父長宗我部国親の遺志を継いで土佐を平定し本能寺の変に乗じて四国統一を果した智勇兼備の名将だが、豊臣秀吉に屈して土佐以外の所領を没収され後嗣盛親が関ヶ原合戦・大坂陣に敗れ滅亡
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長宗我部 元親
1539年 〜 1599年
70点※
長宗我部元親と関連人物のエピソード
- 明智光秀の筆頭重臣で共に滅ぼされた斎藤利三の血族は意外にも大発展を遂げた。美濃守護代家の血を引く斎藤利三は、斎藤道三に仕えて娘を妻にもらうが道三滅亡で失脚、織田家に転じた稲葉一鉄の娘(姪とも)を娶り稲葉家臣となったが、喧嘩別れして明智家に移った。信長からの利三返還要求を固辞した光秀は「推参者め!」と激しく打擲され恨みを含んだという。利三の異父妹は長宗我部元親の正室で、織田家との同盟の架け橋となったが、信長が同盟を反故にして四国征伐に変じたため光秀・利三主従は面目を失った。山崎合戦に敗れた斎藤利三が京都六条河原で斬首された後、男児は追われて落ち武者に転落したが、4歳の末娘お福は稲葉重通(母の兄または従兄、稲葉一鉄の庶長子)の養女となり、重通の婿養子で小早川秀秋家臣(家老5万石)の稲葉正成の後妻に入り、正勝など四男を産んだ。正成は関ヶ原合戦の小早川寝返りに働いて徳川幕府の覚えが目出度かったが、秀秋と対立して美濃に退き戻り、秀秋狂死で小早川家が断絶すると浪人に転落した。妻のお福は、正成と別れて京に上り(正成の浮気相手を斬殺したとも)、竹千代(徳川家光)の乳母募集に合格、次男国松(忠長)を偏愛する生母江に嫌われた竹千代の母代わりとなり、家康に長子相続の正当性を直訴、家光は家康の鶴声で将軍位を掴んだ。家光に有難がられたお福改め春日局は、大奥を牛耳って絶大な権勢を誇り、前夫の正成を2万石で召し出したのを皮切りに、前妻の子を廃して自分の産んだ正勝に稲葉家を継がせ8万5千石と老中職を獲得、その子正通の代には14万石に引き上げた。さらに、正成前妻が産んだ堀田正盛を自分の養子分とし、千石の身代から一躍15万石の大封と老中職を授けた。春日局が樹立した稲葉・堀田の両家は、幕閣首脳を世襲して大いに栄え、幕末には井伊直弼に排斥された老中堀田正睦が出ているが、徳川綱吉施政期には大老堀田正俊が江戸城内で稲葉正休に刺殺されるという大事件も起している。
- 明智光秀は、足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞である。美濃守護土岐氏の庶流で東美濃の大豪族明智氏の嫡子に生れたが、斎藤道三の外戚明智氏は斎藤義龍謀反で共に滅亡(長良川の戦い)、28歳の光秀は逃亡し、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、義昭と信長に両属の形で活躍を始めた。信長の正室帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。一流の文化人細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通する明智光秀は、京都政界の外交折衝で頭角を現し、1570年朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導いた功で近江坂本10万石を与えられ44歳で一城の主となった。恩人信長の追落しに励む義昭を見限って織田家専属となり、1573年室町幕府滅亡、軍団を託されて丹波攻略を開始すると、石山合戦や松永久秀・荒木村重の謀反討伐に駆出されつつも、丹波亀山城を攻略して前線拠点を確保し、1579年波多野秀治・赤井直正を討破って丹波を平定(人質に差し出した叔母を光秀が捨殺しにしたという説があるが信憑性は低い)、近江坂本に加えて丹波を賜り(合計25万石または60万石)、織田家5軍団長の一人となった。そして1582年、「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだ光秀は、秀吉の出馬要請に応じて寡勢で京都に入った信長を急襲し殺害(本能寺の変)、畿内を軍政下に置いたが、縁戚の細川藤孝・忠興をはじめ筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に悉く見放され、神速の中国大返しで駆けつけた豊臣秀吉に洛外天王山で決戦を挑むも惨敗(山崎の戦い)、逃亡した光秀は伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに討たれ、本拠地の近江坂本城も落ちて明智氏は滅亡した。光秀謀反の原因には、怨恨説・野望説・恐怖心説・発作説から、黒幕説には朝廷・長曽我部元親・イエズス会・徳川家康や秀吉まで様々あるが、歴史上の効果は天下統一目前の信長を討って秀吉・家康に道を開いた一点に尽きる。
