岩倉具視の引きで公家政治家となり、伊藤博文の後継として軍部の暴走抑止に努めたが、最後はテロに屈した昭和のキングメーカー
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
西園寺 公望
1849年 〜 1940年
40点※
家系・子孫
- 西園寺家も生家の徳大寺家も左大臣まで出せる清華家(他に久我・三条など7家)で、摂関を出せる五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に次ぐ上流公家の家柄であった。西園寺師季に男児が無かったため、徳大寺家次男の公望が入嗣した。西園寺公望の実兄で生家を継いだ徳大寺実則は、謹厳実直な性格で、生涯のほとんどを明治天皇の侍従長として過ごした。実弟には学校法人立命館理事の末弘威麿、住友財閥を継いだ住友友純(隆麿)がいる。西園寺公望は花柳界で大いに蕩尽したが、終生妻帯しなかった。パリ講和会議で首席全権を務めた西園寺公望は内妻の奥村花子を帯同し話題となった。他にも何人かの芸者あがりを内妻とし数人の庶子をもうけている。西園寺公望に嗣子は無く、公爵毛利元徳(最後の長州藩主)の八男八郎を庶娘の新の婿養子に迎え公爵を継がせた。西園寺八郎の長男西園寺公一は「ゾルゲ事件」に連座し国家機密漏洩罪で懲役1年6ヶ月(執行猶予2年)の判決を受けたため廃嫡され、三男の西園寺不二男が家督を継ぐも公爵の襲爵手続きを放棄した。西園寺不二男は、日産コンツェルン創業者の鮎川義介の娘春子を妻に迎え、日産興業社長などの名誉職を与えられた。
- 関ヶ原完敗で茫然自失の毛利輝元は、井伊直政らの口車に乗せられて大阪城を明渡し120万余石から防長36万石へ大減封、西軍総大将ながら不戦のまま敗れたうえ大封を騙し取られるという戦国史最悪の大失態を演じた。以来、長州藩士の徳川家に対する怨念は骨がらみで、毎年の新年拝賀の儀では家老が「今年は倒幕の機はいかに」と伺いを立てると藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとか、長州藩士はみな江戸へ足を向けて寝たという伝説もある。一方、毛利輝元の大失策と統率力不足(小早川隆景と吉川広家の裏切り)で領地を削られ家臣団の大リストラを余儀無くされた毛利氏は藩士への引け目を代々受継いだとも考えられ、幕末に至っても毛利敬親は「そうせい候」にならざるを得ず或いは幕府への復讐心を秘めていたかも知れない。さて幕末の長州藩では、10代藩主毛利斉熙が隠居し従弟の毛利斉元が11代藩主を継いだが早世、毛利斉広(斉熙の庶子)が12代藩主に就くも翌年無嗣没し、斉元嫡子の毛利敬親が斉広娘の都美子に入婿する形で13代藩主を承継した。なお、毛利斉元は、8代藩主毛利重就の六男親著の一子で、毛利一門八家に列した家柄家老の福原氏(毛利元就の生母の実家)に入嗣したが、毛利宗家に呼戻され毛利斉熙の養嗣子となった。なお福原氏は明治維新後に1万石大名並みの男爵に叙されている。さて毛利敬親は、一男三女を生したが全員夭逝、支藩徳山藩主の毛利広鎮の十男定広を世子に据えた。毛利定広(元徳)は、幕末長州藩の旗頭として活躍し敬親の隠居に伴い家督を相続、華族令施行に伴い最高位の公爵に叙され、議定、参与、貴族院勅撰議員を歴任、「華族銀行」と呼ばれた第十五国立銀行の頭取も勤めた。公爵を継いだ嫡子の毛利元昭は、尾張藩主徳川慶勝の八女富姫と離婚した後、三条実美の三女美佐子を娶って二男二女を生し、嫡子の毛利元道は初代の毛利季光から数えて30代目の当主となった(毛利元就は12代目)。毛利定広の八男は西園寺公望の娘を娶り公爵を継いだ西園寺八郎で、長子の西園寺公一はゾルゲ事件に関与し廃嫡された。
- 鮎川家は中級以上の長州藩士だったが、明治維新後に没落し一家は困窮した。鮎川義介は、母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し出世コースに乗った。鮎川義介には3人の姉妹があり、妹のキヨは久原財閥創始者の久原房之助に、フジは「福岡の炭鉱王」貝島太市に嫁いだ。鮎川義介は、高島屋創業家の飯田二郎の長女美代を妻に迎え、二男一女をもうけた。長男の鮎川弥一は、第二次大戦後に鮎川義介が興した中小企業助成会を引継ぎ、テクノベンチャーに改組してベンチャーキャピタル事業を行ったが、日産・日立の事業には関与できず鮎川家は創業家の名を留めるのみとなった。テクノベンチャーを承継した子の鮎川純太は「日産創業家」の名声を支えに細々と世過ぎするが、日本振興銀行を経営破綻させ実刑を受けた木村剛など怪しい人脈と繋がり、また杉田かおるとの離婚騒動がマスコミを賑わせた。義介次男の鮎川金次郎は、雪村いづみとの婚約を一方的に宣言して話題を集め、史上最年少の30歳で参議院議員に当選するも選挙違反容疑で議員辞職に追込まれ、同じく参議院に議席を得ていた父の鮎川義介も引責辞任する羽目になった。義介娘の春子が嫁いだ西園寺不二男は西園寺公望の孫で、ゾルゲ事件で逮捕され廃嫡された兄の西園寺公一に代わり37代当主を継いだ人物である。長州閥政商の鮎川義介には著名人の縁戚が多く、大叔父井上馨の閨閥関係のほか、岸信介・佐藤栄作兄弟は縁戚で松岡洋右はその親戚、日本水産創業者の國司浩助は兄弟同然に育った幼馴染である。
西園寺公望と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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