僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
竹中 半兵衛
1544年 〜 1579年
60点※
竹中半兵衛と関連人物のエピソード
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 黒田官兵衛孝高は、東播磨の盟主小寺家の筆頭家老で姫路城代の黒田職隆の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、備前の宇喜多直家を調略し、主君小寺政職に裏切られ荒木村重に幽閉されても操守を貫き、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で天下争覇の夢破れた心優しき天才軍師である。嫡子黒田長政は、徳川家康の養女婿となり小早川隆景・吉川広家を寝返らせた功績で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ諸大名中最大の加増を受けた。守護赤松氏がお家騒動で没落し播磨・備前・美作は国人割拠の情勢を強めるなか、21歳で家督を継いだ黒田官兵衛は、姫路へ侵攻した赤松政秀を寡勢で撃退して武名を上げ(青山・土器山の戦い)、1575年織田信長の天下を予見し主君小寺政職と別所長治を口説いて帰順させたが、織田方の備前国主浦上宗景が毛利の加勢を得た家臣の宇喜多直家に追放され(天神山城の戦い)、一向宗門徒の盟友三木通秋が反信長に転じて乃美宗勝の毛利水軍が来襲(英賀合戦)、偽装援軍の奇計で撃退するも国人衆は動揺し、局面打開のため嫡子長政を人質に送って援軍を督促した。1577年中国征伐を決意した織田信長は豊臣秀吉軍団を派遣、姫路城に入った秀吉は忽ち要衝上月城を攻略するが、別所長治の離反を機に播磨国人の大半が毛利方へ靡き毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が来援、備前宇喜多直家の調略で窮地は凌いだが、息つく間もなく荒木村重が謀反、村重と通じた小寺政職に欺かれ説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の土牢に幽閉され、官兵衛反意を疑う信長は人質長政の殺害を命じた。1年後、有岡城落城で半死半生の官兵衛は救出され(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、竹中半兵衛に匿われた長政も無事、軍師官兵衛が戻った秀吉軍団は別所長治を滅ぼし(三木合戦)、反抗勢力を掃討して播磨を平定(小寺政職は官兵衛の嘆願で助命)、吉川経家の鳥取城を落として因幡を制圧、清水宗治の備中高松城を水攻めで攻囲した秀吉は手柄献上のため信長に出馬を要請した。
- 1582年本能寺の変報を備中高松陣で受けた豊臣秀吉は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、正気に返った秀吉は妥協的条件で毛利と即時和睦し、京都まで200kmを10日で移動(中国大返し)、柴田勝家らに先駆けて明智光秀を討ち果し後継レースの主役に躍り出た(山崎の戦い)。黒田官兵衛は、毛利・宇喜多との戦後処理をまとめ、大坂城築城の総奉行を務め、賤ヶ岳合戦から九州征伐に転戦、播磨篠の丸城5万石から1587年豊前中津12万石の大名となったが、功績に比して評価は過小であり、秀吉子飼いの石田三成に参謀長の地位も奪われた。中津入り直後、官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙に城井鎮房ら豊前国人が一斉蜂起、苦戦しつつも持久戦に切替えて無事鎮圧した。1589年家督を長政に譲り隠居、秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞き粛清を予見して引退したというが、官兵衛の智謀を頼む秀吉は軍師辞任は許さなかった。小田原征伐では北条氏政・氏直父子への勧降使を務め、秀吉が諫止を聞かず始めた文禄の役(朝鮮出兵)には軍監として渡航するが、現地で石田三成・小西行長と対立し無断帰国、剃髪入道して勘気赦免され(如水と号す)、慶長の役・蔚山城の戦いでは長政の後詰で采配を振るい、処罰覚悟で戦線縮小を図るなか、秀吉が大阪城で病没した。