越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照長尾 為景
1489年 〜 1543年
70点※
長尾為景の寸評
長尾為景の史実
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1489年
守護代として越後を掌握する長尾能景の嫡子に長尾為景が出生
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1489年
将軍足利義尚が六角高頼征伐に乗り込んだ近江で陣没、翌年足利義視の子足利義材(義稙)が10代室町将軍に就任、高頼は赦免され近江守護に復帰するが六角氏と足利幕府の争乱は続く
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1491年
[延徳の乱]将軍足利義材(義稙)が再び南近江の六角高頼討伐を号令し周防山口の大内政弘・義興父子らが参陣、旧主斯波義寛の差配に不服の朝倉宗滴は参軍を拒否するが朝倉氏の武力を恐れる室町幕府は処分に踏み込めず
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1493年
堀越公方足利政知が死去(虐待した嫡子茶々丸に妻子とともに殺害されたとの説あり)、扇谷・山内上杉家の上野合戦で守衛が手薄となった堀越御所を今川家被官北条早雲が急襲し政知の後継者足利茶々丸を追放、善政を敷き伊豆全域を平定(東国戦国時代・下克上の起り)
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1494年
[明応の政変]管領細川政元が足利義材(義稙)を追放し足利義澄を11代室町将軍に擁立、義稙は越前朝倉軍に捕えられ幽閉されるが、脱出して越中に逃れ将軍在任を宣言し上洛軍を挙兵(越中公方)、義稙についた朝倉氏が一向一揆などの反抗勢力を掃討
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1495年
扇谷上杉家の重臣で小田原城主の大森氏頼が死去、北条早雲は後継の大森藤頼に取り入って安心させ、武蔵の合戦で扇谷上杉定正が落馬死した機を衝き、巻き狩りと偽って小田原城を急襲し奪取、扇谷上杉家に取り入って報復を防ぎつつ関東制覇を睨む
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1495年
周防・長門・豊前・筑前の守護で安芸・石見も支配圏に収め日明貿易・朝鮮貿易で巨富を積んだ大内政弘が分国法『大内家壁書』を遺して死去、嫡子大内義興が家督相続
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1496年
大友政親と対立した嫡子義右が急逝(毒殺説が濃厚)、同盟者の妹婿を殺された大内義興は政親討伐を宣言、政親は迎撃のため海路立花山城へ向かうが赤間関に漂着し捕えられて自害、義興は大友親実の擁立を図るが大内派を粛清した大友親治(政親の弟で宗麟の祖父)が大友氏を相続
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1496年
蓮如が摂津大坂に石山御坊を築き転居(後の石山本願寺、顕如退去後の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築く)、以後大坂は寺内町として発展
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1497年
周防の大内義興が宿敵少弐政資・高経父子を攻め滅ぼし九州北部は大内氏・大友氏の二強争覇に突入、次男の少弐資元は追手を逃れるが肥前の一勢力に没落
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1497年
関東管領上杉氏と敵対し30年に及ぶ享徳の乱を戦い抜いた古河公方足利成氏が鎌倉に戻れぬまま死去、嫡子足利政氏が2代古河公方を襲名
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1499年
家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた蓮如が死去(享年85)、五男実如が承継した一向教団は孫の顕如の代に摂津・加賀を支配する「戦国大名」へ発展し各地に一向一揆を起して諸大名を苦しめるが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し皇族に準ずる権勢を保持する
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1499年
越前朝倉氏の参軍を得られぬまま足利義材(義稙)が挙兵上洛を強行、比叡山延暦寺・根来寺・高野山金剛峰寺と連携して近江へ進軍するが六角高頼に敗北、逃れた河内で管領細川政元に敗れ大内義興を頼り周防山口へ亡命、政元・将軍足利義澄は綸旨も得て西国28大名に義興討伐を号令し大友親治(宗麟の祖父)・大内高弘(義興の弟で大友氏に亡命中)・少弐資元らの反大内勢力が勢い付くが、義興は大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握して勢力均衡を保つ
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1500年
追放された前出雲守護代尼子清定の嫡子尼子経久が山中勝重(鹿介の先祖)・鉢屋(賤視された遊芸民)を従え元旦の千秋万歳と偽り潜入する奇計を用いて月山冨田城を攻略、塩冶掃部介を討取って出雲守護代職を奪還し出雲国を制圧、石見・伯耆・安芸・備後へ侵出し西の大内義興・東の山名氏と対峙
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1504年
[立河原の戦い・長享の乱終結]関東管領山内上杉顕定が古河公方足利政氏(成氏の嫡子)を味方に付け扇谷上杉朝良(定正の後嗣)を圧迫、今川氏親・北条早雲と同盟した朝良は武蔵立河原(立川)の決戦で圧勝し顕定を北武蔵の鉢形城に追詰めるが、来援した越後守護代長尾能景(為景の父)が椚田城(八王子)・実田城(平塚)を攻落として扇谷上杉領と今川・北条領を遮断し河越城に孤立した朝良を降伏させて18年続いた長享の乱は山内方の勝利で終結、関東公方足利諸家に続いて疲弊した両上杉氏も没落し北条・今川・長尾・長野ら国人勢力に関東争覇の主導権が移る(西上野の領袖長野房兼は戦死するが後継の長野業尚・憲業・業正が台頭)
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1505年
実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
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1506年
北条早雲を総大将とする1万余の今川氏親軍が三河に侵攻、安祥城主松平長親(徳川家康の先祖)が500の寡兵で撃退
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1506年
