岩倉具視の引きで公家政治家となり、伊藤博文の後継として軍部の暴走抑止に努めたが、最後はテロに屈した昭和のキングメーカー
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照西園寺 公望
1849年 〜 1940年
40点※
西園寺公望の寸評
西園寺公望の史実
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1849年
清華家当主の徳大寺公純の次男徳大寺公望(西園寺公望)が京都にて出生
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1852年
徳大寺美丸(西園寺公望)が西園寺師季の養子となり翌年家督を継ぐ
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1867年
睦仁親王(明治天皇)即位
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1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
王政復古の大号令
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1867年
三職の設置、岩倉具視が西園寺公望を参与に抜擢
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
西園寺公望が山陰道鎮撫総督に任じられ出征
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1868年
西園寺公望が会津征討越後口総督府大参謀に任じられ出征
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1868年
西園寺公望が新潟府知事に任じられるがすぐに辞任
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1869年
西園寺公望が木戸孝允・大村益次郎の薦めによりフランス留学準備のため開成所に入学
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
王政復古の賞典禄下賜、西園寺公望が300石を賜る
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1869年
版籍奉還
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1869年
大村益次郎が京都三条木屋町の旅館で会食中に急進的な兵制改革に反発する元長州藩士8人に襲われ大阪にて死去(享年46)、郷里の山口市鋳銭司に葬られる、西園寺公望は遭難を免れる
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1869年
西園寺公望が謹慎処分を受け私塾立命館を開講
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1870年
国内初の日刊紙・横浜毎日新聞創刊
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1870年
西園寺公望が岩倉具視の意を受けフランス留学
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1880年
西園寺公望がフランス留学より帰国
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1881年
東洋自由新聞社設立、西園寺公望が社長に就くが岩倉具視の妨害で辞任
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
自由党結成
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1881年
岩倉具視・伊藤博文が西園寺公望を参事院議官補として政府に復職させる
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1882年
伊藤博文が立憲制視察のため渡欧、岩倉具視の工作により西園寺公望も随員に加わる
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1883年
岩倉具視が死去(享年59)、日本初の国葬で送られ品川区の海晏寺に葬られる
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1884年
華族令公布、西園寺公望が侯爵受爵
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1884年
伊藤博文の計いで陸奥宗光がヨーロッパ遊学
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1885年
西園寺公望がオーストリア=ハンガリー駐在公使に補され赴任
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)
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1887年
西園寺公望がドイツ駐在公使に異動(ベルギー公使兼任)
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1890年
岩村通俊に代わって陸奥宗光が農商務大臣就任、陸奥は原敬を重用
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1891年
西園寺公望がドイツから帰国し中央政府の要職を歴任
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足、西園寺公望が文部大臣就任(後に外務大臣兼任)
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1896年
第二次松方正義内閣発足、西園寺公望が外務大臣兼文部大臣就任
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1897年
陸奥宗光死去
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1887年
鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
第三次伊藤博文内閣発足、西園寺公望が文部大臣就任
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1898年
第一次大隈重信内閣(隈板内閣)発足~初の政党内閣
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1898年
第二次山縣有朋内閣発足
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1900年
立憲政友会結成
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足、西園寺公望が枢密院議長就任・首相臨時代理を勤める
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1901年
井上馨に組閣大命が下るが渋沢栄一の入閣拒否で頓挫
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足~桂園時代始まる
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
西園寺公望が伊藤博文に代わって政友会総裁就任
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1904年
日露戦争開戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
日比谷焼打事件
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
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1906年
井上勝・桂太郎ら長州閥主導で鉄道国有法が成立し幹線鉄道国有化
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1906年
南満州に関東都督府設置
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
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1907年
第一次日露協約締結
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
二個師団増設問題、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に西園寺公望内閣を倒す
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足
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1914年
原敬が西園寺公望に代わって政友会総裁就任
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
井上馨死去
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
西園寺公望が公爵に昇叙
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足
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1924年
松方正義が死去(享年89)、西園寺公望が唯一の元老となる
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1924年
護憲三派による第二次護憲運動
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足
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1931年
永田鉄山軍事課長ら「五課長会」が「満蒙問題解決方策の大綱」を決定し関東軍へ「1年間の隠忍自重方針」を通達
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1931年
中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件、陸軍首脳が武力解決を決意
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
石原莞爾ら満州事変首謀者が「満蒙問題解決案」を策定
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1931年
十月事件
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932年
