国の責任は重くなった。この両者の間をとって、歩み寄りさせるのは容易ではない。なぜならば、当時、わが国民の情熱は、しばしばすべての主観的判断に出て、少しも客観的判断を容れず、ただ国内事情を主として、外部の情勢を考えず、進むことを知って、止まることを知らない状況だった。・・・政府は、国民の敵愾心の旺盛なのに乗じて、一日も早く、一歩も遠く、戦局を進行させて、少しでもよけいに国民の気持ちを満足させた上で、国際情勢を考えて、日本に危険が迫れば、外交の上で、進路を一転する策を講ずるほかはないと考えた」。伊藤博文の国際協調路線を継ぐべき陸奥宗光は、惜しくも2年後に病没した。
- 日本の懐柔を企図するロシアは、朝鮮を永世中立化して日露両国の緩衝地帯にしようと提案してきた。しかし日本は、ロシアが陸続きの満州に巨大な兵力を駐留させた状況のまま承諾できるはずはなく、ロシア軍の満州からの撤兵が先であるとして提案を拒否した。日本国内では、満州をロシアに渡す代わりに日本による朝鮮支配を認めさせ武力対決を回避すべしと主張する伊藤博文・井上馨ら日露協商派と(満韓交換論)、世界最強のイギリスと同盟してロシアに断固抵抗すべしとする桂太郎・小村寿太郎ら対露強硬派が鋭く対立、両派それぞれが策動して二面外交を展開した。イギリスは清に有する多くの権益がロシアに侵されることを恐れ、日本からの日英同盟提案を受入れた。最大の後ろ盾を得た日本では、伊藤博文・井上馨らがロシアとの和平交渉を続けつつ、桂太郎首相・小村寿太郎・軍部が対露開戦準備に動き始めた。日英同盟成立に脅威を感じたロシアは清と条約して満州撤兵を約束したがすぐに撤回、伊藤博文・井上馨は改めてロシアに満韓交換論を提案するも拒否され交渉は決裂した。狭小な国土を海に囲まれた日本にとって南下政策を推進するロシアに朝鮮を抑えられることは国土防衛上の死活問題であり(朝鮮生命線論)、やむなく対露開戦を決意して国交を断絶、日露協商派・対露強硬派・軍部が一丸となって戦争準備に邁進した。
- 桂太郎政府は伊藤博文・井上馨の慎重論を退けロシアに宣戦布告、遂に日露戦争が始まった。陸軍は、総司令官大山巌・参謀総長児玉源太郎のもと第1軍(司令官黒木為楨)・第2軍(司令官奥保鞏)・第3軍(司令官乃木希典)・第4軍(司令官野津道貫)・鴨緑江軍(司令官川村景明)を編成した。やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征するつもりだったが、用兵下手のうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうという明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。一方の海軍は、海相として軍政を握る山本権兵衛が軍令も統率し、山本の作戦計画により編成された連合艦隊は第1艦隊司令長官東郷平八郎・参謀長島村速雄の指揮下に第2艦隊(上村彦之丞)・第3艦隊(片岡七郎)が連なった。なお連合艦隊司令長官の人選は、常備艦隊司令長官の日高壮之丞の横滑りが常道であったが、山本権兵衛は暴走の懸念がある日高を退け命令遵守型の東郷平八郎を指名、明治天皇に理由を尋ねられた山本は「東郷は運の良い男ですから」と回答した。「T字戦法(東郷ターン)」で日本海海戦を勝利に導く秋山真之参謀は東郷司令官の旗艦三笠で作戦を差配、また後に首相となる加藤友三郎は第2艦隊参謀長として出征した。日露両軍の戦力は、日本軍の陸軍総兵力約108万人・艦隊総排水量約26万トンに対して、ロシア軍は陸軍総兵力約200万人・艦隊総排水量約51万トンであった。戦力に加え資金力も乏しい日本政府は日露戦争の戦費調達に腐心したが、日銀副総裁の高橋是清がイギリスに渡りユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの協力を得て外債および戦時国債の発行に成功、最終的に戦費の過半は外債で賄われ高橋は陰の立役者となった。
- 児玉源太郎(長州藩支藩の徳山藩士)は、16歳の函館戦争で初陣を飾り25歳の西南戦争で熊本鎮台を死守した歴戦の勇、政治能力も抜群の陸軍長州閥期待の星であった。家督の姉婿が「俗論党」に殺され家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが高杉晋作の長州維新で復権、児玉源太郎は「献功隊」下士官として戊辰戦争に参陣し、大村益次郎の京都河東操練所を経て新政府軍の将校となった。熊本鎮台の参謀に配された児玉源太郎は、佐賀の乱で瀕死の重傷を負いつつ神風連の乱の指揮を執り、西南戦争では参謀副長として谷干城司令長官を補佐し過酷な籠城戦を耐え抜いた。山縣有朋ら長州閥首脳は一佐官の児玉源太郎に期待を寄せ神風連の戦況より「児玉少佐ハ無事ナリヤ」と打電するほどであった。不平士族反乱の終息に伴い陸軍中央へ呼ばれた児玉源太郎は忽ち軍政の才を発揮、4歳上の桂太郎・川上操六と共に臨時陸軍制度審査委員会を主導し「陸軍の三羽烏」と称され、日清戦争では陸軍省枢要で川上操六の作戦遂行を補佐し、戦後処理・三国干渉対応・台湾総督府設立を主導した。台湾統治が難渋すると児玉源太郎は第4代総督に就任、後藤新平を民政局長に抜擢し民生向上と警察力強化のアメムチ政策により初めて植民地経営を成功させ、死の直前まで8余年も台湾総督を兼務した。児玉源太郎は第四次伊藤博文内閣に陸相で初入閣し続く第一次桂太郎内閣で内相へ転じたが、日露戦争が起ると自ら参謀本部次官への降格人事を行い満州軍総参謀長に就き出征、大山巌総司令官に軍令一切を託され勝利の立役者となった。が、奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ帰還、戦勝に浮かれる大本営に戦力払底を訴えて進撃論を封じ、伊藤博文・山本権兵衛海相と連携し渋る桂太郎首相をポーツマス講和へ導いた。日露戦争の英雄となった児玉源太郎は大山巌から陸軍参謀総長を引継ぎ、伊藤博文・井上馨ら穏健派元老の受けも良く日本の舵取り役を期待されたが、惜しくも翌年50歳の若さで世を去った。陸軍長州閥の児玉源太郎と薩摩海軍閥の山本権兵衛、同年生れの逸材二人が日本を率いていれば、歴史は変わったに違いない。