- 織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。
- 織田信長には毀誉褒貶があるが、100有余年続いた戦国時代を制覇し中央集権国家の礎を打ち立てた事実は揺ぎ無い。武力では、先ず鉄砲と兵農分離だろう。鉄砲の国産体制を整備して大量に備蓄し、貿易都市堺を支配下において当時国内では産出しなかった煙硝の供給ルートを確保、装填に手間の掛かる元込銃の弱点を「三段撃ち」で克服し(紀州雑賀衆に倣った説あり)、長篠の戦いで戦国最強の武田軍団を撃破した。織田信長の台頭により鉄砲伝来から半世紀後には日本は世界最高の鉄砲装備を誇る最強の陸軍力を持つに至り、明侵攻(朝鮮出兵)は統帥の乱れと補給難で失敗したが戦闘では無敵だった。とはいえ、都会育ちの上方・尾張の兵は甲州兵の10分の1といわれるほど弱く、信長軍も然りで、姉川合戦では本陣手前まで崩されたのを徳川家康軍の奮闘で勝を拾い、三方ヶ原合戦では早々に敗退して完敗の元凶となった。弱卒のハンデを抱える織田信長は、武器と外交に活路を求め、鉄砲の前には集団戦に有利な長槍を導入する一方、上洛後も武田信玄と上杉謙信の機嫌をとって全力で対決回避に努めた。さて、当時も武士は「一所懸命」の土豪の集団で、戦争や集中訓練は農閑期に限られ、領地転換や長期遠征は困難であり、最強を誇る武田・上杉もこの制約に縛られたが、唯一織田信長は兵農分離の確立により束縛を脱した。職業軍人集団=傭兵感覚故に門閥無視・能力本位の人材活用も可能となり、譜代の柴田勝家・丹羽長秀らと新参の明智光秀・豊臣秀吉・滝川一益らを相競わせ、自在の配置転換と物量作戦で多方面作戦を成功させた。織田軍団の屋台骨は膨大な戦費を支えた経済力だが、信長は経済政策でも開明的であった。寺社や土豪の収入源というだけの関所や諸権益を撤廃(楽市楽座)して自由貿易と統一的気分を盛上げ、松永久秀のキリスト教宣教師追放令も撤廃し堺商人を通じて海外貿易で大きな利を占めた。一方で特権剥奪に抵抗する勢力には徹底弾圧で臨み、タブーを侵して比叡山・高野山・石山本願寺・一向一揆を討滅、有史以来武力・政治力を恣にしてきた宗教勢力を退治し人民を心の楔から解放した。
- 天才の裏返しか、織田信長は躁鬱のうえに猜疑心が強く、当時常識外の悪逆非道を行って魔王と恐れられ、最後は家臣の裏切りで殺された。幼少期から変わり者だったようで、乳母の乳首を噛み切ったとか女装趣味伝説まであり、長じるとドラマでお馴染みの異装で奇行を繰返し、傅役平手政秀の諌死にも改めず、うつけの他に「たわけ(戯け)」と陰口されたのは実妹の市を犯したためとする説もある。とはいえ家督を継いで10余年尾張平定までは辛抱強く家臣の人心掌握に努め、弟の信行に与して叛逆した柴田勝家・林秀貞らを赦し、岳父斎藤道三が義龍に攻められた際には律儀に救援に駆けつけた。再度謀反を企てた信行を殺し、尾張織田家を滅ぼしたことは戦国の世の習い、身分低く有能な者には夢のような名君であった。ところが、浅井長政離反で猜疑心が鎌首をもたげ、討取った長政の頭蓋骨に金箔を施して御肴に供した。最も織田信長の評価を落とした比叡山焼き討ちや一向一揆の殺戮は、宗教を笠に着て武力抵抗を続けた門徒側の自業自得なのだが、迷信が根強い当時においては神をも恐れぬ所業であった。室町幕府滅亡も、大恩を忘れて信長打倒の謀略に励んだ足利義昭の自業自得だが、大義名分や権威主義を重視する世論は主君追放の大逆と見做した。武田信玄急死という桶狭間合戦以来の大幸運で信長包囲網の窮地を脱した織田信長は、自らを神格視するほどに増長し、平気で講和の約束を破り家臣に無理難題を押し付ける暴君となった。徳川家康の正室築山殿の武田家への内通が露見すると無実の嫡子徳川信康まで自害させ、丹波攻略では城主助命の約を違えて人質の明智光秀叔母を捨て殺しにし、最古参の佐久間信盛・林秀貞らを大昔の罪状を突きつけて突然追放、信長の留守中に物見遊山に出掛けた女中数名を斬り殺したかと思えば、突然各地の軍団を京都に呼び上機嫌で大軍事パレードを挙行するなど、手に負えない有様となった。松永久秀と荒木村重の相次いぐ謀反は抑えたが、家臣達のストレスは頂点に達していただろう、無防備で京都本能寺に入ったところを突如明智光秀に襲われ落命した。