[九頭竜川の戦い・般若野の戦い]室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、越前では朝倉宗滴が圧倒的寡勢で九頭竜川の決戦に勝利し吉崎御坊を破却(1万対30万とも)、能登守護畠山慶致も防衛に成功すると一向一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾能景が来援するが砺波郡般若野の合戦で神保慶宗の裏切に遭い罠に嵌って討死(越後守護上杉房能は傍観)、長尾勢は越後へ敗走し嫡子長尾為景は復讐を誓う
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1506年
中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した雪舟が石見益田にて死去(享年86。雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)、雪舟は江戸時代に日本画壇を支配した狩野派に崇敬され芸術神となる
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1507年
[永正の錯乱~両細川の乱]室町幕府の実権を握る細川宗家(京兆家)で政元の養子3人(澄之・澄元・高国)の家督争奪戦が勃発、「半将軍」管領細川政元が重用する細川澄元が三好之長ら阿波勢を率いて入京し優位に立つと、細川澄之・香西元長が政元を暗殺して京兆家を簒奪(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)、澄元・之長は近江へ逃れるが、高国・政賢ら細川一族と丹後守護一色義有が澄之・元長を征伐、帰京した澄元が京兆家当主に納まる
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1507年
越後守護上杉房能が権臣長尾為景(上杉謙信の父)誅殺を企てるが先手を打って襲撃され自害、為景は傀儡の越後守護に上杉定実を擁立
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1508年
周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前を支配する大内義興の軍勢が京都を制圧、義興は将軍足利義澄を追放して足利義尹(義稙)を将軍に復位させ管領代・山城守護に就いて幕政を掌握、義興へ寝返った細川高国が細川宗家の家督を奪い細川澄元・三好之長は足利義澄を伴って近江へ逃亡するが京都奪還を窺い、義興不在に乗じた尼子経久が石見・伯耆・安芸・備後へ勢力を伸張
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1509年
[如意ヶ嶽の戦い・岡山城の戦い]近江甲賀で体制を立直した細川澄元・三好之長が京都奪還を目指して粟田口に侵入するが大内義興・細川高国の大軍に迎撃され本拠の阿波へ逃亡、義興・高国軍は近江岡山城に逃れた前将軍を追撃するが六角高頼に敗れ京都へ撤退
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1510年
[長森原の戦い]長尾為景に弟の上杉房能(越後守護)を殺された関東管領上杉顕定(房能の実兄)が大軍を率いて越後に来襲、為景は傀儡守護の上杉定実を伴い佐渡へ逃れるが佐渡国人や信濃の高梨政盛を加えて猛攻を掛け顕定を討取る快勝を収め定実に妹を娶わせ越後国人の反抗を抑圧、顕定に従った上野の高津長尾定明が戦死し嫡子の長尾顕景が家督相続
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1511年
[船岡山合戦]前将軍足利義澄を擁する細川澄元・政賢と三好之長ら阿波勢が京都を奪還するが、近江の六角高頼が寝返り義澄が病死、洛北船岡山に陣取って大内義興・細川高国に決戦を挑むが総大将政賢まで討取られ壊滅、澄元・之長は本拠地の阿波へ逃れ抵抗を続ける
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1512年
尼子経久が山名氏領に侵攻し備後を支配圏に収める
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1515年
尼子経久が大内氏領に侵攻し石見西半を支配権に収め安芸にも勢力拡大
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1516年
北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定
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1516年
[西の桶狭間・有田中井手の戦い]安芸吉田の国人(小領主)で郡山城主の毛利興元が急死し幼少の幸松丸が家督相続、安芸守護の武田元繁が「室町将軍の上意」を口実に毛利氏・吉川氏の領地に侵攻、興元の弟毛利元就が寡兵で撃退し武田元繁は討死
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1516年
大内義興が室町幕府から日明貿易の恒久的管掌権限を獲得、横槍を入れた細川高国と不仲になり寧波の乱へ発展
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1518年
尼子経久に領国を荒らされた大内義興軍が10年に及んだ京都滞在を終えて山口へ帰国、後ろ楯を失った将軍足利義稙・細川高国の政権基盤が揺らぎ、阿波で抵抗を続ける細川澄元・三好之長の陣営が盛り返す
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1519年
戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる
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1519年
美濃守護土岐政房の死に伴い家督争いが激化、嫡子土岐政頼を擁する越前守護朝倉孝景は弟の朝倉景高を総大将に軍勢を派遣、土岐頼芸(政頼の弟)・長井長弘の敵対勢力を掃討し政頼に家督を継がせる
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1520年
中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続
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1520年
播磨・備前・美作守護の赤松義村が実権を奪った守護代浦上村宗(宗景の父)の備前三石城を攻撃するが宇喜多能家(直家の祖父)らの奮戦で撃退、幽閉された義村は翌年暗殺され赤松氏は没落し(村宗と敵対する浦上村国が8歳の嫡子赤松晴政を赤松氏当主に擁立)浦上氏の勢威が高まる
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1520年