- 日露戦争開戦を前にして、参謀本部の大黒柱であった田村怡与造次長が急死した。陸軍内に適当な後任がおらず人選は難航したが、内相兼文相の児玉源太郎が自ら降格人事を行い参謀本部に入った。明治維新から第二次大戦に至るまで降格人事を承諾した軍人は児玉源太郎の他に無く、己の能力を頼み国難に際し面子を捨てる大英断だった。満州軍総参謀長として戦地に入った児玉源太郎は「大将人形」に徹する大山巌総司令官のもと思う存分辣腕を振るい、戦力倍するロシア軍を相手に遂に辛勝を掴んだ。児玉源太郎の人物像は『坂の上の雲』の司馬遼太郎史観で乃木希典と対極の大名将に脚色され逆に胡散臭くなってしまったが、第三軍の203高地争奪戦を除外しても児玉の偉業が萎むことはないだろう。陸軍大学校教官・臨時陸軍制度審査委員会顧問として日本の近代陸軍建設を指導したドイツ軍人のメッケルは児玉源太郎の軍才を高く評価し「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と太鼓判を押したという。奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ舞戻り、戦勝に浮かれてウラジオストク進軍・沿海州占領を主張する大本営内の強硬論を封殺し、桂太郎内閣に即時講和を説いた。継戦余力が尽きた現地日本軍の実情を知らない桂太郎首相は講和を渋ったが、陸海軍トップの児玉源太郎と山本権兵衛海相が継戦不可能と断じるのを覆すだけのパワーはなく、伊藤博文・金子堅太郎が準備したルーズベルト米大統領の講和斡旋に乗る道を選択した。児玉源太郎はポーツマス条約妥結まで講和誘導に奔走したが、賠償金要求に拘る桂太郎首相に手を焼き「桂のバカが金もとれる気でいる」と側近にこぼしたという。児玉源太郎は台湾・朝鮮・満州の植民地経営では軍政を主張するタカ派であったが、引くべきは引く現実的な判断力に優れ、台湾統治や日露講和の難局で抜群の器量を発揮した。死力を尽くした児玉源太郎は日露戦争の翌年に病没したが、「軍神」を祀る児玉神社が故郷の山口県周南市と神奈川県江ノ島に建てられた。東京赤坂に乃木希典を祀る乃木神社があるが、どちらかを拝むなら間違いなく児玉神社だろう。
- 鹿児島城下加治屋町に育った大山巌は15歳年長の従兄西郷隆盛に随従し「精忠組」に加盟、西郷従道と共に有馬新七らの急進派に属し「寺田屋騒動」に遭遇したが、薩英戦争の勃発で謹慎を解かれ砲台将校として激戦を経験した。薩摩藩士は英兵の上陸を阻み錦江湾から英艦隊を追出して薩英戦争は痛み分けに終わったが、鹿児島城下は艦砲射撃で焼土と化し洋式兵器の威力と攘夷の不可を思い知らされた。アームストロング砲に驚愕した大山巌は最たる者で、西郷隆盛に願出て江戸へ遊学し江川坦庵の砲術塾に学び、鹿児島城下に「砲隊塾」を開き大砲研究と後進指導に打込んだ。「大砲弥助どん」(弥助は巌の旧名)と称された大山巌は洋式大砲を改善した「弥助砲」も開発し、戊辰戦争が起ると砲隊を率いて鳥羽伏見の緒戦から函館戦争まで転戦し重傷を負いつつ華々しい戦功を挙げた。新政府軍では西郷隆盛がトップに君臨し、大山巌は欧州遊学で箔を付け(普仏戦争を観戦)累進したが、西郷は大久保利通との征韓論争に敗れて鹿児島へ退き(明治六年政変)「私学校党」に担がれ西南戦争を引起した。苦渋の決断で大久保利通政府に留まった大山巌は官軍司令官として城山攻撃を指揮、西郷隆盛と共に篠原国幹・村田新八・桐野利秋ら薩摩将官が悉く戦死し陸軍の主導権は山縣有朋の長州閥に握られたが、残った大山巌と西郷従道は薩摩閥の首領に浮上した。欧州軍事調査団を率いた大山巌は長州の桂太郎と薩摩の川上操六を握手させドイツ流の陸軍建設を後援し、文官へ転じた山縣有朋の後を受け桂太郎に交代するまで16年以上も陸軍卿・陸軍大臣を務めた。日清戦争が起ると大山巌は陸相ながら第2軍司令官に就任し旅順・威海衛の攻略戦を指揮、日露戦争では明治天皇より陸軍総司令官の大任を託され、西郷隆盛譲りの巨体(体重82㎏超、布袋のような太鼓腹、頸抜きで直接胸につづく重厚きわまる二重あご)と鷹揚な人格で「大将人形」に徹して児玉源太郎参謀長らに作戦指揮を任せ切り勝利の立役者となった。公爵・元帥・元老に栄達した大山巌は生涯軍人に徹して晩節を汚さず74歳まで長寿を保ったが、西南戦争後鹿児島に帰郷することはなかったという。
