種痘を広めた蘭方医にして「適塾」から大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・大鳥圭介らを輩出した大教育者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照緒方 洪庵
1810年 〜 1863年
80点※
緒方洪庵の年表
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1810年
備中足守藩の下級藩士緒方瀬左衛門惟因の三男に緒方惟章(緒方洪庵)が出生
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1817年
緒方洪庵が天然痘に罹患
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1816年
伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成
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1817年
イギリス船が浦賀に来航
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1823年
シーボルト来日
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1824年
イギリス捕鯨船員の常陸上陸事件、徳川斉昭の水戸藩を中心に攘夷熱が高まる
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1825年
異国船打払令
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1825年
緒方惟因が大坂蔵屋敷留守居役となり一家は大阪に転居
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1826年
緒方洪庵が蘭方医中天游の思々斎塾に入門
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1828年
シーボルト事件
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1830年
鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる
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1831年
緒方洪庵が江戸遊学し蘭方医坪井信道の安懐堂塾に入門
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1835年
中天游が急逝、弟子の緒方洪庵が大阪に戻り思々斎塾で代理教鞭をとる
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1836年
緒方洪庵が長崎遊学しオランダ人医師ニーマンに学ぶ
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1837年
モリソン号事件~アメリカ商船を異国船打払令に基づき砲撃
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1838年
緒方洪庵が大阪瓦町で医師開業、適々斎塾(適塾)を開く
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1839年
蛮社の獄~渡辺崋山や高野長英らの鎖国政策批判への弾圧
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1842年
南京条約
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1843年
上海開港
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1844年
オランダ国王特使の開国勧告を幕府が無視
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1845年
水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる
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1845年
門人増により緒方洪庵が大坂過書町に屋敷を購入し適塾を移転
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1846年
アメリカのピットル艦隊が浦賀に来航し開国を打診
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1846年
フランスが琉球の開国を要求
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1846年
大村益次郎が大阪遊学し緒方洪庵の適塾に入門、翌年から1年間長崎へ遊学
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1848年
久坂玄機(玄瑞の長兄)が緒方洪庵の適塾の塾頭となるが翌年長州藩に召還され医学所好生館の都講に就任、適塾塾頭は大村益次郎が後継
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1848年
坪井信道が死去
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1849年
福井藩士の橋本佐内が緒方洪庵の適塾に入門
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1849年
緒方洪庵が大阪古手町に除痘館を開き牛痘種痘法を開始
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1850年
佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始
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1850年
大村益次郎が周防へ戻り四辻村で村医を開業
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1850年
緒方洪庵が故郷の備中足守藩に「足守除痘館」を開設
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1851年
島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手
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1851年
佐賀藩が洋式技術導入のため精煉方を開設
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1852年
オランダ商館長が長崎奉行にペリー来航を予告、佐賀藩主鍋島直正が軍備を増強
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1852年
ジョン万次郎が琉球に上陸、島津斉彬の謁見を経て、土佐藩に仕官
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1852年
大鳥圭介が緒方洪庵の適塾に入門
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1853年
「からくり儀右衛門」こと田中久重が佐賀藩精煉方に着任
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任
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1853年
海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁
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1853年
徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発
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1853年
老中阿部正弘に抜擢された江川坦庵が佐賀藩主鍋島直正の技術支援を得て伊豆韮山に反射炉を設置
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1853年
大村益次郎が宇和島藩に仕官
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1854年
久坂玄機が病死し弟の久坂玄瑞が家督を継ぎ医者坊主となる
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
ロシア艦隊が長崎に来航し通商を求める
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1855年
幕府がオランダから蒸気船観光丸の寄贈を受け長崎に海軍伝習所を開設、旗本の勝海舟ら1期生が入学
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1855年
薩摩藩が日本初の国産蒸気船を開発
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1855年
薩摩藩が国産2号となる洋式軍艦昇平丸(帆船)を建造、幕府に献上
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1855年
福澤諭吉が緒方洪庵の適塾に入門
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
水戸藩の石川島造船所(IHIの前身)が洋式帆船「旭日丸」を建造し幕府に献上
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1857年
吉田松陰の門人が増えたため杉家邸内に塾舎を設置し(松陰神社内に現存)叔父の玉木文之進から「松下村塾」の塾名を承継
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1857年
大村益次郎が宇和島藩士のまま最高学府の幕府講武所に招聘され教授に任じられる
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1857年
福澤諭吉が最年少の22歳で適塾の塾頭となる
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1858年
佐賀藩主鍋島直正が洋式船舶の建造・修理・運用のため三重津海軍所を開設
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
徳川家茂が14代将軍就任、一橋派が将軍継嗣問題に敗北
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1858年
薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回
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1858年
福澤諭吉が築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で蘭学塾を開講(慶應義塾の起源)
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1858年
コレラの流行を受け緒方洪庵が治療の手引書『虎狼痢治準』を出版し医師に配布
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1858年
幕府が緒方洪庵の天然痘予防活動を公認・牛痘種痘を免許制としモグリ医療を規制
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
安政の大獄により吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らが処刑される
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1859年
島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
幕府が通商条約批准のための遣米使節を派遣、勝海舟艦長の咸臨丸が同行(随員に福澤諭吉ら)
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
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1860年
米国から帰国した福澤諭吉が築地鉄砲洲に復帰し蘭学塾から英学塾へ方針転換
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1862年
幕府が第一回遣欧使節を派遣(文久遣欧使節)しロンドン覚書に調印(随員に福澤諭吉・福地源一郎・寺島宗則・箕作秋坪ら)
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1862年
坂下門外の変~水戸浪士が老中安藤信正を襲撃
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士が神奈川外人襲撃を企てるが土佐藩の横槍で中止
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士がイギリス公使館焼き討ち
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1862年
緒方洪庵が江戸幕府に招聘され奥医師兼西洋医学所頭取に就任・将軍徳川家茂の侍医として法眼の地位を与えられる
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
緒方洪庵が江戸にて死去(享年54)
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1909年
緒方洪庵に追贈従四位
年
緒方洪庵と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
木戸 孝允
1833年 〜 1877年
100点※
吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没
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