世界的キャラクター『ドラえもん』を産んだ国民的漫画家、「キャラ重視の作品構成→雑誌連載→テレビアニメ化→単行本と版権で稼ぐ」ビジネスモデルを確立
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
藤子 不二雄
1933年 〜 1996年
60点※
家系・子孫
- 藤子不二雄の二人は共に富山県出身、安孫子素雄は氷見の曹洞宗寺院光禅寺の住職の子だが父の死に伴い高岡市へ転居し転入先の定塚国民学校で藤本弘と出会った。漫画好きの二人は親友となり手塚治虫の『新寳島』に感激し漫画家を志望、高校在学中に「足塚不二雄」の共同ペンネームで漫画雑誌投稿を始め、春休みに東京で活躍する手塚治虫を訪問した。翌1951年四コマ漫画『天使の玉ちゃん』が『毎日小学生新聞』に掲載され足塚不二雄は小さな漫画家デビューを果したが、翌年二人は高校卒業を迎え人生の帰路に立たされた。藤本弘は製菓会社を数日で辞めて自宅で漫画雑誌投稿に専念し、安孫子素雄は伯父が専務を務める富山新聞社に入社したが夢絶ち難く、2年後に揃って手塚治虫の「トキワ荘」に転り込みペンネームを「藤子不二雄」へ改めた。手塚治虫のアシスタントで腕を磨いた藤子不二雄は、『オバケのQ太郎』『忍者ハットリくん』『怪物くん』のヒット・テレビアニメ化に続き『ドラえもん』で国民的漫画家へ上り詰めたが、1987年突然コンビ解消を発表した。藤本弘は正子夫人との間に三女をもうけたが、安孫子素雄・和代夫人に子供は無いようである。安孫子素雄の姉松野喜多枝は藤子スタジオ社長を務めた「やり手」で、病に倒れた藤本弘は彼女の存在が両家の紛争を招くと懸念しコンビ解消を決意したといわれる。それまで藤本弘と安孫子素雄は「藤子不二雄」の名で作品を管理し収入も折半していたが、合作によるヒットは『オバケのQ太郎』が最後で以降はほとんどが単独作品であり、コンビ解消に伴い藤本弘は「藤子・F・不二雄」・安孫子素雄は「藤子不二雄A」の単独ペンネームを名乗り旧作の著作権も分割した(『ドラえもん』『パーマン』は藤子・F・不二雄、『忍者ハットリくん』『怪物くん』は藤子不二雄A)。藤本弘は1996年に逝去したが、2015年末現在表立った両家のトラブルは起っていない。
藤子不二雄と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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