- 東郷平八郎は、西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌・山本権兵衛らと同じ鹿児島城下加治屋町に生れ15歳で薩英戦争に従軍、「春日丸」乗員として函館戦争まで転戦し、7年間のイギリス留学を経て海軍に入った。薩摩閥に連なる東郷平八郎は無難に昇進したが、陸軍の軍制改革や日清戦争の軍令を担った川上操六(同年)や「海軍の父」山本権兵衛(4歳年少)には遠く及ばず、山本の海軍改革(薩長藩閥を問わず96人もの将佐官を大リストラ)で整理リストに入るも山本の一存で救われた。海軍に残された東郷平八郎は、巡洋艦「浪速」艦長として日清戦争を戦い、海軍中央入りを望むも佐世保・舞鶴鎮守府(初代)の司令長官に回され予備役入りも噂されたが、日露開戦が迫ると海相の山本権兵衛は日高壮之丞(薩摩)を更迭し東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した。軍政に加え軍令(作戦遂行)の統率も図る山本権兵衛は、日清戦争で軍令違反があった日高壮之丞を嫌い命令に忠実な東郷平八郎を採用、訝る明治天皇に「東郷は運の良い男ですから」と説明したという。己を知る東郷平八郎は優秀な秋山真之(松山)参謀に作戦を託し秋山は「T字戦法(東郷ターン)」を案出、連合艦隊は帝政ロシアが世界に誇る太平洋艦隊・バルチック艦隊を殲滅し世界海戦史に輝く大勝利を収めた。熱狂で迎えられた東郷平八郎は国民的英雄となり、伯爵(のち侯爵)に叙され「生ける軍神」と崇められた(没後に東郷神社建立)。日露戦争後「海軍の神様」となった東郷平八郎は、軍令部総長を経て元帥に栄達したが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると伏見宮博恭王と共に反米軍拡派(艦隊派)に担がれ82歳にして海軍人事に介入、亡国路線の幇助者として晩節を汚した。東郷平八郎元帥は、五・一五事件を起した海軍将校の処刑に異を唱え軍部の規律崩壊にも一役買っている。
- 東郷平八郎率いる連合艦隊は、旅順の太平洋艦隊撃滅を命じられた。世界最強といわれたバルチック艦隊がロシア本国から到着する前にケリをつけたかったが、逆にバルチック艦隊の到着を待ちたい太平洋艦隊は旅順港に留まったため、連合艦隊は旅順港を封鎖するほかに打つ手がなく、膠着状態が続いた。局面打開を迫られた日本軍は、新たに乃木希典の第3軍を編成し、陸上からの攻撃により旅順を制圧する作戦に切替えた。ところが、ロシア軍が大金を投じて大要塞化していた旅順は難攻不落で、第3軍は多くの死傷者を出しながら攻めあぐねた。業を煮やした参謀総長の児玉源太郎は、自ら赴いて乃木の指令権を代行し、ようやく203高地の占領に成功、203高地頂上からの砲撃により旅順港の太平洋艦隊を殲滅した。第3軍は約6万人もの犠牲者を出しながら、遂に旅順攻略の任を果した。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、第3軍の司令官乃木希典と参謀長伊地知幸介は力攻めに固執して6万人もの兵卒を無駄死にさせた無能な指揮官の烙印を押され児玉源太郎・秋山真之の引立役にされたが、当時の「守高攻低」の戦闘常識においてはやむを得ない選択だったといった擁護論もある。保守的で攻めに弱い山縣有朋の指名で司令官となった乃木希典だけに華は無く児玉源太郎のような用兵の妙は感じられないが、有能無能はともかく、結果的に任務を果し日露戦争勝利に貢献したとはいえるだろう。
- 旅順攻略に成功した乃木希典の第3軍が合流し、大山巌・児玉源太郎が率いる日本軍は奉天に進んで再び決戦を挑んだ(奉天会戦)。日本軍25万人とロシア軍37万人が激突した空前の大会戦で、数に劣る日本軍は苦戦したが、ロシア軍が総司令官クロパトキンの判断ミスで余力を残して退却したため辛うじて勝を拾うことができた。逆に、退く敵を追撃すれば殲滅するチャンスが生じたが、兵力も弾薬も払底した日本軍にその余力は残されていなかった。
- 日本の国運を賭けた日本海海戦は、日本の連合艦隊が戦力倍する世界最強のバルチック艦隊に挑んで海戦史上類をみないほどの完勝を収め、東郷平八郎司令長官の武名と共に戦史に輝く偉業となった。「本日天気晴朗なれども波高し」の打電や、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の意を示すZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞したことなど、ディテールまでよく知られ、現代ドラマでもお馴染みのシーンとなっている。日本側の沈没3隻に対して、ロシア側は参戦した38隻のうち21隻沈没、5隻捕縛、9隻武装解除、目的地のウラジオストクに到達できたのは3隻のみという、日本の完全勝利であった。最大の勝因は、バルチック艦隊の航路を的中させ、戦力を集中して待ち構える対馬沖で迎撃できたことだろう。可能性として対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3つの航路が考えられたが、外していたら無傷でウラジオストクに入港され作戦はご破算になるところであった。他の勝因としては、秋山真之の「T字戦法(東郷ターン)」に代表される作戦と兵員の練度、下瀬火薬と水雷艇の威力、旅順攻略や奉天会戦勝利による士気の向上、逆に長旅に疲れた相手方の士気低下などがあったとされる。
- 連合艦隊参謀長の島村速雄は旅順口閉塞作戦の失敗で引責辞任し加藤友三郎が後継、島村は影響力は保持しつつ第2艦隊第2戦隊司令官に転任した。島村速雄は加藤友三郎より3歳年長だが、海軍兵学校7期の同期の親友だった(ハンモック番号は主席が島村で2番が加藤)。とはいえ、日露戦争中の連合艦隊の作戦は概ね東郷平八郎司令官と秋山真之参謀の間で決められており、参謀長交代も大勢に影響は無く、加藤友三郎は自分の頭越しに東郷とやり取りする秋山参謀を嫌ったという。