越後の長尾為景が越中へ攻入り父能景の仇と憎む神保慶宗を討滅、為景は一向衆禁止令を布告し越中征服に乗出すが一向一揆の蜂起に遭って越中を断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後国内の反抗勢力討伐に専念
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1521年
[等持院の戦い]大内義興軍が去った京都を細川澄元・三好之長が奪回、細川高国は近江へ逃れるが六角定頼の加勢を得て反撃、追い詰められた之長は京都百万遍で自害し(嫡子元長が後継)、阿波へ敗走した澄元も病没(嫡子晴元が後継)、高国は寝返った将軍足利義稙を追放し前将軍義澄の子足利義晴を12代将軍に擁立
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1521年
尼子経久が浦上氏領に侵攻し備中と備前西半まで支配圏に収める
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1523年
毛利家当主幸松丸が急死(謀殺説あり)、叔父の毛利元就が尼子経久の介入を退け弟の就勝(元綱説あり)一派を殺害して毛利家の家督と吉田郡山城を承継、嫡子毛利隆元誕生
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1523年
[寧波の乱]明の貿易港寧波で細川高国と大内義興の使者が争う
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1523年
備前三石城の浦上村宗が播磨へ出兵し赤松晴政(村宗が暗殺した義村の遺児)を播磨・備前・美作守護に擁立した浦上村国・御着城主小寺則職を攻撃、浦上軍指揮官の宇喜多能家は次男四郎の戦死に逆上し敵陣に突撃奮戦して決定的勝利を挙げ、晴政を確保し播磨・備前・美作を掌握した浦上氏は戦国大名へ発展
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1524年
北条氏綱が扇谷上杉朝興軍を高輪原で破り江戸城を奪取、後北条氏が武蔵国に勢力を伸ばす
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1524年
[大永の五月崩れ]尼子経久が南条宗勝ら反抗勢力と守護山名澄之を追放し尼子晴久を守護に就けて伯耆を支配権に収める
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1525年
美濃内乱に介入した浅井亮政を牽制するため朝倉宗滴が近江小谷城に出征、金吾嶽を築いて在陣し六角定頼との関係修復に奔走、感謝した浅井氏は朝倉氏に忠誠を誓う、同時に朝倉景職軍を美濃稲葉山城へ派遣し土岐政頼を支援
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1525年
独立を期す毛利元就が束縛の強い尼子経久を離反して統制の緩い大内義興に鞍替え(正式な手切れ通告は1534年の安芸守護武田氏滅亡後)
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1526年
駿河・遠江を征し三河・甲斐へも勢力を伸ばした今川氏親が死去(享年53)、幼い嫡子今川氏輝のために分国法『今川仮名目録』を遺す
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1526年
薩摩・大隅守護の島津勝久が薩州家島津実久の専横に圧迫され伊作家島津忠良(日新斎)の嫡子島津貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の反抗と勝久の寝返り遭って貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、13年に及ぶ長期内戦に発展、日新斎・貴久は長期戦の構えをとり自領の防備を固めて土豪勢力の取込みを進める
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1527年
[桂川原の戦い]管領細川高国に弟の香西元盛を殺された波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波で反旗を掲げ征伐軍を撃退して京都へ進軍、阿波の細川晴元・三好元長は三好勝長・政長軍を派遣し京都桂川原で両軍激突、波多野・三好連合軍が勝利し細川高国と将軍足利義晴は近江へ敗走
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1527年
将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛し波多野・三好連合軍を掃討して京都を制圧するが、宗滴は高国との対立により翌年撤兵し細川晴元・三好元長が再び京都を奪回
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1527年
西村勘九郎(斎藤道三)が革手城を急襲、美濃守護土岐政頼を再び越前朝倉家に敗走させ弟の土岐頼芸を擁立、勘九郎は家老職と本巣郡祐向山城を与えられ美濃国の実力者となる
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1527年
山内上杉氏の領国上野で惣社長尾顕景・白井長尾景誠が越後の長尾為景に内通するが箕輪城主長野業正に攻められ降伏、西上野を掌握した業正は顕景を隠居させて嫡子景孝に惣社長尾氏を継がせ翌年景誠を暗殺し顕景次男の憲景を白井長尾氏当主に擁立
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1529年
日明・朝鮮貿易を牛耳り周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に君臨した大内氏絶頂期の当主大内義興が死去(享年52)、嫡子の大内義隆が家督を継ぐが京都を凌ぐ文化都市となった周防山口で遊芸に溺れ家運は傾く
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1530年
傀儡守護の上杉定実を擁して越後を牛耳る守護代長尾為景の四男長尾虎千代(上杉謙信)が春日山城にて出生
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1530年
西村勘九郎(斎藤道三)が仕官の恩人長井長弘夫婦を謀殺、美濃稲葉山城と家名を押領し長井新九郎利政(後に秀竜)へ改名、近江守護佐々木義秀の後援も得て土岐頼芸を担いで美濃一国の実権を掌握
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1530年
将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する
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1531年
[大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行
