国産初の動力織機など特許84件・実用新案35件を誇る「発明王」、繊維産業の没落で「紡績財閥」は壊滅したが長男の豊田喜一郎がトヨタ自動車を創業
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
豊田 佐吉
1867年 〜 1930年
70点※
豊田佐吉と関連人物のエピソード
- 愛知県湖西市の農業兼大工の家に生れた豊田佐吉は、大工仕事を手伝ううちに発明家を志すようになり、20歳前から度々出奔して東京など各地の工場を見学して回り、臥雲辰致の「臥雲式紡績機(ガラ紡)」を目当てに第3回内国興業博覧会へも赴いた。実地に見聞を広げた豊田佐吉は、変人扱いされながら納屋に篭って発明に没頭し「豊田式木製人力織機」を発明、さらに研究試作に打込み30歳前に国産初の動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を完成させた。人力織機の10~20倍の生産性を誇りつつ品質均一化を実現した画期的製品であった。1897年豊田佐吉は愛知県知多郡の庄屋で綿織物商も手掛ける7代目石川藤八の資金援助を受け「乙川綿布合資会社」を設立、自作の動力織機を数十台設置し綿布製造に乗出すと、三井物産東京本社の検査係から品質の優秀さを認められ業務提携、三井物産は綿布より動力織機の販売に注力した。輸入品と比べ格安で品質も劣らない豊田式木鉄混製力織機は忽ち市場を席巻、家内制手工業が中心だった綿織物業では安価な動力織機の普及により大規模工場での大量生産が可能となり、綿織物が生糸・綿糸と並ぶ主要輸出産業へ発展する画期となった。なお、当時は既に高橋是清専売特許所長のもと特許法制が整備されており、特許法の恩恵を享受した豊田佐吉は私財を蓄えつつ更なる発明への意欲を高めた。1906年乙川綿布は三井物産の出資により「豊田式織機株式会社」へ拡大発展(現豊和工業)、豊田佐吉は常務取締役兼技師長に就任し自動杼換装置の発明で動力織機に進化を加えた。が、日本の製糸業輸出が世界一となった翌1910年、日露戦争後の反動不況で豊田式織機は業績不振に陥り、豊田佐吉は経営陣に責任を押付けられ辞任に追込まれた。
- 日露戦争後の反動不況で三井物産が牛耳る「豊田式織機」から締出された豊田佐吉は、初代大番頭の西川秋次を伴い新天地を求め渡米したが、紡績業視察で自分の技術が上と確信し日本での再起を決意、ついでにヨーロッパを巡って帰国し1912年名古屋市に「豊田自働織布工場」を開設した。豊田佐吉の異能を知る三井物産の藤野亀之助大阪支店長と児玉一造名古屋支店長(後の東洋綿花初代社長で豊田利三郎の実兄)が開業資金集めに協力した。今度の経済環境は豊田佐吉に幸いし、第一次大戦に伴う物資不足で世界各国から綿布注文が殺到、業容拡大により「豊田紡織株式会社」へ改組し、最大輸出先の中国が関税を引上げると(大英帝国の特恵関税・保護貿易化)三井物産の支援を得て上海に輸出代替工場を開設した(豊田紡織廠)。豊田紡織廠へはNo2の西川秋次が乗込み「在華紡」の一角へ成長させた。念願の海外進出を果した豊田佐吉は、経営が安定した本丸の豊田紡織を娘婿の豊田利三郎に任せ、自身は愛知県刈谷町に「豊田自動織機試験工場」を開き長男の豊田喜一郎と共に再び織機開発に没入、1925年動力織機の完全版「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」を完成させ、「株式会社豊田自動織機製作所」を設立し織機事業への再進出を果した。初代社長は家長の豊田利三郎が兼任したが経営の実質は常務の豊田喜一郎が担った。「発明王」豊田佐吉は愛知県随一の企業家へ躍進し「紡績財閥」「豊田財閥」「地方財閥」などと称されるも死の前年に世界恐慌が始まり繊維不況が襲来、第二次大戦勃発で輸出が断絶し紡績事業は壊滅したが、代わりに長男の豊田喜一郎が興した「トヨタ自動車工業」が軍需を掴んで急成長を遂げ、佐吉の紡績事業は喜一郎の自動車事業へ吸収再編された。1943年トヨタ自動車工業に吸収された豊田紡織は大戦後に分離独立し「トヨタ紡織」となった。トヨタ車の組立とフォークリフト・コンプレッサー製造を担うトヨタ紡織、自動車内装品・フィルター製造を担う豊田自動織機、豊田佐吉の創業事業はトヨタ自動車の一翼を担う有力企業として繁栄を続けている。