- 明智光秀は、足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞である。美濃守護土岐氏の庶流で東美濃の大豪族明智氏の嫡子に生れたが、斎藤道三の外戚明智氏は斎藤義龍謀反で共に滅亡(長良川の戦い)、28歳の光秀は逃亡し、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、義昭と信長に両属の形で活躍を始めた。信長の正室帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。一流の文化人細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通する明智光秀は、京都政界の外交折衝で頭角を現し、1570年朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導いた功で近江坂本10万石を与えられ44歳で一城の主となった。恩人信長の追落しに励む義昭を見限って織田家専属となり、1573年室町幕府滅亡、軍団を託されて丹波攻略を開始すると、石山合戦や松永久秀・荒木村重の謀反討伐に駆出されつつも、丹波亀山城を攻略して前線拠点を確保し、1579年波多野秀治・赤井直正を討破って丹波を平定(人質に差し出した叔母を光秀が捨殺しにしたという説があるが信憑性は低い)、近江坂本に加えて丹波を賜り(合計25万石または60万石)、織田家5軍団長の一人となった。そして1582年、「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだ光秀は、秀吉の出馬要請に応じて寡勢で京都に入った信長を急襲し殺害(本能寺の変)、畿内を軍政下に置いたが、縁戚の細川藤孝・忠興をはじめ筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に悉く見放され、神速の中国大返しで駆けつけた豊臣秀吉に洛外天王山で決戦を挑むも惨敗(山崎の戦い)、逃亡した光秀は伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに討たれ、本拠地の近江坂本城も落ちて明智氏は滅亡した。光秀謀反の原因には、怨恨説・野望説・恐怖心説・発作説から、黒幕説には朝廷・長曽我部元親・イエズス会・徳川家康や秀吉まで様々あるが、歴史上の効果は天下統一目前の信長を討って秀吉・家康に道を開いた一点に尽きる。
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 柴田勝家は、織田信長の畿内制圧で台頭し北陸方面軍を託されたが、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭重臣である。尾張の土豪に生れ、織田信秀に出仕して重鎮となり、嫡子信長の家督相続に次男信行を擁して反抗したが、稲生の戦いに敗れて剃髪謝罪し、信長に帰順して信行暗殺に加担した。上洛戦から重用され、南近江長光寺城の籠城戦では六角義賢を撃退して「瓶割り柴田」の渾名を授かり、各地を転戦して信長包囲網を凌ぎ切った。1573年武田信玄の急死で視界が開けた織田信長は、浅井・朝倉氏を屠り、長篠の戦いで武田氏を殲滅したが、1575年越前で朝倉遺臣の反乱に続き一向一揆が蜂起、総動員で一揆を鎮圧した信長は柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据えて北陸軍団を編成、加賀一向一揆・越後上杉謙信と対峙する構えをとった。この間、足利義昭の将軍擁立や本願寺顕如との和睦に働いた明智光秀、浅井・朝倉攻めの殊勲者豊臣秀吉、伊勢攻略と長島一向一揆平定の滝川一益ら、素性不詳の門外漢が台頭し、勝家・丹羽長秀ら譜代家臣との軋轢が深まった。