満州事変後の軍拡で重工業生産が急拡大し景気がV字回復
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
永田鉄山・統制派と小畑敏四郎・皇道派の対立が始まる
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足
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1934年
統制派が『陸軍パンフレット』刊行
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
天皇機関説問題、国体明徴運動
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1936年
二・二六事件
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1937年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
第二次国共合作成立
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1938年
日本軍が武漢三鎮を占領するが蒋介石の国民政府は重慶へ退避
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足
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1939年
ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案を受ける
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足
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1940年
日本が汪兆銘を擁立して南京に中華民国政府を樹立
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1940年
日本軍による重慶爆撃
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1940年
ナチス・ドイツ軍がパリを占領しフランス降伏
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
ドイツがバルト三国を併合、ベネルクス三国を占領
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1940年
アメリカが対日屑鉄輸出を全面禁止、ABCD包囲網による経済封鎖が本格化
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1940年
「バトル・オブ・ブリテン」でイギリスがナチス・ドイツの本土上陸作戦を阻止
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
紀元二千六百年記念式典
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1940年
海軍の出師準備発令
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1940年
最後の元老西園寺公望死去(享年90)
西園寺公望の交遊録
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岩倉具視
微妙な恩人
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三条実美
先輩
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大原重徳
小うるさい先輩
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仁和寺宮
先輩
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近衛文麿
最悪の後継者
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木戸孝允
長州藩のリーダー
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大村益次郎
長州藩の副リーダー
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山縣有朋
伊藤の政敵
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前原一誠
長州藩の戦友
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桂太郎
山縣の子分にして協力関係
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伊藤博文
ボス
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陸奥宗光
伊藤派の仲間
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金子堅太郎
伊藤派の仲間
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伊東巳代治
伊藤派の仲間
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原敬
政友会の後継総裁
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高橋是清
政友会の後継総裁
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犬養毅
政友会の後継総裁
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星亨
政友会の重鎮
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尾崎行雄
政友会の重鎮
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牧野伸顕
重臣グループの仲間
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木戸幸一
重臣グループの仲間
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鈴木貫太郎
重臣グループの仲間
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原田熊雄
住友から送られた手下
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山内容堂
親戚
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板垣退助
民権派の同志
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後藤象二郎
板垣のツレ
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中江兆民
フランス留学仲間
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松田正久
フランス留学仲間
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河野広中
民権派の同志
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中川小十郎
立命館の後継者
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松方正義
伊藤の手下
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大隈重信
伊藤の政敵
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加藤友三郎
首相に指名
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山本権兵衛
首相に指名
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清浦奎吾
首相に指名
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加藤高明
首相に指名
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若槻禮次郞
首相に指名
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田中義一
首相に指名
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濱口雄幸
首相に指名
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斎藤実
首相に指名
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岡田啓介
首相に指名
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広田弘毅
首相に指名
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アコラス
自由主義の専制
西園寺公望と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 70点
西園寺公望は伊藤博文の後継として政友会総裁となり、2度組閣した。伊藤の死後は山縣有朋専制下で逼塞するが、山縣の死によって復活、重臣会議のリーダーとして首相指名の大役を担い、軍部の暴走抑止に努めた。
減点 -20点
軍官民あげた軍国主義化の流れに抗し難い状況とはいえ、西園寺公望は統帥権を握る天皇側近のリーダーとして、また政党政治家の領袖としても、もう少し腰を据えて頑張るべきであった。特に張作霖爆殺事件では、西園寺公望は軍部の脅迫に腰砕けとなって断固たる処置を放棄し、後に続く満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争拡大を誘発する悪しき前例をつくってしまった。政党政治は政争に明け暮れ堕落する宿命だったとはいえ、政友会総裁は初代の伊藤博文・3代目の原敬・4代目の高橋是清・6代目の犬養毅と、西園寺公望および5代目で陸軍長州閥の田中義一を除いて皆暗殺されており、公家故に比較的安全な西園寺に命懸けで戦う覚悟があれば歴史を変えられたかも知れない。
減点 -10点
近衛文麿を公家政治家の後継に据えた西園寺公望の罪は重い。近衛文麿内閣の大暴走は西園寺公望の死後だが、軍部顔負けの強硬派で日本を亡国へ導き史上最悪の首相となった。西園寺公望に、岩倉具視から受継いだ公家政治家の縄張り意識があったとすれば更に罪深い。