戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
家系・子孫
- 重光葵は豊後杵築藩士の家系の生れで、祖父は杵築村代官、父の重光直愿は三浦梅園や帆足万里に連なる漢学者で杵築藩校「学習館」で教鞭をとり、明治維新後は大分県大野郡長に任じられ養蚕業振興など経世家の手腕を発揮した。が、重光葵が3歳のとき重光直愿は43歳で退官、私塾で生計を立てるつもりが文明開化の時代に漢学は見向きもされず、娘が「こんな苦しい家がほかにありましょうか」と嘆くほど一家は困窮した。重光直愿は重光本家の松子を妻に迎えて三男四女を生し、本家の男子が絶えたため次男の重光葵を跡目養子に出した。重光直愿(なおまさ)は自分も難字だが、漢学者らしく男児に蔟(あつむ)・葵(まもる)・蔵(おさむ)と普通には読めない名前をつけている。重光葵は、妻喜恵との間に篤・華子の一男一女をもうけた。喜恵の父林市蔵は熊本藩出身で、重光葵と同じ五高・東大と進んで内務官僚となり三重県知事・東洋拓殖理事・大阪府知事を歴任、1920年の退官後は日本信託銀行頭取や堂島米穀取引所理事長などを務めた。林市蔵は大物官僚だが金満家ではなく、重光葵は外交官ながら生涯清貧な生活を送り贅沢といえば奥湯河原の慎ましい別荘くらいであった。長男の重光篤は奥湯河原別荘の跡に「重光葵記念館」を開設している。
重光葵と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
鈴木 一朗(イチロー)
1973年 〜 年
90点※
オリックスで7年連続首位打者に輝き米国MLBへ渡り10年連続200本安打とゴールドグラブ賞を達成、日米通算4千本安打を突破しMLB殿堂入りも確実視される日本スポーツ界の至宝
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