- 日露戦争で国力に劣る日本のとるべき道は短期決戦・早期講和しかないと看破した伊藤博文は、そのカギを握るのはアメリカであると考え、側近の金子堅太郎を派遣して親日世論の喚起と講和仲介の準備工作にあたらせた。金子堅太郎は、少年期に岩倉使節団の随員として渡米し小学校からハーバード大学まで学んだ日本屈指の知米派官僚で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があった。日本軍は極東ロシア軍を撃破し日露戦争に勝利したが、兵力・弾薬・戦費いずれも払底し戦争継続は不可能となった。ここで伊藤博文・金子堅太郎の準備工作が奏功し桂太郎首相はアメリカ政府に講和斡旋を依頼、ルーズベルト大統領はアメリカのフィリピン支配を日本が認める条件で受諾し米国ポーツマスに日露両国の公使を招いて講和会議を開催した。大国ロシアは強硬姿勢で皇帝ニコライ二世は首席全権ヴィッテに賠償金支払いと領土割譲を厳禁、日本側主席全権小村寿太郎の奮闘も及ばず交渉決裂寸前まで追詰められたが、伊藤博文や山本権兵衛に背中を押された桂太郎首相が賠償金要求放棄と領土割譲を南樺太に留める妥協案を承認し、ポーツマス条約の調印に至った。①朝鮮における日本の優越権の承認、②旅順・大連の租借権譲渡、③東清鉄道の南満州支線(旅順-長春間)・安奉鉄道(安東-奉天間)の経営権および付属地炭鉱の租借権譲渡、鉄道守備に係る軍隊駐屯権の承認、④北緯50度以南樺太の領土割譲、⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権承認、⑥日露両軍の満州撤退(鉄道守備隊を除く)・・・賠償金と領土を断念した日本だが「生命線」朝鮮の奪還で開戦の主目的を達成したのに加え、旅順・大連および南満州鉄道の経営権を獲得、軍事進出を正当化する守備軍隊の駐屯権も確保し「利益線」にして「無主の地」満州への足場を築くことが出来た。
- 日露開戦に際し、軍事物資の過半を欧米からの輸入に依存する日本は決済用ポンドの獲得を急務とし、林薫駐英公使はロンドン・シティで外債発行すべく日英同盟に基づきランズダウン英外相に債務保証を求めた。日本はインド原綿・イギリス軍艦の最大購入者で帝国経営に欠かせない存在であったが「金持ち喧嘩せず」のイギリスは中立を理由に債務保証を拒否、桂太郎政府は苦境に立たされた。無官ながら「戦時財政の総監督役」の井上馨は、日銀副総裁で英語堪能な高橋是清を抜擢し戦費調達の大役を託した。高橋是清は腹心の深井英五を伴い横浜を出帆、米国行き便船には伊藤博文の命を受けた金子堅太郎も乗っていた。シティに乗込んだ高橋是清は林薫(ヘボン塾同窓)や末松謙澄・長男高橋是賢の協力を得て戦費調達に奔走、日露戦争の下馬評はロシアの圧倒的有利で難航したが、戦局が日本に傾き始めたこともあり、ニューヨークの金融業クーン・レープ商会のロンドン支配人ジェイコブ・シフを自陣に引込んだ。シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアを日本が苦しめれば、そのうち革命が起るだろうと考えた。なお、ロスチャイルドはユダヤ資本が日本を支援するとユダヤ人虐待が激化すると考え、高橋是清の活動を暗に妨害した。大物シフの全面的支援を得た高橋是清は関税収入を担保に巨額の外債発行に成功、日露戦争終結までに戦費約20億円のうち10億7千万円を調達し、1907年戦後処理用として2億3千万円を追加調達、累計額は13億円に上った。なお、ロシアもシティに乗込み日本と資金調達合戦を繰広げたが、ユダヤ人迫害と社会主義暴動(第一次ロシア革命)を敬遠され失敗している。一方、日本国内では桂太郎首相や井上馨が戦費調達に奔走したが、財界は公債引受を断った。開戦前「安田の一語、日露戦争を止ましむ」と顰蹙を買った「銀行王」安田善次郎は、日露戦争勝利が決ると低利新発国債による高利外債の期限前償還を提案、第二回起債分1億円を安田銀行で引受けて汚名を雪ぎ勲二等瑞宝章を贈られた。「時代の寵児」高橋是清は男爵に叙され、日銀総裁・蔵相を経て原敬暗殺後の政友会総裁に担がれ首相に上り詰めた。
- 日露戦争は結果的に勝ったから良かったものの、当時世界最強を謳われた陸軍とバルチック艦隊を擁すロシア帝国への挑戦は後進国日本にとって国運を賭けた大博打であった。ロシアが日本の国土防衛の要である朝鮮に固執したため妥協の余地は無くなったが、伊藤博文は井上馨と共に「日露協商」を主張し「満韓交換論」まで持出して開戦阻止に努めた。桂太郎内閣が日英同盟を後ろ盾に日露戦争に踏切ると、伊藤博文は腹心の金子堅太郎をアメリカに送込みセオドア・ルーズベルト大統領を引張り出して早期講和を実現(ポーツマス条約)、井上馨は日銀副総裁の高橋是清を米欧に派遣し外債発行で膨大な戦費調達を成功させた。また台湾・朝鮮の植民地経営においても、伊藤博文と井上馨は国際協調・民政路線を貫き、伊藤は老骨に鞭打って初代韓国統監に就任、山縣有朋・桂太郎・児玉源太郎ら陸軍長州閥や大隈重信・加藤高明・小村寿太郎ら対外硬派に対する抑え役であり続けた。が、皮肉なことに朝鮮独立運動家を称する安重根がハルビン駅頭で伊藤博文を射殺、伊藤が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり、格好の口実を得た陸軍長州閥と対外硬派は翌年韓国併合を断行、初代朝鮮総督に寺内正毅を据え第二次大戦終結まで軍政を敷いた。ただし伊藤博文を腐心させた抗日「義兵運動」は、日本が道路・橋・ダムなどの社会インフラ整備と工場建設(主に北朝鮮)・農地開拓(南朝鮮)を推進し破綻状態の朝鮮経済・民生を大幅に改善させたことで沈静化へ向かった。伊藤博文の国際協調・平和主義路線は政友会の西園寺公望らへ引継がれたが抑止力の低下は如何ともしがたく、後に政党政治も軍部に取込まれ軍国主義はエスカレートしていった。