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1532年
町衆を中心とする日蓮宗門徒が京都の自治権を掌握し山科本願寺焼打ちなどで他宗派を排斥
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1532年
本願寺蓮如の子の勢力争いに起因して加賀一向一揆で内紛が発生(享禄の錯乱)、機に乗じた朝倉宗滴は能登畠山氏と提携して出征、手取川付近まで侵攻するが畠山勢壊滅により本願寺と停戦和睦
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1532年
[飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避
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1533年
伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始
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1534年
尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生
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1536年
[花倉の乱]駿河・遠江守護今川氏輝(氏親嫡子)が後嗣無く死去、氏親次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す福島越前守ら国人衆が遠江各地で挙兵するが、北条氏綱の援軍で優勢となった義元方が花倉城を落とし恵探を自害させる
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1536年
[天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺
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1536年
[三分一原の戦い]傀儡守護の上杉定実を擁して越後支配を強める守護代長尾為景に対し上条定憲(定実の近親)と上田長尾房長(政景の父)ら揚北衆が反乱挙兵、柿崎景家の寝返りを誘った為景が撃退するが決定的勝利を収められず、為景は嫡子晴景に家督を譲り隠居・弟の虎千代(上杉謙信)は林泉寺に預けられるが僧侶を嫌って家に戻る
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1537年
[甲駿同盟・駿相同盟破綻)駿河・遠江守護今川義元が抗争状態にあった甲斐守護武田信虎の娘定恵院を正室に迎え甲駿同盟成立、怒った北条氏綱は今川氏親・北条早雲以来の駿相同盟を解消して東駿河に攻め込み河東地域を奪取
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1537年
豊臣秀吉が尾張国中村の下層民(焙烙売り・賤民とも)の家に出生(父は織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門とも伝わるが不詳、母なかは徳川家康の人質に出した大政所、弟秀長は優秀な副将、姉日秀の子は豊臣秀次、妹あさひは徳川家康に入輿)、20歳前後で織田信長に仕えるまでの事跡は不明(家出して悲惨な放浪生活を送り、武家奉公の最初は今川家臣松下之綱だったとされる)
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1538年
[第一次国府台合戦]鎌倉から武蔵江戸城まで制圧した北条氏綱に対し、小弓公方足利義明が里見義堯・真里谷信応を誘って下総国府台城で挙兵、家柄と武勇を過信し江戸川渡河中の攻撃策を捨てた義明が嫡子義純・弟基頼もろとも討死、戦線離脱し兵力を温存した安房里見氏が漁夫の利を得て久留里城・大多喜城を落とし房総半島の大半を掌握
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1541年
武田晴信(信玄)が重臣の板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌及び姉婿今川義元と共謀して父武田信虎を駿河へ追放し家督と甲斐守護職を承継、領民は暴虐な信虎の追放を歓迎
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1541年
美濃国を専断する斎藤秀竜(斎藤道三)に対し土岐頼満(頼芸の弟)・頼次(頼芸の嫡子)らが挙兵、秀竜支持の土岐頼芸は尾張の織田信秀・近江の六角定頼・越前の朝倉孝景に仲裁を依頼し内乱収束、秀竜は引責剃髪し斎藤道三と号す
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1541年
父北条早雲が征した伊豆・相模を固め武蔵・駿河に勢力を伸ばした北条氏綱が死去、嫡子北条氏康が打倒上杉氏・関東制覇の遺志を継ぐ
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1541年
流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)
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1542年
斎藤道三が反抗勢力の首領土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、これにより対立した傀儡の美濃守護土岐頼芸の大桑城を急襲、土岐頼芸・頼次父子は織田信秀を頼って尾張に亡命し斎藤道三が名実ともに美濃一国を平定、土岐頼芸の落胤と考えられていた嫡子斎藤義龍を後継指名して反抗を鎮める
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1542年
武田信虎の諏訪氏懐柔路線を放棄した武田晴信(信玄)が諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と提携し妹婿の諏訪頼重を討滅、領土分割案に不満で反旗を挙げた高遠頼継も一蹴、頼重の嫡子寅王丸を擁して諏訪領を掌握したうえ頼重の娘「かくれなき美人」諏訪御料人(武田勝頼生母)を側室とする
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1542年
徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)
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1543年
越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討ち越後を掌握した長尾為景が死去(享年54)、嫡子の長尾晴景が越後守護代を継ぐが弱腰を侮られ国人衆が傀儡守護上杉定実を担いで蜂起、13歳で元服した為景四男の長尾景虎(上杉謙信)は栃尾城の戦いで初陣を飾り連戦連勝で反乱軍を撃破
