豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田喜一郎と関連人物のエピソード
- 東大工学部機械工学科を卒業した豊田喜一郎はエンジニアを志したが、発明の難しさを知悉する父の豊田佐吉は経営に専念するよう指示した。が、翌1921年「豊田紡織」に入社した豊田喜一郎は自ら工場現場へ出て技術習得に努め、豊田利三郎・愛子の妹夫婦に従い欧米視察へ出ると最先端の機械繊維メーカー英国プラット・ブラザーズ社で工場実習に励み、帰国後は豊田佐吉の指示どおり紡績事業経営に注力しつつも、父と異なる方式で自動織機の開発に没頭した。「発明王」豊田佐吉の当時の課題は自動杼換装置の量産化で11年前の「豊田式織機」追放の原因でもあったが、豊田喜一郎は独自のアイデアで難題を克服し1925年「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の完成に漕ぎ着けた。豊田佐吉は翌年「豊田自動織機製作所」を設立し動力織機事業を再開、常務取締役・開発責任者に補された豊田喜一郎は「織機でならまず右に出る者がいない」と自認するほど日本屈指の織機技術者となっていた。
- 豊田佐吉は、国産初の動力織機など特許84件・実用新案35件を誇る「発明王」、繊維産業の衰退で「紡績財閥」は壊滅したが長男豊田喜一郎のトヨタ自動車の礎となった。愛知県湖西市で家業の大工を手伝ううち発明家を志した豊田佐吉は、出奔して東京の工場を徘徊し臥雲辰致の「ガラ紡」に感銘、変人扱いされながら納屋で研究に没頭し国産初の動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を完成、人力織機の10~20倍の生産性と品質均一化を実現した。豊田佐吉は綿布製造に乗出したが販社の三井物産は織機に注目、格安な豊田式木鉄混製力織機は忽ち輸入織機に取って代り、家内制手工業の綿織物業が大規模工場・大量生産へシフトする起爆剤となった。1906年三井物産の出資で「豊田式織機株式会社」が発足し(現豊和工業)、常務取締役兼技師長の豊田佐吉は製品改良に励んだが、日露戦争後の反動不況で業績が急落し責任を押付けられ追放された。新天地を求める豊田佐吉は右腕の西川秋次を伴い欧米を巡察したが自分の技術が最高と確信し帰国、1912年名古屋市で「豊田自働織布工場」を開業すると、第一次大戦に伴う物資不足で綿布注文が殺到し急成長を遂げ「豊田紡織株式会社」(現トヨタ紡織)へ改組した。海外進出を念願する豊田佐吉は、最大輸出先の中国の関税引上げ(大英帝国の特恵関税・保護貿易化)に対処すべく三井物産の支援を得て上海に輸出代替工場を開設(豊田紡織廠)、西川秋次を送込み「在華紡」の一角へ成長させた。十余年で「豊田財閥」を築いた豊田佐吉は、本丸の紡績事業を婿養子の豊田利三郎に任せ、東大工学部を出た豊田喜一郎と共に「豊田自動織機試験工場」で再び織機開発に没入、1925年動力織機の完全版「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」を完成させ翌年「株式会社豊田自動織機製作所」を設立した。1929年世界恐慌で繊維不況が始まり、豊田佐吉は翌年63歳で病没したが、豊田喜一郎はトヨタ自動車創業へ動き始めた。その後、第二次大戦による輸出断絶で豊田佐吉が築いた紡績事業は壊滅したが、トヨタ紡織・豊田自動織機は自動車事業の一翼を担い今も創業者の名を伝えている。