- 戦勝に沸く国民に温かくポーツマスへと送り出された首席全権小村寿太郎であったが、帰国時に待っていたのは対露強硬派が扇動する民衆の罵声で、泣き崩れる小村を伊藤博文と山縣有朋が抱えて首相官邸に連れて行ったという。桂太郎政府は日露戦争で日清戦争の8倍近い18億円以上もの戦費を費やし、1904年の財政支出は前年の約2.5倍に増大、国民は増税を強いられて不満が溜まっていたところに、期待していた賠償金を得られず怒りが爆発した。対露強硬派により講和条約破棄を訴える集会が日比谷公園で開催されると、3万人の怒れる民衆が参集し、遂に暴徒化して各地の警察署や派出所を次々と襲撃、日比谷公園近くの芳川顕正内相官邸や、政府の御用新聞といわれた国民新聞の社屋に放火して全焼させるという大騒擾に発展した。警察だけでは混乱を収拾できないと判断した政府は、戒厳令を施行し、近衛師団を出動させて鎮圧した。この日比谷焼打事件では、約2000人が逮捕(うち起訴308人)され、死者17人、負傷者約2000人、警察署2ヶ所・派出所203ヶ所などの焼失被害が生じ、講和反対・戦争継続を訴えた新聞約30紙が発禁処分となった。さらに、混乱は東京にとどまらず全国へと波及した。
- 日清戦争で初めて中国からの独立を果した李氏朝鮮(大韓帝国)だったが、日露戦争もどこ吹く風で親日・親露・親中に分れ不毛な派閥抗争に終始、日露戦争でロシアの脅威を退けた日本政府は、有名無実の李朝から外交権を奪って保護国化し、首都の漢城(ソウル)に韓国統監府を置き監視体制を強化、初代韓国統監には文治派の伊藤博文が就任し山県有朋ら軍閥を抑え朝鮮守備軍の指揮権も掌握した。なお、李朝には大勢の世襲「武班」はいたが「軍隊」は1万人足らずで国防どころか国内の治安維持も覚束ない有様で、儒生を核とする朝鮮全土の農村組織も「家」あって「国家」無き朱子学に侵され著しく統率を欠いていた。親露派の高宗はオランダ・ハーグの万国和平会議に密使を送り日本の非道を訴えたが同類の帝国主義諸国は黙殺、日本は高宗を退位させて純宗を擁立し(大韓帝国最後の皇帝)内政権を取上げ名ばかりの李朝軍も解体した。「小中華の弟の反逆」に抗日運動(義兵運動)が沸起り1908年には1万人もの死者が発生、穏健統治の限界を悟った伊藤博文は韓国統監を辞任し、民政派の曽禰荒助が後継するも機能せず、伊藤はハルビン駅頭で安重根のテロに斃れた。死に臨む伊藤博文が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり穏健派重鎮の暗殺死は軍部と桂太郎首相・小村寿太郎外相ら武断派に格好の口実を与え、翌年には陸軍の寺内正毅が乗込んで韓国併合を断行し初代朝鮮総督に就任した。以後、朝鮮総督は陸海軍大将が歴任したが穏健な文化統治への転換が図られ、日本による国家建設で民生の劇的改善が進むなか小規模暴動も「三・一独立運動」で終息した。韓国併合後、日本は赤字経営を続けながら産業インフラ整備と農地開拓を推進し、内地徴用を含む雇用創出で総失業状態を解消、生活向上で韓国人口は倍増し、スラム街は近代都市へ生れ変り、100しか無かった小学校は6千近くへ増え朝鮮人の識字率は6%から一般国並へ躍進、西洋列強の収奪モデルとは異なる対等な植民地経営で同化政策を推進した。が、第二次大戦に敗れた日本軍は米軍に執政権を明渡し退去、ソ連軍が殺到して朝鮮国土は南北に分断され、米対中ソの朝鮮戦争で未曾有の戦禍を蒙った。
- 次期海相候補の松本和中将をはじめ海軍ぐるみの大疑獄「シーメンス事件」が発覚した。山本権兵衛首相は無関与だったが薩長藩閥打倒を求める世論は沸騰し内閣は総辞職に追込まれ、井上馨ら薩長元老は民権派を宥めるため大隈重信を後継首相に担ぎ出した。「山本の副官」といわれた海相の斎藤実は事件への関与を疑われ、検事として取調べにあたった平沼騏一郎は斎藤没後に刊行した著書の中で「斎藤が首犯の松本和から10万円を受取った旨の調書が存在した」と明かしている。山本権兵衛は斎藤実と共に予備役に退き、9年後に第二次内閣を組閣するもシーメンス事件のために終生元帥になれなかった。
- 第一次世界大戦に伴う西欧諸国の財政難と軍縮機運の高まりを受け(日米は特需を享受)、1921年米英日仏伊の五大国が「ワシントン海軍軍縮条約」を締結、建艦競争抑止のため主力艦(戦艦・空母)の比率を米英5:日本3に定めたほか、日本の山東半島権益の返還などが決められた。台頭著しい日本海軍に警戒を強めるアメリカは、イギリスを抱込んで日英同盟を廃棄させ軍縮条約で軍拡抑制を図った。高橋是清内閣は日本全権として加藤友三郎海相・幣原喜重郎(国際協調派外交官)・徳川家達(公爵徳川宗家当主)を派遣した。露骨な日本封じに海軍内部の反発は強かったが、加藤友三郎は「八八艦隊」軍拡計画の主導者ながらアメリカと競う愚を悟って軍縮へ舵を切り「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・日本と戦争の起る可能性のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に、結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」と喝破し条約調印を断行した。