風雲急を告げる情勢下、黒田官兵衛は、長政を徳川家康に縁付けて西軍切崩しにあたらせ、関ヶ原合戦が起ると自身は豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、最古参の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門を従えて毛利配下大友義統の西軍勢を打破り(石垣原の戦い)、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け解軍した。最後の大勝負に負けた黒田官兵衛は、封土恩賞を辞退して筑前に隠居し、好々爺然で家臣・領民に親しみ悠々自適のうちに59年の生涯を閉じた。
- 織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。
- 織田信長には毀誉褒貶があるが、100有余年続いた戦国時代を制覇し中央集権国家の礎を打ち立てた事実は揺ぎ無い。武力では、先ず鉄砲と兵農分離だろう。鉄砲の国産体制を整備して大量に備蓄し、貿易都市堺を支配下において当時国内では産出しなかった煙硝の供給ルートを確保、装填に手間の掛かる元込銃の弱点を「三段撃ち」で克服し(紀州雑賀衆に倣った説あり)、長篠の戦いで戦国最強の武田軍団を撃破した。織田信長の台頭により鉄砲伝来から半世紀後には日本は世界最高の鉄砲装備を誇る最強の陸軍力を持つに至り、明侵攻(朝鮮出兵)は統帥の乱れと補給難で失敗したが戦闘では無敵だった。とはいえ、都会育ちの上方・尾張の兵は甲州兵の10分の1といわれるほど弱く、信長軍も然りで、姉川合戦では本陣手前まで崩されたのを徳川家康軍の奮闘で勝を拾い、三方ヶ原合戦では早々に敗退して完敗の元凶となった。弱卒のハンデを抱える織田信長は、武器と外交に活路を求め、鉄砲の前には集団戦に有利な長槍を導入する一方、上洛後も武田信玄と上杉謙信の機嫌をとって全力で対決回避に努めた。さて、当時も武士は「一所懸命」の土豪の集団で、戦争や集中訓練は農閑期に限られ、領地転換や長期遠征は困難であり、最強を誇る武田・上杉もこの制約に縛られたが、唯一織田信長は兵農分離の確立により束縛を脱した。職業軍人集団=傭兵感覚故に門閥無視・能力本位の人材活用も可能となり、譜代の柴田勝家・丹羽長秀らと新参の明智光秀・豊臣秀吉・滝川一益らを相競わせ、自在の配置転換と物量作戦で多方面作戦を成功させた。織田軍団の屋台骨は膨大な戦費を支えた経済力だが、信長は経済政策でも開明的であった。寺社や土豪の収入源というだけの関所や諸権益を撤廃(楽市楽座)して自由貿易と統一的気分を盛上げ、松永久秀のキリスト教宣教師追放令も撤廃し堺商人を通じて海外貿易で大きな利を占めた。一方で特権剥奪に抵抗する勢力には徹底弾圧で臨み、タブーを侵して比叡山・高野山・石山本願寺・一向一揆を討滅、有史以来武力・政治力を恣にしてきた宗教勢力を退治し人民を心の楔から解放した。
- 天才の裏返しか、織田信長は躁鬱のうえに猜疑心が強く、当時常識外の悪逆非道を行って魔王と恐れられ、最後は家臣の裏切りで殺された。幼少期から変わり者だったようで、乳母の乳首を噛み切ったとか女装趣味伝説まであり、長じるとドラマでお馴染みの異装で奇行を繰返し、傅役平手政秀の諌死にも改めず、うつけの他に「たわけ(戯け)」と陰口されたのは実妹の市を犯したためとする説もある。とはいえ家督を継いで10余年尾張平定までは辛抱強く家臣の人心掌握に努め、弟の信行に与して叛逆した柴田勝家・林秀貞らを赦し、岳父斎藤道三が義龍に攻められた際には律儀に救援に駆けつけた。再度謀反を企てた信行を殺し、尾張織田家を滅ぼしたことは戦国の世の習い、身分低く有能な者には夢のような名君であった。ところが、浅井長政離反で猜疑心が鎌首をもたげ、討取った長政の頭蓋骨に金箔を施して御肴に供した。最も織田信長の評価を落とした比叡山焼き討ちや一向一揆の殺戮は、宗教を笠に着て武力抵抗を続けた門徒側の自業自得なのだが、迷信が根強い当時においては神をも恐れぬ所業であった。室町幕府滅亡も、大恩を忘れて信長打倒の謀略に励んだ足利義昭の自業自得だが、大義名分や権威主義を重視する世論は主君追放の大逆と見做した。