甲斐征伐を終えた信長は上杉謙信との対決を決意、1577年柴田勝家の大軍を派遣するも加賀南部手取川で迎撃され惨敗、しかし翌年謙信が急死し後継争いで上杉家は弱体化(御館の乱)、秀吉の中国攻めと光秀の丹波攻略を横目に見つつ柴田勝家は攻勢を強め、1580年本願寺顕如の降服で加賀一向一揆が解体されると一気に加賀・能登を制圧、上杉景勝領の越中に殺到した。そして1582年、魚津城を騙し討ちで落とした直後に本能寺事変が勃発、激怒する上杉勢の抵抗に遭った勝家軍は身動きがとれず、神速の中国大返しで駆け戻った秀吉が信長の仇討を果した。直後の清洲会議で秀吉は織田家当主に三法師を擁立し丹波・山城・河内の光秀旧領を獲得、焦る勝家は滝川一益・織田信孝と結び長宗我部元親・紀伊雑賀衆も動かして反抗したが、頼みの丹羽長秀・前田利家に養子の柴田勝豊まで篭絡され、佐久間盛政の軍令違反で大敗、北ノ庄城まで攻め込まれ討ち滅ぼされた(賤ヶ岳の戦い)。
- 徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。
- 徳川家康は少数の従者と堺見物中に本能寺の変に遭遇、切腹も覚悟したが、服部半蔵の手引きで伊賀越えし生還、途中別れた穴山信君は落ち武者狩りに殺された。混乱に乗じた北条氏政が滝川一益を追い払って上野を押え織田領に殺到、上杉景勝も牙を剥き三つ巴戦となったが(天正壬午の乱)、和睦成って甲斐・信濃を制圧した徳川家康は三河・遠江・駿河と合わせて五ヶ国の太守となり、豊臣秀吉に対峙した。清洲会議、賤ヶ岳合戦は静観したが、1584年織田信雄に加担し挙兵、池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し優位に立つも、愚かな信雄が無断で単独講和、名目を失って停戦に応じた(小牧・長久手の戦い)。天下統一を急ぐ秀吉は宥和路線に切替え、母と妹を人質に送られた家康は遂に膝を折り、以後は織田信長同様に律儀に仕えた。1590年、九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は小田原征伐を開始、北条氏に近い家康は早期降伏を促すが氏政・氏直(娘婿)父子は拒絶、結局降伏開城するも滅ぼされた。秀吉は強敵家康から駿遠三甲信の5カ国150万石を召上げ、北条氏旧領の関八州250万石へ移封、東海道筋に子飼い大名を連ね会津に蒲生氏郷を配して封込策に出たが、家康は黙って従い江戸の都市開発に励んだ。朝鮮出兵を無傷で過ごし、1598年豊臣秀吉が死去、抑え役前田利家も翌年亡くなると、健康オタク徳川家康の独壇場となった。豊臣家の内部分裂に乗じて加藤清正・福島正則・黒田長政ら反石田三成・淀殿派の首領に納まり、勝手な婚姻政策で結束を固めると、1600年会津征伐の罠に掛かった石田三成が挙兵、小早川秀秋・吉川広家の寝返りを誘って関ヶ原合戦に勝利すると、1603年徳川幕府開設、2年後秀忠に将軍を譲り徳川氏世襲を世に示した。西軍諸将には大鉈を振るったが、本人の実力と為政者の都合で領地を入替えた信長流を廃し世襲藩固定化で外様大名を安心させつつ、政権運営は将軍家と小身の譜代衆が握り、参勤交代や天下普請で抵抗力を削ぎ、下々にも現在身分の凍結を強制して太平秩序を醸成した。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、翌年75歳で大往生を遂げた。
- 毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。
- 小早川隆景は、父元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て120万石を保ち五大老に任じられた智将、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うし」との遺命に背いた愚甥は関ヶ原合戦の西軍総大将に担がれるが南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋の寝返りで勝利を献上、輝元は不戦のまま大阪城を明渡すも防長36万石に押込められた。11歳で小早川氏の養子に出され1550年17歳のとき後嗣の又鶴丸を出家させ反対派を粛清して家督を簒奪、安芸・備後沿岸部の支配を確立した毛利元就は大内家から独立し、1555年旧主大内義隆を滅ぼした陶晴賢を討滅、小早川隆景は村上水軍を味方に付けて海上封鎖を成功させた(厳島の戦い)。