尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも織田家から奪った天下を徳川家康に奪われた戦国下克上の出世頭
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
豊臣 秀吉
1537年 〜 1598年
70点※
家系・子孫
- 織田信長に仕える前の豊臣秀吉の事跡は不明だが、本人も語れないほど悲惨な少年期であったと考えられ、少なくとも百姓の子に日吉丸の名はありえない。尾張国中村の出自で、当時賤視された焙烙売り一家の出とも、織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門の子ともいうが、木下は妻ねねの実家の姓であり、秀吉は入婿して木下藤吉郎を名乗ったとする方が信憑性が高い。口減らしのために家を出て放浪生活を送り、行商や盗賊働きもしたであろうが、今川家臣の松下之綱に最初の武家奉公をした話は後に家臣に迎え大名にしたことから事実と考えられる。秀吉の弟豊臣秀長は良き副将だっがた惜しくも早世、徳川家康懐柔のため生母なか(大政所)は人質に送り、中年の妹あさひ(朝日姫)は前夫と引離して入輿させた。「糟糠の妻」の代名詞ねね(北政所)は、加藤清正・福島正則・黒田長政らに敬慕されて反淀殿・石田三成陣営の精神的支柱となり、秀吉没後は徳川家康に誼を通じて実兄の木下家定(足守藩及び日出藩)と養家の浅野長政(広島藩)の三大名家を残した。木下家定の五男小早川秀秋は、秀吉の養子から小早川隆景の養嗣子となり、関ヶ原合戦の寝返りで徳川を勝利に導いて宇喜多秀家旧領の備前岡山55万石に加転封されたが、僅か2年後に狂死し無嗣断絶で改易された。女好きの豊臣秀吉は手当たり次第に励むも体質のせいか後嗣に恵まれず、やっと出来た男児2人は夭逝した。が、浅井長政・市(信長の妹)の長女茶々(淀殿)が鶴松を産み、これも夭逝したが続けて秀頼を出産、57歳にして待望の跡取りを授かった(父親は別人の疑いが濃厚、厳重警護下の不倫は困難であり秀吉が仕組んだ可能性が高い)。耄碌した秀吉は、文禄の役で養子の秀勝(徳川秀忠の正室江の前夫)を戦死させ、家督と関白を譲った秀次を眷属諸共無残に殺害(ともに姉日秀の子)、愛児秀頼の後見を家臣団に哀願して世を去った。豊臣秀頼は、徳川家康の娘千姫を妻に迎え立派に成人したが、大坂夏の陣で嫡子国松と共に滅ぼされた。助命された娘は縁切り寺で有名な天秀尼となり、ほかに求厭上人が秀頼遺児を自称したが、いずれも仏門で秀吉の血脈は途絶えた。
- 加藤清正は庶民の出だが母が従姉妹同士の豊臣秀吉に仕え大名に出世した。権中納言藤原忠家の子正家の子孫と称し、祖父の加藤清信は美濃の斎藤道三に仕えた武士で合戦で討死したというが信憑性は低い。父の加藤清忠は尾張愛知郡中村(秀吉の出身地)の百姓で、鍛冶屋清兵衛の娘(秀吉の母なかの従妹)を娶り清正が生れたが数年後に病没したという。加藤清正は、秀吉の引立てで肥後北半25万石の大名となり、秀吉没後は石田三成憎しで徳川家康に与し養女(実父は水野忠重)を継室に迎え、関ヶ原合戦後に肥後一国54万石へ加増された。嫡子虎熊・次男忠正が早世したため三男忠広(生母は側室正応院)が清正の後を継いだ。2代熊本藩主加藤忠広は、徳川家康の曾孫で秀忠養女の依姫(実父は蒲生秀行)を妻に迎え嫡子光正を授かったが、光正の家臣相手の謀反遊戯(謀書偽造の一件。老中土井利勝の謀略とされる)を徳川幕府に付込まれ改易に処された。忠広には側室法乗院に産ませた次男正良があったが父の追い腹を斬らされ加藤家は完全に断絶した。光正は飛騨高山藩へ配流され僅か1年後に急逝(毒殺説あり)、忠広は配流地の庄内で一男一女をもうけ娘の子孫が大庄屋加藤与治左衛門家となり僅かに清正の血脈を伝えるという。加藤家改易後の肥後熊本藩には細川忠利(忠興の後嗣)が豊前小倉藩39万9千石から加転封となったが、熊本では「清正公(せいしょこ)」の神格化が進み今日でも加藤清正の人気は藩主細川氏を凌ぎコレラ退治の「疫癘神」としても崇敬されている(実際の死因はコレラではなく梅毒とされるが)。
- 浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。
豊臣秀吉と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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