武田信玄急死という桶狭間合戦以来の大幸運で信長包囲網の窮地を脱した織田信長は、自らを神格視するほどに増長し、平気で講和の約束を破り家臣に無理難題を押し付ける暴君となった。徳川家康の正室築山殿の武田家への内通が露見すると無実の嫡子徳川信康まで自害させ、丹波攻略では城主助命の約を違えて人質の明智光秀叔母を捨て殺しにし、最古参の佐久間信盛・林秀貞らを大昔の罪状を突きつけて突然追放、信長の留守中に物見遊山に出掛けた女中数名を斬り殺したかと思えば、突然各地の軍団を京都に呼び上機嫌で大軍事パレードを挙行するなど、手に負えない有様となった。松永久秀と荒木村重の相次いぐ謀反は抑えたが、家臣達のストレスは頂点に達していただろう、無防備で京都本能寺に入ったところを突如明智光秀に襲われ落命した。
- 明智光秀は、足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞である。美濃守護土岐氏の庶流で東美濃の大豪族明智氏の嫡子に生れたが、斎藤道三の外戚明智氏は斎藤義龍謀反で共に滅亡(長良川の戦い)、28歳の光秀は逃亡し、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、義昭と信長に両属の形で活躍を始めた。信長の正室帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。一流の文化人細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通する明智光秀は、京都政界の外交折衝で頭角を現し、1570年朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導いた功で近江坂本10万石を与えられ44歳で一城の主となった。恩人信長の追落しに励む義昭を見限って織田家専属となり、1573年室町幕府滅亡、軍団を託されて丹波攻略を開始すると、石山合戦や松永久秀・荒木村重の謀反討伐に駆出されつつも、丹波亀山城を攻略して前線拠点を確保し、1579年波多野秀治・赤井直正を討破って丹波を平定(人質に差し出した叔母を光秀が捨殺しにしたという説があるが信憑性は低い)、近江坂本に加えて丹波を賜り(合計25万石または60万石)、織田家5軍団長の一人となった。そして1582年、「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだ光秀は、秀吉の出馬要請に応じて寡勢で京都に入った信長を急襲し殺害(本能寺の変)、畿内を軍政下に置いたが、縁戚の細川藤孝・忠興をはじめ筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に悉く見放され、神速の中国大返しで駆けつけた豊臣秀吉に洛外天王山で決戦を挑むも惨敗(山崎の戦い)、逃亡した光秀は伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに討たれ、本拠地の近江坂本城も落ちて明智氏は滅亡した。光秀謀反の原因には、怨恨説・野望説・恐怖心説・発作説から、黒幕説には朝廷・長曽我部元親・イエズス会・徳川家康や秀吉まで様々あるが、歴史上の効果は天下統一目前の信長を討って秀吉・家康に道を開いた一点に尽きる。
- 柴田勝家は、織田信長の畿内制圧で台頭し北陸方面軍を託されたが、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭重臣である。尾張の土豪に生れ、織田信秀に出仕して重鎮となり、嫡子信長の家督相続に次男信行を擁して反抗したが、稲生の戦いに敗れて剃髪謝罪し、信長に帰順して信行暗殺に加担した。上洛戦から重用され、南近江長光寺城の籠城戦では六角義賢を撃退して「瓶割り柴田」の渾名を授かり、各地を転戦して信長包囲網を凌ぎ切った。1573年武田信玄の急死で視界が開けた織田信長は、浅井・朝倉氏を屠り、長篠の戦いで武田氏を殲滅したが、1575年越前で朝倉遺臣の反乱に続き一向一揆が蜂起、総動員で一揆を鎮圧した信長は柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据えて北陸軍団を編成、加賀一向一揆・越後上杉謙信と対峙する構えをとった。