- 生糸・綿糸・綿織物・絹織物などの繊維産業は、明治維新から第二次世界大戦に至るまで輸出総額の過半を占め、獲得した外貨は軍艦などの兵器や産業機械の輸入を促し殖産興業を牽引した。初期の繊維産業は家内制手工業が中心だったが、産業資本の成長(財閥形成)と電力会社の勃興により日露戦争を境に大規模工場への集約化が進み大量生産へシフト、豊田佐吉の自動織機など安価な国産機械の普及も後押しとなり、日本の繊維産業は品質価格両面で高い国際競争力を獲得、1909年には製糸輸出が中国(イギリス資本)を抜いて世界一となった。日露戦争後の反動不況はあったが、第一次世界大戦で実害を受けず繊維産業などで特需を満喫した日本は1919年に初めて債権国となり、戦前11億円の債務超過から1920年には約27億円の大幅な債権超過となった。その後、1929年に始まった「世界恐慌」で繊維産業は世界的不況に陥ったが、日本は満州事変後の軍需バブルで逸早く不況を脱し、紡績業輸出は1932年に「世界の工場」イギリスに肉薄し1936年には完全に凌駕、内需振興の軍拡政策で重化学工業も興隆した。が、中国市場を奪われた大英帝国は特恵関税による保護主義政策で(ブロック経済)日本を中国侵出へ奔らせ、第二次大戦勃発に伴い連合国は対日輸出入を完全封鎖、戦局悪化で中国への輸送路も絶たれ、日本の繊維産業は壊滅状態となった。なお、ほとんどの繊維関連企業が破滅するなか、豊田佐吉の長男豊田喜一郎は鮮やかに事業転換を成遂げトヨタ自動車の礎を築いている。
- 1882年に渋沢栄一の呼掛けで発足した大阪紡績(現東洋紡)は、株式発行によって膨大な資金を集め、最新・最大級の紡績機を導入した大規模工場を建設、また実用化間もない電力を大々的に導入し、24時間操業も行った。大阪紡績は大成功を収め、それに倣って次々と紡績会社が設立され、紡績業は主要な輸出産業へと発展した。世界の紡績業は産業革命発祥のイギリスがリードしてきたが、日本は100年遅れで産業革命に乗出したためリング紡績機など最新技術をそのまま導入することとなり、旧来型のミュール紡績機からの転換が進まず設備の老朽化が著しいイギリスより有利な状況で紡績業に参入することができた。また、中小事業者が乱立するイギリスに比べ、日本では渋沢栄一をはじめとする財界人が協力して大規模工場の建設を進め、三井物産を筆頭に商社による綿花の大量仕入れも奏功、人件費の安さも手伝って、日本の紡績業は国際市場で比較優位を確立するに至り、主要市場である中国からイギリス製品を駆逐していった。日本の綿製品の輸出量は、1928年にはイギリス製品の37%に達し、1932年には92%と肉薄、1936年には141%と完全に抜き去った。だが、日本の繊維産業の躍進は深刻な経済摩擦を生み、1929年の世界恐慌以降、イギリスは露骨なブロック経済化によって日本製品の排除を進め、インド市場から締出された日本はそのはけ口を満州に求め、日英対立は戦争レベルまでエスカレートすることとなった。そして、遂に第二次世界大戦が勃発すると、インドなど欧米列強植民地への輸出が完全に封鎖され、さらに戦局悪化により輸送路が途絶えたために中国大陸への輸出も激減、隆盛を誇った日本の繊維産業は壊滅的打撃を蒙った。
- 物理学者で「日本のエジソン」と称された藤岡市助のアイデアに賛同した大倉喜八郎・三野村利助ら財界人が発起人となって出資を募り1886年「東京電燈」が設立された(東京電力の前身)。米国トーマス・エジソンの電気事業開始から遅れること僅か6年の快挙であった。翌年早くも電力供給に成功した藤岡市助の東京電燈は、東京の5ヶ所に火力発電所の設置を進め200kWの大出力を誇る浅草発電所の建設にも着手、1891年には契約件数が1万4千を突破し「浅草凌雲閣」には電力駆動のエレベーターが登場した。東京電燈に続き大阪・神戸・京都・名古屋・九州と日本各地に相次いで電力会社が設立され、渋沢栄一の「大阪紡績」など大規模工場から本格的な電力導入が進み製造業発展の牽引役となった。戦前を通じて発電方法の主力は石炭火力だが、1892年開業の琵琶湖水力発電所を皮切りに発電コストの低い水力発電所が全国各地に建設され、電気料金の低下が電力普及に拍車を掛けた。電力は一般家庭へも広がり1916年の普及率は東京・大阪で80%、全国でも40%に達した。電機コンロ・アイロン・扇風機などの家庭用電化製品も発売され、芝浦製作所(東芝)など国産メーカーも存在感を示したが、非常に高価なため一般家庭への普及は進まず、戦前の庶民にとって電気といえば電灯(定額灯)だった。満州事変勃発後の電気産業は軍需一色となり、家電の普及と国産品製造の本格化は第二次大戦後の松下電器・東芝・シャープ・ソニーらの勃興まで待たなければならなかった。