- 愛知県湖西市の農業兼大工の家に生れた豊田佐吉は、大工仕事を手伝ううちに発明家を志すようになり、20歳前から度々出奔して東京など各地の工場を見学して回り、臥雲辰致の「臥雲式紡績機(ガラ紡)」を目当てに第3回内国興業博覧会へも赴いた。実地に見聞を広げた豊田佐吉は、変人扱いされながら納屋に篭って発明に没頭し「豊田式木製人力織機」を発明、さらに研究試作に打込み30歳前に国産初の動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を完成させた。人力織機の10~20倍の生産性を誇りつつ品質均一化を実現した画期的製品であった。1897年豊田佐吉は愛知県知多郡の庄屋で綿織物商も手掛ける7代目石川藤八の資金援助を受け「乙川綿布合資会社」を設立、自作の動力織機を数十台設置し綿布製造に乗出すと、三井物産東京本社の検査係から品質の優秀さを認められ業務提携、三井物産は綿布より動力織機の販売に注力した。輸入品と比べ格安で品質も劣らない豊田式木鉄混製力織機は忽ち市場を席巻、家内制手工業が中心だった綿織物業では安価な動力織機の普及により大規模工場での大量生産が可能となり、綿織物が生糸・綿糸と並ぶ主要輸出産業へ発展する画期となった。なお、当時は既に高橋是清専売特許所長のもと特許法制が整備されており、特許法の恩恵を享受した豊田佐吉は私財を蓄えつつ更なる発明への意欲を高めた。1906年乙川綿布は三井物産の出資により「豊田式織機株式会社」へ拡大発展(現豊和工業)、豊田佐吉は常務取締役兼技師長に就任し自動杼換装置の発明で動力織機に進化を加えた。が、日本の製糸業輸出が世界一となった翌1910年、日露戦争後の反動不況で豊田式織機は業績不振に陥り、豊田佐吉は経営陣に責任を押付けられ辞任に追込まれた。
- 日露戦争後の反動不況で三井物産が牛耳る「豊田式織機」から締出された豊田佐吉は、初代大番頭の西川秋次を伴い新天地を求め渡米したが、紡績業視察で自分の技術が上と確信し日本での再起を決意、ついでにヨーロッパを巡って帰国し1912年名古屋市に「豊田自働織布工場」を開設した。豊田佐吉の異能を知る三井物産の藤野亀之助大阪支店長と児玉一造名古屋支店長(後の東洋綿花初代社長で豊田利三郎の実兄)が開業資金集めに協力した。今度の経済環境は豊田佐吉に幸いし、第一次大戦に伴う物資不足で世界各国から綿布注文が殺到、業容拡大により「豊田紡織株式会社」へ改組し、最大輸出先の中国が関税を引上げると(大英帝国の特恵関税・保護貿易化)三井物産の支援を得て上海に輸出代替工場を開設した(豊田紡織廠)。豊田紡織廠へはNo2の西川秋次が乗込み「在華紡」の一角へ成長させた。念願の海外進出を果した豊田佐吉は、経営が安定した本丸の豊田紡織を娘婿の豊田利三郎に任せ、自身は愛知県刈谷町に「豊田自動織機試験工場」を開き長男の豊田喜一郎と共に再び織機開発に没入、1925年動力織機の完全版「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」を完成させ、「株式会社豊田自動織機製作所」を設立し織機事業への再進出を果した。初代社長は家長の豊田利三郎が兼任したが経営の実質は常務の豊田喜一郎が担った。「発明王」豊田佐吉は愛知県随一の企業家へ躍進し「紡績財閥」「豊田財閥」「地方財閥」などと称されるも死の前年に世界恐慌が始まり繊維不況が襲来、第二次大戦勃発で輸出が断絶し紡績事業は壊滅したが、代わりに長男の豊田喜一郎が興した「トヨタ自動車工業」が軍需を掴んで急成長を遂げ、佐吉の紡績事業は喜一郎の自動車事業へ吸収再編された。1943年トヨタ自動車工業に吸収された豊田紡織は大戦後に分離独立し「トヨタ紡織」となった。トヨタ車の組立とフォークリフト・コンプレッサー製造を担うトヨタ紡織、自動車内装品・フィルター製造を担う豊田自動織機、豊田佐吉の創業事業はトヨタ自動車の一翼を担う有力企業として繁栄を続けている。