この間、足利義昭の将軍擁立や本願寺顕如との和睦に働いた明智光秀、浅井・朝倉攻めの殊勲者豊臣秀吉、伊勢攻略と長島一向一揆平定の滝川一益ら、素性不詳の門外漢が台頭し、勝家・丹羽長秀ら譜代家臣との軋轢が深まった。甲斐征伐を終えた信長は上杉謙信との対決を決意、1577年柴田勝家の大軍を派遣するも加賀南部手取川で迎撃され惨敗、しかし翌年謙信が急死し後継争いで上杉家は弱体化(御館の乱)、秀吉の中国攻めと光秀の丹波攻略を横目に見つつ柴田勝家は攻勢を強め、1580年本願寺顕如の降服で加賀一向一揆が解体されると一気に加賀・能登を制圧、上杉景勝領の越中に殺到した。そして1582年、魚津城を騙し討ちで落とした直後に本能寺事変が勃発、激怒する上杉勢の抵抗に遭った勝家軍は身動きがとれず、神速の中国大返しで駆け戻った秀吉が信長の仇討を果した。直後の清洲会議で秀吉は織田家当主に三法師を擁立し丹波・山城・河内の光秀旧領を獲得、焦る勝家は滝川一益・織田信孝と結び長宗我部元親・紀伊雑賀衆も動かして反抗したが、頼みの丹羽長秀・前田利家に養子の柴田勝豊まで篭絡され、佐久間盛政の軍令違反で大敗、北ノ庄城まで攻め込まれ討ち滅ぼされた(賤ヶ岳の戦い)。
- 前田利家は、織田信長の寵童から「槍の又左」へ成長し、下僕殺害で3年干されるが武功を重ねて能登国主に出世、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切り、親友豊臣秀吉の引立てで加賀・越中・能登三国の太守となり徳川家康の対抗馬に担がれた最も幸運な戦国武将である。武将としての実績は乏しいが、篤実な性格で敵からも信頼され、非情の決断と老獪な政界遊泳で大封の主に上り詰めた。尾張荒子2千貫の土豪の四男に生れ、14歳のとき家督相続間もない織田信長に小姓として出仕し、武芸を練磨して合戦毎に首級を重ねた。幸運の主豊臣秀吉は清洲・安土の侍長屋以来の親友である。1559年浮野の戦いで主君信長は尾張平定を完了し、利家は母衣衆(親衛隊)に抜擢され妻まつ(芳春院)も迎えたが、信長を真似た「かぶきもの」が嵩じて同朋衆拾阿弥を斬殺し放逐された。桶狭間合戦で一番首、森部の戦いで首二つを挙げて勘気赦免されると、信長の命令で兄利久(前田慶次郎の養父)を廃して前田家当主に納まり、石山合戦で単騎敵を防ぎ「日本無双の槍」と激賞され織田家大名衆に連なった。1575年長篠合戦で鉄砲隊を率いて奮戦し、佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられて柴田勝家の与力に参陣、1580年本願寺顕如の降伏で90年間加賀を支配した一向一揆も解体すると、柴田軍団は加賀・能登を制圧、前田利家は能登23万石を与えられ小丸山城に拠って上杉謙信勢と対峙した。そして1582年本能寺の変で信長が討死、44歳の前田利家は自ら槍を奮って能登国人の反乱を鎮圧し、翌年賤ヶ岳合戦が勃発すると柴田方で出陣するも突如戦線離脱、秀吉方に転じて北ノ庄攻めの先鋒を務め能登に加賀二郡を加増されて尾山(金沢)城へ移り、1585年佐々成政の反乱を撃退して(末森城の後巻)越中を加封され三国の太守となった。天下統一を急ぐ豊臣秀吉が人質攻勢で徳川家康を懐柔すると、前田利家は家康牽制の対抗馬に担がれ、秀吉の遺言により五大老筆頭・秀頼後見として大阪城に入ったが、家康との一触即発の騒乱を鎮めた直後に死去、翌日石田三成が加藤清正・福島正則らに襲撃され早くも豊臣政権崩壊の兆しが現れた。
- 蒲生氏郷は、近江日野城主の嫡子で、六角氏滅亡に伴い織田信長に仕えて娘婿となり本能寺事変後は豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて会津92万石に抜擢され伊達政宗の妨害を排して奥州仕置を完遂、徳川家康の抑え役を期待され本人は天下も夢見たが惜しくも40歳で病没した文武両道の大器である。「銀鯰尾兜」を着けて常に兵卒の先頭に立ち、松阪・会津に商業都市を築いた経済通、家臣には軍規厳正ながら気前良く、利休七哲筆頭の一流文化人、父祖譲りの義理堅さも備えた万能の武将であり、存命ならポスト秀吉政局を左右したに違いない。