- 大久保利通政府の急速な殖産興業政策に西南戦争の膨大な戦費負担が拍車を掛け政府財政は逼迫、松方正義外務卿の単純な引締め政策が深刻な悪循環を招いたが、1880年代後半に日本経済は「松方デフレ」から脱却し、政策で優遇された鉄道と紡績業を中心に株式会社設立ブームが起り「企業勃興」期に入った。日清・日露戦争による軍需景気を背景に企業勃興は勢いを増し、渋沢栄一ら財界人主導で間接金融システムや証券取引所の整備が進み株式売買高も順調に膨らんだ。今日の大企業にはこの企業勃興期に創業した会社が多く、銀行・鉄道・紡績の各社から資生堂(1872年)・王子製紙(1873年)・東芝(1875年)・セイコーホールディングス(1881年)・東京ガス(1885年)・博報堂(1895年)・サントリー(1899年)・NEC(1899年)・森永製菓(1899年)・松竹(1902年)・第一生命(1902年)・豊田自動織機(1906年)・味の素(1907年)・日立製作所(1908年)・スズキ(1909年)・味の素(1909年)・出光興産(1911年)等々、枚挙に暇がない。世襲財閥による開発独裁を嫌い資本の分散(株式会社)を奨励した渋沢栄一は、自らも500社以上の設立に関与し「日本資本主義の父」と称された。
- 1905年呉服店最大手の「越後屋」が「三越」(三井+越後屋)へ改称し主要新聞の広告で「デパートメントストア」を宣言、1914年には日本初エレベーター装備の地上5階地下1階建の三越日本橋本店が開業し、日本独自の百貨店業態の興隆が始まった。なお越後屋は、伊勢松坂出身の初代三井高利が「現金掛値無し」(定価販売)を掲げ1673年に創業した「三井財閥のルーツ」である。これ以前の小売店は特定品種を扱う専門店ばかりで、商品の店頭陳列も値付もせず客をみて値段を決める商慣行が横行していたが、デパートの登場で小売業界は一変、顧客は店頭に陳列された多種多様な商品を目で見て手に取り値札で比較購買できるようになった。三越が始めた百貨店業態は瞬く間に日本中へ広がり、1931年には人口10万人以上の30都市のうち24都市で営業面積500坪以上のデパートが営業するに至った。三越・松阪屋・白木屋・松屋・阪急などは斬新な呼物の開発に凌ぎを削り、定番のレストラン・屋上庭園に続き動物園やスポーツランドも登場、家族連れで終日楽しめる総合娯楽施設として日本独自の発展を遂げた。なかでも阪急百貨店を創始した小林一三は、呼物の枠を超え「宝塚歌劇団」「東宝映画」を一大事業へ発展させた。三越「少年音楽隊」の人気に着目した小林一三は1913年「宝塚新温泉」の室内プール「パラダイス」の閉鎖跡地にステージを設け「宝塚唱歌隊」の営業を開始、忽ち大人気を博した温泉座興は本格演劇「宝塚歌劇団」(←宝塚少女歌劇団)へ発展し、1918年帝国劇場公演で東京進出を果し機関誌『歌劇』も創刊した。芸術家肌の小林一三は趣味で始めた演芸に巨費を投入、芸人養成の宝塚音楽歌劇学校を創立し、宝塚大劇場・東京宝塚劇場を建設した。有楽座・日本劇場・帝国劇場も買収し日比谷一帯を傘下に収めた「東宝」は、浅草の松竹と東京興行界を二分する大勢力となり、大同を期す小林一三は松竹の社外取締役にも就いた。第二次大戦中に東京宝塚劇場と東宝映画が合併し「東宝株式会社」が発足、東宝は小林一三の次男松岡辰郎の子孫へ受継がれ今日も「阪急東宝グループ」の一翼を担う。