- 加藤友三郎は頭脳明晰で海軍兵学校を2番・海軍大学校を主席で卒業、広島藩出身ながら山本権兵衛の引立てで累進し山本・東郷平八郎と共に「日本海軍の三祖」に数えられた。加藤友三郎はスマートな海軍エリートの典型だが、少年期は「ひいかち(癇癪持ち)の友公」と渾名され、赤鞘の長刀を腰に差し腹が立つと「打った切るぞ」と子供達を追い回したという。また、兵学校同期の島村速雄(主席卒業)と共に「酒豪の双璧」と称された(加藤の死因は大腸ガンだが酒が命を縮めたといわれ、島村も同年に病没)。さて艦隊勤務に就いた加藤友三郎は、日清戦争で巡洋艦「吉野」の砲術長を務め、日露戦争には第2艦隊参謀長で出征し旅順口閉塞作戦失敗で引責辞任した島村速雄に代わり連合艦隊参謀長となった。ただ、実際の軍令(作戦)は東郷平八郎司令官と秋山真之参謀の間で決められ、蚊帳の外に置かれた加藤友三郎は秋山を嫌ったという。とはいえ優秀な加藤友三郎は軍令部軍務局長・海軍次官に進み山本権兵衛の「八八艦隊」軍拡計画を推進、シーメンス事件で先輩層が失脚すると海相に特進して8年間在任し、第一次世界大戦後の軍縮機運のなかアメリカと国力を競う愚を悟り首席全権としてワシントン海軍軍縮条約を成立させた。原敬・高橋是清の政友会内閣が倒壊すると加藤友三郎内閣が発足、表向き貴族院を基盤としながら憲政会・加藤高明の組閣を恐れる政友会が実質与党となったため「変態内閣」、またヒョロナガイ加藤の風貌から「蝋燭内閣」とも揶揄された。加藤友三郎首相はワシントンで各国に約束したシベリア撤兵を断行し陸軍の「山梨軍縮」を導出したが僅か2年で急逝、大御所の山本権兵衛が政界復帰し第二次内閣を組閣した。加藤友三郎の死の7年後、ロンドン海軍軍縮条約に際し統帥権干犯問題が起り東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(反米軍拡派)が主導権を掌握し日本を対米開戦へと導いた。山本権兵衛は沈黙を貫いたが、9歳年下の加藤友三郎が存命ならと惜しまずにいられない。
- 斎藤実は仙台藩水沢の出身、元藩士の父は没落し「賊軍」故に前途は暗かったが、胆沢県大参事の安場保和の書生に選ばれ運を掴んだ。旧東北諸藩では、中央から派遣された役人が優秀な師弟を選別し中央へ進学させる救済ルートがあった。一歳年長で近所のガキ大将だった後藤新平も一緒に書生となり、後に安場保和の女婿となっている。官費で勉強できる軍人を志した斎藤実は水沢県東京出張所に給仕の職を得て上京、陸軍幼年学校に21番で合格するも官費生20人枠に入れず、半年後に海軍兵学寮予科を受験し官費生合格を果したが、直後に陸幼から官費生欠員に伴う繰上げ合格の通知が到来、後の山本権兵衛の改革まで海軍は陸軍の一部であり陸軍が断然有望だったが斎藤少年は海軍を選択した。斎藤実は海軍兵学校を3番で卒業するも出世コースに乗れず、7年間の艦隊勤務を経て公使館付武官兼務でアメリカ留学へ出された。が、通訳兼ガイドの精勤ぶりが西郷従道・山本権兵衛らの目に留まり参謀に栄転、「高千穂」勤務で山本艦長の子分となり、仁礼景範海相の娘婿の座を射止めて薩摩海軍閥に連なり異例の昇進が始まった、山本権兵衛の海相就任に伴い斎藤実は海軍次官に抜擢され7年在勤、山本から海相を譲られ8年以上も座を占めた。「山本権兵衛の副官」に徹した斎藤実には軍政面でも日清・日露戦争でも目立つ業績が無く、何度もポストを後任に譲ろうとしたが山本は忠実で野心の無い斎藤を使い続けた。海軍の大疑獄「シーメンス事件」で斎藤実海相は山本権兵衛首相と共に予備役編入へ追込まれたが、5年後に海軍大将に返咲き朝鮮総督に就任、12年後に辞任し隠居生活に入った。が翌年、海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため74歳の斎藤実が犬養毅の後継首相に選ばれた。満州事変以後の中国問題解決を期待されたが、海軍良識派ながら政治経験に乏しい斎藤実首相は為す術無く陸軍の満州国建国と松岡洋右の国際連盟脱退を承認、陸軍と右翼の僚平沼騏一郎が仕掛けた「帝人事件」スキャンダルで退陣に追込まれた。斎藤実は自派の岡田啓介に首相を譲り内大臣に就任したが、間もなく二・二六事件が起り自邸で虐殺された。