長尾為景の交遊録
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長尾能景
戦死した父
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長尾晴景
嫡子
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長尾景康
次男
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長尾景房
三男
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上杉謙信
最強の四男
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加地春綱
娘婿の重臣
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宇佐美定満
重臣
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中条藤資
重臣
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本庄実乃
重臣
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本庄繁長
重臣
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黒田秀忠
重臣
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大熊朝秀
重臣
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柿崎景家
家臣最強の猛者
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高梨政盛
信濃の同盟者・舅
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高梨澄頼
政盛嫡子・妹婿
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高梨政頼
澄頼嫡子
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村上義清
信濃国人
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小笠原長時
信濃国人
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長尾房長
反抗した上田長尾家当主
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長尾政景
房長嫡子
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長尾房景
帰服させた古志長尾家当主
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長尾(のち上杉)景信
房景嫡子
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長尾忠景
山内上杉家家宰
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長尾景春
上杉氏に反逆し道灌に討たれた白井長尾家当主
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長尾景英
景春嫡子・長野憲業娘婿
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長尾景誠
長野業正が滅ぼした景英嫡子・長野吉業舅
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長尾憲景
長野業正が傀儡に立てた景誠養嗣子・顕景次男
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長尾顕景
長野業正が滅ぼした定明嫡子
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長尾景孝
顕景嫡子・長野業正の傀儡
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長野業正
西上野「箕輪衆」領袖
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上杉房能
滅ぼした越後守護
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上杉定実
傀儡に立てた越後守護・妹婿
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上条定憲
定実近親の反逆者
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上条頼房
定憲弟
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上杉顕定
返討ちにした関東管領・房能兄
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上杉顕実
足利成氏次男で顕定養子の関東管領
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上杉憲房
顕実養子の関東管領
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上杉憲寛
憲房養子の関東管領
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上杉憲政
憲房嫡子の関東管領
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上杉定正
道灌を暗殺した扇谷上杉家当主
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上杉朝良
定正甥の扇谷上杉家当主
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上杉朝興
朝良甥の扇谷上杉家当主
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太田道灌
扇谷上杉大黒柱
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足利義稙
10代室町将軍
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足利義澄
11代室町将軍
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足利義晴
12代室町将軍