- 豊田喜一郎は日本最強トヨタグループの創業者である。国産初の動力織機を発明し一代で「紡績財閥」を築いた豊田佐吉の長男であり、自らも織機開発の第一人者であったが、繊維産業の衰退を予見し自動車事業への大転換を図った先見の明が光る。東大工学部機械工学科を卒業し「豊田紡織」に入った豊田喜一郎は、経営者より技術者を志向し「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の開発を陣頭指揮、「豊田自動織機製作所」で織機事業に参入し本場イギリスへも進出した。が、世界恐慌が繊維産業を直撃すると、豊田喜一郎は愛知県で勃興する自動車産業への参入を決意、妹婿で家長の豊田利三郎の猛反対を抑え1933年豊田自動織機製作所内に自動車部を創業した。豊田喜一郎は、大番頭の西川秋次や従弟の豊田英二の支援で膨大な開発資金を捻出し、「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作成功で日産自動車と共に自動車製造事業法の助成認可を獲得、1937年「トヨタ自動車工業」を設立し量産を開始した。日中戦争の激化でトヨタ自動車工業には軍用トラックの注文が舞込み、国策に乗った豊田喜一郎は挙母(→豊田市)に巨大工場を立上げ部品製造子会社の継足しで急速に業容を拡大(愛知製鋼・アイシン精機・トヨタ車体・デンソー・豊田通商などへ発展)、業績不振の豊田紡織を吸収し第二次大戦の輸出封鎖で壊滅した紡績関連事業を自動車事業に取込んだ。第二次大戦後、トヨタ自動車工業は財閥解体の対象とされるも分社化戦略が幸いし実害を免れたが、1950年ドッジ・ライン恐慌で経営危機に陥り大規模労働争議も発生、東海銀行・三井銀行などの協調融資で倒産は免れたが、「工販分離」を強制され豊田喜一郎社長ら首脳陣は引責辞任へ追込まれた。が、皮肉にも直後に朝鮮戦争が始まり軍用トラックの特需で業績はV字回復、権威回復した豊田喜一郎は石田退三ら後継体制から社長復帰を要請されたが1952年57歳で急逝した。1955年クラウン発売で自家用車へ転換したトヨタは高度経済成長に乗り「工販合併」も果し世界一へ躍進、社長は豊田喜一郎直系の豊田英二・豊田章一郎・豊田章男へ受継がれ同族支配が続いている。
- 東大工学部機械工学科を卒業した豊田喜一郎はエンジニアを志したが、発明の難しさを知悉する父の豊田佐吉は経営に専念するよう指示した。が、翌1921年「豊田紡織」に入社した豊田喜一郎は自ら工場現場へ出て技術習得に努め、豊田利三郎・愛子の妹夫婦に従い欧米視察へ出ると最先端の機械繊維メーカー英国プラット・ブラザーズ社で工場実習に励み、帰国後は豊田佐吉の指示どおり紡績事業経営に注力しつつも、父と異なる方式で自動織機の開発に没頭した。「発明王」豊田佐吉の当時の課題は自動杼換装置の量産化で11年前の「豊田式織機」追放の原因でもあったが、豊田喜一郎は独自のアイデアで難題を克服し1925年「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の完成に漕ぎ着けた。豊田佐吉は翌年「豊田自動織機製作所」を設立し動力織機事業を再開、常務取締役・開発責任者に補された豊田喜一郎は「織機でならまず右に出る者がいない」と自認するほど日本屈指の織機技術者となっていた。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の発明で「紡績財閥」の事業基盤は磐石となり、開発者の豊田喜一郎は欧米に乗込み本家本元の英国プラット社への売込に成功した。しかし世界恐慌は生産力過剰の繊維産業を直撃し、プラット社さえ苦境に喘ぎ企業城下町オールダムに失業者が溢れる凋落ぶり、愕然とした豊田喜一郎は事業転換を決意し帰国後直ちに有望とみた自動車産業への参入に着手した。当時小型車の需要は急増中で製造拠点の名古屋地域は「中京デトロイト計画」を打上げ、豊田佐吉を追出した三井物産の「豊田式織機」も名乗りを上げていた。豊田佐吉が急逝し豊田紡織社長の豊田利三郎らは自動車参入に猛反対したが、1933年最有力の鮎川義介が日産自動車を設立しダットサン製造を開始するに及び、豊田喜一郎は妹の愛子(利三郎の妻)と従弟の豊田英二の支持で反対を押切り「豊田自動織機製作所」内に自動車製作部門を創設した。高度な自動車エンジンの開発は困難を極めたが、豊田喜一郎は大番頭の西川秋次や豊田英二の応援で開発資金を捻出し、「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作成功で日産自動車と共に自動車製造事業法の許可を獲得、1937年「トヨタ自動車工業」を設立し量産に乗出した。