- 岡田啓介は海軍兵学校15期へ進んだが素行不良で成績も中位、山本権兵衛に目を掛けられた同期主席の財部彪(山本の女婿)や17期の秋山真之に大きく水を空けられた。艦隊勤務から横須賀海兵団の軍楽隊に左遷された岡田啓介は腐って昼寝ばかりしていたが、欠員補充で東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」の砲術士官に回され「高陞号撃沈事件」に遭遇し日清戦争に出征、日露戦争では重巡洋艦「春日」の副長として日本海海戦を戦い、第一次大戦では第二水雷戦隊司令官として青島攻略戦に参加した。岡田啓介は叩き上げの「水雷屋」で政治とは無縁だったが、シーメンス事件で海軍上層部が失脚したため海軍省に呼ばれ人事局長に就任、艦政本部長から財部彪海軍大臣の次官へ上り司令長官ポストを経て田中義一内閣で海相に栄達した。ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると、無派閥の岡田啓介は条約派(国際協調)と艦隊派(反英米軍拡)の調整に奔走したが、海相に復した条約派のエース財部彪は予備役に追込まれ東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握った。海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため条約派の斎藤実が組閣すると岡田啓介は調整役を期待され海相に復帰、陸軍と右翼の攻撃(帝人事件)で斎藤内閣が倒れると岡田に組閣の大命が下された。満州事変後の軍拡景気で日本は逸早く世界恐慌を脱し、天皇機関説問題や国体明徴運動の扇動で国民が軍国主義に染まるなか、岡田啓介首相は母体である海軍の艦隊派にも突上げられ防戦一方、二・二六事件で一命を拾うも思考停止に陥り政権を投出した。広田弘毅・近衛文麿内閣が軍部に追従し傷口を拡げるなか、岡田啓介は重臣会議に列し米内光政・鈴木貫太郎ら海軍良識派を後援したが伏見宮博恭王ら艦隊派の優位は動かせなかった。対米開戦の大詰めで東郷茂徳外相からの海軍内強硬派の説得要請を黙殺した岡田啓介であったが、敗戦必至の状況に陥ると米内光政・鈴木貫太郎と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣の終戦工作をサポート、サンフランシスコ平和条約の発効・GHQ解散を見届け世を去った。
- 海兵(14期)・海大へ進むもエリートから外れた鈴木貫太郎は、日露戦争で「水雷屋」として頭角を現し、海軍重鎮から天皇側近となり首相へ上り詰めた。同年生れの岡田啓介(海兵15期)とよく似たキャリアで、共に草創期の帝国海軍に身を投じ幕引き役を果した。「海軍の父」山本権兵衛は陸軍の長州閥ほど派閥に拘らず海兵卒の秀才を多く登用したが枢要は自派閥(薩摩閥)で固めた。特に徳川譜代藩出身者は希で海兵同期では鈴木貫太郎(関宿藩)のみ、成績凡庸で山本権兵衛の引きもなく艦隊勤務や教育畑を歩み、一期下の財部彪(山本の娘婿)に中佐進級で先を越されたとき退官を決意したが父の手紙で思い留まった。とはいえ反骨心旺盛な鈴木貫太郎は水雷の技量を磨き日清戦争に従軍、日露戦争では主力戦艦「春日」の副長として旅順閉塞作戦や黄海海戦に活躍し、戦中に第五駆逐隊司令に抜擢され旗艦「不知火」から4隻を指揮し日本海海戦で奮闘、猛烈な指揮ぶりは「鬼貫」と畏怖された。日露戦争の前、速力半減に代えて航続距離を伸ばした「マカロフ式魚雷」が開発され、海軍軍令部は総入替えを検討したが、一軍事課員ながら実戦感覚に優れた鈴木貫太郎は猛反対して山本権兵衛海相に談じ込み、半分は従来型を残すこととなった。果して日本海海戦、マカロフ式魚雷の遠隔攻撃はほとんど役に立たなかったが、鈴木貫太郎の第五駆逐隊は敵艦に肉薄して高速魚雷を打込み3隻撃沈の大戦果、鈴木の評価は一気に高まり「実戦の雄」と讃えられた。この他にも鈴木貫太郎は実戦の見地からしばしば秋山真之(海兵17期)参謀らに意見し、多くは的確だった。日露戦争で武名を馳せた鈴木貫太郎は海軍水雷学校長に就き、第二艦隊・舞鶴水雷司令官を経て山本権兵衛首相・斎藤実海相のもと海軍中央へ栄進(海軍省人事局長)、シーメンス事件で海軍上層部が失脚すると海軍次官に昇進し、海相と並ぶ海軍最高位の連合艦隊司令長官・軍令部長に栄達した。60歳を過ぎた鈴木貫太郎は満州事変を前に予備役へ退き侍従長兼枢密顧問官へ転出、天皇側近に加わり岡田啓介・米内光政(29期)と共に専横を強める陸海軍に対抗した。
- 盛岡出身の米内光政は、苦学して海兵(29期)・海大へ進んだが成績は中程でエリートコースには乗れず、艦隊勤務から叩き上げた。海軍人の首相では岡田啓介・鈴木貫太郎と同型で、山本権兵衛・加藤友三郎・斎藤実の本流とは異なる。米内光政は、ロシア(ソ連)・ドイツ・ポーランド駐在を通じて国際協調派(条約派・良識派)の論客に台頭し、統帥権干犯問題で艦隊派が優勢になると鎮海司令官に「島流し」されたが読書三昧で学識を高め、斎藤実内閣・岡田啓介海相の派閥調整人事で第三艦隊司令長官に栄転、佐世保・第二艦隊・横須賀・連合艦隊の司令長官を経て林銑十郎内閣で海相に栄達した。この間、米内光政は後輩の山本五十六(海兵32期)・井上成美(第37期)と良識派トリオを組み対米英協調を説いたが、伏見宮博恭王元帥を担ぐ艦隊派は一層勢力を増し海軍軍縮条約を撤廃し建艦競争を再開した。ただ、中国には強硬な米内光政海相は近衛文麿首相・広田弘毅外相と共に「断固膺懲」を唱え日中戦争泥沼化に加担している。さて、ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の誘いが来ると、海軍艦隊派の岡敬純(海兵39期)ら反米英派は陸軍に同調し強硬に同盟締結を主張、対する米内光政海相は「五相会議」で討議を尽くし「日独伊の海軍力では米英に勝ち目は無い」と断言したが、モノグサの性分が出たか吉田善吾に海相を譲り予備役へ退いてしまった。が、第二次大戦が勃発し、複雑な三国同盟を棚上げした阿部信行内閣は米価高騰に躓き退陣、海外通の米内光政に組閣の大命が降った。米内光政首相は同盟阻止を貫いたが、海軍内でも突上げられ四面楚歌、陸軍は畑俊六陸相の辞任と後継指名拒否で米内内閣を倒した。次の第二次近衛文麿内閣で三国同盟は成立したが米内光政は山本五十六と共に対米妥協に奔走、開戦後は早期講和を唱え続け岡田啓介・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣と結束して東條英機内閣を打倒、次の小磯國昭から海軍消滅まで海相を担い終戦工作に尽力し、戦後3年で世を去った。ただ、「海軍善玉論」の立役者となった米内光政だが、鈴木貫太郎首相にポツダム宣言の「黙殺」を進言し原爆投下・ソ連侵攻の口実を与える失策を犯している。
