鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続
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鈴木(雑賀) 重秀(孫一)
1546年 〜 1586年
60点※
家系・子孫
- 藤白鈴木氏は、饒速日命を祀る藤白神社(和歌山県海南市)の神主で上古の海人族穂積氏(祖神は饒速日命)の嫡流、榎本・宇井氏と共に熊野速玉大社の禰宜を世襲した(熊野三党)。鈴木姓は熊野信仰に乗って紀伊半島から東海道の庶民層へ拡がり、大名家や有力武士に鈴木氏が少なかったことで改姓を免れ佐藤に次いで二番目に多い名字となった。蓮如の登場以来、紀伊は浄土真宗本願寺派の拠点となり鷺森別院を中核に一向一揆の支配下に置かれた。鈴木氏は、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺の紀伊支配を支え当主は「雑賀孫一」を世襲、石山合戦では本願寺顕如に従い織田信長に激しく抵抗したが大軍に紀伊を制圧され降伏した。鈴木重秀は、下間頼廉と共に石山合戦を指揮し「大坂左右大将」と称されたが「天下布武」の時勢を悟り逸早く信長に降参、ライバルの根来衆(真言宗根来寺を拠点とする鉄砲傭兵集団)と結び反織田を貫く土橋守重を謀殺して雑賀衆をまとめたが、本能寺の変で土橋党に主導権を奪われ逃亡した。雑賀衆は織田家を承継した豊臣秀吉に反発し小牧・長久手の戦いで徳川家康に加勢したが、家康と停戦した秀吉は雑賀衆内の反目に付込み藤堂高虎に命じて首領の鈴木重意(重秀の父)を暗殺、大軍を派して雑賀衆・根来衆を壊滅させた。鈴木重秀は子の鈴木孫一郎を人質に出して秀吉に臣従したのち病没(長兄の鈴木重兼は早世)、家督を継いだ弟の鈴木重朝(重秀の長男とも)は1万石で秀吉に仕え関ヶ原の戦いで西軍に帰属、前哨戦の伏見城攻めで鳥居元忠を討取る手柄を挙げ、敗戦により浪人するも仙台藩主伊達政宗を経て3千石で徳川家康に召出され水戸藩主徳川頼房(家康の十一男)の旗本に付けられた。雑賀孫一(孫市とも)を称した嫡子の鈴木重次は男児を生さず、主君頼房の十一男重義を養嗣子に迎えたことから子孫は水戸藩重臣として存続した。重次は鳥居元忠の甲冑と刀剣の返還を子の鳥居忠政に申し出、忠政は遠慮したが両家は親しく交流した。雑賀衆の武名を慕う会津藩は鈴木一族や残党を招聘し「雑賀孫六」などと名乗らせという。
鈴木(雑賀)重秀(孫一)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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