防長計略を終えた元就は1566年旧主尼子氏を攻め滅ぼし、山陽道を託された小早川隆景は豊前門司城の戦いで大友宗麟を撃破し伊予の反乱も制圧するが、立花道雪の奮戦と山中鹿介の後方撹乱に屈して九州戦線を放棄、1571年大黒柱の元就を喪った。1575年小早川隆景は主君浦上宗景を追放して備前を掌握した宇喜多直家と同盟し、織田信長へ寝返った三村元親(直家は父の仇)を滅ぼして備中を押え播磨へ侵出、信長包囲網に加盟して石山本願寺への兵糧補給を敢行し、豊臣秀吉・黒田官兵衛と対峙した。三木城主別所長治を寝返らせ上月城に籠る山中鹿介を討って優勢に立ったが、宇喜多の寝返りで要の三木城が落城、荒木村重・本願寺顕如も信長の軍門に降り、鳥取城を落とされ備中高松城は秀吉の水攻めに晒された。1582年毛利攻めに向かう信長が明智光秀謀反で落命、小早川隆景は備中・備後・伯耆の割譲を条件に和睦を受入れて追撃せず、秀吉は中国大返しで仇討ちを果し賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐、隆景は天下人秀吉に帰順し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵され、天下統一戦に従軍して筑前・筑後・肥前1郡の37万石を与えられた。朝鮮役では6番隊を率いて出征し立花宗茂と共に碧蹄館の戦いに勝利、秀吉が輝元の養嗣子に押付けてきた小早川秀秋(秀吉正室北政所の甥)を自分の養嗣子に迎えて毛利家を守り3年後に病没した。
- 吉川元春は、12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将である。弟の小早川隆景と共に元就・輝元を支える「毛利両川」と称された。1541年吉田郡山城の戦いで12歳にして初陣を飾り、母の実家吉川氏の養嗣子となり吉川興経・千法師父子を殺害して家中を掌握、安芸新庄に日野山城を築いて本拠とし、1555年厳島の戦いで義兄弟の陶晴賢を討った。石見攻略を託された吉川元春は大内方諸豪を平らげて石見銀山で尼子晴久と対峙、1562年大友宗麟を撃退した毛利軍が山陰へ押寄せると守将の本城常光を族滅して石見を制圧し、1566年出雲月山富田城に籠る尼子義久を降伏させ一気に山陰道を蹂躙、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中の10ヵ国制覇を達成した。1569年龍造寺隆信と通謀した毛利元就は豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景は拠点の立花山城を攻略するも立花道雪の奮戦で戦線膠着、大友宗麟の後方撹乱策で山中鹿介の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)が起り九州戦線を放棄した。反乱討伐に戻った吉川元春は、元就病没の大不運に見舞われるなか弔い合戦と称して山陰戦線に踏み留まり尼子再興軍を撃滅して出雲・石見・伯耆を回復、逃亡した山中鹿介が因幡鳥取城を奪うが城主の山名豊国を寝返らせ鹿介を敗走させた。1577年黒田官兵衛の要請に応じた織田信長が毛利攻めを開始し豊臣秀吉軍団が播磨へ来襲、吉川元春・小早川隆景は三木城主別所長治を寝返らせ上月城を落として山中鹿介と尼子再興軍を討果すが、元春の危惧通り備前の宇喜多直家が寝返り三木城陥落で播磨を断念、山陰に転じた秀吉軍団に鳥取城を攻め破られたが元春は決死の覚悟で伯耆国境を防衛した。1582年備中高松城が水攻めで落城寸前に陥るなか突如秀吉が和睦を提案、元春は涙を呑んで清水宗治切腹を了承したが間もなく信長討死が発覚、追撃を主張するも隆景に退けられた。天下人秀吉に臣従した毛利家で吉川元春は隠居して従軍を拒絶したが、最期に膝を屈して九州征伐に赴き豊前小倉城で陣没した。
