GMとの提携で技術力不足をカバーしつつ軽自動車特化で国内市場を制覇したニッチ戦略の名手、大手不在の後進国で先行しインド市場の過半を制した「スズキ」の入婿社長
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
鈴木 修
1930年 〜 年
60点※
家系・子孫
- 浜松市の農家出身で大工修行をしていた鈴木道雄は1909年「鈴木式織機」を創業(豊田佐吉・豊田喜一郎のトヨタ自動車も創業事業は織機製作)、戦後株式上場を経て二輪車製造にシフトし四輪車製造も始めて「鈴木自動車工業」へ改称した。鈴木道雄は鐘紡でエンジニアをしていた鈴木俊三を長女の婿に迎え1957年70歳で社長を譲り引退、鈴木俊三は「スズキ・フロンテ」で軽自動車市場を開拓し1973年日本一達成を花道に義弟(鈴木道雄の三女婿)の鈴木實治郎に社長を譲り4年後に逝去した。さて、岐阜県益田郡下呂町に生れた鈴木修は(旧姓松田)、中央大学法学部から中央相互銀行(現愛知銀行)に入社したが、鈴木俊三の長女祥子の婿養子となり鈴木自動車工業に入社、夫妻は二男一女をもうけた。鈴木實治郎は総合化と海外展開を推進したがトヨタ・日産・ホンダの後塵を拝しオイルショック後の経営不振から抜出せず1978年社長引退、専務から4代目社長に就いた鈴木修は軽自動車への集中戦略で経営再建を成功させ、大手が参入する前にインドなど後進国市場に挑戦し「スズキ」を独特な地位へ押上げた。鈴木修は経産官僚の小野浩孝を長女の婿に迎え後継者に据えたが浩孝は2007年に早世、2000年戸田昌男に社長を譲るも(→津田紘)2008年会長兼務で社長に復帰した。2015年85歳の鈴木修は長男の鈴木俊宏に8代目社長を譲ったが、会長兼CEOに君臨しワンマン経営を続けている。
鈴木修と同じ時代の人物
-
戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照