軍用トラックの増産要請を受けた豊田喜一郎は挙母(→豊田市)に巨大工場を開設し、豊田製鋼(愛知製鋼)・豊田工機・東海飛行機(アイシン精機)・トヨタ車体工業(トヨタ車体)・日本電装(デンソー)など部品製造子会社を継足して業容を拡大、死に体の豊田紡織を吸収合併し第二次大戦の輸出封鎖で壊滅した紡績関連事業を自動車事業に組入れた。第二次大戦後、豊田産業(豊田通商)が持株会社と見做され財閥解体の対象にされたが、分社化戦略が幸いし実害を蒙らなかった。が、物資不足とドッジ・ライン恐慌でトヨタ自動車工業は経営危機に陥り大規模労働争議も発生、銀行団の協調融資で倒産を免れたが豊田喜一郎は引責辞任に追込まれた。直後に朝鮮戦争が起りトラック特需でV字回復を遂げたが、豊田喜一郎は社長復帰を目前に57歳で急逝、3年後にトヨタはクラウンで大衆車に参入し高度経済成長の波に乗った。
- 日本最強のトヨタグループは、動力織機を発明し「紡績財閥」を築いた豊田佐吉と先見の明で自動車事業への転換を断行した豊田喜一郎の父子を祖と仰ぎ今日も同族経営が続くが、創業者の遺志を継ぎ大躍進へ導いたのは優秀な幹部たちであった。初代大番頭の西川秋次は創業時から豊田佐吉を支え、上海の豊田紡織廠の経営を差配し、豊田喜一郎の自動車事業を支援した。石田退三は、豊田利三郎の実家児玉家の親戚で、豊田紡織取締役・豊田自動織機社長を経て、豊田喜一郎の辞任に伴いトヨタ自動車工業3代目社長に就任、愚直にモノ創りに徹し財界活動を嫌ったため「トヨタ・モンロー主義」と揶揄されたが、自家用車路線の大成功で「トヨタ中興の祖」と称された。石田退三は元三井銀行神戸支店長の中川不器男に社長を譲ったが、中川が急死すると豊田喜一郎腹心の豊田英二を社長に迎えた。三井物産出身の神谷正太郎は、自動車部の創業期から豊田喜一郎に仕え販売部門を担当、第二次大戦後「工販分離」で発足したトヨタ自動車販売の社長に就任した。神谷正太郎は「地元の資本とヒトで車を売る」べく全国各地の有力者を口説いて販売店網を構築、また「一升マスには一升しか入らない」と一車種一販売店構想を掲げトヨペット・カローラなどの複数販売チャネルを敷いた。一橋大学から新卒でトヨタ自動車販売に入社した奥田碩は、経理部員時代に上司と衝突しマニラへ左遷されたが、同地に住んでいた豊田章一郎(豊田喜一郎の長男)の娘夫婦と懇意となり運を掴んだ。豊田章一郎がトヨタ自動車社長(6代目)となり、腹心の奥田碩は出世街道を驀進、高血圧症で退任した章一郎弟の豊田達郎に代わり8代目社長に上り詰めた。バブル崩壊後の難局を託された奥田碩は、「国内シェア40%奪回」の公約を達成し「トヨタ一人勝ち」を現出、日野自動車工業・ダイハツ工業の子会社化などグループの再編強化も推進し、名経営者と称され日経連会長も務めた。奥田碩が社長を託した張富士夫・渡辺捷昭は販売台数世界一を達成したが、2009年の世界同時不況で拡大戦略が裏目に出て71年ぶりの営業赤字に転落、人心統一を図るべく章一郎長男の豊田章夫が社長に担がれた。
- トヨタといえば自家用車だが、豊田喜一郎が豊田自動車工業を興した1937年から日中戦争・第二次大戦・朝鮮戦争に至るまで軍用トラックで業容を拡大したものであり、「クラウン」発売で民需へ転換したのは創業者の死から3年目の1955年であった。このため今日のトヨタ自動車と豊田喜一郎の直接的な関係を否定する向きもあるが、大きなリスクが伴う自動車産業参入を断行した企業家精神と技術開発力が全ての発端であった。さらに結果論ではあるが、ライバルの日産やマツダが外資の軍門に降るなか、トヨタがホンダと共に日本企業であり続ける意義は大きく、今も豊田喜一郎の直系子孫による同族経営が保たれており、優れた創業理念と技術者魂の賜物といえよう。「自動車立国」の旗艦であると同時に膨大な外貨と税収をもたらすトヨタグループと創業者の豊田喜一郎に対し、日本国民は深く感謝すべきであり、間違っても国外退避を促す愚を犯してはならない。
豊田佐吉と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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