- 村上武吉は、毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩した。瀬戸内海では藤原純友のころ既に海賊が横行し、南北朝時代に襲撃免除の「帆別銭」(通行料)を確立した村上義弘は「海賊大将」と称された。多島海の芸予諸島では海難事故が頻発し水先案内人の実需も存在した。三家に分かれた村上氏は能島・来島・因島を要塞化して監視・略奪体制を整え「三島村上水軍」と恐れられたが同族間抗争で嫡流能島の村上隆勝が暗殺死、孫の武吉は大内義隆の後援を得て従兄との家督争いを制した。1555年「1日だけの味方」要請に応じた村上武吉は厳島合戦で毛利元就に加勢、村上水軍の手引きで闇夜厳島へ渡った毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅し、村上水軍は防長経略で勢力を伸ばし瀬戸内海を掌握した。1568年村上武吉は毛利氏の伊予出兵に従うが、毛利が九州侵攻に失敗すると大友宗麟に接近、1571年毛利と交戦中の宇喜多直家・浦上宗景に加勢したが小早川隆景に拠点の備前児島本太城を攻落とされ来島・因島水軍も毛利に帰順、能島に孤立した武吉は降参した。顕如の籠る石山本願寺への海上輸送に任じた毛利・村上水軍は九鬼嘉隆の織田水軍を撃退するが、織田信長が大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を投入、1578年村上武吉は自ら水軍を率いて決戦を挑むが惨敗した(木津川口の戦い)。1582年信長の毛利攻めに際し来島通総が豊臣秀吉へ寝返り、武吉は来島水軍の拠点を攻落とすが毛利を降した秀吉に返還を迫られ拒絶、四国伊予攻めに率先働いた通総は伊予風早郡1万4千石の大名に栄達したが従軍を拒否した武吉は能島を奪われ小早川家へお預け、1588年海賊停止令で抵抗虚しく村上水軍は解体され、帰順を拒んだ海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされた(家船のルーツとも)。村上武吉は小早川隆景の隠居に伴い子の村上元吉・景親と共に毛利へ帰参、元吉は関ヶ原合戦で戦死し嫡子元武と景親は長州藩の船手組組頭の微職に留まった。
- 宇喜多直家は、流浪の身から有力者を次々謀殺して身代を奪い主君浦上宗景を追放して備前を乗取った悪逆無道の卑劣漢、毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保つが嫡子秀家が関ヶ原合戦に敗れ子孫は流刑地の八丈島で逼塞した。祖父宇喜多能家は浦上氏を播磨・備前・美作の領袖へ導いた勇将だったが、大物崩れで浦上村宗が討取られ尼子経久の侵攻で主家が没落するなか後継の浦上政宗に嫌われ政敵の島村盛実に殺害された。5歳の宇喜多直家は流浪の身に転落したが元服後に浦上宗景(政宗の弟)に出仕すると、毛利元就と同盟し政宗に取って代った宗景の下で勢力を伸ばし、沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々と謀殺して所領を奪い邪魔者の浦上政宗・清宗父子も始末した。主君宗景を凌ぎ備前の実権を握った宇喜多直家は、美作を争う三村家親(毛利被官で備中領袖)を鉄砲で暗殺し、1567年父の仇を討つべく備前へ来襲した三村元親を撃退し毛利氏と対峙した(明禅寺合戦。直家唯一のまともな戦功)。1569年浦上宗景・赤松義祐が播磨の赤松政秀を攻撃、織田軍が来援すると宇喜多直家は宗景に反旗を翻すが、姫路城を攻めた政秀が黒田官兵衛に逆襲され龍野城を落とされ滅亡(毒殺)、辛くも助命された直家は臥薪嘗胆で主家簒奪の機を窺った(青山・土器山の戦い)。織田信長の脅威が山陽道に及び浦上宗景と播磨の小寺政職・黒田官兵衛・別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)らが織田に帰順すると、1575年宇喜多直家は毛利と同盟して対抗、直家憎しで織田へ奔った三村元親を討ち滅ぼし、宗景を敗走させて備前を制圧(天神山城の戦い)、宗景の嫡子浦上宗辰に娘を娶わせ偽りの和議に誘って毒殺した。が、1577年毛利討伐を決意した信長が豊臣秀吉軍団を派遣すると忽ち織田へ寝返り、娘婿の三星城主後藤勝基を毒殺して美作を制圧、三木合戦を織田軍勝利へ導いた。翌年宇喜多直家は備前岡山城で病没、嫡子宇喜多秀家は秀吉に厚遇され五大老・朝鮮役総大将に抜擢され関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦したが敗亡、流刑地の八丈島で生涯を終えた。
- 大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。
- 立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。