- 生糸・綿糸・綿織物・絹織物などの繊維産業は、明治維新から第二次世界大戦に至るまで輸出総額の過半を占め、獲得した外貨は軍艦などの兵器や産業機械の輸入を促し殖産興業を牽引した。初期の繊維産業は家内制手工業が中心だったが、産業資本の成長(財閥形成)と電力会社の勃興により日露戦争を境に大規模工場への集約化が進み大量生産へシフト、豊田佐吉の自動織機など安価な国産機械の普及も後押しとなり、日本の繊維産業は品質価格両面で高い国際競争力を獲得、1909年には製糸輸出が中国(イギリス資本)を抜いて世界一となった。日露戦争後の反動不況はあったが、第一次世界大戦で実害を受けず繊維産業などで特需を満喫した日本は1919年に初めて債権国となり、戦前11億円の債務超過から1920年には約27億円の大幅な債権超過となった。その後、1929年に始まった「世界恐慌」で繊維産業は世界的不況に陥ったが、日本は満州事変後の軍需バブルで逸早く不況を脱し、紡績業輸出は1932年に「世界の工場」イギリスに肉薄し1936年には完全に凌駕、内需振興の軍拡政策で重化学工業も興隆した。が、中国市場を奪われた大英帝国は特恵関税による保護主義政策で(ブロック経済)日本を中国侵出へ奔らせ、第二次大戦勃発に伴い連合国は対日輸出入を完全封鎖、戦局悪化で中国への輸送路も絶たれ、日本の繊維産業は壊滅状態となった。なお、ほとんどの繊維関連企業が破滅するなか、豊田佐吉の長男豊田喜一郎は鮮やかに事業転換を成遂げトヨタ自動車の礎を築いている。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の発明で「紡績財閥」の事業基盤は磐石となり、開発者の豊田喜一郎は欧米に乗込み本家本元の英国プラット社への売込に成功した。しかし世界恐慌は生産力過剰の繊維産業を直撃し、プラット社さえ苦境に喘ぎ企業城下町オールダムに失業者が溢れる凋落ぶり、愕然とした豊田喜一郎は事業転換を決意し帰国後直ちに有望とみた自動車産業への参入に着手した。当時小型車の需要は急増中で製造拠点の名古屋地域は「中京デトロイト計画」を打上げ、豊田佐吉を追出した三井物産の「豊田式織機」も名乗りを上げていた。豊田佐吉が急逝し豊田紡織社長の豊田利三郎らは自動車参入に猛反対したが、1933年最有力の鮎川義介が日産自動車を設立しダットサン製造を開始するに及び、豊田喜一郎は妹の愛子(利三郎の妻)と従弟の豊田英二の支持で反対を押切り「豊田自動織機製作所」内に自動車製作部門を創設した。高度な自動車エンジンの開発は困難を極めたが、豊田喜一郎は大番頭の西川秋次や豊田英二の応援で開発資金を捻出し、「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作成功で日産自動車と共に自動車製造事業法の許可を獲得、1937年「トヨタ自動車工業」を設立し量産に乗出した。軍用トラックの増産要請を受けた豊田喜一郎は挙母(→豊田市)に巨大工場を開設し、豊田製鋼(愛知製鋼)・豊田工機・東海飛行機(アイシン精機)・トヨタ車体工業(トヨタ車体)・日本電装(デンソー)など部品製造子会社を継足して業容を拡大、死に体の豊田紡織を吸収合併し第二次大戦の輸出封鎖で壊滅した紡績関連事業を自動車事業に組入れた。第二次大戦後、豊田産業(豊田通商)が持株会社と見做され財閥解体の対象にされたが、分社化戦略が幸いし実害を蒙らなかった。が、物資不足とドッジ・ライン恐慌でトヨタ自動車工業は経営危機に陥り大規模労働争議も発生、銀行団の協調融資で倒産を免れたが豊田喜一郎は引責辞任に追込まれた。直後に朝鮮戦争が起りトラック特需でV字回復を遂げたが、豊田喜一郎は社長復帰を目前に57歳で急逝、3年後にトヨタはクラウンで大衆車に参入し高度経済成長の波に乗った。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 満州事変勃発後に戦地で目覚しい活躍を示したトラックの増産を図るため、岡田啓介内閣は石原莞爾ら陸軍の要請に応え1936年国内自動車産業の育成を目的に指定事業者を助成する「自動車製造事業法」を閣議決定した。一連の統制経済立法の一つで、軍用として重要な自動車の国産化推進のため、外国資本を排除することが主たる狙いだった。豊田喜一郎の豊田自動織機自動車部(トヨタ自動車工業)は、「A1型乗用車」と「G1型トラック」の初号機完成を何とか間に合わせて実績をアピールし、先行する鮎川義介の日産自動車と共に許可会社の指定を受けることに成功した。後に東京自動車工業(いすゞ自動車)が加えられ許可会社は3社となった。