1568年織田信長の上洛軍を扼した六角義賢が滅ぼされ(観音寺城の戦い)、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は13歳の嫡子氏郷を人質に出して降伏した。翌年の伊勢侵攻で初陣した氏郷が介添役無しで首級を挙げる活躍を示すと、信長は烏帽子親となって氏郷を元服させ娘の冬姫を妻に与えて日野城への帰還を許した。蒲生氏郷は、姉川、長島、長篠、有岡城、伊賀攻めと順調に戦歴を積んで織田一門のホープとなったが、1582年本能寺の変が勃発、安土城から日野城へ信長の妻妾を護送して明智光秀と対峙し、山崎合戦で仇討を果した豊臣秀吉に帰服した。賤ヶ岳合戦では羽柴秀長旗下で伊勢攻めの先鋒を務め、木造具正ら織田信雄方伊勢国人を掃討、小牧合戦では秀吉退却の殿を務め、1584年伊勢松ヶ崎12万石へ加転封され松阪城に移った。その後も蒲生氏郷は秀吉に従って各地を転戦、九州征伐の岩石城攻略で武名を轟かせ、1590年小田原征伐後の奥州仕置で会津42万石に躍進、天下への夢絶たれたと嘆きつつも、間もなく大崎・葛西一揆が起ると伊達政宗の妨害を排して木村吉清・清久父子を救出し、九戸政実の乱も忽ち討平して92万石に大加増された。朝鮮出兵が始まると秀吉の供をして肥前名護屋に入ったが病に倒れ、「限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころ短き 春の山風」の見事な辞世を遺して陣没した。嫡子の蒲生秀行は、一旦会津領の相続を許されるも力量不足で上杉景勝と交代、関ヶ原合戦後に会津藩主に復帰したが、重臣の抗争が絶えず、次男の代で蒲生家は無嗣断絶となった。
- 徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。
- 徳川家康は少数の従者と堺見物中に本能寺の変に遭遇、切腹も覚悟したが、服部半蔵の手引きで伊賀越えし生還、途中別れた穴山信君は落ち武者狩りに殺された。混乱に乗じた北条氏政が滝川一益を追い払って上野を押え織田領に殺到、上杉景勝も牙を剥き三つ巴戦となったが(天正壬午の乱)、和睦成って甲斐・信濃を制圧した徳川家康は三河・遠江・駿河と合わせて五ヶ国の太守となり、豊臣秀吉に対峙した。清洲会議、賤ヶ岳合戦は静観したが、1584年織田信雄に加担し挙兵、池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し優位に立つも、愚かな信雄が無断で単独講和、名目を失って停戦に応じた(小牧・長久手の戦い)。天下統一を急ぐ秀吉は宥和路線に切替え、母と妹を人質に送られた家康は遂に膝を折り、以後は織田信長同様に律儀に仕えた。1590年、九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は小田原征伐を開始、北条氏に近い家康は早期降伏を促すが氏政・氏直(娘婿)父子は拒絶、結局降伏開城するも滅ぼされた。秀吉は強敵家康から駿遠三甲信の5カ国150万石を召上げ、北条氏旧領の関八州250万石へ移封、東海道筋に子飼い大名を連ね会津に蒲生氏郷を配して封込策に出たが、家康は黙って従い江戸の都市開発に励んだ。朝鮮出兵を無傷で過ごし、1598年豊臣秀吉が死去、抑え役前田利家も翌年亡くなると、健康オタク徳川家康の独壇場となった。豊臣家の内部分裂に乗じて加藤清正・福島正則・黒田長政ら反石田三成・淀殿派の首領に納まり、勝手な婚姻政策で結束を固めると、1600年会津征伐の罠に掛かった石田三成が挙兵、小早川秀秋・吉川広家の寝返りを誘って関ヶ原合戦に勝利すると、1603年徳川幕府開設、2年後秀忠に将軍を譲り徳川氏世襲を世に示した。西軍諸将には大鉈を振るったが、本人の実力と為政者の都合で領地を入替えた信長流を廃し世襲藩固定化で外様大名を安心させつつ、政権運営は将軍家と小身の譜代衆が握り、参勤交代や天下普請で抵抗力を削ぎ、下々にも現在身分の凍結を強制して太平秩序を醸成した。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、翌年75歳で大往生を遂げた。
竹中半兵衛と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照