父長宗我部国親の遺志を継いで土佐を平定し本能寺の変に乗じて四国統一を果した智勇兼備の名将だが、豊臣秀吉に屈して土佐以外の所領を没収され後嗣盛親が関ヶ原合戦・大坂陣に敗れ滅亡
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
長宗我部 元親
1539年 〜 1599年
70点※
家系・子孫
- 長宗我部氏は、秦始皇帝の血を引く秦氏の末裔で聖徳太子を支えた秦河勝の直系と称した。秦氏は密接な関係にあった蘇我氏の所領へ広がり「ハタ」と付く地名は全国各地に残るが、土佐の「蘇我部」の首長は長岡郡の長宗我部氏と香美郡の香宗我部氏に分れた。応仁の乱後、長岡郡岡豊城主の長宗我部兼序は、管領・四国探題の細川政元の信任を得て土佐国司一条房家のもと土佐七雄(長宗我部・本山・吉良・安芸・津野・香宗我部・大平)の旗頭的地位へ台頭したが、永正の錯乱で後ろ盾の政元を喪い本山茂宗率いる国人連合軍に攻め滅ぼされた。土佐一条氏は応仁の乱を逃れて土佐に疎開した五摂家・関白一条教房の子孫で、飛騨姉小路・伊勢北畠と共に中央公家並みの出世が認められた「三国司」の公家大名であった。一条房家は中村御所に兼序の遺児を匿い、7年後に長宗我部氏の本領3千貫を取り返して与え国親と名乗らせた。岡豊城に戻った長宗我部国親は、周囲悉く父の仇という苦境のなか妹婿の吉田孝頼を参謀に据えて富国強兵を図り、一条氏の権威を利用しつつ土豪を切従え、三男親泰を養嗣子に押付けて香宗我部氏を乗取り、反一条勢力の盟主本山茂辰を追詰めたが合戦中に陣没した。嫡子の長宗我部元親は、本山氏・安芸氏を滅ぼし一条兼定を追放して土佐統一を達成(嫡子一条内政に娘を娶わせ傀儡当主に据えるが後に毒殺)、弟の親貞に吉良氏を継がせ織田信長と同盟して四国平定に乗出した。元親は明智光秀の重臣斎藤利三の異父妹を妻に迎えて四児をもうけ、次男親和を讃岐香川氏・三男親忠を津野氏の当主に据えた。嫡男の長宗我部信親は兵法・早業に優れた勇士だったが戸次川合戦で痛恨の討死、元親は四男盛親を擁立し三男親忠を推す功臣の吉良親実(娘婿)・久武親直・比江山親興を容赦なく誅殺した。長宗我部盛親は、兄親忠を暗殺して反抗を封じ、関ヶ原合戦で西軍につくも不戦のまま敗れて戦国大名長宗我部氏は滅亡、再起を賭けた大坂陣にも敗れ子女6人と共に斬首された。由井正雪の乱で処刑された丸橋忠弥は盛親側室の子という。長宗我部元親の血脈は譜代大名酒井氏に仕えた末子康豊の子孫が僅かに伝えた。
長宗我部元親と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照