自動車製造事業法施行後、日中戦争勃発による円為替相場下落もあって、1939年にフォード・GM・クライスラーの3社は日本から撤退することになったが、国産車の信頼性向上や大量生産化は容易には達成されず、ヘンリー・フォードは「自動車産業の育成は甘いものではなく、フォード工場を受入れた方が多数の熟練工が得られて戦時の日本にもプラスになるはずだった」との書簡を残している。国産技術が未熟な当時においては国内でも評判の悪い法律であったが、今振り返れば、我が国自動車産業の萌芽期を支えた有意義な国内産業保護政策であったといえよう。
- 1937年、自動車製造事業法の許可会社指定を獲得し国策に乗った豊田喜一郎は、「豊田自動織機製作所」の自動車部を分離し「トヨタ自動車工業株式会社」を設立した。初代社長は自動車事業参入に猛反対した家長(妹婿)の豊田利三郎に譲ったが、副社長の豊田喜一郎が経営の実質を担い、事業成功により1941年2代目社長に就任した。なお豊田喜一郎の読みは「トヨダ」だが、乗用車のマークを考案したデザイナーが「濁点がない方がスマート」と主張し「トヨタ」になったという。
- 現在のトヨタ自動車の創立記念日は、豊田喜一郎がトヨタ自動車工業株式会社を設立した日ではなく、翌1938年の挙母工場竣工日とされている。今も本社工場のある愛知県豊田市は旧地名を挙母といったが、1959年「トヨタ自動車」に因み地名変更された。日立製作所の「日立市」は地名の方が先で、豊田市は企業名が地名になった唯一の事例であり、同市では地方自治体も商業者も全てトヨタの支配下に置かれている。
- 1937年の機械系輸出品目で自転車が初めて首位に立ち、次いで船舶・鉄道車両・自動車・自動車部品の順となり、玩具や製鉄も輸出産業へ台頭した。なお1937年は日中戦争開戦の年であり、豊田喜一郎が軍用トラック製造のためトヨタ自動車工業を設立し、日産自動車の鮎川義介は満州重工業開発を設立し日産コンツェルンの満州移転を開始している。自転車の輸出先は中国32%を筆頭にインドネシア・インド・満州など。江戸時代初頭より各藩にはお抱えの鉄砲鍛冶が存在したが、幕末に洋式銃砲に切替わったことで多くが職を失った。失業した鉄砲鍛冶たちは文明開化で普及が始まった自転車に着目し、修理業から始め自転車製造の担い手へ成長した。宮田自転車を創業しトップメーカーに育てた宮田栄助も、常陸笠間藩のお抱え鉄砲鍛冶の出身である。優秀で低コストな職人の活躍で、日本の自転車生産台数は1923年の7万台から1928年12万台・1933年66万台と急増し1936年には100万台を突破した。世界の自転車市場はイギリスの牙城であったが、イギリス製品の半額ほどで品質も劣らない日本製品は瞬く間にシェアを獲得し、大英帝国は中国・インドなどの支配地で日本製自転車に高関税をかけるなどして対抗したが圧倒的な低価格攻勢に押切られた。繊維製品に続き自転車でも輸出競争に敗れたイギリスの反日感情は一層悪化した。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。
- 1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。
- GHQの動きを察知した豊田喜一郎らは、傘下企業から「豊田」の名を外しグループ会社間の役員兼任を解消するなど自ら恭順の意を示し財閥解体を免れようと画策したが、1943年豊田紡織がトヨタ自動車工業に吸収合併される過程で所有株式を譲受けた豊田産業(現豊田通商)が持株会社と見做され財閥解体リストに加えられてしまった。が、日本電装(現デンソー)や紡績部門(現トヨタ紡織)は分離を強制されたものの、もともと豊田喜一郎は部品部門の分社化戦略を採っていたため実害は少なく、今も続く豊田家による支配体制を維持することができた。
- GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。