- 立花宗茂(高橋統虎)は、養父立花道雪亡き後孤軍奮闘で島津氏の猛攻を凌ぎ豊臣秀吉から「西国無双」と激賞され、碧蹄館の戦いで朝鮮役屈指の武勲を挙げたが関ヶ原合戦で西軍に属し改易、放浪生活の末に筑後柳川藩主に返咲いた幸運な勇将である。大友宗麟の耳川惨敗で主家が衰亡へ向かうなか、1581年立花道雪の婿養子に迎えられて家督を継ぎ14歳で初陣、岩戸の戦いで早良城・許斐山城・龍德城を攻め落し島津勢を追って筑後奪還の一翼を担うが、1585年大黒柱道雪の死で寝返りが相次ぎ筑前へ撤退した。翌年島津氏と国人衆の連合軍10万余が来襲、実父の高橋紹運は岩屋城で城兵763人と共に玉砕して果て、実弟高橋統増の宝満山城も降伏開城したが、立花山城の立花宗茂は詐降の計で油断を誘い豊後攻めに転じた島津軍を痛撃、原田・秋月勢を追払い星野鎮胤の高鳥居城を落として岩屋城・宝満山城も奪回、秀吉の九州征伐まで凌ぎ切って筑後柳川城13万2千石を与えられた。秀吉直臣となった立花宗茂は、肥後国人一揆を討平し朝鮮出兵に従軍、1593年李如松率いる明の大軍の侵攻で日本軍が漢城に追詰められると弱腰の宇喜多秀家・石田三成を叱咤して自ら迎撃戦の先鋒を務め小早川隆景と協力して撃退に成功(碧蹄館の戦い)、蔚山城の戦いでは加藤清正を救援して勝利に貢献した。1600年関ヶ原の戦いで西軍の近江大津城攻めに参陣し、敗戦後は大阪城の毛利輝元に籠城抗戦を説くも容れられず憤慨して柳川へ帰還、黒田官兵衛・加藤清正・鍋島直茂の大軍に攻囲されて降伏し清正に庇護された。1602年立花宗茂は共回り19人と共に肥後を出奔、乞食同然の放浪の身ながら加賀藩主前田利長からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付け、将軍家への仕官を求めて京都から江戸高田宝祥寺に移動、1604年虚無僧姿の十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲いて悠々自適の大名生活を過ごし、養嗣子忠茂に家督を譲って74歳まで長寿を保った。
- 龍造寺隆信は、一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者である。馬場頼周の反乱で父と祖父を殺されたが曽祖父の龍造寺家兼に伴われて筑後柳川城主蒲池鑑盛に身を寄せ、家兼が復讐を果した直後に病死したため17歳で家督を相続した。周防の大内義隆に臣従して主家の少弐冬尚を追放し傀儡の本家から家督を奪ったが、1551年陶晴賢の謀反で後ろ盾の義隆を失い立花道雪の猛攻を受けて敗走、再び蒲池鑑盛に救われて2年後に肥前に帰還すると、1559年大友宗麟に帰服して旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前支配を確立した。1563年肥前の領袖有馬義貞・大村純忠兄弟を撃退し(丹坂峠の戦い)、1567年高橋鑑種・秋月種実の反乱に呼応して大友氏に反旗、筑前・筑後を鎮圧した立花道雪の討伐軍が来襲するも毛利軍の九州侵攻で難を逃れ、1570年宗麟率いる6万の大軍を夜襲で破り干渉を排除した(今山の戦い)。1578年宗麟が耳川の戦いで惨敗すると道雪が堅持した防衛ラインが決壊、龍造寺隆信は島原半島の大村純忠・有馬晴信を降して肥前を平定し、一気に筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏を広げ九州三強の一角に躍り出た。が、冷酷で猜疑心が強く「肥前の熊」と称された龍造寺隆信は酷薄な恐怖政治に陥り、蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を族滅して柳川城を奪った暴挙を機に離反者が続出、武威を示すべく北上する島津氏に決戦を挑み有馬晴信の島原城へ攻込んだが、寡兵の島津家久に戦国史上最悪の惨敗を喫し隆信自身と龍造寺四天王全員(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直)が討取られた(沖田畷の戦い)。嫡子の龍造寺政家は、島津氏を降した豊臣秀吉に肥前佐賀城32万石を安堵されたが、秀吉に取り入った鍋島直茂に家を乗取られ、嫡子高房が抗議の自殺を遂げた直後に死去し龍造寺の嫡流は断絶した。
長宗我部元親と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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