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足利成氏
初代古河公方
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足利政氏
成氏嫡子の2代古河公方
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足利高基
政氏嫡子の3代古河公方
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足利晴氏
高基嫡子の4代古河公方
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細川政元
一向一揆を扇動した室町幕府管領
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細川晴元
政元嫡子
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細川高国
政元・晴元のライバル
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三好長慶
晴元を滅ぼした畿内の覇者
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松永久秀
長慶重心
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蓮如
一向教団を築いた本願寺8世
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実如
本願寺9世・能景の仇敵
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蓮綱
実如兄・能景の仇敵
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蓮悟
実如弟・能景の仇敵
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証如
本願寺10世
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朝倉宗滴
朝倉家大黒柱
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朝倉孝景
越前の同盟者
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六角高頼
南近江守護
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六角定頼
高頼後嗣
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浅井亮政
北近江の領袖
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畠山尚順
救援した越中守護
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畠山義総
同盟した能登守護
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神保慶宗
能景の仇敵・復讐を果す
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神保長職
慶宗後嗣
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椎名慶胤
討取った神保派越中国人
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椎名康胤
慶胤後嗣
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伊達稙宗
南奥羽の雄
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伊達晴宗
稙宗嫡子・奥州探題
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長野業正
山内上杉派上野国人
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上泉伊勢守信綱
業正家臣・剣聖
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佐竹義篤
常陸領袖
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佐竹義昭
義篤嫡子
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佐竹義重
義昭嫡子
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武田信縄
甲斐守護
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武田信虎
信縄嫡子
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武田信玄
信虎嫡子
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北条早雲
関東の雄
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北条氏綱
優秀な早雲嫡子
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北条氏康
優秀な氏綱嫡子
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今川親氏
東海の雄
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今川義元
親氏後嗣
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斎藤道三
美濃の梟雄
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織田信秀
尾張の雄
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織田信長
信秀嫡子
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大内義興
山陽の盟主
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尼子経久
山陰の風雲児
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毛利元就
西の謀略王
長尾為景と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 70点
長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。