- 敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。
- 日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。
- 東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。
- トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。
- 1950年、ドッジ・ライン恐慌で経営危機に陥ったトヨタ自動車工業に対し、アメリカの顔色を窺うばかりの吉田茂政権と金融界は冷淡で、日銀総裁の一万田尚登(一万田法王)に至っては「日本に自動車産業はいらない」などと売国的追従を露にした。しかし日銀名古屋支店長の高梨壮夫は本店にトヨタ救済を訴え、東海銀行・三井銀行(帝国銀行)ら24行の協調融資を斡旋し倒産の危機を救った。後年、高梨壮夫は東京トヨペット会長に迎えられたが、トヨタは非協力的だった住友銀行を敬遠し川崎製鉄(JFEスチール)との取引も妨害している。さて協調融資と引換えに抜本的な経営再建を呑んだ豊田喜一郎社長は、約束に従いトヨタ自動車販売を分社化し(工販分離)生産調整を行ったが、大規模労働争議の発生で人員整理は難航、大騒動の末に豊田喜一郎ら主要役員が引責辞任に追込まれ、溜飲を下げた労組は人員整理を受入れストを解除、反喜一郎の豊田利三郎に連なる石田退三が3代目社長に就任した(豊田自動織機製作所社長を兼任)。が、皮肉にも1ヶ月も経たないうちに朝鮮戦争が勃発し、軍用トラックの注文殺到で業績はV字回復を遂げ膨大な在庫と累積損失も一気に解消した。豊田喜一郎の偉業は見直され石田退三ら経営陣は社長復帰を要請、喜一郎は快諾したが直後に食事に立寄った先で昏倒し帰らぬ人となった。その3年後に「クラウン」で大衆向け自家用車に参入したトヨタは日本一の巨大企業へ躍進したが、徳川家康の「三河武士団」に擬せられるトヨタ幹部の忠誠心は衰えず豊田喜一郎の直系子孫を盛立て続けた。「トヨタ中興の祖」石田退三は、喜一郎長男の豊田章一郎を取締役に迎え、逆に豊田利三郎家を本流から排除、中川不器男の次の5代目社長に創業期から従兄の喜一郎を支えた豊田英二を迎えた。1982年「工販合併」で発足したトヨタ自動車の初代社長(6代目)に豊田章一郎が座り「大政奉還」が実現、一族外の奥田碩・張富士夫・渡辺捷昭がバブル崩壊後の難局を乗切り、2009年章一郎長男の豊田章男を11代目社長に擁立した。他にも豊田佐吉の子孫の男子は悉くトヨタグループの要職に就いている。
- 日本最強のトヨタグループは、動力織機を発明し「紡績財閥」を築いた豊田佐吉と先見の明で自動車事業への転換を断行した豊田喜一郎の父子を祖と仰ぎ今日も同族経営が続くが、創業者の遺志を継ぎ大躍進へ導いたのは優秀な幹部たちであった。初代大番頭の西川秋次は創業時から豊田佐吉を支え、上海の豊田紡織廠の経営を差配し、豊田喜一郎の自動車事業を支援した。石田退三は、豊田利三郎の実家児玉家の親戚で、豊田紡織取締役・豊田自動織機社長を経て、豊田喜一郎の辞任に伴いトヨタ自動車工業3代目社長に就任、愚直にモノ創りに徹し財界活動を嫌ったため「トヨタ・モンロー主義」と揶揄されたが、自家用車路線の大成功で「トヨタ中興の祖」と称された。石田退三は元三井銀行神戸支店長の中川不器男に社長を譲ったが、中川が急死すると豊田喜一郎腹心の豊田英二を社長に迎えた。三井物産出身の神谷正太郎は、自動車部の創業期から豊田喜一郎に仕え販売部門を担当、第二次大戦後「工販分離」で発足したトヨタ自動車販売の社長に就任した。神谷正太郎は「地元の資本とヒトで車を売る」べく全国各地の有力者を口説いて販売店網を構築、また「一升マスには一升しか入らない」と一車種一販売店構想を掲げトヨペット・カローラなどの複数販売チャネルを敷いた。一橋大学から新卒でトヨタ自動車販売に入社した奥田碩は、経理部員時代に上司と衝突しマニラへ左遷されたが、同地に住んでいた豊田章一郎(豊田喜一郎の長男)の娘夫婦と懇意となり運を掴んだ。