- 山本五十六は、越後長岡から上京して海兵(32期)・海大へ進み、「アメリカ通」および「航空主兵論」で頭角を現した。海大を優等で卒業した山本五十六は、2年間米国ハーバード大学に学び、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭を経て駐米大使館付武官に2年間在任、ロンドン海軍軍縮会議で次席随員を務め対米妥協に猛反対した。反米軍拡派(艦隊派)と目された山本五十六は統帥権干犯問題後の粛清を免れ、条約で押付けられた艦隊の劣勢比率を挽回すべく航空兵力の増強を提唱、志願して海軍航空本部に入り、海軍が石川信吾らの大鑑巨砲主義に染まるなか粛々と航空母艦・航空機の整備を進めた。米国の圧倒的な生産力を知る山本五十六は対米協調へ転じ米内光政(海兵29期)・井上成美(37期)と良識派トリオを組み艦隊派に対抗、米国を正面敵化する日独伊三国同盟に猛反対したが、米内内閣は陸軍の陸相拒否で倒され、伏見宮博恭王元帥を担ぎ海軍を掌握した岡敬純・石川信吾ら艦隊派は陸軍・松岡洋右に同調し第二次近衛文麿内閣で三国同盟を成立させた。芝居気が強くズケズケものを言う山本五十六は新聞記者の人気を博し度々マスコミに登場、米内光政は「茶目」と評したが、過激派には憎まれ暗殺予告文書を送りつけられた。テロの標的にされた山本五十六は艦隊勤務に出され、米内光政から海相を継いだ吉田善吾(32期)は艦隊派の突上げで退任、ナアナアの及川古志郎(31期)・嶋田繁太郎(32期)・永野修身(28期)らは南部仏印進駐・対米開戦へと引きずられた。連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は「勝っても負けても早期講和」の決意のもと自ら育てた航空兵力で真珠湾攻撃を敢行し「大博打」に勝利したが、快勝に浮かれた山本の連合艦隊司令部は「痛撃後の早期講和」を忘却し杜撰な作戦計画でミッドウェー海戦を強行、予想外の大敗で主要空母を失い緒戦の勝利は帳消しとなった。真珠湾攻撃に瞠目した米軍は航空兵力の大増産に乗出し続々と前線に投入、守勢に転じた日本軍が太平洋の制海権を削られるなか、茫然自失の山本五十六は為す術無く日を送り、前線視察に出た搭乗機を狙い撃ちされ非業の死を遂げた。
- 皇族軍人の伏見宮博恭王は、1932年の満州事変直後から1941年の対米開戦に至る最重要期に10年も軍令部総長の座を占めた海軍暴走のキーパーソンである。伏見宮愛親王の庶子ながら華頂宮を相続した伏見宮博恭王は、皇族男子の慣例に従い軍部へ進み、ドイツ海軍大学校留学を経て海軍将校となった。宮様として名誉職を歴任した伏見宮博恭王は飾雛で終わるべきだったが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると軍拡反米英の「艦隊派」に加担、「海軍の父」山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで一躍実力を伴う軍令部総長に擁され、東郷平八郎の死に伴い唯一の海軍元帥となった。統帥権干犯問題は喧嘩両成敗で決着し艦隊派首領の加藤寛治・末次信正が失脚したが、加藤から軍令部総長を継いだ伏見宮博恭王は天皇の名代として軍令部の権限強化を図り海軍人事を掌握、米英との軍事衝突回避を最優先する「条約派」を一掃し海軍のバランス機能を破壊した。伏見宮博恭王元帥のもと海軍主流となった岡敬純・石川信吾・大角岑生・南雲忠一ら艦隊派は、広田弘毅内閣で海軍軍縮条約廃棄を果し「大和」「武蔵」の巨大戦艦建造に邁進(大鑑巨砲主義)、米英に対抗すべく陸軍・松岡洋右が進めるナチス・ドイツとの同盟を支持した。アメリカを正面敵に回す愚を知る米内光政・山本五十六・井上成美の「良識派」トリオは劣勢ながら抵抗を続け、連合艦隊司令長官の山本は海軍首脳会議で最後の抵抗を試みたが、伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり海軍は日独伊三国同盟承認に決した。伏見宮博恭王は昭和天皇から海軍出師準備令を引出し、海軍中央は石川信吾ら「海軍国防政策委員会」の独壇場となり近衛文麿内閣に南部仏印進駐を迫り対米開戦へ導いた。開戦責任回避のため伏見宮博恭王は軍令部総長を退いたが最後まで影響力を保持し、終戦翌年に薨去した。サイパン陥落後の元帥会議で伏見宮博恭王は「何か特殊兵器(特攻の意)を使え」と指示、禁断の特攻作戦が現実プランに浮上し海軍軍令部はレイテ沖海戦に「神風特別攻撃隊」を投入、万余の若者が狂気の特攻隊に駆出されることとなった。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
秋山真之と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照