豊田章一郎がトヨタ自動車社長(6代目)となり、腹心の奥田碩は出世街道を驀進、高血圧症で退任した章一郎弟の豊田達郎に代わり8代目社長に上り詰めた。バブル崩壊後の難局を託された奥田碩は、「国内シェア40%奪回」の公約を達成し「トヨタ一人勝ち」を現出、日野自動車工業・ダイハツ工業の子会社化などグループの再編強化も推進し、名経営者と称され日経連会長も務めた。奥田碩が社長を託した張富士夫・渡辺捷昭は販売台数世界一を達成したが、2009年の世界同時不況で拡大戦略が裏目に出て71年ぶりの営業赤字に転落、人心統一を図るべく章一郎長男の豊田章夫が社長に担がれた。
- 鮎川義介は大叔父の井上馨と陸軍長州閥の支援のもと日産・日立グループを創始した「企業再生ファンド」の先駆者である。鮎川義介は山口で井上馨に扶育され東大工学部へ進んだが、三井財閥への勧誘を断り、出自と学歴を隠して芝浦製作所(東芝)の一職工となった。が、「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」と悟った鮎川義介は単身渡米し見習工として鋳物技術を学び、帰国すると井上馨の援助で北九州市に戸畑鋳物を設立し可鍛鋳鉄工場を開業、当初は資金繰りにも苦労したが、第一次大戦や関東大震災の特需で軌道に乗り技術分野拡大と工場買収で業容を拡大させた。戸畑鋳物で経営手腕を現した鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥に懇請され破綻に瀕した妹婿久原房之助の事業(久原財閥)を引受けると忽ち経営再建に成功、持株会社の日本産業(日産)に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命などを連ね「日産コンツェルン」を形成した。銀行融資がままならないなか鮎川義介は日産の株式上場で一般大衆から資金を集め(公衆持株)、積極投資が事業拡大・株価上昇と更なる資金を呼込む好循環を確立、日産は経営不振企業の買収と再建を繰返し軍需・重化学工業主導で雪ダルマ式に膨張した。日中戦争が始まると、鮎川義介は石原莞爾ら陸軍首脳の要請に応じ日産の重工業部門を満州へ全面移転、受皿の満州重工業開発(満業)の総裁に就任し「弐キ参スケ」に数えられたが、石原失脚で日中戦争は泥沼へ嵌り日本は無謀な対米戦争へ突入、ドイツの敗北を予見した鮎川義介は1942年間一髪のタイミングで満州撤退を断行した。東條英機内閣の顧問も務めた鮎川義介はA級戦犯容疑で投獄され経営復帰は叶わなかったが、資本と経営基盤を国内に温存した日産は第二次大戦後も生残り、日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で躍進し、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。
- 小平浪平は、欧米技術の模倣を嫌悪し「国産技術立国」の理想を追求し続けた日立製作所創業者である。東大工学部を卒業し発電設備技術者となった小平浪平は、秋田県の藤田組小坂鉱山・広島水力電気を経て「電気工学を学んだ者の羨望の的」東京電燈(現東京電力)送電課長に栄進したが、どの職場でも外国製機械と外国人技師への依存に反発し、「痩せても枯れても自力で機械を作る」ため1906年元上司の久原房之助が開業した久原鉱業所日立鉱山に入社した。鉱山経営に不可欠な電源開発を託された小平浪平は発電所建設を陣頭指揮したが、排水ポンプ用の電動機(モーター)に故障が多く難渋、大半がGEやWestinghouseなど外国製だったことに反骨心を刺激され「故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろうとしないからだ」と修理改良に乗出した。故障を克服し自信を得た小平浪平はモーターの国産化を決意し、1910年久原房之助を口説いて出資金を引出し現日立市に「日立製作所」創業(企業名より地名が先)、交通不便な僻地で工場も掘立小屋同然だったが、帝大教授陣を抱込んで倉田主税(2代目社長)・駒井健一郎(3代目社長)ら優秀な技術者を獲得し、見習工養成所(現日立工業専修学校)も開設した。設備も経験も不足するなか国産初の大型電動機製造に成功した日立製作所は、創意工夫で技術力を高めつつ発電設備・電動機市場に割安な国産製品を浸透、大物工場の全焼で小平浪平は経営危機に直面したが、翌1920年久原房之助義兄の鮎川義介が経営難の久原財閥を承継し窮地を脱した。「日産コンツェルン」に再編された日立製作所は成長を加速、電気機関車製造に進出し、小平浪平が「日立精神を守る」と製造拠点を留めたことで関東大震災を免れ東芝などが壊滅的被害を蒙るなか復興需要で急伸、日中戦争に伴う軍需景気と日産の満州重工業開発に乗り一流重機メーカーへ発展を遂げた。第二次大戦後、小平浪平は公職追放に遭い、1951年相談役で復帰したが世襲経営を否定し「日立製作所がおれの論文であり、記念だよ。ほかに何もいらぬ」と言残し同年77歳で世を去った。
- 浜松の鍛冶屋に生れた本田宗一郎は(マツダ創業者の松田重次郎も鍛冶屋の出)、高等小学校卒で東京の自動車修理工場へ丁稚奉公に入り22歳で暖簾分けを許され「アート商会浜松支店」を開設、これを従業員に譲り「東海精機重工業」を設立したが上手く行かず1945年三河地震による工場倒壊を機に豊田自動織機に会社を売却した。翌1946年、浜松で浪人していた本田宗一郎は妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と着想し原動機付自転車「バタバタ」を開発し大ヒット、1948年「本田技研工業株式会社」を設立し経営担当に藤沢武夫を迎えた。1952年発売の小型バイク「カブ」で本田技研工業は躍進、東京への本社移転と株式公開を果し、1955年二輪車生産台数日本一を達成、1958年発売の「スーパーカブC100」で世界の小型バイク市場を席巻した。「町工場のおやじ」のままの本田宗一郎は過少資本の欠陥を抱えたまま「本田技術研究所」で技術開発に邁進、二輪車世界一の座を掴むと1963年軽トラックで四輪車生産を開始し、1972年「シビック」で自家用車に参入し低公害エンジン「CVCC」を搭載、F1レースで「技術のホンダ」を世界に示した。本田宗一郎は海外展開にも積極的で、業界に先駆けて欧米に販社を網羅しベルギーの二輪車工場・米国オハイオ州の四輪車工場など海外生産も推進した。しかし1973年のオイルショックで本田技研工業の自転車操業は行詰り、本田宗一郎は銀行に全持株を差出す覚悟で支援を引出し経営破綻を免れたが、「空冷」への固執など技術的信任の低下もあって辞任に追込まれた。道連れで副社長を退いた藤沢武夫は「名参謀」の呼声が高いが、実際はブローカー上りの野心家に過ぎず銀行の信用は低かったともいわれ、本田宗一郎は一番弟子の河島喜好を後継社長に選んだ。1983年本田宗一郎は取締役も退き1991年84歳で永眠したが(終身最高顧問)、創業者の遺命どおり本田技研工業の社長はエンジニアの久米是志・川本信彦・吉野浩行・福井威夫・伊東孝紳・八郷隆弘へと受継がれ、外資の買収攻勢を退けたホンダはトヨタと共に「ものづくり日本」の象徴であり続けている。
- 久留米の小さな仕立屋に生れた石橋正二郎は、17歳で家業を継ぐと足袋専門店へ業態転換し工場を開いて量産を開始、格安均一価格と街宣車など斬新な広告宣伝で業績を伸ばした。第一次大戦の特需もあり年産200万足へ急伸した「二〇銭均一アサヒ足袋」は四大足袋メーカーに食込み石橋正二郎は「日本足袋株式会社」を設立した。反動不況で売上が伸悩むと、石橋正二郎は実用性の高いゴム底作業靴「アサヒ地下足袋」を開発、九州の炭鉱夫から評判は全国へ広がり、関東大震災後の土木建築ラッシュも追風となり、今に続く大定番品となった。石橋正二郎は学童靴「アサヒ靴」や長靴・ゴム靴へも事業を広げ、専売店は日本全国6万店へ拡大し中国・満州へも進出、年産6~7千万足を誇る日本足袋は日本有数の消費財メーカーへ躍進した。ゴム製造に乗出す過程で自動車時代を予見した石橋正二郎は、タイヤ製造へ進出し初の国産化を成功させ1931年「ブリッヂストンタイヤ」を設立、日産自動車・トヨタ自動車の創業より2年も早い偉業であった。輸入品の半値以下ながら世界基準の品質を獲得したブリッヂストンタイヤは、日中戦争に伴う軍用トラックの需要拡大で急成長を遂げた。第二次大戦後、石橋正二郎は株式交換で兄と弟に日本ゴム(←日本足袋)を譲って財閥解体を回避し、物資不足とドッジ・ライン恐慌で逼塞するも朝鮮戦争の軍用トラック特需で蘇生、自転車製造へ参入し(現ブリヂストンサイクル)、米国グッドイヤー社から最新技術を導入した。プリンス自動車工業の経営破綻で自動車製造への参入は頓挫したが、石橋正二郎はマレーシアに戦後初の海外工場を設立し巨大市場アメリカに販社を開設、相談役へ退いたのち1976年87歳で永眠した。自家用車の普及と共に「ブリヂストン」は成長を続け、1988年米ファイアストンを買収、2005年仏ミシュランを抜いて世界シェアトップに立ち、時価総額4兆円を窺うグローバル企業となった。2代目社長を継いだ長男の石橋幹一郎が同族経営を放棄したが、石橋家は大株主に君臨し鳩山家のスポンサーとしても健在である。なお、日本ゴム改めアサヒコーポレーションは1988年に倒産し再建途上である。
- 『海賊とよばれた男』出光佐三は、石油メジャー・業界規制の妨害に負けず民族資本「出光興産」を築いた異端児である。福岡県宗像の藍玉問屋に生れた出光佐三は、不眠症や神経衰弱に悩みつつ神戸大学へ進んだが、エリートの道を捨て1911年北九州門司に「出光商会」を設立、日本石油の特約店となり発動機付き漁船の燃料油販売で礎を築いた。1914年出光商会は車軸油取引で満鉄に食込み凍結耐性に優れた製品開発で鉄道事故減少に貢献、満鉄・軍需を足掛りに満州から中国全域・朝鮮・台湾へ販路を拡げ、出光佐三は高額納税で貴族院議員に叙された。石油国策に乗った「出光興産」は多くの従業員を喪いながら外地主導で業容を拡大したが、敗戦に伴う在外資産接収で全てを失った。出光佐三は無職の従業員1千人を抱えたが解雇ゼロを宣言、社員総出で食扶持を探し旧海軍のタンク底の残滓油清掃からラジオ修理や漁業までやって糊口を凌ぎ、1947年石油配給公団発足に伴う販売店指定で本業復帰し1949年元売業者へ昇格した。ヒトしか無かった出光佐三は「大家族主義」を掲げ、感謝した従業員は薄給で猛烈に働いたが、高度経済成長で出光興産が躍進するに従い人件費抑制と同族経営の方便と化した。さて、戦後日本では元売各社も監督官庁も石油メジャー支配に組込まれたが、出光佐三だけは外資を拒否し「消費者本位」を唱え「石油業法」規制に反抗、絶えず妨害工作に苦しめられたが猛烈営業で乗越えた。1951年イランが石油国有化を宣言し欧米は対決姿勢をとったが、反骨の出光佐三は「日章丸二世」をイランへ送り英国海軍の海上封鎖を突破して原油を持帰りBPの横槍も排除した(日章丸事件)。出光興産は快進撃を続け1957年の徳山を皮切りに全国に自社製油所を展開、「出光タンカー」「出光石油化学」を分離増強し、中ソ原油輸入や中東事務所開設でも先鞭を付けた。出光佐三は生産調整に反発し石油連盟を脱退したが、1966年世界最大「出光丸」の就航を花道に社長を末弟の出光計助に譲り石油連盟復帰、1981年95歳で大往生した。出光佐三が固執した同族経営は2002年で終わり2006年上場会社となった。
豊田喜一郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
児玉 源太郎
1852年 〜 1906年
100点※
華も実もある日露戦争の英雄にして植民地経営を初めて成功させた台湾総督、若死にが惜しまれる陸軍長州閥最高の逸材
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照